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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
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第4話 客人

大正十三年(1924年)正月

静岡県清水市興津


 その郊外に『坐漁荘』と命名された西園寺の邸宅がある。例年、年賀には多数の客人が訪れ、賑わいをみせるが、ことの他、今年の坐漁荘は元旦早々より例年に倍する政界、財界、軍部、高級官僚などの要人を迎え、日頃、静かな邸宅はどこか空虚な風情を漂わせていた。年賀を祝すと称して訪れる彼らの真意は明らかだ。

 西園寺が次代の首相に誰を推すか、ただ、その一点。

 その決断により自らの拠って立つ場所を見定めねばならない。彼らにも生き残る権利はあるのだ。皆一様に西園寺の真意を探り、その言質を得ようと蠢いた。

 しかし、彼らの努力はいずれも徒労に終わった。元老・松方正義が病臥に臥し、その余命幾許もないと見られる今、明治維新以来、数々の難局や政争の只中に身を置きつつ、常に生き残り続け、最後の元老の地位を間もなく手に入れるであろう、妖狐の様な老人を相手に彼らはあまりにも若かった。



 「枢密院議長・清浦奎吾に委ねよう」

 と結論めいた答えが、西園寺の白髪に包まれた脳の中で次第にその存在を確かにしていく。心なしか安堵の気持ちが沸き起こる。巨魁・山県有朋の薫陶を受けながらも、その晩年には適度に距離を置き、山県一世一代の不覚「宮中某重大事件」に関与しなかった点、その政治的な嗅覚は評価に値する。

 加えて官僚出身ではあったが、各政党との距離感も程よく、枢密院議長として調停・仲裁の経験にも富んでいる。

 それに本人は至って生真面目な質であり「清新さ」とか「果断さ」とは対極に位置はしているが、山県の系譜に属するだけに長州閥の面々も表立った反対はしないだろう。そして何より強面揃いの長州閥の中では、穏健で通っている人物だ。四月の総選挙も無難にこなしてくれるだろう。


 「鰻香閣下か。今度は鰻が食えるかな」


 西園寺はいたずらっ子のように一人、微笑む。その脳裏には清浦の泥鰌を連想させる八の字髭と、曲がった腰を無理に伸ばし、そっくり返るような歩き方をする姿が浮かぶ。

 『鰻香閣下』とは清浦の仇名だ。

 第一次山本権兵衛内閣がシーメンス疑獄を山県閥に追及され、総辞職を余儀無くされた時、清浦は後継首班の最有力者と目されていた。しかし、海軍出身の山本を総辞職させられた事を恨みとした海軍が、山県につながる長州閥出身の清浦を首班にする事に対して猛烈な反対運動を繰り広げた結果、遂には首班指名が見送られたのだ。

 それ以来、「鰻の匂いをかいだだけ」と陰口を叩かれている。


 「無難ではあるが……人事も政策も読めるつまらぬ内閣だわい」


 ようやく結論らしきものが出た西園寺邸に、年賀を祝すとの名目で、数名の男が来訪した。

 辞職を表明したばかりの山本権兵衛首相、その内閣において逓信大臣をつとめる革新倶楽部総裁・犬養毅、同じく内務大臣をつとめる後藤新平、そして代議士・尾崎行雄だ。

 西園寺邸の門前において、山本、後藤は偶然、犬養、尾崎と一緒になったらしく、互いに年賀の挨拶を行っているのが、微かに聞こえる。


 老齢の西園寺は疲れていた。いっそ、面談を断ってしまおうかとも考えたが、かつて一度も挨拶になど来たことがない犬養の来訪に興を覚え、座敷に招く事とした。

 「ほう、犬養が来おったか……狂犬め、何を企む」

 西園寺は一人、そう呟き、微笑む。


 犬養毅。安政二年(一八五五年)生まれ。この時、六九歳。

 岡山県の出身である事から、中国地方出身者が多い山県閥に属しても十分、活躍出来たであろうが、常に反・山県閥、反・藩閥の姿勢を貫いてきた人物だ。大正元年に起きた「憲政擁護運動」においては、盟友・尾崎行雄と共に大衆達の先頭に立ち、縦横無尽に舌鋒を振るった反骨の自由主義者。現在、国民的な人気が最も高い政党政治家と言ば、間違いなく、この男だろう。

 絶大な国民人気を背景とした、この男の保有する潜在的な勢力は、最大政党・政友会の最高幹部・横田千之助をして

 「犬養がその気になれば、俺らなぞ木っ端微塵だよ」

 と自嘲気味に語らせるほどだ。小柄な体と、胸に届くほどの顎鬚が印象的であり、一見すると好々爺然としているが、議論に滅法強く、その畳み掛ける様な舌鋒の鋭さは出身地・岡山にちなんで『備前長船』と、屈指の名刀に例えられている。

 その一方、中国の孫文、仏印のファン・ボイチャウといった革命家に対する支援や、フィリピン独立運動支援の為に大量の武器を密輸したり、故郷を追われた運動家たちの亡命受入れ運動に対しても積極的な支援を行い、彼を『恩人』と慕うアジアの革命活動家は多い。

 又、横浜にある中国人居留民の為の教育機関・大同学校においてはその校長も務めており、在日華僑の子弟の撫育・教育に非常に熱心なことでも知られる。



 西園寺と4人の客人は、互いに型通りの挨拶を済ませ、西園寺の愛娘・しし子が用意した熱燗で京風の正月料理をつつきながら、震災の事、病身の松方の事、亡くなった山県の事、更には西郷隆盛、黒田清隆の昔話など、埒もない話を肴に酒を酌み交わし、歓談を続けていたが座が一瞬「シン」となった瞬間、さりげなく西園寺が切り出す。老練さを感じさせる実に絶妙な間合いだ。

 「あくまでも座興……」

 と断りながら、彼らに尋ねる。

 「新首相の適任者は誰であるか?」


 間を置かず犬養はさも「待っていました」とばかりにある人物を推薦した。その人物の名は、西園寺の予想を全く裏切るものだった。犬養の帯同した尾崎も同意見であると言う。恐らく、彼らは事前に西園寺からこの様な質問が出る事を予想していたのだろう。



 犬養が口にした者の名は「東郷平八郎」だった。


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