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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
37/111

第37話 霊南坂の巨人

大正一三年二月一五日

(1924年2月15日)

東京・下町


『ダラ幹』と呼ばれる男がいる。

何事も略すのが好きな日本人の気質は今も昔も同じだったらしく、本来は『堕落した幹部』という意味らしい。

そしてもう一人、ここに『愚図哲』と呼ばれる男がいた。

言葉の喋れぬ赤ん坊が、訳も分らず泣き叫ぶ事を『グズる』というが、この男も余程、聞き分けがなかったらしい。

ちなみに最後の『哲』とはこの男の名前だ。

『ダラ幹』の異名で呼ばれた男の名を松岡駒吉といい、

『愚図哲』の名を冠した男の名を片山哲という。


松岡駒吉 35歳。

小学校卒、職業 旋盤工。

彼は日本最大にして、初めて組織化された労働組合連合体・日本労働総同盟の大幹部で『争議部』という変わった名前の部署において、その長を務めている。

この争議部、その役目は文字通り、総同盟傘下の各社労働組合によるストライキやサボタージュなどの支援に赴き、組合員の闘争指導を行うと同時に交渉人として会社に対し、要求を貫徹するのが役目……という事になっている。

若干35歳にして、その責任者を務める松岡、ただ者ではない。

無論、労働運動に深く傾倒する以上、社会主義者ではあるのだが、彼の場合、同時にクリスチャンでもある。

その政治思想の中核を成すのは、今日的に言うキリスト教社会民主主義。

即ち、唯物論の共産主義とは対極に位置する“筋金入りの反共主義者”という訳である。


 彼が『ダラ幹』という、決して褒め言葉では無いあだ名にて呼ばれる所以は、その交渉の手法に原因がある。

時に戦闘的に、時に平和的に。

硬軟織り交ぜた自在な交渉術により、会社・資本家の息の根が止まらぬ様に労働者の権利を漸進的に獲得するその手法が、左派労働運動家や急進派からは、「資本家と結託している」「手ぬるい」などと見られてしまうのだ。

だが、彼は決して堕落などしていない。

あくまでも徹底した『現実主義者』なのだ。


一方、『愚図哲』

片山哲、36歳。

東京帝大法学部卒、職業 代弁人(弁護士)

 松岡が大幹部として君臨する日本労働総同盟の顧問代弁人を務めている人物で、労働問題に関する法廷闘争を担当、労働者の権利擁護の為、時に国家と、時に経営者側と、時に社会を相手に大いに“愚図り”まくっている。

色白ででっぷりと肥えた体躯、ゆっくりとした所作、丸眼鏡にちょび髭という愛嬌のある風体が、人によっては“うすのろ”にも見えるらしく、故に『愚図哲』と呼ばれたのだ、とも言われている。

しかし、芯が太く、切れ味鋭い弁論を弄して、圧倒的な勝訴率を誇る当代きっての若手人権派代弁人として、つとにその名を知られている。

根っからの貧乏人である松岡に対し、高学歴の片山は高収入の約束された代弁人。

云わば、富裕な階層である彼が、貧困層の為に私財を投げ打ち、ありとあらゆる危険を冒しながらも戦い続けるのは一重に彼の善性を示すものだと思える。

ちなみに片山も、松岡同様にクリスチャンであり、その政治思想も同じくキリスト教社会民主主義。

やはり、筋金入りの反共主義者……である。


 松岡が出馬した東京二区は、先の震災でも一際、被害の大きかった下町を中心としている。

彼は文字通り、苦戦していた。

労働者・貧困層の立場に立った主張を展開する彼の周囲には、労働組合員や町工場の工員を中心に熱狂的な支持者が群がり、彼らの熱意によって、その活動は支えられてはいたのだが、同時に投票権の無い彼らは、松岡の当落に関して、何ら役には立たない。

東京二区といえば、無論、大都市圏の一角と言って良いのだが、この時、その有権者数は僅か1万余に過ぎず、もし、これが万人に投票権が認められた普通選挙であれば、その有権者数は瞬く間に数倍に達し、松岡は胡坐をかいて、うたた寝を決め込んでいても楽に当選できるほどの人気を博しているのだが……。


 一方、神奈川二区、即ち川崎市を中心とした工業地域から立候補した片山も同様に苦戦中だった。

理由は、松岡同様、その支持者が有権者ではないからだ。

松岡と片山。

年も近く、職場も一緒、思想も一緒な二人は、盟友と言っても良い関係であり、意気揚々と出馬してはみたものの、実際に選挙戦に突入してからは、あまりの苦戦ぶりに意気消沈、

