第30話 萌芽
フィンランド名アハベナンマー諸島。
どちらかというとスウェーデン名であるオーランド諸島と言った方が通り名の良いバルト海に浮かぶ小さな群島で、人口は今現在でも2万人余り、当時は1万人に満たなかったと思われる。
地政学的に言えば、フィンランドの南側に横たわるフィンランド湾と、フィンランド・スウェーデン間を隔てるボスニア湾の結束海域の中央ややスウェーデンよりの所に位置し、住民の多くはスウェーデン系に属している。ボスニア湾の深部には、スウェーデンの重要輸出産品である鉄鉱石の積み出し港が群れをなしており、フィンランド湾の深部は現在のサンクトペテルブルグ、即ち当時のレニングラードが位置する。
つまり、アハベナンマー諸島は両湾が合流し、バルト海へと繋がる重要海域に存在しており、両湾交通を管制する絶好の位置にある……という訳だが、高緯度地方である同海域は非常に天候が荒れやすく、当時、発展途上だった航空機による哨戒は不可能であり、目視確認が唯一の監視方法というこの時代において霧の多い同諸島は、さして重要視される事は無かった。
世に言うところの『新渡戸裁定』とは、先の欧州大戦後の1921年、フィンランドが独立するにあたって開かれた国境線確定会議の過程において発生したアハベナンマー諸島の領有権を巡る問題に関する裁定の事である。
当事者であるフィンランド、スウェーデン両国の主張を鑑みれば、歴史的経緯においてはフィンランドに理があり、住民の多くがスウェーデン系に属し、経済的な依存度もスウェーデンに傾いていた同諸島の現況を鑑みればスウェーデンに理があると言えた。
裁定を一任された国際連盟討議会において、常任理事4カ国であるイギリス、フランスは政治的な思惑から北欧の強国スウェーデンの主張に同調、イタリアは無関心、日本も当初は
「そんなどこにあるのかも定かでない島の話し、どうでもいい」
というのが本心だった。
大勢はスウェーデンに有利と思われていたのだが、国際連盟初代事務次長・新渡戸稲造は両国政府に対し意外な妥協案を提示した。それは
「主権はフィンランドが保有する。但し高度な自治権を付与すること」
というものだった。
結局のところ、この妥協案を日本が支持し、連盟加盟各国に対する説得工作を請け負った事から事態は急展開を見せる。
まずはフランスのやる事に全て反対したいイタリアが追従。
存在感の希薄な僻地の島の領有を巡って日伊両国との面倒な論争を嫌った英仏両国政府も追認、これら四大常任理事国の変節を見た各国も結局はこれに同調した事により、当事者たるスウェーデン、フィンランド両国政府もこの妥協案を呑んだ。
国際協調に理解あるスウェーデン政府と国民は、この妥協案をさしたる反感も持たずに受け入れたが、フィンランド政府、国民の反応は全く違った。国家としての体裁もまだまだ幼児の如き状態であり、国内は内戦終了後間もない混乱期である。歴史的に常にロシアとスウェーデンという大国に挟まれ、領土論争の悲哀を身に染みて知っているフィンランド国民は「スウェーデン受諾」の報に接して、純粋に、そして熱狂的に、この自国側の主張を認めた妥協案に対して狂喜した。翻弄される小国の苦しみを味わい尽くした彼らにしてみれば、彼らの主張が国際的に認められた初めてのケースであり、まさしく歴史的な快挙とも言える程の事だったのだ。
フィンランド国民の記憶の中に、この快挙をもたらしてくれた『新渡戸稲造』という日本人の名は深く刻まれ、そしてそれを自国の利害とは全く無縁に支持してくれた『日本』という東洋の異国の名が焼き付けられた瞬間だった……と言ってもよいだろう。
小さな小さな群島であったが、この群島が果たした歴史的な役割はこの上もなく大きい。
