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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
3/111

第3話 西園寺公望

大正十二年(一九二三年)暮。

静岡県清水市興津。


 火鉢の中では赤々と燃えた炭がただれた様に熱を発している。しかし、皺深く痩せた細木の様な手を、その間近にかざしながらも、その肉の少ない手に熱が溜まることはない。

 西園寺公望は熟考していた。

 二七日に起きた虎の門事件を受けて山本内閣が総辞職を表明したのは、翌々日の二十九日夜になってからだった。

 西園寺は、元老として後継の首班を奏薦しなければならない立場にあった。今までなら他の元老の相談する事が出来たが、生存している元老は西園寺と松方正義のみであり、その松方が病床に臥せった今、事実上、元老は西園寺一人といって良い。他の元老、黒田や山県、伊藤、西郷が壮健な頃であれば、それなりに気楽な気持ちで後継首班を指名していたが、最早、それは許されない事となってしまった。

 「責任の重みを感じる」というよりも「責任を取らされる」と思うと気分が重い。

 齢七五。気力はいまだ充実しているとはいえ、大震災直後の混乱期、誰を指名しても山本権兵衛以上に政局を乗り切れるとは思えない。そして、その山本さえ挫折した。虎の門事件という、ある意味、不可抗力な事件の責任を取る形ではあったが……。

 「それにしても……」


 (運のない男だな……)


 と山本権兵衛を憐れむ。

 最初の政権の時は、海軍省官僚が収賄事件を起こし、今回は摂政宮暗殺未遂事件。一度ならず、二度までも本人の意思とも、能力とも関係のない所で政権を投げ出さざるを得なくなる。

 既に山本の後継を巡って、政界は与野党、官僚、門閥が、一斉に暗闘を開始していることだろう。決して国民の目に触れぬところで、今、権力に魅入られた男たちが、西園寺の掌中の炭の如く、激しく燃え上がっている筈だった。

 きっと、彼らの耳には、己の吐息が法螺貝の音色に、鼓動は陣太鼓の響きの如く聞こえている事だろう。


 加藤友三郎首相の病死後、山本権兵衛を首相に奏薦したのは、今、病床に臥せっている薩摩閥最後の巨人・松方正義だ。大震災直後の混乱期、しかも翌年の四月には総選挙が控えている。松方が山本に求めたのは、乱れた人心の安定と、選挙における公平さの確保の二点であった。二度目の組閣となった山本権兵衛自身、大命降下が降りた時点では、気力も、体力も充実しており、如何なる難関をも乗り越えて見せようぞ、と頼もしく見えたものだった。

 しかし、いざ政権を手中にしてみれば、長州閥、官僚、枢密院、貴族院そして何より政党の意向に振り回されながらの政局運営は、見ていて気の毒になるほどであった。日清戦争、日露戦争において海軍を事実上、取り仕切った往年の気力、胆力は完全に失せてしまったようにも見える。

 そして何より、進境著しい政党勢力が「民意を反映していない」超然内閣に対して激しい抵抗を行っているからだろう。しかし、それ自体はこの国において政党政治が揺籃期を過ぎ、成熟期を迎え始めているとも言え、それはそれで議会制民主主義の信望者、リベラリストの西園寺にとっては好ましい事の様にも思える。

 しかしながら、平時ならいざ知らず、関東大震災という建国史上最大の国難に面しながら各政党は、党利党略優先であり、政府の行おうとする緊急性の高い施策に対して、一々、抵抗の姿勢を示し、全く危機意識というものが欠落しているように思えてならなかった。彼らは口々に「明日の日本の為に」と唱えるが、巷には今日の糧にありつけない庶民の何と多いことか……。


 来る四月には総選挙がある。現行の選挙制度では三円以上の納税者に投票権は限られているが、昨今、全ての成年男子への選挙権を求める運動が日本全国で盛んに行われている。普選は正しく、世の流れであり、もはや阻止すべきではない、と西園寺自身は考えている。

