第42話 赤い首
北部の大商人と、南部のプランター貴族が国家を二分し、60余万の墓標をうち立てたる事となった『南北戦争』より僅か59年。
この時代、その記憶はこの国の人々の間に、いまだ生々しく残っており、歴史上の出来事という簡単な言葉で片付けられる程には風化していない。
その点で、戊辰戦争の記憶が今尚、鮮烈に息づいている日本人と米国人の間には、悲惨な内戦の経験者という共通点を見出す事が出来るだろう。
薩長閥と奥羽諸藩の間に拭い切れない、わだかまりが残っているのと同様に、北軍の流れを汲む共和党支持層と南軍の末裔で「永遠の敗残者」と蔑まれる民主党支持層の間に介在する確執は、実に根深い。
19世紀、欧州の産業革命に遅れをとった企業経営者は、己の競争力不足を補う為に保護貿易を主張し、小麦と綿花という強力な輸出品目を擁していた農園経営者は自由貿易を主張するという経済的な背景を持ち、この時代に至っても両者は往年の主張そのままに、共和党は中央集権と保護貿易主義、民主党が地方分権と自由貿易主義を依然として標榜している。
合衆国第30代大統領カルビン・クーリッジと、その空席となっている副大統領職の任を実質的に務め、政権ナンバー2として重きを成すハーバード・フーヴァー商務長官は、当時、共和党内では比較的、珍しい古典的自由主義を崇拝するグループに属している。
国民生活や経済に対する国家の干渉を害悪と考え、『小さな政府』を標榜する彼らの政策は、常に減税へ、減税へと指向しており、少しでも政府財政に余裕があれば、課税率を下げる方向に進んでいく。
史上空前の好景気時代にある米国内において、常に減税を念頭に置いて行動するクーリッジ政権は、正しく最適な政権だった、と言えるだろう。
国民も、企業も、納税せずに済んだ余剰金で積極的に株式投資を行い、労せずして巨万の富を得る事も珍しい事ではない。
誰しもが、金持ちになる事を夢見られた時代だったが
誰しもが、金持ちになれる訳ではない。
投資熱に浮かれた都市住民に対して、農村部の生活は実に悲惨だった。欧州大戦中、政府の要請に応えて欧州向けに大増産体制を敷いた彼らは、フランスやポーランドといった農業国が、その生産力を回復すると共に重要な輸出先を失い、過剰生産に陥った。
当初は、革命騒動渦中のソビエトに対する人道食糧援助を目的とした政府買い上げが行われた事によって、政府の意図とは関係なく穀物相場を買い支える結果となったのだが、その政策も共和党内保守派グループの激しい抵抗によって頓挫。
更には、ここ数年に渡る大豊作が過剰生産に拍車をかけており、完全に飽和状態と言っても良い程にまで生産量は伸び続け、これが結果的に悲劇的なまでの穀物相場大暴落を産み落とした。
しかし、他に現金収入を得る道を知らぬ農民達は、少しでも多く手元に現金が入る事を望み、その望みが更なる増産を産み、そしてそれこそが結果的に自分自身の首を絞める事になってしまっていた。
正に悪循環。もし、合衆国が普通の政府であったならば、彼らはかくも貧しさに喘ぐ事は無かっただろう。
これが例えば、英国や仏国であれば、生産調整を行った事であろうし、日本でさえ肥料購入などの必要経費に対して補助金を出した筈だ。
だが、国民への扶助を、国民生活への干渉と考え、その一切を拒否するクーリッジ政権の姿勢は、彼らに一切の保護を与えず、彼ら自身の自助努力を要求するのみであった。
この時代、実のところ、合衆国国民の六割が貧困層であり、その多くが通称「レッドネック(赤首。首を赤く日焼けさせた人々=零細農業従事者)」と軽侮される南部白人層だった……という統計調査が今に残っている。
合衆国 ワシントンDC
ペンシルバニア通り1600番地
ホワイトハウス レジデンス正面玄関前
暖かな午後の日差しが差し込む金曜日の首都・ワシントンDC。
クーリッジを上下逆にした『V』字の頂点に、その両翼に閣僚陣が整列し、建国史上屈指の要人到着を待ちうける。
如何に国賓とはいえ、玄関前まで大統領以下の全閣僚が出迎えるなど、異例どころの騒ぎでは無い。
それだけでも合衆国が今日、迎える東郷という指導者との会談に期待を掛けている証拠だった、とも言える。
彼らにとって、東郷という存在は、現存する世界最古の国家の一首相などではなく、東洋のネルソンですらない。
彼こそは、米国に新時代の到来を告げる“福音の御遣い”にも等しい存在なのだ。
綺麗に掃き清められた玄関前ロータリーに、黒塗りの高級乗用車が次々と滑り込むように停止し、上下黒の三つ揃えに身を包んだ内務検察局の係官達が手振りと指先の動きで表わす符牒により、互いに密な連携をとりつつ、油断なく周囲を警戒する。
各新聞社のカメラマンが凄まじい音を立てながらフラッシュを焚き、昨今、急成長を遂げ始めたラジオ放送局のリポーター達が興奮した雰囲気そのままに生中継する中、大日本帝国内閣総理大臣・東郷平八郎は、晴れ晴れとしたにこやかな表情と共に、乗用車から降り立つ。
黒のフロッグコートに身を包んだ東郷はステッキを手に、ゆっくり、実にゆっくりとした動作で歩を進め、クーリッジ以下、居並んだ閣僚陣達による拍手と笑顔の出迎えを受ける。
東郷は閣僚陣の中央に立つクーリッジに向かって歩いていく。誰しもが、クーリッジと東郷が居並んで握手をする光景を脳裏に浮かべた時、突然、閣僚陣の列から一人の人物が進み出た。
その人物は、海軍長官エドウィン・デンビだった。
周囲が一瞬、呆気にとられる中、進み出たデンビは東郷に右手を差し出し、がっちりと握手する。
デンビは左手を東郷の腰にあて、その身体を記者団の方に向ける様に誘うと、写真うつりの良い満面の笑みを浮かべる。
「東洋のネルソンと握手するデンビ海軍長官」
明日の新聞紙面に、この一枚の写真が掲載されるのは疑いない。
それに何より、既にラジオのリポーター達はマイクに向かい、デンビと東郷の名前を連呼し続けている。
(デンビ……この恥知らずめ!)