何故なら、後の世界情勢において各国がどの様に考え、どの様に行動したか、その基準となるべき萌芽がここに見てとれるのだから……。
そう、フィンランド国民がいずれ強いられる事になる選択は、既にこの時点において決していたと言ってもよいのだろう。
大正十三年二月三日
(1924年2月3日)
東京・三宅坂 陸軍省
常よりも一段と掃き清められた陸軍省玄関前のロータリーに1台の公用車が横付けされると、警備についていた歩卒が跳ね上がるようにして、その後部座席に駈け寄り、ドアを開ける。
公用車の到着を事前に告げられていた陸軍省では、手隙の士官、下士官兵に至るまでが寒風吹きすさぶ玄関横に整列し、直立不動の姿勢で待ちわびていた。後部座席より目的の人物が降り立つと、最前列に居並んだ儀仗兵達がすかさず『奉げ筒』の号令一下、最大限の敬意を表現し、動員された士官、下士官兵達は一糸乱れず敬礼を送る。
自らに払われる敬意に対し、若干の戸惑いを覚えながらも心持が良くなったその重要人物は、自然と頬が緩むのを無理矢理抑えつけると、隙なく答礼を返し、出迎えの佐官の案内で歩みを陸軍省内へと進める。長身に半白の黒髪、眼力とでも言うのだろうか、底知れぬ知性を感じさせる褐色の瞳には鋼鉄が如き意志を感じさせる。尊大と紙一重の威厳を迸らせたその人物の歩みは実に規則正しく、大股で闊歩していく。
ややガニ股なのは騎兵科出身者であるが故の癖なのであろう。その張られた胸と歩調の確かさが、この人物の軍歴の長さを示していた。長身の人物に歩速を合わせねばならぬ為、案内役を務める短躯の佐官は、まるで茶坊主の如く小走りになってしまい、それがより一層、この人物の威厳に箔を付けている様にも見える。
応接室に入室すると、既に陸軍大臣・秋山好古元帥が待ち受けていた。
彫りの深い顔立ちの秋山は、時折、欧米人に間違えられる程に大柄であり、長身の訪問者と並んでも全く卑屈さを感じさせない。互いに自国式の敬礼を交換した後、秋山が口火を切った。
「フランス語で宜しいでしょうか?」
「構いません」
間髪いれず、相手は答える。秋山はフランスのサンシール陸軍士官学校出身であった故に堪能であったし、当時の欧州においては英語よりもフランス語の方が国際語であった事から、貴人であれば必ず教育を受けている。
「では……初めまして、マンチンハイム元帥閣下。大日本帝国内閣副総理大臣兼陸軍大臣・元帥・秋山好古陸軍大将であります」
日本人の間では、どういう訳か自らの名前が間違った読み方で広まってしまっているらしい……という事実を再確認したその人物は、内心、苦笑しつつも、さり気無く訂正すべく、右手を差し出し、握手を求める。
「お久しぶりです、元帥閣下。フィンランド共和国陸軍元帥カール・グスタフ・エミール・マンネルハイムであります」
「お久しぶり…?」
自らがフランス語を聞き間違えたのか? と一瞬、秋山が怪訝な表情を浮かべると、マンネルハイムは自らの奇襲が成功した事を見てとり、ニヤリと片頬を吊り上げ、如何にも
(してやったり……)
といった表情をする。
「はい。閣下とお会いするのはこれで4回目です。もっとも、最初にお目に掛かった時、閣下は少将でいらっしゃいましたが……当時、私は少佐、2回目にお会いした時は中佐、3回目には大佐でした」
相手の謎かけの様な言葉の裏を読んだ秋山は、しばし考え込んだが、一つの結論に達し、己の推測が正しいかどうかを確認する。
「日露戦争のおりでしょうか?」
「えぇ、ご賢察の通りです。私はあの頃、ロシア帝国統治下のフィンランド大公国の一将校として騎兵部隊を率いておりました。戦争中、閣下とは三度戦い、三度敗れました。三回目の奉天会戦の時が一番、こっ酷くやられましたが」
「おぉ……」
