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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
29/111

第29話 脱党

大正十三年二月二日

(1924年2月2日)


東風解凍(東からの風が氷を解かし)

黄鶯鳴動(山間に鶯鳴き)

蟄虫始振(地中に虫蠢き)

魚上氷(氷を割って魚が頭を出す)


 来る衆議院選挙公示日を、如月十日に控えたこの日、既に日本各地では選挙戦と言う名の暗闘が、手段を選ばず繰り広げられている。

 そんな最中、平素は互いに互いの事を「不仲」と自嘲気味に語るほどの関係にある与党三会派は、軍神・東郷という扇の要を渡米により欠いてはいるものの、選挙戦に関しては一致協力して盤石の体制で臨むべく、選挙協力に関する協定をこの日、結ぶ運びとなった。

 去る1月31日に「財閥打倒・政治一新」を標榜して全国各地で行われた国民決起集会を少なからず脅威に感じたものの、狂気と紙一重の熱気を帯びた参加者の大半が在郷軍人会所属者だった…という事実を知ると、その胸を撫で下ろした。

300万会員を誇る在郷軍人会であったが、選挙権を持つ者はその内の1割程度だろう。

3円以上の納税者に対してのみ、選挙権が付与される現行選挙制度の“お陰で”彼らは煩い存在ではあったが、圧力団体とはなりえない。

それに何より、在郷軍人会には核となるべき存在、つまり名のある政治家や有力な指導者を欠いているのが、なによりも助かる。

云わば、与党三会派は自らの打破すべき選挙制度のお陰で、自らの首を討ちとられる事を免れたのだ。


だが、しかし……


この不条理なことわりに不審の念を抱く者もいる事を忘れてはならない。




 東京の二月は、本来ならばまだ寒い。

しかし、寒さをもたらす北の王の、その漏れ出す吐息がふと途切れたこの日の昼過ぎ、妙な生臭さを感じさせる春風が、与党第一党の根城に吹き込んだ。

――政友会ビル。

今日的に言うところの観光スポット的な扱いさえ受けている、瀟洒な南欧風総煉瓦造りの建造物の最上階・総裁室に陣取っていた高橋是清総裁、そして横田千之助幹事長の元を訪れた三人の男達がいた。

一人は、床次竹次郎。

もう一人は元田肇、そして中橋徳五郎。

言わずと知れた強面達であり、政友会に籍はおくものの、高橋の総裁就任に不平を燻らせていた反主流派の領袖達だ。


「すまんが、床次さん、もう一度、言ってくれ」

己自身の高齢さえ売り物にする高橋は、肝心な時に耳が遠くなる。

所謂、おとぼけだ。

実際、高橋にしてみれば

(聞かなかった事にしてやる……)

という気分だったのかもしれない。

これに対し

(まったく食えない狸だ……)

といった表情で、床次は先程の発言を繰り返す。

「……高橋総裁、我々は、今回の選挙に政友会から立候補する事を辞退したいと思います」

来客用ソファの中央に身を置いた床次が、毅然とした表情で高橋の背後に立つ仇敵・横田と視線を交錯させながら宣言する。

「床次さん、それは政界を引退する、って事なのかね?それならば、仕方ないがね」

高橋の座るソファの背後から、羽織姿の横田が腕組みをしたまま横柄に詰問する。

「いや、政友会からは出馬しない…という意味だよ」

床次が悠然と煙草に火をつけながら答える。

「政友会から立候補しない、政界からは引退しない……いったい、床次さん、あんた自分で何を言っているのか分っているのかね?」

顔面を朱に染め始めた横田が、一層、強い口調で床次に迫ると、横合いから元田が間に入る。

「横田さん、まぁまぁ、そんな興奮しなさんな……。長い間、同じ飯を食ってきた仲じゃないか……」

「そうだよ、横田幹事長……。我々は新党を結党する、それだけだ」

温和な中橋が場を和ませる様な独特のゆっくりした口調で横田を宥めるが、その発言内容は、政友会の癇癪玉を激昂させるに十分だった。

「新党だと?はん!」

横田は高橋の背後から回り込み、両の腕を机に突き立てると三人を睨みつけ、言葉を継ぐ。

「好きにするがいいさ。あんたらの派閥の連中が何人、付いて行くか知らんが、糞みたいな小会派が選挙戦を生き残れると思うなよ?潰してやるからな!」

せせら笑う横田の顔を正面から見据えた床次が、しばしの間、表情を凍らせる。

横田の言葉に怯えた……と言うより、無表情に徹しようという、固い意志を感じさせられる、そんな表情だった。

床次は、傍らに置いていた風呂敷包みを取り上げると、その結び目を落ち付いた手つきで解き、中から漆塗りの大きな書箱を取り出し、蓋も開けずに高橋の目の前に静かに押しやる。