潔癖なクーリッジ大統領、そして事実上、副大統領職を務め、内閣をまとめている剛直なフーヴァー商務長官らを始めとした全閣僚から毛嫌いされている、この人物は、後ろに居並ぶ同輩達の呻き声と、侮蔑の眼差しを持ち前の面の皮の厚さと毛の生えた心臓によって弾き返しつつ、東郷とにこやかに会話している。
取り残された閣僚陣にしてみれば「あり得ない光景」としか思えない。
これでは自分達はデンビの引き立て役、まるで学芸会の出し物で子供たちが演じるシンデレラの「七人の小人」役と一緒ではないか……。
誰が先に動いたのかは今となっては分らない。同輩を押し退ける様にして、ベストポジションを得ようとする米政府の要人達に取り囲まれ、無数の差しだされた右手を目にし、やや困惑した表情を浮かべる東郷の姿を捉えた写真が、象徴的に米国民の脳裏に焼けつく事なる。
英国に長期留学経験のある東郷が英語に堪能であった事から、東郷・クーリッジ両者による会談は完全な密室において二人だけで行われた。
30分に満たない時間の後、会談を終え、瀟洒な正面扉から姿を現した二人の指導者は、短い握手の後、それぞれの配下の待つ別室へと歩を進める。
1人は軽やかに。
1人は重々しく。
別室にて東郷を待ち受けていた幣原外相以下の日本政府交渉団側は、老齢の東郷に気遣い、この日、予定されている次の日程をキャンセルすべきか……とも内心、考えていたのだが、疲れを見せぬ東郷の様子に安心し、予定通りのスケジュールをこなすべく、ホワイトハウスを後にする。
日本側の立場、東郷の方針に迷いはない。
言うべき事は言った。
あとは、相手の出方次第。
賽は投げられたのだから。
一方、閣僚陣の待ちうけるウエスト・ウィングのオーバルオフィス、即ち、大統領執務室に帰り着いたクーリッジ大統領は、見るからに不機嫌そうであり、落胆の表情をありありと浮かべていた。
(会談が不調に終わったのだろうか?)
(さては日本側の提示額が途方もない金額だったのか?)
扉を開けて、入室してきた彼らの君主の表情を見た時、閣僚陣は一斉に交渉が不調に終わった事を悟った。
クーリッジは、無言のまま閣僚達が好き勝手に置いた椅子の間をすり抜ける様にして、己の執務机に向かう。
閣僚一同を代表するかの様に、年長のアンドリュー・メロン財務長官が口火を切った。
「如何でしたか?大統領閣下」
その声がクーリッジの反応を引き出すのに、たっぷり1分という時間を要した。
問われた主は、何と答えるべきか、或いは、何らかの答えを見つけてから答えるべきか、かなり迷った様子であったが、結局、東郷に聞かされた話をそのまま皆に聞かせる事に決めた。
「日本側は、南満州鉄道の政府所有株式及び経営権の全面譲渡、金州半島に有する租借地の租借権譲渡。以上を米国政府に対し売却する用意がある旨を通告してきた」
「はい……。それは、大使級で行われた予備交渉に際しても提示されていました。今回の東郷首相の訪米は、金額面における結論を導き出す為のものと考えておりましたが…?」
メロン財務長官が怪訝な声で、クーリッジの言葉を肯定すると、後を追う様に南部最大級の鉄道会社と銀行を経営する有数の資産家出身で、ハーディング前政権樹立の立役者でもあった共和党の重鎮ジョン・ウィンゲイト・ウィークス陸軍長官が、やや憤然とした様子で尋ねる。
「日本側の要求金額と折り合わないのですか? 彼らは10億ドルでは不満だとでも?」
クーリッジ政権が、日本側に提示するつもりでいた買い取り価格は総額10億ドル。
10億ドルといえば平価換算で20億円、時価換算ならば24億円という金額となり、国家予算が15億円足らずの日本政府ならば十分、納得できる常識的な線だと自負していたし、もし10億ドルで日本側が逡巡するのならば、更に2、3億ドルは積み増ししてもいいと思っていた。
満州鉄道にはそれだけの価値がある筈だった。
当時の連邦予算は凡そ34億ドル。
その中から10億ドルを日本に支払う……という訳では勿論、無い。
連邦政府と日本政府との間に売買協定が締結された場合、連邦政府は初動経営を円滑に行う為の管理組織として公社を設立する。そして、その公社は公社債を発行し、無記名債券の形で証券取引所において発売、一般投資家から資金を募り、その集まった資金を日本政府に対し支払うのだ。
“10億ドルを提示する”というのは、日本政府に対し「最低10億ドルは支払いますよ」と、連邦政府が保証する……という意味に過ぎない。
「……いや、日本政府の要求は、我々の予想よりも少ない9億ドルだった。……しかし、最早、それが問題ではないのだ」
そう語るクーリッジの言葉は、常日頃、冷静沈着で感情を面に出さないこの人物には珍しく、正しく“途方に暮れた”声によって表現されていた。
会談において、東郷はクーリッジに対し、金額の提示を行うと同時に、一つの情報を与え、加えて売却条件の提示を行った。
日本側の要求は金額のみ……であると考えていたクーリッジとしては、東郷の突き付けた要求に生涯、忘れえぬほどの衝撃を受ける事となる。
その情報とは、英国駐箚日本大使館経由でもたらされた『英国政府、威海衛・烟台間の鉄道敷設権を取得』というものであり、それはクーリッジ政権の首脳陣を落胆させるのに十分過ぎるほどの重みを持っていた。
だが、日本側の米国への売却条件は更にそれを上回る衝撃を与える事となる。
それは、『売却は、米国の“ソビエト承認”及び“国際連盟への加盟”を条件とする』というものだった。
並みいる閣僚、その誰一人として答えない。一つは、英国の動向に関する情報の重大さもさながら、日本側が突然、要求したソ連承認と国連への加盟という条件提示の不可解さ……。
そこにいる全員が、当惑し、困惑し、途方に暮れ、ただただ、執務室の壁に掲げられた中国大陸の地図を一斉に舐める様に見つめ、その情報を咀嚼し、意味を理解しようと努めた。
「呉佩孚、あの恩知らずめっ!」
そう一同の沈黙を破り、場違いなほど大きな声を張り上げたのは、北京政府に対し先年、数億ドルにものぼる借款供与を受諾する旨の交渉責任者だった国務長官チャールズ・エヴァンズ・ヒュースだった。
「恥をかかされた……」
そう感じた彼は、その豊かな頬髭に彩られた細面の顔を紅潮させ、怒りのあまり、微かに震えてさえいる。
日本による“対華21カ条の要求”以降、中国国民はかつて無いほどに民族意識の高まりをみせており、北京政府は現在、諸外国にも外資系企業にも、新規の租借や鉄道の敷設、租界の設置を一切、認めていない。
もし、認めてしまえば、既に求心力を失っている北京政府は、国民のナショナリズムの沸騰により、致命的な痛手を受ける事になりかねない。
しかし、北京政府はその危険を冒してまでも英国政府に対し、鉄道の敷設権を与えた。
現在の北京政府の後ろ盾となっているのは英米両国政府であり、一方の当事者たる英国に対する庇護の礼が、“租借権の延長と内陸部への鉄道敷設認可”という事であれば、合計数億ドルにものぼる借款を供与した、もう一方の庇護者・米国への見返りはいったい、何なのだ?