「せめて、どちらか一人が当選出来れば……」

と考えを改め、この日、松岡の選挙区に片山自身が応援に訪れていたのだった。

彼らは当時でいうところの『主義者』

無学な庶民に社会主義と共産主義の違いが分る筈もなく、増してや、社会主義と社会民主主義の違いなど理解出来る筈もない。

ロシア革命以降、世間には共産主義に対する恐怖が満ちている。

そして、その決定打となった事件が、前年末に発生した『虎ノ門事件』である。

何しろ犯人・難波大助の父・作之進が右派と目される衆議院議員であった事が、庶民の恐怖を助長した。

「かの人ほどの親族にまで主義者の籠絡の手は伸びていたのか…」

単純な庶民は、そう考え、故に恐怖した。


 松岡、片山は二人とも熱心なクリスチャンであり、故に唯物論を、そして共産主義を嫌悪している。

時には、日本労働総同盟を浸食しつつあった左派運動家を、強権をもって除名処分にする程に共産主義そのものを憎悪し、毛嫌いしているのだ。

だが、庶民に違いは分らない。

庶民は、社会民主主義者と共産主義者の対立を近親憎悪、内ゲバと見ていたし、それは実際、そういう部分もあったのだろう。

しかし、階級闘争を主張する共産主義型の労働運動に対し、彼らの主張する労働運動とは労働者自身の啓蒙活動に重きをおいている。

富める者から奪うのではなく、自らを富ます。

それは、似て非なるものなのだ。


 しかし、二人の主張が労働者や農民の生活や地位向上を目的としている以上、狭小な視野しか持たない資本家・地主達からみれば、やはり、私有財産を否定する共産主義者と同じ穴のムジナとしか見えない。

故に、恐怖に駆られた資本家や地主達に駄賃を貰ったゴロツキや、教条主義的な右翼活動家に命を狙われた事、一度や二度では無い。

『主義者』にとって、選挙とは命懸けの行為なのだ。

その為、二人の周囲は常に屈強な労働者達が手弁当片手に護衛役を務めている。


 辺り一面の焼け野原と、傾いた粗末なバラックが立ち並ぶ東京の下町に、情け容赦ない北風の吹きすさんだこの日、松岡駒吉、通称『ダラ幹』と片山哲、通称『愚図哲』は、街頭に据え置かれた“ミカン箱”に立って、道行く人々に対し、己が主張を滔々と演説すべく活動していた。

政友会や憲政会、或いは革新倶楽部、政友本党などの立候補者であれば、この寒空、ミカン箱の上に立って演説などしない。

少なくとも、地元の有志や後援者が用意した公民館や講堂において、己が出番までダルマストーブに掌をかざして、熱い茶の一杯も振る舞われているだろう。

 だが、周囲から「社会主義者」と見られる彼らに公共の建物を貸す愚かな担当者はいない。

小さなミカン箱の周囲では、屈強な体躯をした労働者達が油断なく辺りに目を配り、例え己が身を呈してでも…と、反対勢力による暴力を警戒しており、更にその周りを制服姿の巡査達が隙間なく取り囲んでいる。

勿論、巡査達の目的は、松岡と片山の警護などでは断じてない。


「弁士中止!」

松岡が道行く人々に自己紹介を終え、いよいよ本題に入ろうとした瞬間、年長の巡査が怒声を張り上げる。

それを合図に、みかん箱の上から二人を引きずり降ろそうとする巡査達と、それを阻止しようとする労働者の間で掴み合いがはじまる。

いつもの事だ。

「……ふぅ」

松岡は苦笑と共に溜め息をこぼし、傍らで同じく苦笑いを隠そうともしない片山と目線を合わせると、大人しく彼の聖域たる“演台”から降り立ち、それを小脇に抱えて、次の町内へと歩を進める。


(今日の弁士中止は、これで四回目か……)


 無論、毎回毎回、「弁士中止」を命ぜられる訳ではない。

巡査の中には、松岡や片山の主張を理解できなくとも、気の毒に思って終わりの挨拶が始まるまで待ってくれる者も実は多い。

最も、彼らも職務上、怠慢と見られては生活に困るので、最後の最後には「弁士中止」と形だけは叫んで、一応は保身に走る。


(昨日の巡査殿は、のんびりと待ってくれたが……今日の髭殿は、なかなかに手厳しい)