秋山が嬉しげに唸り、マンネルハイムは微笑みを返す。
カール・グスタフ・エミール・マンネルハイム元帥は、フィンランド共和国の独立に際して勃発した内戦において政府側・白軍の最高司令官に就任、赤軍との戦闘を制し、その独立を守った功績により国民的な英雄として、その名声は絶大だ。何しろ、一度は「国王戴冠」を要請された程の人気ぶりなのだ。
しかし、それほどの名声がありながら、どういう訳か独立直後の大統領選においてはあっさり落選してしまう。だが、これはマンネルハイムの人気が劣ったというよりも、フィンランド国民の優れたバランス感覚によるものだと言えよう。この大統領選出馬を最後に、マンネルハイムは一切の公職から身を退くと悠々たる引退生活に入る。
世界各国を夫人と共に旅して歩き、見聞を広めている最中、摂政宮御成婚式への要人出席要請が本国政府に届いていると聞き及び、名乗りをあげ、来日したのだった。この自国の誇る英雄からの申し出に本国政府も大いに喜び、急遽、マンネルハイムに対して元帥位を贈呈し、各国列席者と吊り合いをとったのだった。
無論、言うまでも無く、この御成婚式に出席などしなくても、いずれ彼が元帥位に昇った事に疑いは無い。
この日、マンネルハイムが会談を申し込んだ事に別段、深い意味合いは無い。前述した様に、夫人を同伴し、世界を悠々と旅している身分である。だが、彼にはそうそう簡単には故国に帰れない事情があった。
1920年代半ばのフィンランドは国内において、独立以来、政権を握る保守派と左派勢力の政治対立が続いていたが、その現状に対して政府の左派勢力への対応を生ぬるいと感じる軍部・民族主義派勢力が急速に台頭してきていたのだ。
隣にソ連という巨大な猛獣が住まうフィンランドは、ソ連に対して基本的には融和政策をとっており、現在、政権を担う保守派にしても、その気の遣い様は尋常ならざるものがある。この融和政策の足元を見てとった左派勢力の増長に対し、不満を募らせた軍部・民族主義派勢力は
「白色革命も辞さず」
との強硬な態度を示しており、その彼らが指導者への就任を切望しているのが『救国の英雄』マンネルハイム元帥なのだ。
しかし、マンネルハイム自身は現政府の指導者層に対して何ら含むところは無く、自身の帰国により国内に無用の軋轢が生まれる事を嫌い、引退生活を殊更、強調する為に世界旅行を楽しむふりをしているのだ。
マンネルハイムが秋山に会談を申し込んだ理由、それを強いて言えば、騎兵科出身将校の一人として
「最強と讃えられたロシア軍コサック騎兵1000個中隊を破った男」
と呼ばれ、当代随一と言われる『騎兵の神様』秋山と会ってみたかっただけなのだ。
秋山とマンネルハイム、二人の元帥の会談は実に和やかなものだった。
敵として干戈を交えて20年。
ロシア軍内において「我が軍で最も優秀な騎兵将校」と絶賛されたマンネルハイムであったが、当時の最終階級は大佐に過ぎず、連隊規模の兵力を指揮したに過ぎない。だが、もし秋山と同等に旅団規模を指揮出来ていれば……その答えに秋山自身も興をそそられたらしく、副官を参謀本部第四部に遣いに行かせ、古戦場の地図を多数、持って来させた。
その勝手知ったる激戦地の地図を応接室の卓上に広げた二人の好敵手は、沙河、黒溝台、奉天といった会戦地の地図上で知恵を出し合い、将棋でいうところの感想戦を開始した。
秋山の真骨頂は混成部隊による軽快な機動戦であり、マンネルハイムの得意とするのは地の利を極限まで生かした粘り強い邀撃戦だ。秋山が先手を打ち、マンネルハイムが応じ、秋山が思わぬところから奇襲で主導権を握れば、マンネルハイムが補給線を寸断する……。
「……ううむ」
「ふぅ……」
脂汗が浮かんだ顔や禿げあがった頭を腰の手拭でゴシゴシと拭った秋山は、詰襟の軍服を大きく開襟し、息をつく。