「今更、言っても仕方ないでしょう? ヒューズ長官。日本政府も確か数年前にドジを踏み、1億ドル近い金を彼らに踏み倒されている。反覆常なきは彼らの常套手段、いや、むしろ彼らの生き残る為の知恵。褒められるべきものでは無いかも知れないが、非難されるべき筋合いのものでも無いでしょう」
「御言葉ですが、あの時、日本政府が提供したのは下心見え見えの借款でした。我らとは…」
「我らとて同じではありませんか? 正規の手続きを踏んでいる以上、北京政府を批判するのは自らの不明を主張するようなものです。お控なさい」
中国通であるフーヴァーの落ち着き払った言葉に、ヒューズは不平不満を胸の奥に捩じり伏せると一礼し、引き下がる。
「大統領閣下、論点を整理する意味で、私から友人達に説明しても宜しいでしょうか? もし、皆の考えに食い違いがあっては話し合いにもなりませんから……」
メロン財務長官が、クーリッジの許可を得、米国のおかれた状況の解説を始める。
日本側の有する満州鉄道と、英国が敷設を企図する山東鉄道の地理的、経済的、そして政治的な意味合い……。
何より、決定的だったのは、この事が公になった時、予想される南満州鉄道株式会社の株価大暴落。
最後にメロン財務長官はこう言葉を結んだ。
「現状、考えうる限りの付加価値を考慮に入れたとしても……満州鉄道及び周辺諸権利の価値は最大5億ドルがいいところでしょう」
「ありがとう、財務長官。さて……株価の暴落を我が国にとって吉と考えるか、凶と考えるか? その事はこの際、おいておくとして……。
日本側の我が国に対する外交的な要求、ソ連政府承認と国連加盟……これは、いったい、何を意味するのだろう?」
司会進行役を務めるフーヴァー商務長官の問い掛けに共和党・上院外交委員長を務めるヘンリー・ガボット・ロッジ議員が、軽く手をあげる。
外交通のロッジ議員は、名うての反共・保守派であり、同時に共和党の長老格的な存在として重きを成している。
その徹底した反共ぶりは、革命による内戦で2000万人が飢餓に瀕していたソビエトに対し、人道上の理由から食糧援助を行ったフーヴァーの前に立ちはだかり、「アカどもの自業自得」だと切って捨て、継続的な食糧支援を中止させた点でも明らかだった。
既に50年近い年月を上院議員として過ごしてきた彼は、共和・民主両党を通じて、現存するこの国最古の政治家であり、前大統領ハーディングに抜擢されるまで政治とは無縁な存在であった内務長官ヒューバート・ワークや、大学教授だった農務長官ヘンリーキャントウェル・ウォレスといった民間出身の閣僚陣を「政治の素人」と鼻から馬鹿にしており、その発言の揚げ足をとり、嘲るのを日常とするような人物だ。
「その事を論ずる前に、日本の問題点について整理しておきたい。大統領閣下、宜しいかな?」
自らを凌ぐほどの権勢を有する老練なロッジの言葉に、クーリッジは小さく頷き返す。
「彼の国の最大の問題は、過剰人口による慢性的な食糧不足にあると考えられます。旺盛な領土拡大欲、そして強引な殖民政策や、移民政策なども、全てはこの逼迫した食糧事情に端を発していると言ってもいいかもしれません。
しかも、追討ちを掛ける様な此度の天災……。
ですが、日本は元々、社会資本の整備が決定的に遅れていましたので、実のところ、破壊され、失われた損失自体は大した問題ではなく、むしろ、取り壊す手間が省けただけだ…という見解すらあります。
ここで重要なのは、震災からの復興をバネとして東郷とそのブレーン達は、近代国家としての根本的な体制変革を狙っている、という事です。政治的には普通選挙制度の導入による民主化を促進し、経済的には国家主導の工業インフラ整備や、配給制度一歩手前と言っても良い食糧専売制の導入による長期的な安定化………まだまだ、他にも幾つもの制度改革を企図している様ですが、全てが成し遂げられれば、ほぼ“白色革命”と言っても良いほどの内容です。
そして、その所信表明演説を見る限り、東郷とその政権は列強の地位を捨ててでも、国内インフラの再構築を断行するつもりなのでしょう。日本人は東郷政権の推進する政策を、中国の故事にならって“ガシン・ショウタン”、或いは“タイショウ・イシン”と呼んでいるそうです。
日本が現在、取り得る選択肢は、他国に最有力な在外資産である満州鉄道を売却し、その資金を元手にして一挙に国内インフラの整備を進め、負の遺産を清算してしまうか、或いは、巨額の公債を発行し、復興資金の調達を行うかの二者択一。
但し、多額の公債を発行した場合、今の日本の実力では、相当に高利なものとなるでしょう。国家予算の3割強を軍事費に、2割強を債務の償還に充てている日本政府の現状では、これ以上の公債発行を行った場合、一時的には潤うでしょうが、その後は慢性的な資金不足に陥り、重税と円安による物価高騰に見舞われた国民は、極度の窮乏生活を余儀なくされ、その結果、極めて政治的に不安定な状況となる事が予測されます」
ロッジはここで言葉を切り、聞きいる一同に視線を投げかけると、極太の葉巻を噛み潰しながらフーヴァーが問い掛ける。
「議員のおっしゃる“不安定な状況”とは、具体的に、どういう意味でしょうか?」