「高橋総裁、横田幹事長……お世話になりました。ここに我ら3人と行動を共にする議員諸君の離党届を預かってきております。お納め下さい」

「傲慢な人物」と陰口を叩かれる床次ではあったが、今はただ、俯き加減に下を向き、高橋、横田に頭を垂れる。

「ふん」

横田が鼻をならし、乱暴にその漆塗りの書箱を手に取る。

その瞬間、今までの毒虫を見下すようなその顔が、一転変わって怪訝なものに変わる。

重い。

重いのだ、その書箱が……。

横田は慌てて、書箱の蓋を開ける。

そこには、見知った名前が書き連ねてある……。

床次の腹心・榊田清兵衛や、僅か43歳で日銀総裁に抜擢された金融の大家・山本達男は高橋と財政政策が真っ向から対立している以上、当然として、政友会最右派の国粋主義者で日比谷焼き打ち事件の首謀者・小川平吉、次世代の政友会を担うホープと目される若手・鳩山一郎の名前まであるのだ。

読み進める横田の表情が強張る。

静かに、そして厳かに床次が宣言する。

「不肖・床次、元田、中橋以下代議士148名、ここに政友会を離党致します」

「148名……?」

政友会現有議席数270名。

148名と言えば、その過半数だ。

この一撃で高橋・政友会は122議席となり、130議席を有する加藤・憲政会に与党第1党の地位を奪われた。

いや、それどころか衆議院第1党の地位さえ失ったのだ。

高橋も横田も、言葉をしばし失う。

伏せていた面体をグイッと誇らしげに上げた床次のその顔…丸眼鏡の奥に光る目には、正しく横田を嘲笑する陰鬱の炎が宿っていた。




同日・午後

神奈川県・横浜港


 横浜−旅順間を結ぶ大阪汽船船籍の快速貨客船・正保丸の船上に特命を帯びた老将と補佐役を務める二人の外交官に率いられた一団の姿があった。

埠頭には、一般乗船客向けの見送り者の姿も多いが、それ以上に新聞各紙の記者が一行の写真を撮ろうとひしめいている。

海軍・横須賀鎮守府軍楽隊まで動員した、一種、滑稽なほどの盛大だが、虚ろな見送りだ。

彼らは、旅順で正保丸を降り、満州鉄道を使って長春まで進み、そこからソ連が経営する中東鉄道支線に乗り換え、ハルピンまで進む。

更にハルピンで中東鉄道本線に乗り換えると満州里を超えてソ連領内へと入り、シベリア鉄道本線にて、そのままユーラシア大陸を横断、欧州へと入る。

補佐役の一人は、幣原に抜擢されて外務次官の大任を受けた若干36歳の芦田均。

もう一人は、第二次山本権兵衛内閣で外務大臣を務めた伊集院彦吉男爵、60歳。

芦田が新進気鋭の外交官として、省部の期待を集める存在ならば、伊集院は「眠り猫」の異称をとる老練な外交官。

目的地はロンドン。

「特命全権大使・山本権兵衛伯爵」

という仰々しい肩書を与えられた全権団の長に率いられた一行は、満鉄売却に関する交渉を行うべく大英帝国の本拠地へと旅立ったのだ。

日本政府――東郷内閣――の基本方針は米国への売却を第一義とすべし…という秘密申し合わせ事項がある。

前総理、前外務大臣、それに現役の外務次官…という如何にも「本腰」をいれた布陣で、大英帝国に乗り込む彼らの役目は、米国政府の譲歩を得る為のおとり役だ。

同時に、米国との交渉が不調に終わった場合の保険でもある。

故に三人に与えられた任務は

「判を押す寸前までは、本気で交渉を進める様に……」

と、いうものだった。




同日・夕刻

神奈川県・大磯

加藤高明邸


 憲政会総裁・加藤高明の豪邸に参集した与党三会派の幹部達は、一様に厳しい表情で膳に手をつけようともしない。

三党の選挙協力を約した事を記念し、この日、大磯の名刹・妙大寺横にある加藤高明の邸宅に集まったというのに、最初に持ち出された話題が政友会に過半を超える脱党者が出た…とあっては、選挙協力自体を最初から練り直さなくてはならない。