秋山の砕けた格好に、マンネルハイムも上着を脱ぎ捨て、シャツの腕を捲る。図上戦は深夜にまで及び、容易に決着はつかない。
「こうしてみると……元帥閣下が露軍の最高指揮官で無かったのは我が国にとって天佑でしたな」
疲れ切った表情で秋山が呟く。
それほどまでにマンネルハイムの精緻を極めた手腕に魅せられたのだ。
「とんでもありません、副首相閣下。閣下の予測不能な機動こそが相手に深刻な打撃を与えられましょう。まさしく騎兵戦の何たるかを会得されておられる」
八歳年長の騎兵科将校に対し、マンネルハイムも賛辞を惜しまない。
「元帥閣下。閣下は今しばらく、お国には帰られないので?」
若干の沈黙の後に発せられた秋山の突然の質問にマンネルハイムは瞬間、哀しげな表情を浮かべた。
帰りたい……。
だが、帰れない……。
無論、その裏事情を秋山は知らない。
「えぇ。妻には苦労を掛けましたので……今、しばらくは妻の我儘に付き合おうかと考えております」
ほろ苦い笑みを浮かべ、言い訳と言うには辛過ぎる言い訳で言葉を濁しつつ、グラスの冷たい水を飲み干す。
「特にご予定が無いのでしたら、しばらく、日本に滞在されませんか?無論、宿泊の手配や滞在費用は我が陸軍が負担いたします」
その唐突な申し出の真意を掴み損ねた北欧の英雄は、何と答えるべきか、言葉が見つからず困惑する。
「元帥杖をお持ちの閣下に、この様なお願いをするのは大変失礼かとは存じますが……閣下を我が陸軍大学校に教官としてお招きしたいと考えております。勿論、相応以上の棒給はお約束いたします」
陸大は教育総監の所掌下にあり、現在、その職にあるのは大庭二郎大将だ。陸軍大臣とは云え、これは正確には越権行為なのだが、人事権を有するのは陸軍省側であり、不可能ではない。
「なんと?」
これにはマンネルハイムもさすがに答えあぐねた。既に故国を出て三年という月日が経っている。時折は帰郷しているものの、そのたびに右派グループには突き上げられるし、現政府からは冷たい視線を送られ、閉口しているのも事実なのだ。
「我が国は今、騎兵科主導の下に戦車の戦力化研究を進めております。是非、閣下のお力添えがいただけたら、と思います」
(戦車……か。さすが列強の一角を占める大国だけあって豪儀なものだ。我が国では戦車の研究などしたくとも出来ない)
内心、苦笑する他はない。
国民一人当たりの所得は日本とフィンランド、加えて言うのならば東欧のポーランド、ルーマニアなども同程度であり、大差はない。いずれも米国の9分の1、英国の8分の1、仏国の5分の1程度にすぎない貧しい国なのだ。だが、日本の総人口が8千万人に達しているのに対し、フィンランドのそれは4百万人足らずであり、単純計算でも、そこには20倍の差が存在し、それがそのまま両国の国力の差とイコールだと言ってもよい。
その日本でさえ、ようやく戦車部隊の練成に着手したばかりなのだ。フィンランドが纏まった戦車部隊を手に入れるのはいったい、いつになるか見当もつかない。
根っからの戦術家であるマンネルハイムにとって「戦車戦の研究」というのは、願ってもない程に実に魅力的な肉料理と映ったようだ。
「陸大には優秀な教官もおるにはおりますが、今の若い連中は昔と違い、海外から学ぶ、という進取の気概が全く足りません。これが一番、頭の痛いところです。うっかり列強などと煽てられて以来、我が国は増長し、腐ってしまいました。初心に帰るべきなのです、我々は……」
秋山はそう苦々しげに呟く。
(なるほど。昔は欧州のどの国の士官学校に行っても日本からの留学生がいたものだが……最近は確かに見かけなくなったな)