「商務長官閣下、私は二つの未来を予測しています。一つは、政府が国民の不満を外にそらす為、閉塞感を打破すべく“リスクの高い賭け”に出る可能性がある、というものです」
ロッジの言う“リスクの高い賭け”の意味を、その場にいた全員が即座に、そして正確に理解した。
手詰まりとなった日本は、全てが壊死する前に、否が応でも生き残る為に、軍事的な冒険主義に走る、という意味だ。そして、日本のその決断は太平洋に身を置く全ての国々と、国民に対して災厄の雨となって降り注ぐ事になるだろう。
「では、もう一つの未来とは何だね? ヘンリー」
ウィークス陸軍長官がロッジをファーストネームで呼びながら尋ねる。温和な性格で人望のあるウィークスは、共和党古参上院議員として党内における序列・発言力はロッジに次ぐ。
それだけに、自己顕示欲の強さが顔面から滲み出てきた様な、どこか剣呑な猛禽類を連想させる顔立ちをしたロッジ議員とは党内の主導権を巡って水面下において暗闘する関係でもあるのだ。
ロッジは「将来の共和党大統領候補」と目されるフーヴァーに見せた慇懃な態度とは、うって変ったぞんざいな態度をウィークスに対して示し、さも
(それを口にするのもおぞましい…)
といった風に、嫌悪感を剥き出しにした表情で吐き捨てた。
「共産革命に決まっているだろう」
「馬鹿な…」
「あり得ない、そんな事は」
ウォレス農務長官、そしてワーク内務長官が思わず異口同音に呟くと、ロッジは獲物をいたぶる残忍な光を双眸にたたえて、両者を静かに睨む。
「農務長官閣下、内務長官閣下…。お二人は何故、そう思うのだね? 」
問われた二人は、ロッジの舌舐めずりを確かにその耳で聞き、自分達が過ちを犯した事に気がついた。
よりにもよって、この老人に異論を差し挟むなどという……。
二人は覚悟した。これからの数分間、面前の老人によって自分達は、呼び出された校舎裏で悪童に小突きまわされる少年時代の様な気分を味わう羽目になるのだろう。
「大国ロシアが、アカどもの手によって滅んだばかりだというのに……全く、君達には危機感というものがないのかね? 何を学んだのだ、いったい! それとも、君達の家に配達される新聞には、まだニコライ2世の舞踏会の演目が紹介されているとでも言うのか?
…オーケイ、では日本がロシア以上に安定した国家だとでも言いだす気なのだろう? どうなんだ? それに……」
ロッジの舌鋒はシカゴ・タイプライター並みのスピードで間断なく放たれ続け、両者に問い掛けるそぶりを見せながらも、一切の反論も、異論も、全てを許さない口調で、論者の心を破壊する。
そのあまりの剣幕に圧倒され、目を泳がせ始めた両者を、気の毒に思ったクーリッジが内心、この厄介な党最高実力者の趣味ともなっている新人政治家いびりに辟易としつつも、助け船を出す。
「ロッジ議員、日本が対外拡大路線に転じるか、共産革命により亡国となるか。どちらが我が国にとって、厄介だとお考えになりますか」
丁寧なクーリッジの言葉に、ようやく嗜虐の悦に打ち震える様な興奮状態から我に返った猛禽類の王は、肩で息をしながら答えた。
「大統領閣下、答えは既に出ていると思います。日本が軍事的冒険主義に走ったところで、我らが恐れるべき何ものもありません。しかし、彼らが共産主義を甘受したとしたら……」
「ふむ。世界最大の陸軍国と世界第三位の海軍国か……あまり愉快な未来を想像出来ませんな」
「御賢察、恐れ入ります。しかし、これはあくまでも可能性の話です。日本側だけの問題でなく、後継者争いで不穏な政情になりつつあるソビエトの次期政権を誰が担うか? 実際問題、これ次第でしょう。
共産党書記長のヨシフ・スターリン、革命軍事会議議長のレフ・トロツキー、人民委員会議長のアレクセイ・ルイコフ。今現在、その後継の座はこの三者に絞られています。
一国社会主義論者のスターリンならば、己の庭先で一人遊びに夢中になるだけで大した害はないでしょうが、世界革命論者のトロツキーが政権を奪ったとしたら、かなりの確率で、この不幸な未来が現実の物となると考え、我々は可能性に対して備えねばなりません。
共産党穏健派で実質的には社会主義者であるルイコフ。市場経済導入を掲げている彼あたりが政権を担ってくれるならば、将来的に妥協できる可能性もあるのですが……」
椅子に深々と座り、両手の指先を腹の上で組み合わせた姿勢で、話に聞き入っていたクーリッジが発言する。
「ありがとう、ロッジ議員。さて、皆に考えて貰いたい。ステーツに対する外交的要求を突き付けてきた日本政府の狙い。
無論、彼らは我が共和党が、民主党とは違って反共を標榜している事も、国際連盟への参加を拒否した事を知っている」
ようやく無限の怒りの連鎖から覚醒しつつあるヒューズ国務長官が立ち上がり、その本来の役目を果す。
「答えは簡単、単なる気休めでしょう。日本は自らの玄関先に、彼らが仮想敵国の一つと考えていると思われるステーツを招待するのです。国際連盟に果たしてどれほどの権威があるか? これに関しては甚だ疑問の余地はありますが、日本政府はステーツが国際連盟の構成国となる事で、それが一種の保険となる、と考えているのではないでしょうか?
