第33話 藁と蘇鉄と
大正十三年二月十日
(1924年2月10日)
東京・赤坂表町 高橋是清邸
紀元前660年1月1日の神武天皇即位日より数えて2584回目の紀元節を翌日に控えたこの日、第15回衆議院選挙が公示された。
軍神・東郷平八郎を古代の英雄・倭建命に擬え、火勢を収むる為に剣で草々を薙ぎ払い、これを鎮静せしめたその故事に因んで、後に通称「草薙選挙」と呼ばれる事になるこの選挙は、正しく日本全土に燎原之火の如く燃え上っており、与党三党が刈られるのか、政友会脱党者の結党した新政党「政友本党」が薙ぎ払われるのか、予断を許さない状況となっていた。
それというのも、東郷の訪米出発以降、各地で行われるようになった「政党一新」「政界浄化」「政財界癒着打破」を呼号する集会数が日増しに増加傾向にあり、これらの集会を主導する在郷軍人会を主体とした勢力に国粋主義者や右翼勢力が結びつき、更に始末の悪い事に護憲運動以降、伸張著しい労農政党支持勢力がイデオロギーを超えて「財閥打倒」を掲げて合流した為、一大国民運動と化してしまったのだ。
無論、未だ各勢力が大挙合流しているレベルであって、組織化されている訳ではないが、それでも連日、今回の騒動の火付け役となった新聞各紙が、素知らぬ顔でこれ幸いとばかりに迎合社説を論じ、既成政党への弾劾記事を報じる為、公示前より騒乱一歩手前の状態となってしまったのだ。
連立与党三党も勿論、ただ手をこまねいている訳ではない。
政友会崩壊に伴い連立与党内最大会派へと繰り上がった憲政会の加藤高明総裁はその有り余る資産を惜しみなく投じ、東京日日新聞をはじめとした有力紙を次々と買収、傘下に収めると反論記事の掲載を行い、事態の鎮静化に尽力したが、いま一つ、成功を収めているとは言い難かった。
何より、決定打となったのは床次、元田、中橋らが脱党直後に行った『涙の脱党記者会見』だ。
政友会幹部、即ち高橋、横田らの不正不実を涙ながらに訴え、憲政会と財閥の癒着を非難し、東郷首相を真に支えられるのは、我ら政友会脱党者だ……と、記者会見にて宣言したのだ。
連立与党側にしてみれば、憶測と推測と虚偽が7割、真実が3割の内容であったが、涙を浮かべ、男泣きに言葉を詰まらせる朴訥とした風貌の床次竹次郎の横で、代言人(弁護士)上りで、一際、弁のたつ元田肇が舌鋒鋭く与党批判を行う姿は、庶民の好む錦絵が如き図柄となってしまっており、日本人の精神構造の根底に潜む判官贔屓根性に火が点き、脱党者達は『正義派』などと呼ばれ、今や国民の寵児と化してている。
そこには犬養毅が企図した政策論争などは微塵も存在せず、如何にして熱し易く冷め易い国民感情に訴えるかに血眼となった醜悪な亡者達の妄執を具現化したものでしかなかったのだが、東郷という“見栄えが良くて軽そうな”神輿の担ぎ手に選ばれるべく、熾烈な戦いが繰り広げられていた。
今回の選挙の通称名となった『草薙選挙』
後日譚となるが……奇しくも犬養、西園寺ら東郷擁立に暗躍した仕掛け人達は、東郷が政界に振るう『大鉈』に対し、大いに期待し、それを公言していた訳だが、三種の神器に数えられる『草薙之剣』とは文字通りの『剣』の事ではなく、山野で下草小枝を刈り払う時に用いる『鉈』の尊称であり、関係者一同は、そこに奇妙な因縁を感じた……と語っている。
この日、高橋是清邸に参集した連立与党幹部は、一様に沈鬱な表情を見せていた。
本来、貴族院議員である高橋や加藤は、自身、総選挙には直接、関係ない筈なのだが、今回、両者共にその職を辞し、高橋は亡き原敬の選挙区だった岩手1区より、加藤は自邸・大磯のある神奈川2区より立候補している。