「いいでしょう。但し、条件があります。生徒諸君には私のやり方に従ってもらいます。それと私が帰国したい時には、無条件でその許可を頂きたい。故に任期を定められるのはご容赦願いたい」
マンネルハイムは意を決した。
いや、実のところ、それほど真剣に考えた訳ではない。戦車の研究、という新しい課題に対して興味をそそられていたし、旅から旅の生活にやや疲れを感じていたという事実もあったが、水を吸い取る海綿の如く他者の知識を貪欲に求め、それを己が血肉として成長し続ける日本人への興味もあった。
「おぉ、ありがたい。感謝します、元帥閣下」
秋山は丸々と肥えた上体を屈し、マンネルハイムに頭を下げる。
「日本語の勉強を再びしないといけませんね」
突然、マンネルハイムが日本語に切り換える。それは流暢とは決して言えなかったが、十分に聞き取れるものだった。
「閣下は日本語が……? ど、どこで習われたのですか?」
狼狽する秋山に対し、マンネルハイムは実に申し訳なさそうな表情を浮かべると、ため息交じりに自身の過去を告白する事とした。
「実は日露戦争後、今は亡きロシア帝国陸軍の参謀本部第三部、つまり諜報関連の部署に属していましたから、少しばかり……。それに私は以前、二度ほど日本を訪れているんですよ。無論、偽名でしたが……」
結局のところ、このマンネルハイム元帥の陸軍大学校教官への就任は実現しなかった。何故ならば、陸大教官と言えば、通常、少佐・中佐級が教官となり、尉官にたいして教授するのが役目である為、元帥位にある人物に対して、失礼ではないか――という意見が大勢を占めたのだ。
かくして大正13年3月、カール・グスタフ・エミール・マンネルハイム元帥は『陸軍大学校 第24代校長』に就任した。
昨今の陸軍大学校における教育方針は秋山も師事したメッケル参謀少佐の残したドイツ式の「操典重視」「兵站重視」「火力優越」に、日清日露戦争の戦訓を加味した独自のものへと進化を遂げていた。清国、ロシアという強大国を相手に奇跡的な勝利を遂げたことが「精神主義」への極度な傾斜へと繋がり、同時にそれまでの「火力優越主義」から「白兵戦至上主義」へと急激に転換していった。
加えて論戦を主体とする参謀教育課程をあくまでも重視した結果、
「白を黒と言いくるめる能力を尊ぶ」
ようになってしまっており、実戦で得た貴重な戦訓は急速に形骸化しつつあった。この現状に対し、日清日露の前線で奮闘した過去を持つ秋山は教育総監時代に強い不満を覚え、自身改革を目指したのだが実務を握る佐官級の激しい抵抗にあい頓挫している。マンネルハイム元帥の起用を思い立ったのは、この強力な”外圧”を利用して陸大の教育方針を一転させようと考えたのだ。
結果的に見れば、大局俯瞰と実地主義に徹した彼の校長在任期間中、送り出された生徒は陸大36期より42期までの計400名、そして同じく薫陶を受けたる教官47名。
1940年代初頭の時点において教官の多くは軍司令官、或いは参謀本部や省部中枢の要職に占め、実権を掌握する立場となっており、生徒の多くは中・大佐級として大隊長や連隊長、参謀を務める地位にのぼり、1940年代半ばの時点において、前者は軍中枢の高級将官として舵取りを託され、後者は少・中将級に昇りつめ旅団長、師団長、参謀長、軍司令官を次々と拝命している。
36期卒で名将の名を欲しいままにする事になる宮崎繁三郎、史上最年少で陸大入学を果たした天才・八原博通、他にも山内正文、小畑英良、今井武夫、岩畔豪雄、辻正信など名だたる人材を輩出した、この世代は
『マンネルハイムの子供たち』
と呼ばれ、実戦部隊指揮官、或いは参謀として帝国陸軍史上に大きな足跡を残す事になる。
2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加