もう一点のソビエト政府の承認要求……むしろ、こちらの方こそが唐突にして理解不可能な要求です。あくまでも推測の域を出ませんが、我が国が満州に進出する事により、同地において我が国とソビエトとの間に不測の事態が起きる事を怖れているのではないか? と考えられます。あとは…」
「国交回復の仲介者としてソ連政府に恩を売る、か…」
「はい」
「ふむ…。存外、日本政府も甘いな…。その程度の事で、『あの』共産主義者どもが恩を感じるとも思えんが……。
しかし、いずれにしろ、日本は満鉄を我が国に売ると同時に、外交的にも単独覇権主義を放棄し、国際連盟を中心とした協調路線に向かう、と言う事か……。空き巣強盗同然の振る舞いで列強の不信を買った彼の国が極東の一角で、大人しく己の毛繕いに熱中してくれる…というのはワシントン会議の重要目標の一つであった以上、非常に有効な一手ではあるが……」
クーリッジの予想外の言葉に泡を喰ったのはロッジだった。
「お、お待ち下さい、大統領閣下。今更、その様な外交的要求に応じる事など、我が共和党は断じて納得できません! 共産主義は我らにとって忌むべき悪魔。
それに加えて、あの様な国際組織に我が国が加盟する事は、それ自体がステーツを他国間の争いに巻き込む可能性を高めるだけの事に過ぎません。ステーツは誰とも組まないし組むべきではない。そのあらゆる芽を摘み取るのが我ら共和党の役目です」
(共和党の役目? ふん、違うな。それは単に貴方自身の信念なのだろう? ロッジ議員……)
クーリッジは言葉にこそ出さないが、この長老議員に冷ややかな視線を送る。
ロッジは、ウィルソン民主党政権時代、国際連盟への参加を採決しようとしていた上院において、民主党保守派を取り込んだ超党派連合結成を画策し、圧倒的多数をもって否決に追い込んだ政界工作の中心に位置した人物であり、その上、前述した様にフーヴァーの対ソ食糧支援も中止に追い込んだ前歴もある。
今更、日本側の外交要求を呑むなどという事が立場上、認められる訳がないし、認めたら彼の政治生命は終わりだ。
陰険なロッジの慌てふためいた様子を、さも面白げに眺めやったフーヴァーは、ゆっくり立ち上がるとクーリッジの座る執務机の横まで進み、一同を振りかえる。
「友人諸君。それでは一つ一つ、整理していこう」
長身でがっしりとしたフーヴァーの心地良いテノールが一同の耳に心地よく響く。
「まず、第一に…。満州鉄道の買い取り金額に関してだが、先程、財務長官が説明した通り、最早、5億ドルの価値しか無いと言う。異議なくば、我が政府としては、次回会談に際して5億ドルを提示する事としたい。どうだろうか?」
「異議なし」
「本当はもう少し、値切りたいぐらいだが……異議はありません」
「日本政府には気の毒に思うが、我々は慈善家では無いし、これはビジネスだ。ビジネスである以上、仕方あるまい。異議なし」
ティーカップを片手に、或いはパイプや葉巻を咥えた閣僚達は次々と賛意を示し、頃合いを見計らったフーヴァーが、大きく頷きながら言葉を継ぐ。
「宜しい。では、日本政府の要求したソビエト政府承認並びに国際連盟への参加についてだが……ロッジ議員のおっしゃる通り、我が共和党の党是として反共主義及びに孤立主義を標榜している以上、見合わせるべきだと考える。意見を聞きたい」
「同意します」
「ソビエト承認はともかく、個人的には、あの程度の組織に加盟しても害はないと思いますが……。
今更『日本政府に言われたので加盟します』とは、さすがに英国や仏国に対して言えませんからなぁ」
「私は、遠からずソビエト政府は自壊すると見ていますので……承認するまでもないでしょう」
ソビエト政府承認を可とする者も、国際連盟への加盟をよしとする者も、一人としておらず、一同、これといった異論もなく採決が終了すると、先程、一瞬ながらも慌てた様子を見せたロッジも大きく胸を撫で下ろした。
「友人諸君、ありがとう。では、大統領閣下、我ら閣僚一同の意見は以上の通りです。買い取り額は5億ドルとし、日本側の外交要求に関しては、これを拒絶すると……」
フーヴァーはここで言葉を切り、一同をゆっくりと見回すと、まるで、その事に今、初めて気が付いたかの様な驚きの声を上げる。
「さてさて、彼らの要求を拒否し、彼らを失望させる金額しか提示しない我らに日本政府は果たして売ってくれるのでしょうか? 私が東郷ならば、親愛なるカルビンの鼻面に中指を突き立てて、彼のケツの穴について一言、寸評した上で、ロンドン行きの定期船に飛び乗りますけどね」
そう言うと、わざとらしく肩をすくめ、カルビン・クーリッジにだけ見える様に片頬の目だけを瞑り、ウィンクをする。
その言葉を耳にした閣僚陣達が、小さくどよめく。
「お待ち下さい! 先程、英国が鉄道敷設権を手に入れた…と。だったら、彼の国が満鉄を購入する理由など……」
ウィークス陸軍長官はそこまで言葉にして、そして気が付いた。
「日本政府が“同じ買い叩かれるならば、英国と組んだ方が、利がある”と考える…という事ですか?」
「ようやく気が付かれましたかな? 無論、これは可能性の話し…ですがね」
フーヴァーは言葉を切ると、大胆にも大統領執務机の角に片方の尻を預けると、腕を組み、一同を見下ろす様に言う。
「諸君も御存知の事だと思うが、日本は英国にも売却交渉を行うべく特使団を派遣している。勿論、これは彼らの自由であり、より高い価格を提示した側に商品を売るのは彼らの正当な権利だ。先程、誰かが言った通り、これはビジネスなのだからね」
火の付いていない葉巻をしゃぶり、その辛味を堪能しながら、フーヴァーを続ける。
「英国政府の現在の財政状況を考えるに、彼らが提示できる条件はせいぜい5億ドルから6億ドル。どうだろう、そんなところじゃないかな? ドーズ君」
突然、声を掛けられたのは、滞りがちなドイツの賠償金返済問題を根本的に解消すべく、近々、欧州諸国と協議するべく渡欧する予定になっているチャールズ・ゲーツ・ドーズ連合国予算管理委員会特別委員長だった。
銀行家出身で、49歳になるドーズは、極端な童顔の持ち主であり、見た目は20歳代でも十分、通用する。
ドーズは、飲みかけの紅茶を危うく噴き出しそうになりながら、フーヴァーの言葉に大きく頷き、賛意を示した。
英国が山東鉄道の敷設権を実際に得ていたとしたら、満州鉄道の価値は暴落する。
これは疑い様もない事実だ。
華北という大市場により近い山東半島の陸運を英国が管制するという事は、満州鉄道を購入し、東北経由で華北進出を狙う米国にとって、これほど厄介な競争相手はいない。
それでなくても、英国は香港という拠点を華南に有している。