今回、初めて選挙に出馬するとあって両者共に腹の据わり方が違っていたし、実績、知名度、財力が備わっている以上、死角はない。
『咢堂が雄弁は真珠玉を盤上に転じ、木堂が演説は霜夜に松籟を聴く』
と讃えられる尾崎、犬養の両雄は、不動の国民人気に支えられた連立与党の飛車角であり、選挙戦においては無類の強さを誇る。
他の浜口、若槻、横田ら閣僚陣も、それぞれ強固な地盤を持っており、戦の始まりを告げる号砲の鳴り響いたこの日、それぞれ自らの選挙区ではなく、各地に応援演説に出向き、国民に東郷内閣の『政策の理』を訴えかけた。
しかし……。
国民の反応は芳しくない。
『政策の利』を訴える政友本党側に対し、『理』はあくまでも弱い。
護憲運動で見せた国民の狂熱も、普通選挙運動全盛期の精彩も掻き消え、今はただ『君側の奸を討つ』時代絵巻に熱中する群衆と化してしまったようだ。
「どうしました?その額……」
オデコに大きな湿布を貼り付けた高橋是清の顔を見た途端、遅れて参上した横田がキョトンとした顔で尋ねると、その言に犬養と尾崎が顔を見合わせ苦笑する。
「卵がね……」
高橋は髭面を憮然として答える。
「……卵?」
「そう。卵」
「飛んできましたか?」
「茹でてありましたよ」
「はぁ……」
この日、高橋は東京1区から鳩山一郎の対抗馬として立候補している三木武吉の応援演説に行っていた筈だ。
高橋は政友会総裁、三木は憲政会幹事長である。
公示一日目に、わざと他党要職の地位にある人物の応援演説に赴く事により、与党三党の結束を見せる事を狙った演出であり、選挙戦に巧みな犬養の発案によるものだ。
「憲政会の支持者に?」
横田が憤然として、自党の老総裁に尋ねる。
事と次第によっては、喧嘩も辞さぬ……そんな面構えだ。
「馬鹿を言っちゃ如何よ、横田君」
横田の言葉を暴言と捉えた加藤が大きな声を張り上げ、猛然と抗議する。
その大きな声が、額のタンコブに響いたものか、高橋は顔を顰めると両の手を広げ、仲裁した。
「よしなさい、横田君。加藤さんまで詰まらぬ事で熱くなりなさるな」
そういうと居住まいを正し、言葉を続けた。
「昨日は皆さん、地元の根回しなどでお忙しそうだったから、一日遅れで申し訳ないが、三党揃い踏みの出陣式を……と、思いましてね。心ばかりだが、膳を用意いたしました」
高橋が手を叩き、おい、と女中衆に声を掛けると、濡れ縁に通じる障子戸がスッと音もなく開き、一人一膳を奉げ持った老若な女中達が座敷に入ってくる。
床の間を背に居並んで座る高橋と加藤、右手に座る犬養、尾崎、横田。
左手には若槻、浜口と仙石、それに後藤。
「今日は少しばかり趣向を凝らしてみましたよ……」
膳部が全員に行きわたった頃合いを見計らって高橋は、そういうと一同を見渡した。
膳の上には一目で高価と分る金の鶴亀が描かれた漆塗りの吸い物椀が一つと、小皿に暗灰色の団子が三つ、添えられている。
高橋は、達磨の異名通りに無一文になったり、はたまた総理と呼ばれる立場になったりと毀誉褒貶を味わい尽くしてはいるが、ケチくさい事は嫌いな性質である事は一同、心得ている。
その高橋主催の宴席、しかも出陣式とあるからには
「それなりの……」
料理が饗されるものと誰しもが考えていた。
いや、考えてはいない。
むしろ、当たり前過ぎて考えもしなかった事だろう。
それが、どういう訳か一汁一菜をあつらえただけの膳部。
これは賢者の如き古老ならではの「気を引き締めよ……」という意図であろうか?