今日の担当巡査の風体を髭殿と揶揄して、松岡は思わず笑みをこぼす。

髭の巡査一味と労働者達は、相変わらず揉み合いながら、罵声と怒声を互いに浴びせているが、松岡と片山はこれに構う事無く、歩を進めた。



「松岡駒吉、それに片山哲だな?」

焼け焦げの残る半壊した塀に囲まれた商家の角を曲がろうとした瞬間、突然、二人は男に声を掛けられた。

男の言葉は、質問ともとれるし、確認ともとれる。


(こいつぁ、しくじっちまったかな……)


 前を歩く松岡は、不思議なほど、落ち着き払ったまま男を観察する。

異常なほど痩せた体躯をした男は、この寒空にも関わらず、垢と埃にまみれた木綿の薄物一枚を着ただけの着流し姿で、懐に右手を入れている。

落ち窪んだ目が血走り、鼻腔を膨らまし、肩で息をしている。

明らかな興奮状態。

松岡は小学校を卒業した後、各地を転々としながら職工としての腕を磨いてきていた。

当時の工場の大部分は“飯場”と呼ばれる寄宿舎を敷地内に併設しており、その内部は事実上、無法地帯だ。

少ない給与を増やす事を目的とした賭け事が日常的に行われ、参加したくなくとも、無理矢理、やらされる。

喧嘩や刃傷沙汰など日常茶飯事、いつの間にか人がいなくなっても、その者が郷里に帰ったのか、川底で土左衛門となっているのかさえも分らぬ。

そんな場所だ。

賭場の立つ飯場には当然、地元の親分衆が胴元として出入りをする。

だから松岡は、この手の男の匂いに慣れ親しんでいたし、敏感だった。


 間の悪い事に、いつの間にか往来の人通りが絶えている。

「だったら、なんでぇ?」

松岡は落ち着き払った声で答える。

当時、労働争議と言えば流血沙汰は当たり前の事である。

争議になれば、会社側に雇われた暴力を生業とする者達の介入が“御約束”の世界に生きる松岡は、肝が据わっていたし、その体躯は小兵だが、幼少期より肉体労働で鍛え上げており、正に筋肉の塊の如きである。

右手にみかん箱、左手にはビラの束。

背後に立つ片山は生憎、手ぶらだが、その足元より、革靴が砂を噛む音が聞こえる。

戦闘準備よし。ひとしのぎは出来るだろう。


「天誅っっっ!」

懐から匕首をとり出した着流し男が突如、正気を失った様な叫び声を上げ、突進を開始する。

松岡は男にビラ束を投げ付けると、みかん箱を両の手に持ち直し、こちらも正面から突進する。


(誰に対しても背は向けない)


それが松岡の信条であり、生き残る、否、生きる術だった。

腹を据えてはみたものの、やはり怖い。

頬は引き攣り、恐怖のあまり目頭が熱くなるが、それでも松岡は前に進む事しかできない。


 突然、まるで脇の塀から丸太の様な腕が現れて、着流し男の襟首を掴んだ。

天地一閃、背負い投げ。

着流し男の痩せた体躯は宙を舞い、背中から地面に叩きつけられる。

同時に、塀の陰からふらりと現れた小男が、痛みに耐えて必死で立ちあがろうとする着流し男の胸板を雪駄で踏みつける。

着流し男は、地面に縫いつけられた間抜けな甲虫標本の如き無様な姿となり、その表情は驚きのあまり恐怖に震える。

小男は「ペッ」と自らの手の平に唾を吐きかけると、握り締めた大ぶりな銀煙管を、着流し男の額めがけて振り下ろす。

「ひぃぃぃぃっ」

二打、三打。

恐らくは護身用に鉛でも仕込んであるのか、その尺物の銀煙管は鈍い音を立てて風を切り、重い打撃音と共に情け容赦なく着流し男を打ち据える。

塀の陰から突然、現れた仙台平の袴に黒羽二重の五所紋付を羽織った大男と小男。

講道館仕込みの見事な背負い投げを披露した大男は、見上げる様な体躯をしており、右手に凶器の匕首を持ち、左手には煙管による殴打で顔面を血まみれにして半ば気を失っている着流し男の襟首を掴むと、ズルズルと引き摺る様にして、相も変わらず揉み合ったままの労働者と巡査の一団の方に向かって悠然と歩いていく。