その上、華北に拠点を構築し、あまつさえ、米国が日本を失望させる程度の金額提示しか行わなければ、日本政府は「どうせ買い叩かれるのならば…」と考え、英国に対し安価で満州鉄道を売却する事により多少なりとも恩を売りつけ、そして破格の安値で買い取った英国は旅順、威海衛、香港という三つの租借地を背景として中国市場における占有的な地位を確立、「損して得とれ」の日本としては、中国市場の将来を見越して、英国に擦り寄って、その分け前を享受する立場に身を置く方が余程、旨味があるというものだ。
「そして我がステーツは、英国が支配し、日本が用心棒を務める中国市場を遠目で眺めながら、機会均等を外野席から主張する立場に未来永劫、終始する……という訳だ、諸君」
フーヴァーは大袈裟に肩をすくめると、葉巻を咥えた唇を殊更、歪ませる。
「それでは、商務長官閣下は、日本に対して5億ドル以上の金額提示を行うべきだ、とお考えなのですね?」
メロンが意外な展開に、如何にも
(困ったな…)
といった表情を見せつつ確認すると、フーヴァーはこれに大きく頷き返し、
「それに……そもそも、英国のジェントルマン達はそこまで見越して、ウブな日本のソード・ファイターに、真っ赤なウソ話を吹き込んだ可能性さえあるかもしれないじゃないか? ……まぁ、ここまで言ったら、さすがに勘繰り過ぎかもしれないがね」
と高笑いする。
(まさかとは思うが……奴らならやりかねない)
フーヴァーの何気ない一言は、閣僚陣に無言のざわめきを呼び起こし、水面に投じられた一石の巻き起こす波紋の如く広がりを見せた。
「御一同、君達は何か重大な事を忘れていないだろうか?」
フーヴァーの発言により、おかしな方向に迷走し始めた会議の流れを断ち切るべく、室内に立ち込める紫煙に咳込みながら、高齢のロッジがしわがれた声で発言を求める。
「第一に、議会は民主党が多数派であること。そして何より、今年が大統領選挙の年であるということを……」
ロッジは熱弁を奮う。
例え、クーリッジ政権が5億ドル以上の買い取り価格を提示したところで、議会の承認がなければ、その約定は成立しえない。
そしてその議会は、民主党が多数を占めており、どんなにクーリッジが熱弁を奮おうとも、戦略価値の暴落した満鉄に対し、その価値以上の金額を承認させるの事は不可能だ。
加えて大統領選挙。前年8月、ハーディングの急死により副大統領から大統領に昇進したクーリッジにとって、国民の負託に応えられるかどうか? 事実上、今回の大統領選が初めての審判の場となる。
もし、国民が納得できない様な理由で、日本政府に寄付同然に金を渡す様な真似をしたら、それこそクーリッジに二期目は無く、共和党の勝利は無い。
最後にロッジはこう締めくくった。
「6億ドルまでならば、私が議会を説得してみせよう。だが、それ以上は不可能だと思ってもらいたい」
ロッジの言葉に失望感を露わにしたフーヴァーがため息交じりに呟く。
「5億が6億になったところで、日本側に翻意を促せるとも思えませんがね……」
閣僚会議は、結論を見ぬまま、完全な迷走状態に入った。
フーヴァー商務長官は、米国の経済的欲求を満たし、尚且つ、英国に市場を独占されるぐらいならば、多少無理してでも確実に購入できるだけの金額提示を行い、その経済支配に対しクサビを打ち込むべきだ、と主張し、その為ならば国際連盟への加盟も、ソビエト政府承認も辞さない…と考えており、この主張には北京政府の裏切り行為に怒り心頭なヒューズ国務長官も同調している。
反対に、メロン財務長官とウィークス陸軍長官は、大統領選の行く末と議会工作の難しさを理由に高額提示は諦め、別な形での妥協案を探るべきだ、と主張し、頑迷な反共主義者であるロッジ議員は外交的要求に対して断固阻止の構えを崩さない。
又、ウォレス農務長官は、困窮する南部農民の救済に心を砕いており、内心では“もっと大事な事があるだろう”と考えていたし、ストーン司法長官以下の他の閣僚陣は、心情的にはフーヴァーの意見に同調し、高額提示に関しては理解を示していたが、議会工作不調と大統領選挙における敗北という現実的な危機を回避する為に、ロッジらの意見に傾きつつあった。
「情けない。貴方達は実に情けない男たちだな」
突然の発言に、皆が一斉に発言者の方向を向き、同時に
(なんだ、まだ、いたのか…)
という嘲けるような笑いを浮かべる者や
(この犯罪者め、失せろ)
という露骨な不快感を見せる者もいる。
発言者は、エドウィン・デンビ海軍長官だった。
実のところ、デンビは必死だった。その最大の理由は、ここで、国民が熱狂する満鉄買い取りに関する交渉が不調に終わってしまえば、東郷訪米により一時的に鎮静化している世論の自分自身への汚職疑惑追及が再燃するかもしれない、という確実な未来への不安からだった。
既に自分が大統領の信を失い、同僚閣僚陣からも侮蔑される存在となっているのは知っているし、いまだに更迭されていないのは、単にクーリッジが東郷訪米という一大イベントを前に、政権の醜態を晒したくないと考えているからに過ぎない。
だからこそ、この閣僚会議というゲームにおいても、ここまで発言を控えて、目立たぬ様に部屋の隅で一人、空になったティーカップに隠し持ったバーボンを注ぎこみ、舐めるだけの聞き役に徹していたのだ。
だが、あっさり決すると思われた会議は、彼の希望を無残に打ち砕き、思わぬ迷走状態となっている。
自分がフーヴァーの意見に同調するのは簡単だ。
だが、嫌われ者の自分が同調したところで、フーヴァーはこれっぽっちも感謝などしないだろうし、むしろ、今現在、沈黙を守っている閣僚達が一斉にメロンやウィークスの主張に傾き、均衡が破れる可能性さえある。
デンビは、米国政府に満州鉄道を購入させる妙案を考え出すべく、己の全脳細胞を活動限界まで回転させ、ようやくにして一つの結論を導き出した。
(フォルドは出来ない。チェックも無意味だ。商務長官がオープニングベッドした以上……コールでは足りない。ならば、ここはレイズの一手のみ)
己自身の未来を賭けてデンビは、このノーリミットゲームにオールイン(手持ち全額を賭ける)する。
「同輩諸君。最早、これは我が国と日本との問題では無い。飛び入り参加してきた英国が賭け金を吊り上げてきたのだ。
……確かに英国は前世紀の世界王者。だが、所詮は『前・王者』に過ぎない。自分が既に『老いぼれ』である、という事実すらも忘れて、身の程知らずにも現・世界王者のステーツに再挑戦してきたという訳だろう? あの様なロートル選手を私は、断じて恐れない。さぁ、諸君はいったい、どうなのだ?」
デンビの芝居がかった演説を聞いた他の閣僚は、少々、面食らった様子を見せつつも
(さてさて、この犯罪者は、何を言い出す気なのだ?)