「どうぞ、召し上がって下され」
高橋が皆に声を掛ける。
気のせいか、その声はいつもの陽気さが抜け、どことなく痛みさえ感じさせる哀しみを湛えている。
「乾杯は無しですかな?まぁ、じゃあ、頂きましょうか……」
高橋に陽気さでは負けぬ後藤新平が、戯言を放ちつつ吸い物椀の蓋をあけたのを合図に、一同、内心、怪訝に思いつつも椀を手にすると蓋をとる。
「はて…これは……?」
「ほぉ、珍しき吸い物ですな…。この時期に青物が手に入るとは……あまり、見かけぬ菜の様ですが……」
「一緒に入っているのは……山菜ですか?蕨か茸、それの干した物ですかな?」
膳を囲んだ彼らは一流の政治家であり、その多くは同時にそれ相応の資産家でもある。
普段であれば、吸い物の具材などに興味など持たぬのだが、高橋の異様な雰囲気も手伝って、思わずいつになく、はしたない事を口にする。
犬養が熱い吸い物を一口すする。
……なんという事は無い。
微かに塩味の効いた何の変哲もない味だ。
しかし、立ち上る湯気からは微かにキノコの様な菌類の……悪く言えばカビ臭い様な……香りが感じられる。
箸先で吸い物に浮かぶ菜を摘まみ、しげしげと見つめると、てっきり三つ葉の若芽かと思った物が葉の縁にギザギザが無く、そうではない事に気が付いた。
「これは、もしや……白詰め草の葉……ですか?」
白詰め草。別名“クローバー”と呼ばれる野草だ。
「然り。白詰め草です」
背を伸ばし、和服姿の両腕を前に組んだ高橋が、その声音に静かな怒気を潜ませつつ答える。
「食べれるのですか?私は初めてですが……」
犬養が、そう問いかけながら、箸の先端に摘まんだそれを口中に入れる。
途端に苛立たしいほどの苦さが口中に広がり、鼻腔から抜けた香りには不快な青臭さを感じさせられた。
「……うぅ」
その苦さと臭さに思わず、箸を持ったままの右手で口元を抑えると、椀を置き、懐から急いでチリ紙を取り出そうとする。
「吐くな、木堂!」
刹那、高橋の大喝が飛ぶ。
その声に驚いた、まだ、椀に手を付けていない列席の者達が目を瞠り、事の成り行きを見守る。
「喰らえ、喰うのだ」
高橋のその気勢に気圧され、さすがの犬養も吐き出す事を諦めたが、咀嚼するのは憚れる。
それ程に一噛み一噛みが不快感を醸し出す代物なのだ。
酒か茶でもあれば、それで流し込んでしまえば良いのだが、生憎、面前に飲み物が無い。
仕方なく、吸い物で流し込む事としたが大きく含んだ為、もう一つの具材である山菜らしきものの干物までも一緒に流れ込んできた。
先程の白詰め草以上の不快感。
繊維質特有のボソボソ、ゴワゴワしたカビ臭い棒状の塊。
とてもではないが、食べ物とは思えない。
これには木堂、堪らず吐き出した。
「高橋さん、いいかげんにしてくれ。あんた、俺達に恨みでもあるのかね?これは何だ!?」
こめかみに血管を浮き出させた犬養は、箸と椀を投げ捨てる様に膳に置くと高橋に向き直る。
「藁だよ。それは藁だ」
「わら……?ワラって、稲のかい?」
「そうだ」
そう答えた高橋は椀と箸を手にし、その吸い物を食べ始めた。
老人の弱った歯には堪らぬであろう、その繊維質の塊を目を瞑り丹念に、丹念に咀嚼する。
数十秒、数十回に渡る咀嚼の後、ようやく高橋はそれを食道へと押し込む。
ようやく目を見開いた高橋は、一同を見渡すと
「これは、粥だ。吸い物では無い」
その言葉に、皆は手にした箸で吸い物の上に浮く具材を椀内の縁にどけると確かにその底には数粒の異様に膨らんだ米粒が沈んでいる。
「高橋さん、まどろっこしい真似はよしてくれ。同じ船に乗っている者同士、お互い、腹を割ろうじゃないか」
犬養は、さあ 話しを聞いてやろう、といった風に腕組みをしつつ高橋の目を見据えた。
「皆さんは、私が故・原敬先生の地元、岩手の盛岡から出馬しているのは知っておいでだね?この“粥”は、その岩手の山村で食されいるものだ」
「な、何ですと?」
「先日、暇を作って、私は初めてその選挙区に行ってみた……。あちらこちらの村々の有力者達に挨拶だけはしておこうと思ってね…。これはその時、訪れた、とある村で偶然、見かけた喰い物なんだよ」
高橋は、一人一人に語りかける様に事の次第を丹念に説明した。
春先の雪深い盛岡郊外では前年の秋に刈りとった白詰め草を日干しにしたものを食しているのだという。
腹の足しにする為に。
白詰め草は、その繁殖力の強さから牛馬の飼料用に輸入された牧草であり、牛馬が食えるのだから、人間様だって……という訳で、近年、救荒作物として食され始めたのだという。