 普選とは、今日の糧をないがしろにされている庶民が力を持つと言う事だ。

 その事に彼らは気付いていないのだろうか? 否、いち早く、気付いた者こそが時代の政権を担うにふさわしい者なのだが……。

 此度の総選挙は、正しくその普選の可否を問う選挙となる筈だが、その普通選挙運動に関しても各政党間では熱の入り様が明らかに違う。

 『狂犬』が如き狂信的自由主義者・犬養毅の率いる『革新倶楽部』が、その急先鋒であり、官僚出身で三菱財閥の女婿でもある加藤高明が総裁を務める憲政会は、幹部の多くが貴族院議員ということもあり、熱心とは言えないが、これに続く。

 根っからの自由主義者集団である革新倶楽部の支持基盤は、地方の農村青年層であり、非山県閥系の元官僚と、桂太郎系の政党政治家が合流し、結成した憲政会の支持基盤は最近、とみに伸張著しい都市部の中間所得層だ。しかしながら、革新倶楽部、憲政会双方の支持者の多くには現行選挙法では投票権が付与されていない。

 これに対して、最大党派・政友会は総裁・高橋是清は普通選挙容認論者だが、大幹部の床次竹次郎は尚早論者だ。つまり、党内論議が尽くされておらず、四分五裂の状態にある。都市部の高額所得者層、地方の地主階級に基盤を持つ政友会としては、選挙権の拡大はそのまま自らの支持基盤が相対的に減少する事を意味しているとはいえ、平民宰相と謳われた原敬の後継者達とも思えない情勢判断能力の欠如振りだ。


 西園寺は考えた。この際、政党出身者は回避すべきだろう。総選挙を前に、どちらか一党の指導者が首相になったとしても、各県の知事の首をすげ替えて(各知事は内務大臣が任命する)自党に有利な様に露骨な党利党略を行う筈だ。そして、その姿は国民の中に政党に対する根強い不信感を抱かさざる事になりかねない。

 青年時代、十余年に渡り仏・ソルボンヌ大学に学び、イギリス流議会制民主主義を理想の国家像とする西園寺にとって、議会政治への不信は絶対に避けねばならない事であった。

 薩派の山本権兵衛の後、やはり長州閥から出すのが順当だろうか。

 しかし、天皇以上の権力者として君臨した山県有朋がようやく死去し、巨大権力をほしいままに振るってきた山県閥……陸軍・貴族院・枢密院・官僚の連合体にようやく、ほころびが見えてきている所だ。今また、旧山県閥出身者に権力を委ねれば、再び息を吹き返し、歴史が繰り返されるだけかもしれない。

 

 反、或いは非山県閥となると、人材は限られている。山本内閣の閣僚から選ぶとすれば、

 司法大臣にして枢密院の実力者・平沼騏一郎。

 宮内大臣の牧野伸顕。

 内務大臣の後藤新平。

 逓信大臣の犬養毅・革新倶楽部総裁。

 「平沼か……。閻魔大王気取りの俗物よのう。牧野は腰抜けだし、後藤は変わり者だからのう……」

 「犬養か……。確かに人物ではあるが所詮、貧乏人。所帯が小さ過ぎるわ」

 「原か、せめて桂が生きておればのう……」

 思わず、今は亡き盟友・原敬や、時には政敵として、時には政友として研鑽を競い合った桂太郎の名が口から漏れ出す。


 続いて脳裏には旧山県閥の面々を含めた人物たちの顔が浮かんでは消えていく。

 山県閥の新首領となった現陸軍大臣・田中義一陸軍大将。

 山県直系の官僚集団を率いる枢密院議長・清浦奎吾。

 首相経験もあり、山県系官僚にも顔の利く高橋是清・政友会総裁。

 過去、幾度となく大命降下を打診されながらも固辞し続けている貴族院の最高実力者にして徳川宗家十六代当主・徳川家達公爵。

 更には中堅どころの前陸軍大臣・山梨半造、宇垣一成といった面々までが浮かんでは、消えていく。


 「…………どうも、いかんな」

 老いた唇から独語が知らぬまに漏れ、そしてそれは繰り返され、大正十三年の正月を迎えた。


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