と蔑視と嘲笑の入り混じった視線を投げ付ける。
沈黙していたクーリッジが、まるで憐れな“犠牲の羊”を見つめる眼差しでデンビを貫く。
「デンビ長官。私は、言葉遊びを好まない」
“サイレント・カル”は沈黙の称号に恥じず、言葉の代わりに圧倒的な威圧感によってデンビの単語の無駄遣いを指摘するが、羊は最後の足掻きをみせる。
「お歴々の御相談を伺うに、5億ドルの価値しか無い物に9億ドルの金を払う、その正当な理由が欲しい……私にはそう聞えていますが、それで宜しいですか?」
「違う、そうは言っていない。日本側の政治的要求を拒絶し、尚且つ、5億ドルという金額では日本側は売らないのではないか?と言っているのだ」
珍しく発言したデンビに興味を持ったフーヴァーが忌々しげに、その理解を訂正する。
「いいかね? デンビ長官。我々はもともと10億ドルぐらいなら支払うつもりでいたのだ。だから、それよりも安い9億ドル支払う事自体は構わんし、願ってもないことだ。
だが、払うならば、議会を、そして国民を納得させるだけの根拠が必要だ、と言っているのだ。ちゃんと聞いていたのか? ……別に聞いていなくてもいっこうに構わないがね」
辛辣な口調で、そう応じたのは共和党に汚名をもたらしたオハイオ・ギャング一党を憎悪するロッジ議員だった。
「なるほど、なるほど……。では、お歴々。私に妙案があります。要は満州鉄道を確実に購入できた上で、議会多数派の民主党を取り込み、加えて本年の大統領選挙に勝てればいいのでしょう?」
デンビは己のコメカミから大粒の汗が噴き出すのを実感しながら、さも手持ちのカードに自信ありげな顔でハッタリをかます。しかし、百戦錬磨の老鷲・ロッジは歯牙にもかけず
(もう、貴様の顔は見飽きた…)
と言った風に片手を軽く振ると
「ほぉ…。デンビ長官、君はいったい、どんな魔法を使う気なのかね?」
と、底に秘めていた嫌悪の感情を、もはや隠さずに問い質す。
しかし、既にオールインを宣言し、一切を捨てる覚悟を決めたデンビに恐れるモノはなく、失うモノとてない。彼は不敵な笑みを浮かべると、ロッジの言葉を弾き返すべく、手持ちのカードに最後の希望を託し、言い放つ。
「アブラカタブラ……」
「ドーズ委員長、日本が権利を有する対独賠償金は如何ほどだろうか?」
急にデンビから声を掛けられた、少年の様な顔立ちのドーズは慌てふためいた様子で、手帳を取り出し、数字を確認する。
「1320億マルクの0.75%ですので……10億マルク、ドルに換算して凡そ2億4千万ドルです」
「ふむ。では、その賠償金を債権と見立て、それを我が国が日本政府から安く…例えば2億4千万ドルを2億ドルで購入する事は法的に可能かね?」
「……日本政府の承諾が得られれば無論、可能です。しかし、御存知の様にドイツ政府の賠償支払いは既に滞っていますし、我が国が購入しても、ドイツ政府が支払を履行できるのはずっと先、或いは不履行になる可能性すらあると思われます。第一、その打開策検討の為に、私が欧州諸国と折衝しているのはデンビ長官もご存知だと思いますが……?」
ドーズの回答に十分満足したデンビは、幾度も幾度も一人、頷く。
「如何でしょう? ドイツ賠償金を債権として購入する。これならば、将来、我が政府に対してドイツが支払うのですから、日本政府に2億ドル積み増しても、議会は納得するのではないでしょうか? 日本政府としても、いつ支払われるかわからない10億マルクよりも、目の前の2億ドルを選ぶのではないか? と考えますが……」
5億ドル+2億ドル=7億ドル。
「ほぉ…」
一同、この半ば詐欺まがいの詭弁にいたく感心する。
(さすがは犯罪者。考える事が違う)といった感じだろうか。
「だが、9億ドルには少し足りない様だね」
フーヴァーが、さっきまでの険しい表情とはうって変って、デンビの魔法に期待し、ワクワクする少年のような表情を見せ、まるで鳩をねだるかの如く、嬉々と尋ねる。
デンビは続ける。
「……ウォレス農務長官」
酪農博士の称号を持つウォレス農務長官は、ドーズ以上に自分自身の名前が呼ばれた事に心底、驚いた様子だった。
実直な農政家であり、研究者である彼は、デンビの様な『俗物の極み』とは距離を置いていたいし、実際、今までそうしてきた。
「穀物相場の暴落を原因とする南部農民層の困窮……。君は救済したいと思わないかね?」
デンビの言葉に、ウォレスは唖然とし、半瞬後、憤然とする。
「な、何を言っているんだ!? 私は常日頃から、救済措置を求めている。だが、それを拒否しているのは、そこにいる…」
生真面目で真っすぐな人となりのウォレスは危うく「大統領だ」という言葉を呑み込む。
デンビはさも、面白げに。
クーリッジとフーヴァーは不快げに。
それぞれが、呑み込んだ言葉の行く末を愉しむ。
連邦政治史上、二大疑獄事件の一つに、メインキャストとして名を連ねる汚職政治家は満を持して、最後にして最大の魔法を詠唱した。
「綿麦借款。これで残り2億ドル、用意しようじゃないか」
「その手があったか!」
一同の心中は、等しくこの言葉によって表現できる。
米国は、日本に対し2億ドルの借款を供与する。
通常ならば、日本はこの2億ドルを返さなくてはならない。
だが、デンビが言いだしたのは、その2億ドルで米国から綿と麦を買う限り、この借款に関して返済は不要……という紐付き借款だ。