「床次は鉄道院総裁、元田は鉄道大臣……」

「中橋は鉄道局長……」

浜口が指を折って数え、尾崎が茫然と答える。

「迂闊でしたな、高橋総裁」

犬養のこの言葉に高橋を詰る要素は感じられない。

むしろ、ここに参集した一同の迂闊さを恥じている……といった趣があった。

「我が党でも満鉄売却に利権が絡む連中には目を光らせておきましたが…財界の支持を得られる見込みがない、と分った以上、誰が立とうと兵糧攻めで日干しにしてやるつもりでした……」

加藤が眼鏡を外し、目頭を揉み解しながら呟くと、若槻が応じる。

「このところの新聞報道に炊きつけられた在郷軍人会の異常な動き……更に此度の床次・元田一派の脱党。これは、繋がっていると考えるべきでしょうな」

「次は明日、また各地で集会を開くそうだよ。加藤さん、あんた内務大臣なんだから、この在郷軍人会のはねっ返りどもの集まり、巡査達をうろつかせて、やめさせられないものかね?」

司法大臣である横田が、内務大臣である加藤に問うと、横から犬養が口を挟んだ。

「そりゃ、駄目だよ、横田君。それをやったら国民にそっぽを向かれちまうよ」

その言葉に加藤も頷き、横田も仕方なく頷く。


「床次達に追随した連中、名を見れば分るとおり選挙戦に強い連中が中心です。彼らは勝算あり、と踏んだのでしょう」

横田の言葉通り、脱党者は地方の名士という有形無形の肩書を持つ者達が大半であり、地盤の弱い官僚出身者や、弁舌一本を己の拠って立つ場所と定めた生粋の政党政治家的な人物は少ない。

「それにしても、おかしいじゃないか?“何がやりたい”とか政策をまともに考える脳味噌のある奴は少ないぞ?」

尾崎が傍らの犬養に向かい疑問を呈する。

「元田だよ、元田。鉄道大臣時代の元田が、地方への敷設利権を餌に囲い込んだ妾連中だ」

犬養が切って捨てる。

なるほど、脱党者の顔ぶれは確かに強固な地盤を有してはいるものの、当選回数1期程度の経験の浅い者達が大半であり、それほど著名な者はいない。

無論、これは中央政界においては著名ではない、という意味で、地方では大名の如く振る舞っている資産家階級出身の地元の名士達なのだが。

「だからと言って、満鉄売却話に右顧左眄するような連中かな?東郷閣下に逆らってまで……」

「鉄道の利権ってやつは、なかなか美味しいらしいからな。まぁ、この内閣じゃあ、金という物の価値を知らない変人が大臣を務めているが…」

犬養は自分の冗談がよっぽど面白かったと見え、笑いを咬み堪えつつ、膳に箸を伸ばし、大磯名物の脂ののった鯖の焼き物に手をつける。

犬養に“金の価値を知らない変人”と揶揄されたのは、東郷内閣で鉄道大臣を務める東京帝大の仙石貢・工学博士の事だ。

一応は実業家でもあり、高知1区選出の代議士でもあるのだが、ほぼ完全な技術畑の人物で、その素養に政治家的な要素はない。

当初は、満鉄売却の“言いだしっぺ”である後藤新平が復興院総裁と兼務していたが、さすがに多忙を極める両職の兼務に悲鳴を上げ、「政治家なのに政治臭の無い人物」という、おかしな理由で抜擢されたのだ。