「なるほど。ひどい味だが、飢饉に際しては止むなし、という事ですか」
高橋の言葉を加藤が受け、ため息交じりに呟く。
「庶民の知恵、といってしまえばそれまでだが…それにしても、酷い味ですな。藁が入っていたのも畜生が食えるなら、人間も食えるって理屈ですか?」
犬養も頷く。
「ちょ、ちょっと待って下さい。飢饉って……昨年は豊作とはいかぬものの、決して不良では無かった筈ですが……」
農商務大臣の若槻が横合いから驚いた様な声を出す。
高橋は若槻に視線をチラッと動かし、
「そう、飢饉ではなかった。なのに百姓衆はこれをこの時期、喰っている。どういう訳だ?」
一同、互いに顔を見合わせると、何かしら答えを求めあうが、分らない。
答えの無いのを見計らった高橋が一同に重々しく判決を下す。
「それは我々、政治家が無能で、どうしようもない大馬鹿者だからだ」
「これは、何か分るかね?」
膳の上にのせられた、小皿の、その上に盛られた暗灰食の団子を指さして高橋が問いかける。
一同、答えられずに黙りこんでいると高橋が説明する。
「これはね、澱粉を固めて団子にし、それを湯掻いたものだ。残念ながら、“本物”を手に入れるだけの時間が無かったものだから、これは偽物だがね」
「総裁、おっしゃっている意味が分りません」
横田が困惑し、自党の老総裁に縋る様な声を出す。
「私は、いろいろ調べてみました。この“白詰め草と藁の粥”に驚いたからね。沖縄や台湾の一部では、台風のせいで稲や麦を作るのは難しい。普段、彼らはサツマイモを常食としているそうだが……そのサツマイモすら収獲できぬ年がある。そんな年には“ソテツ”を食べるそうだよ」
座敷内がどよめき、その中から横田が代表する様に尋ねる。
「ソテツとは、食べられるのですか?」
「いや、そのままでは食べられない。実にも幹にも毒がある。ただ、皮を剥き、繰り返し水にさらし、日干しにするという気の遠くなる様な作業を繰り返し、石臼で挽き、また水にさらし、挽き粉より澱粉を抽出し、それを固めて団子にして食べるのだそうだ。だが、毒抜きを誤まれば、死ぬ」
「なんと」
ギョッとしたような顔で、面前の塊を見つめる。
「安心なさい。皆さんの面前に出したのは、馬鈴薯からとった普通の澱粉を丸めて茹でたものだ。さすがにソテツを取り寄せる時間も、毒抜きをする時間もなかったからね」
深く、深く、そして苦い沈黙が訪れる。
彼らも政治家である。
東北や沖縄、台湾の貧しい者達が、辛い生活を送っているのを全く知らぬ訳ではない。だが、
(これ程のものとは思わなかった……)
というのが、事実だった。
高橋はそれ以上、語らない。
ただ、じっと腕組みをしたまま、目を見開き、一同を見渡す。
突然、高橋の傍らに座る加藤が、紳士然としたその容姿からは想像も出来ないほどに荒々しく椀を手に取ると、草と藁の粥を食し始める。
その姿に弾かれた様に一同も、おのおの、椀を手に取ると、食物と呼べるかどうかさえ怪しげな、それを口中にかき込み始めた。
一同の、その椀に隠れた顔は窺えないものの、時折、咽ぶ音が喉につかえた藁によるものか、或いは涙によるものかは、定かではない。
だが、饗された一汁一菜が、彼らの始めた戦いの出陣式、それに最もふさわしい御馳走であった事に疑いは無い。
食糧事情の逼迫。
それはこの時代において、かなり深刻な問題であった。
幕末明初以降の人口増加に食糧生産が追い付かず、慢性的に絶対量の不足状態を国内にもたらしていたのは事実であったのだが、それ以上に大きな問題が二つある。
一つは、寺内内閣倒閣の発端となった『米騒動』の際に明らかになった様に、穀物商の投機目的による過度の利益追求がより事態を深刻なものへと変えていたのだ。
穀物商が商人である以上、利益を追求するのは至極、当然の行いであり、その商活動により品の豊富な地域から品薄の地域へと物資の流れが自然に行われ、市場の均衡を保つ自浄効果を上げてさえいれば何の問題もないのだが、品薄の地域において値上がりを待つ為に、市場に放出せず、倉庫で眠らせる…などという手段が半ば公然と行われているのが現状であった。
この行為により品薄な地域は、より品薄となり、物価は上昇するという悪弊が常に付きまとう事が常態と化していたのだ。
もう一つは、日本国内のインフラ整備の問題だ。
それは灌漑用水とか水田開発といった直接的な開発インフラの問題ではなく、実際には根本的な“物流”の未発達に起因した問題が大きい。