ここで言う、『綿』と『麦』というのは、米国産農作物という意味で、綿と麦に限定される訳ではない。米でもいいし、トウモロコシやジャガイモでも良い。要は、米国から農作物を買いさえすればよいのだ。
慢性的な食糧不足に悩む日本としては、事実上、タダで食糧と重要な輸出品目である綿織物の原料が手に入るのであるから、計り知れないメリットがある。
だが、「それぐらいならば対ソ食糧援助の如く、連邦政府が直接、食糧を買いあげて日本に送れば良いのではないか?」とも考えられる。
しかし、日本政府が欲しているのは、代価であって援助ではない。
「食べるモノにお困りなら、余っているのでタダで差し上げましょう」
などと、うっかり口を滑らせたら、激怒した日本人と今度こそ戦争だ。
日本側のメリットに反して、このままでは米国政府側にメリットが無い。だが、大事なのは米国政府に無くとも、共和党にはある…という事だ。
何故なら、価格暴落により困窮している農民が住まう南部地方は南北戦争以降、民主党の伝統的地盤として、共和党が喰い込めていない地域だからだ。
この民主党を熱狂的に支持している豊作貧乏状態の彼ら南部農民は、日本に食糧を売る事により、一挙に息を吹き返すだろう。
短期的に見れば、自分自身の支持層である南部農民層の生活が安定する事になるのだから、民主党議員達は反対しづらい。
長期的に見れば、日々、困窮する生活に救いの手を差し出したのが、どの政党か? という一点に絞られ、そしてその政党の大統領候補者は誰か? という事になる。
民衆の自助努力こそが生活を向上させるものだ、と考えるクーリッジは、国民の生活に干渉しない、という自己の固い信念が呪縛となり、南部農民の困窮に対しても具体的な方策を示していなかった訳だが、この綿麦借款は、彼らの生活を安定させると同時に、共和党は支持基盤の拡大浸透を狙え、クーリッジは来る大統領選における勝利を確実なモノとできる上に、自己の信念と今までの主張を曲げずにすみ、日本は食糧と綿を手に入れる事が出来る。
反対に一人、損させられるのは連邦政府だが、最初から10億ドルという数字を念頭においていたのだから、「損した」とは考えられないし、何より、満鉄が手に入り、そしてその向こう側には中国大陸という夢のニューフロンティアが存在するのだ。
それは、最早、政治では無い。
詭弁であったし、詐術であったし、錬金術だった。
まともな政治家であれば、100年経っても考え付かない様な魔法を、このデンビという男はやってみせたのだ。
発想の根本にあるのが、独善と、保身と、「他人や政府を喰い物にする」事を躊躇わない種類の人間だからこそ、成し得たのだ…とも言える。
大統領執務室の一角から、突然、拍手が聞えた。
閣僚一同が、その聞えた方向に目をやると、満面の笑みを浮かべたクーリッジが立ち上がり、デンビに向かってスタンディング・オベーションを送っている。
クーリッジに続くかの様にフーヴァーが、ロッジが、そしてメロンやウィークス、ウォレスまでもが拍手しはじめた。
彼らの目の前で、素晴らしい魔法を魅せてくれたデンビに、一同は惜しみない拍手を送り、送られた主は少しばかり戸惑った様子だったが、最後にはスタンドアップマジシャンかの如く、自らの観客達に対し、大袈裟な一礼を返す。
「さぁ、諸君、デンビ長官の示してくれた方針、この線で事を進めてくれたまえ。但し、日本側の外交的要求を退ける以上、彼らに敬意と謝意を表して綿麦借款は3億ドルとし、切りよく合計10億ドルのビジネスとしようじゃないか。
共和党に民主党、官僚に資産家達……。説得しなければならない相手や、クリアしなければならない法令は山ほど残っている。さぁ、それぞれの仕事に取り掛かろうじゃないか」
クーリッジにしてみれば、綿麦借款を増やす分には自国の農民達が潤う訳であり、潤った有権者の感謝は、彼自身へと向くのだ、と知ってしまった以上、3億が5億でも構わないぞ…ぐらいの気持ちだろう。
会議を締めくくるクーリッジの宣言を聞いた閣僚達は一斉に立ち上がると、入口付近に佇むデンビに声をかけたり、握手を求めたりし、それぞれの所掌する省庁へと向かうべく、次々とオーバルオフィスを後にしていった。
この年6月、共和党予備選挙においてカルビン・クーリッジは圧勝し、次期大統領選の候補として選出された。
同月、民主党は南部を地盤とする保守派と、北部・東部を地盤とする改革派に大分裂、保守派は候補者としてウエストバージニア州知事ジョン・デイビスを選出。改革派は民主党を離党、新たに進歩党を結成し、ウィスコンシン州選出の上院議員ロバート・ラフォレットを候補者として擁立、それぞれ別々に秋の大統領選本選に臨む事となる。
しかしてその結果、史上第2位という歴史的大差をつけて、カルビン・クーリッジが合衆国大統領に再選される事となった。
……後年、FDRと呼ばれる男の集票マシーンとなる筈だった零細農業従事者、都市低所得者、組織労働者、マイノリティー、リベラル派知識人らによる連合体『ニューディール連合』は、こうして、その中核である南部白人層を欠く構成となり、その存在を歴史に知らしめることも、産声を上げることもないままに消滅していったのだった……。
2009年12月22日 誤字訂正