「加藤さん、あんたの党は大丈夫かね?うちの様な貧乏所帯じゃ、抜け駆けする程、頭の良い奴はおらんけどね」

口中に鯖を頬張りつつ犬養が尋ねる。

彼の率いる革新倶楽部は僅か20余名という事もあり、皆、気心が知れているし、何より犬養のカリスマ性に心酔して、裏街道と冷や飯覚悟で行動を共にしている頑固者たちだ。

それに対して、憲政会は桂太郎の与党として結党された経緯からしても離合集散を繰り返した過去の歴史から見ても、その結束力は危うい。

「この間、餅を振る舞ったからな。食い逃げは許さんよ」

「ふーん、三菱の大番頭ともなると、やはり豪儀だな。向学の為に餅は如何ほど馳走したのかね?」

“三菱の大番頭”という言葉を不快に思いつつ、誇りにも思う加藤が応じる。

「あぁ?一人1万ずつ。当選したら、祝儀でもう1万」

「2万か……凄いな。俺にも少し用立ててくれんか?」

横から尾崎が割って入る。

「そりゃ駄目だ」

加藤はにべもなく断る。

「尾崎さん、あんたにはこの間の選挙の時、俺から1万円、食い逃げしただろう」

悪戯っ子の様に加藤が微笑む。

無論、尾崎が返してくれるとは思っていないで貸したのだろうし、返してもらおうとも思っていない。

尾崎は前回の総選挙では憲政会から立候補し、当選したのだが、その後、加藤と路線対立し脱党、犬養・革新倶楽部に合流したのだ。

「あ……」

尾崎が(嫌な事を思い出した……)とばかりに扇子の要で頭を掻くと長老格の高橋が呆れたように呟く。

「尾崎さん、加藤さんからも借りたのかね?わしからも……」

「俺からだって……」

と犬養が続く。

「よして下さいよ、高橋総裁、木堂さん」

政商や実業界の紐付きになる事を嫌い、一切の政治献金を受けない尾崎であったが、その代わり、選挙になるたびに朋友からの借金で乗り切ってきたのだ。

“食い逃げ常習犯”である尾崎が居心地が悪そうに、殊更、暑くも無いのに扇子で大きく煽ぎ、咳払いを繰り返していると

「それにしてもだ……」

黙り込んでいた浜口が皆に疑念を提示する。

「加藤総裁の話の通りだとすれば、主だった財界からの資金援助も無しにこれだけの頭数、いくら脱党組には資産家が多いからと言っても、なんか変じゃないかね?一体、どこから金が出ているんだ?」




同日・深夜

静岡県・興津市 坐漁荘


 気の早い梅が爽々と香りを放ち、瑞々しい茶葉の新芽が匂い立つここ静岡では、やはり暖流の影響か、既に春の装いを感じさせる暖かい日々が続いていた。

庭に面した寝所、その臥所の中で、若い妾に腰を揉ませつつ、西園寺は今日一日を振り返り、沈思していた。


(動いた、動いた…こうでなくてはいかん)


思わず、西園寺は顔を綻ばせる。

その悦にいった老人の表情に、洗い髪を軽く結いあげた妾は、自分の按摩に老人が満足しているのだと想い、額を上気させつつより一層、丹念に、柔らかく鄙びた鯵の様な背を愛撫する。


(千之助も少しばかりは、これに懲りて人物がこなれてくれれば良いが……)


「少し、風を通してくだされ」

双眸を閉じたまま、老人は妾に言う。

「まだお寒うございますよ、お殿様」

そそと立ち上がった煽情的な襦袢姿の妾は、微かな衣擦れの音を残し、濡れ縁に面した障子戸を細く開ける。

その隙間より吹き込んでくる風にのって庭先の梅の香りが室内に傾れ込む。

「もう、梅か……。白湯を頼む、梅香を楽しみたい」

「あい」

濡れ縁から手の届く白梅の枝より、一片の梅の華を摘みとった妾は、控えの続き部屋へと繋がる襖戸を開けると、木製の枠に囲まれた関東火鉢の引き出しから高価な伊万里の茶器を取り出し、それへ鉄瓶の湯を注ぎ入れ、手にした梅の華を浮かべた。

妾からその茶器を受け取った西園寺は、それを飲むでもなく、ただ顎の下にあてがう。

湯気に蒸らされた梅香が鼻腔をくすぐり、その清冽さが老人の脳細胞を疼かせる。



昨今、西園寺の思考は常にある一点に注がれている。

それは、即ち

(東郷の次は誰に……)

というものであった。

無論、意中の人物はただ一人、横田千之助。

横田は若い。

いや、年齢に関して言えば53歳であり、決して“若造”などと世間的に言われる年齢ではない。

ここで言う“若い”は、良い意味で政治家として精神的に“若い”という意味だ。

代言人(弁護士)あがりで、庶民の暮らしに明るく、実業家としての実績もあり、論戦における舌鋒も犬養や尾崎などの横綱級には及ばぬものの、その鋭さには定評がある。

何より、政治において進取の気風に富み、旧弊を破壊する事になんの躊躇いもない。

原敬や西園寺の寵愛を一身に受けた、根っからの自由主義者、民主主義者であり、ともすれば事なかれ主義で押し通してしまいやすい官僚出身の政治家とは違い、信念の為には他勢力との対決も辞さない。

横田が政友会に入ったばかりの頃から、その素質を見抜いた原と西園寺は、代議士2期目にして政友会・幹事長に抜擢、自らの庇護の下に自由に党務を裁量させた。


しかし……。


原敬の死後、後継総裁選びにおいて、党生え抜きで最有力候補だった床次竹次郎の野卑ぶりを嫌った西園寺の意を受け、横田は床次後継総裁実現を阻止すべく、党外から強引に高橋是清を招請し、その座に据えた。