需要のある地域に、供給できるだけの穀物が別な地域に存在していても、その需要に応えるだけの物資を、必要な時に必要なだけ輸送する、という事が成しえていなかったのだ。
重量物である穀物の輸送には、安価で大量に輸送が可能な船舶や鉄道が用いられるのが常であるが、これは同時に港湾や鉄道駅周辺地域への食糧配分の集中を招いていた。
つまり、食糧の都市部集中である。
都市部は人口が多いが故に需要も大きいのは確かなのだが、港湾に面しておらず、鉄道が未発達の地域においても、人が住む以上は等しく需要は存在しているのだ。
しかし、港や駅周辺の倉庫群に集積されている食糧を、これらの物流上の利点を有していない内陸部の非沿線地域に輸送する手段が未発達である為
『需要がある事は分っていても、低コストで輸送する手段がない』
という状況に陥っており、この状況は後年、貨物自動車の普及に伴う物流社会の発達を自然に促す事となる。
既に東郷内閣は所信表明演説に段階において、この食料事情の逼迫に対して一つの政策を回答として出している。
即ち『主要穀物専売制導入』という政策だ。
米、麦、それに大豆という需要の高い三種類の穀物・豆類を政府管掌下に置き、豊作年には備蓄にまわし、凶作年には放出、安定的な供給を企図したものであったが、何より肝心なのは政府が直接、穀物の需要供給を量的に把握出来る、という点だ。
量的にさえ把握できれば、これまで商社の裁量任せだったシャムやオーストラリア、カナダ、アルゼンチンなどの食料輸出国との交渉を政府間交渉として戦略的に行う事が可能となるからだ。
既に日露の戦前戦中に塩や煙草の専売制を導入している日本政府としては、その管理ノウハウについても蓄積があり、全く新しい試みでは無い以上、運用については、さほどの難事では無い。
実はこの政策、1915年に発生した凶作以降、何度も食糧戦略上、有効な手段として政友会の吉植庄一郎代議士(後に政友本党)を中心に主張され、度々、国会審議が行われているのだが、その度に立ち消えとなってしまっている。
その理由は凶作時にあるのではなく、豊作時にあるのだ。
安定供給を目指す以上、政府は市場物価に見合った一定の価格で対象穀物を買い上げねばならず、同時に、一定の価格で売却しなくてはならない。
自由市場下では豊作時には値下がり、凶作時に値上がる、という市場の論理が働くのだが、専売制はそれに反する動きである以上、豊作時にも政府は需要に関係なく、大量の買入れを行わなくてはならなくなる。
近年の収穫量を基礎に試算したところ、豊作年においては政府の買入れ金額と販売金額の差は1億2千万円という途方もない金額にのぼると目されており、巨額の赤字計上が予想されているのだ。
しかも、豊作凶作などというものは予算編成がおこなわれる新年早々の時期には全く予想も付いておらず、どうなるかは夏が過ぎるまでは分らない。
当然、秋の国会において補正予算を組む事になるのだが、その段階で1億2千万円という巨費を突然、計上されても対応が可能であるか、どうか多分に不明確なのだ。
しかも農家側はそれが生活の糧である以上、予算成立を先送りされては堪らない。
何しろ、専売制にされたら、それが農家にとっての唯一の現金収入となるのだから。
自由競争の概念から大きく逸脱する、この専売制の導入は東郷内閣においては『次善の策』として採用されていた。
予算対応に関しては、補正予算を組むのではなく、当初より別立て会計の基金制度を導入する事で解決し、そして、この基金の原資には満鉄売却金の一部が充てられる事になっている。
本来、抜本的な政策としては、灌漑などのインフラ整備を行い、食糧自給率の向上を図るべきなのだが、東郷内閣は震災復興と、鎮守府の整備を中心とした工業インフラへの資金投下を重視しており、予算に限度がある以上、農業インフラに対する予算配分までは手が回らない……というのが実情だ。
専売制は、収獲量が平年並みである限りは、政府買入価格と政府卸売価格は等価であるので、集積倉庫の整備などの初期投資さえ可能であれば、管理コスト以外の予算増は発生しない。
つまり、あくまでも根本的の問題である慢性的食糧不足という問題から目を逸らした対処療法の域を出ない一時凌ぎに過ぎないのだが、食糧配分の不均衡を是正する為には、何もしないより“はるかにマシ”という政策なのだ。
アメリカ合衆国・ワシントンDC
ホワイトハウス