傍らを通り過ぎる大男との擦れ違いざま、視線が合う。

「お、尾崎……!?」

何が起きたかよく分らないまま立ち尽くす、松岡と片山の目の前に、今度は銀煙管の小男が立ち塞がった。


「い、犬養先生……」

唖然とした表情で固まったままの二人を前にして、犬養は銀煙管に付着した返り血を手拭で丹念に拭きとりつつ、上目づかいに松岡を睨みつける。

明らかに怒っている。

お気に入りの煙管が血で汚れたことが余程、気に喰わなかったらしい。

そして、二人はこの日、二回目の誰何を受けた。

「松岡駒吉、それに片山哲だな?」

並みの博打打ちならば、尻尾を巻いて逃げ出したくなるようなドスの効いた低音で発せられたその言葉も、やはり質問であり、確認だった。

老人の放つ有無を言わさぬ圧倒的な圧力差を前に、二人は力無く頷く。

途端に犬養は悪童の様な憎めない笑みを浮かべた。

いつの間にやら、松岡と片山の背後に立った尾崎が、両腕で二人の首を脇に抱え込むように引き寄せ、耳打ちする。

「兄さん方、ちょいとそこまで、面ぁ、貸して貰おうか」



 場末の粗末な酒屋、その一角に申し訳程度にしつらえられた薄汚れた座敷の中、丸いちゃぶ台を囲む四人がいた。

飲み始めて、既に数時間が経っている。

「へぇ、ようがす。お引き受け致しましょう」

そう、答えたのは松岡だった。

職工上りで、向こうっ気の強いこの男でさえも、さすがに“格上”の犬養、尾崎の前とあっては胡坐をかく訳にもいかず、その極端な猪首を盛りあがった肩の筋肉に埋める様にして正座をし、大人しく振る舞っている。

「そうかい?ありがてぇなぁ」

犬養は縁の欠けた徳利を手にし、松岡の手にした湯呑みにダラリととろみのついた“どぶろく”を注ぎこむ。

「にしても…犬養の旦那、あっしもこの愚図哲も“主義者”ですぜ。宜しいんですかい?お名前に傷がつくかもしれませんが……」

丸刈り頭の松岡の飲み干した湯呑みを受け取り、その返杯を受けつつ、犬養が片方の眉毛を上げる様にして答える。

「お前さん達は、御自分の信条を恥じてなさるのかい?」

この言葉に松岡も片山も驚いた様に顔を一瞬し、苦笑を浮かべる。

「とんでもねぇ」

「こりゃ、一本、取られましたな」

「いいかい?

朝、起きて、飯を食うのは、飯を食いたいからじゃねぇ。今日と言う一日を生きる為だ。

俺と尾崎は自由主義者、お前さん達は社会主義者。確かに信条は違う。だがよ、肝心なのは……」

「手段は違えど、目的は一つ、そう言う事ですね?」

「おうよ」

犬養は湯呑みを満たす、酢えた匂いのする安物のどぶろくを一気にあおると、答えた片山の面前にグイッと突き出す。

片山がその湯呑みを手にすると、すかさず、尾崎が口にスルメを咥えたまま、酌をしてやる。

「選挙の事なんざぁ心配いらねぇよ。

明日から、お前さん達の選挙区には俺か尾崎、用事で二人とも来られなきゃあ、革新倶楽部の弁の立つ奴を毎日、送りこんで応援演説してやろう。

世間じゃあ、俺と尾崎は“選挙の神様”って呼んでいるらしいからな、神様の名にかけて必ず当選させてやる」

「ありがてぇ、ありがてぇ、なんまんだぶ、なんまんだぶ」

クリスチャンの松岡は、両手を合わせて、犬養に向かい、経を唱える。

「馬鹿っ!そりゃ、仏様だっ!」

松岡のおどけた調子に一同、ひとしきり笑い声を立てる。

心地良さに、すっかり酔いのまわった松岡は、いつの間にやら片膝を立て、行儀の悪い本性を出す。

「ねえ、犬養の旦那……。

あっしゃあ、ガキの時分に舞鶴の鎮守府に職工として雇ってもらいやした。その舞鶴で職工として生きていく為のイロハを叩きこまれたんです。舞鶴の鎮守府は東郷元帥が開いた場所、言ってみりゃあ、今のあっしがあるのは元帥のお陰です。元帥のお役にたてる……って、こりゃあ、云わば恩返しでさあ。この身が粉になったって構いやしません。働かせてもらいやしょう」