そして、この一件が全ての引き金となる。

不満を燻らせた床次派、それに党外招請という所業に反感を持った元田や中橋らの一党、それに高橋とは犬猿の仲の山本らが、反横田・高橋で団結してしまったのだ。

それ以降、党務に興味を示さない高橋に代わって横田は常に最前線に立ち、反主流派を時には宥め、時には恫喝しつつ党運営を取り仕切ってきた訳だが、それは同時に横田自身をも徐々に疲れさせていったのだった。


(麿の我儘のせいで千之助には苦労をかけてしまった……)


後悔する西園寺の胸中に渡来するのは、「横田を次の総理に」という一点。

東郷は、その為の大掃除役なのだ。

横田の邪魔者、横田に敵対する者、横田の役に立たぬ者、全てを片付け、道連れにする軍神の鉈。

その為の東郷。



同時に、これは元老・西園寺として自らを正当化するいい訳でもある。

西園寺の体内に巣食うもう一人の老醜・西園寺は、これを機会に私怨を晴らそうと考えていた。

自身の盟友達だった伊藤、陸奥、星、原……。

彼らの前に立ちはだかり続けた山県閥を根こそぎ葬り去る。

西園寺は、それが自分自身に課せられた明治大帝への最後の奉公であり、盟友達との約束だと思っている。

しかし、当の山県は既に亡く、その残存勢力は、尚、強大ではあるものの過去の栄光を引きずる残滓に過ぎない。

オスとしてではなく、生物として生き残り続けた事によって最後の元老の地位を手に入れた西園寺の権勢の前に、立ちはだかる何者も存在しなくなってしまったのだ。

山県閥最盛期、西園寺は山県の迸らせる権圧とその粘質な性格を怖れ、飛沫の掛からぬ様に傘の被り、決して正面からその覇権に刃向おうとはしなかった。

否、出来なかったのだ。

だが、西園寺は山県と対決し、志半ばに斃れていった盟友達の様に、自分も戦いたいのだ。


(敵が欲しい…。欲しい…)


冥府で待つ盟友達に、誇って語りたい。

「麿も戦ったのだ」と…。

その為の理不尽な“贄”として選ばれたのが田中義一なのだ。




「のう、そちは陸軍大将の田中義一の事をどう思う」

西園寺は、ふと妾に尋ねる。

京洛のあまたの芸妓の中でも一、二を争う売れっ子である妾は、愛らしく小首を傾けると、白磁に似た頬に、にっこりと微笑みを浮かべる。

「存じませぬ。ただ……」

「ただ?」

西園寺は妾の言葉に興味を持ち、問い返す。

「揚げ屋にお出でなられた時、気取らぬお方だと、舞妓や雀達が申していたのを覚えております」

「気取らぬ……か」

「あい」

「ふむ……。市井の民は、田中をそう見るのか」

「オラが、オラが…と、それはもう、悪童の様な大きな声で」

そういうと妾は袂で口元を隠し、目を細め、声を出さずに小さく笑う。

「なるほど…な。今宵はもう良い。下がって休みなさい」

「あい。お休みなさいませ」

手のつけられぬままの白湯の入った茶器を盆に受け、妾は下がっていく。

西園寺は、枕元の行燈を吹き消し、臥所に潜り込む。

気取らぬ方、とは、庶民的な人物だ、という事なのだろう。

「平民宰相」と呼ばれ、庶民の人気を博した原敬も「庶民派」という人物像を意図的に演じていた。

演じきる為に、爵位すら受けなかった。

封爵を固辞する事により、彼の庶民人気は絶頂に達し、非業の死から3年を経た今でも、その遺訓を慕う者も多い。

聞けば田中は、最近、元帥位叙勲を固辞したと、もっぱらの噂になっている。

田中は原の二番煎じを狙っているのか?

それとも……?


皆様ご存知の如く、史実においても床次竹次郎以下の政友会・反主流派148名は、普通選挙への対応や党運営を巡って高橋・横田と対立、脱党し「政友本党」を結成致しました。

本話はその史実を下敷きとして作文致しました。



尚、明日30日は実世界においても総選挙となっております。

拙作に登場する人物の子孫、血縁者の方が多数、世襲により立候補されています。

拙作の中で、作者は決してそれらの方々に対し、貶める意図はないものである事をここに明言しておきます。




平成21年9月5日

第1話、第2話、第3話のプロローグ部分を一つにまとめ

「鷲は次高山を越えず」

としました。

これに伴い、文章推敲を行い若干の加筆訂正を施しましたが本編への伏線・内容等には一切、手を加えておりませんので、既読の方は再読して頂かなくとも結構かと存じます。

作者の力量不足をお笑い下さい。


2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加

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