合衆国大統領カルビン・クーリッジはいつもの様に1人で昼食をとっていた。
孤独である事を心の底から愛せる彼は、やはりいつもの様に東海岸各都市から届けられたこの日の朝刊各紙を大きな机一面に広げ、それを眺めつつ固いライ麦パンを小さく千切り、スープに浸しては齧っていた。
(何かがおかしい……)
そう、彼は思った。
東郷が訪米の途についた途端、ありとあらゆる新聞がこの東洋の島国が誇る英雄を讃える記事を一斉に書き連ね始めたのだ。
比較的、庶民をターゲットにした新聞の中には『アドミラル・トーゴーの英雄譚』を連載しているものまであり、その不確実な想像記事の内容は、このままでいくと最終的には
(アドミラル・トーゴーは、竜退治をしそうだな……)
というレベルだった。
日本政府が満鉄売却の希望を公式発表して以降、彼のもとには連日、財界の有力者達から電話や会談の申し入れがひっきりなしだ。
いずれも、中国という市場を見据えた満州への進出に大乗り気で、何が何でも買ってしまえ、という話ばかりを聞かされる。
米国に領土的な野心は無い。
欲しいのは市場であり、投資先なのだ。
その点において『鉄道利権』というものは、願ってもない代物であり、それも大市場を後背地に抱えている、とあっては乗り気にならない方がおかしい。
昨年末以来、両国間の懸案事項とされていた『新・移民法』、所謂『排日移民法』の制定を声高に主張していた上下両院の民主党議員達でさえ、今は誰も、そんな話は持ち出さない。
それこそ嘘の様に、まるで
(そんな話は聞いたこともない…)
といった調子だ。
その民主党議員達の変節自体は、この法案に反対の立場をとっていた彼としては喜ばしい事なのだが、自分の説得には全く、聞く耳を持たなかった彼らが、中国市場という餌を東郷に見せられた途端に、身を翻したのには、一国の元首として言い知れぬ憂鬱を感じてしまうのだった。
「失礼します、大統領閣下」
ドアをノックする音がし、答えるよりも早く、その音の主が入室してきた。
「おや…お食事中でしたか?」
(私がこの時間に食事をとる事は知っているだろうに…)
クーリッジは露骨に不快な表情をした。
入ってきたのは彼の閣僚であるエドウィン・デンビ海軍長官だ。
急死した前大統領ウォーレン・ハーディングが抜擢した人物の一人で、昨年、汚職が発覚し、更迭された前内務長官アルバート・フォールを代表格とする“オハイオ・ギャング”と繋がる人物でもある。
自動車産業の中心地・デトロイトを地盤に持つ共和党の元下院議員で、本業は弁護士業を営んでいるこの人物は、1922年に締結されたワシントン会議を主催したハーディング大統領の命を受け、同会議におけるホスト役という難題を無なくこなし、5カ国の利害を調停、会議をまとめ上げる事に成功しており、その功績は計り知れない。
「どうしたのだね?」
クーリッジが言葉に含まれた棘を隠そうともせずに、この無礼な闖入者を問いただす。
「パナマから連絡が入りました。たった今、アドミラル・トーゴーが大西洋に入ったようです」
だからどうした? と口には出さず、クーリッジはデンビを静かに眺める。
返答が無いのを、話を促された証左だと考えたデンビは言葉を継ぎ足した。
「アーカンソーとワイオミングが間もなく合流し、提督のミカサに随行する予定となっています」
「それだけかね?」
そんな話は前から聞かされていたし、今更、説明を受ける必要もない。
「アーカンソーとワイオミングの煤煙でトーゴーの肌が真っ黒になったとしても私はいっこうに気にならないが……?」
嫌味だ。
デンビが前大統領ハーディングにまつわる黒い噂……即ち『ハーディング家には黒人の血が入っている』という噂をまことしやかに話し、嘲笑していた事に対する侮蔑をクーリッジなりに表わしたのだ。
その言葉には、落選中だったデンビを長官に抜擢してくれたハーディングに対し、その信頼を裏切るような行いを繰り返す彼に対して「この恩知らずめ」という感情が多分に含まれている。
「大統領閣下……」
デンビは無表情で言葉を続けた。
「ワイオミング・クラスの重油専焼缶への換装を急ぐべきでしたかな?」
蛙の面に小便。
(出ていけ!)
喉元までせり上がってきたその言葉を再び、腹に流し込む為、クーリッジは殊更、スプーンをスープ皿にぶつけると荒々しく食事を再開するのだった。
2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加