酔漢顔で気炎をあげる松岡のその言葉に、犬養と尾崎は、頷き、微笑む。

しかし、犬養の微笑みは、どこか、ひどく寂しげな様子であった…と片山は後に語っている。



尾崎と犬養が、犬養の愛妾が住まう待合茶屋に到着したのは夜半を過ぎてからだった。

心地良い酔いに身を任せた態の尾崎は、犬養を車内から見送る。

「木堂さん、大丈夫かい?」

泥酔して足元もおぼつかない様子の犬養を見て、尾崎が声を掛ける。

「でぇじょうぶ、でぇじょうぶだよ」

「そうかい? じゃあ、また明日、迎いに来るよ」

そう言うと、尾崎は運転手に自宅に向かう様に指示し、立ち去る。

犬養は、尾崎の乗る乗用車のエンジン音が遠ざかるのを確認すると、愛妾の待つ玄関先から上がり込み、そのまま、廊下を進み勝手口の扉を開けた。

その扉は裏口へと通じており、一人の車夫が人力車を構え、待っていた。

「やってくれ」

先程までの酔漢ぶりが嘘だったかの如く、その声は険しく、刺々しいものだ。

「へい」

車夫は既に行き先を言い含められていたものか、人力車をヒョイと持ち上げると、東京の闇を疾走する。


小一時間ほど走ると、目的地についた。

東京・霊南坂。

人力車が停まったのは、その一角にある大きな門前だった。

深夜……と言っても良い時間であったが、その門は大きく開かれており、

「来るものは拒まず」

という、この家の持ち主の精神をまるで象徴するかの如くも見える。

「勝手知ったる……」

といった雰囲気で、犬養はその門をくぐり抜ける。

すかさず、闇の向こうより数名の人間が駆けつけてくる音がした。

背広姿に丸刈り頭。

書生と言うにはやや、とうの経った男達は、夜半の来訪者が犬養だと知ると、黙って一礼し、再び闇の中へと消えていった。

玄関を抜け、長大な薄暗い廊下を渡り、広大な本宅の奥の奥、薄く明りの灯る部屋の障子戸を無言で開け放つ。

粗末な電球の灯る室内では、床の間を背にした老人が先頃、結成されたばかりの日本棋院が発行した冊子を手にし、碁盤を前に一人、碁を打っていた。

年の頃は、犬養と同年輩か、やや上。

すっかり薄くなった頭髪を丸刈りにし、胸にまで届く顎鬚、丸い老眼鏡。

夜遅い時間にも関わらず、羽織袴姿という正装姿で正座している。

老人は犬養に目線を送るでもなく、手にした冊子を眺めている。

対して犬養も、老人と碁盤を挟んだ位置に敷かれた座布団の上に、無言で座る。

犬養、しばしの間、盤上に並べられた碁石を見つめた後、煙管の雁首で老人の手元に置かれた島桑の碁笥を引き寄せる。

石は白。

碁笥の中に無造作に手を突っ込んだ犬養は、目線は盤上に置いたまま、ジャリジャリと音をたて、ひとしきりの間、ハマグリの手触りを楽しむ。

パチリッ

屋敷中に響く様な高い音と共に、榧の木で造られた碁盤に白ハマグリを打つ。

老人は冊子を丁寧に閉じると、脇机の上にそれを置き、盤上に目線を走らせる。

カチリッ

老人の手にする那智黒が、より硬質な音を立て盤上を射抜く。


「首尾は?」

老人が、ようやく声を発したのは、碁も終盤になってからだった。

犬養、やや優勢。

「上々」

犬養は手短に答える。

既に刻限は一番鳥の声も聞こうかという時分。

「翁は?」

今度は犬養が老人に問う。

老人は、その問いに答えず、犬養の一打を眺めやる。

長い沈黙の後、ようやく相手の急所を見抜き、手にした那智黒を置く。

「細工は流々……」

しわがれてはいたものの、その声は澄み切った湖に住まう賢者の如き叡智を感じさせるものだった。

二人は、どちらからともなく声を合わせる。

「仕上げを御ろうじろ……」

老人は、ずれた老眼鏡の上から犬養を見やり、犬養も老人を見つめ返す。

視線を交錯させた二人は、やはりどちらからともなく、皺深い面体に笑みを浮かべると、再び盤上に目を落とすのだった。


2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加

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