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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
28/111

第28話 君側の奸

大正十三年一月三十一日

(1924年1月31日)


1月26日に行われた摂政宮殿下の御成婚式がつつがなく終了した翌々日の28日、内閣総理大臣・東郷平八郎元帥海軍大将は、外務大臣・幣原喜重郎を伴い、横浜港より三菱財閥系列の日本郵船が所有する客船「みかさ丸」に乗船し、訪米の途に就いた。

事前に、東郷訪米に際しての客船手配を依頼された日本郵船側は、

「望外の名誉」

と、この慶事を喜び、同社の北米航路向けに就航する予定の新造快速客船「太洋丸」の船名をわざわざ東郷にちなんで「みかさ丸」と改名し、全社を上げて歓待したという。

当初、この乗船船舶選定にあたっては海軍側が巡洋戦艦・金剛級の1隻を用意すると主張し、閣内においても、財部海相がそう提案したが、他の閣僚陣が

「軍艦を仕立てた、とあっては米国民の反発を買いかねない」

と一斉に難色を示し、海軍側の希望は実現しなかった。

しかし、この裏には三菱財閥出身の内務大臣・加藤高明による民間船舶を使用すべし、という強力な運動があったのだという。

当時、横浜−ニューヨーク間の航路所要日数は25日間を要するのが通常であったが、これは乗船効率を上げる為に途中、各地に1泊寄港しながら就航する場合の必要日数であって、今回の様に政府貸し切りに近い状態での就航となると「みかさ丸」の巡航速力ならば最短往路18日間が可能であった。

 米国滞在2週間、帰路はサンフランシスコを出航し2週間で横浜に帰国する全行程46日間、帰国予定日は3月14日という首相外遊としては未曽有の長期のものとなっていた。

尚、この往路18日間に渡る船旅、東郷は暇にまかせて持ち前の向学心を発揮、幣原、そして加藤に用意させた三菱商事の経済や経営の専門家達から米国に関する政治経済の基礎から実相までも徹底的に学んだという。




1924年1月31日

ハルピン市内・ハルピン公議会会所


 張作霖の支配都市の一つである満州中北部の大都市ハルピン、その中心市街地域の一画には通称“露人街”と呼ばれる区域が存在しており、この区域内に居住する住民の大部分は、革命により国を追われ、避難してきた白系ロシア人の人々である。

革命以前から商用などで同地に居住していた一般のロシア人も含めたその総数は、ここハルピン市内だけでも10万人に達しており、同市の総人口が40万人程度であった事からもその比率の高さは瞠目に値する。

これら亡命ロシア系住民…便宜上、そう呼称するが…は満州全域はもとより日本の租借地である関東州などにも多く居住しており、その総数は実に30万人に達するともいわれている。

中でも人口比率の高いハルピンは、自治が保障されている事も相まって、これら亡命ロシア系住民の政治経済活動の中心地として、機能していた。


 当時の彼らの言葉として伝えられている一節がある。

「自由はハルピンにあり。安息は旅順にあり」

日本の支配権の及ばない満州地域の治安の悪さに対する裏返しの言葉であると共に、日本の支配地域における息苦しさを揶揄した言葉として記憶されてしかるべきものだ。

日本人達は政治的な理由と亡国民への同情心から、亡命してきた彼ら露系住民に対して様々な形で保護や援助を与え、面倒をみていたが同時に、常に彼らを

「ソビエト・ロシアのスパイなのではないか?」

という疑念の目を持って遇してきており、半ば監視下に置いていたのだ。

日本人の無機質な笑顔の下に垣間見えるその疑心が、彼らに息苦しさを感じさせていたし、色々な意味で「ソ連」という共通の敵を有している筈の日本人との真の意味での連携を阻んできていた。


 ハルピン中心街に位置する“露人街”は帝政ロシア時代に清国政府と結ばれた協定によりロシア人自治地域として承認されており、帝政ロシアがソ連に、清国が中華民国に移り変わった現在に至っても、その協定はどういう訳か継承されており、区域内の自治運営は「ハルピン自治公議会」と呼ばれる組織が統括している。

 この「ハルピン自治公議会」は単に「露人街の自治運営組織」というばかりでなく、満州全土に広がる亡命ロシア系住民の代表者会議としての一面も持ち、公議員には市外の各コミュニティーの代表者が名を連ね、元貴族や元軍人、元官僚などの旧支配階級や、富商や富農などの資産家階級の者達が多数、参加していた。

その自治の中心となっている公議会会所と呼ばれる建物は、この自治区内においてソフィスカヤ大聖堂と並んで最も重要な施設であり、彼らの生きるすべの全てであった。


 この日、参集した公議会議員達は白系ロシア人、ウクライナ人、白ロシア人、そしてユダヤ人など様々な『存在しない母国』を持つ人々であった。

昨今、彼らが集まるたびに話題となる事柄と言えば決まって

「満鉄を誰が買い取るか?」

であり、彼らがその意中に想いを馳せる国は無論、米国であった。

 移民国家である米国内には彼らの同胞も大勢、移民として居住しており、その伝手を頼んで彼らが現地採用の白人系住民として新たな支配階級に加わることも可能だ、と考えたのだ。

政治姿勢だけならば、当時、反共主義という点において日本と双璧を成している英国が支配者であっても構わないのだが、彼ら英国人は「英国人のみが支配する」という考え方を根底に持っており、彼らがこの地に進出してきても、少数の英国人官僚団を頂点に、優秀なインド人で編成された官僚団と軍隊が補完勢力として雪崩れ込んでくるだけで、彼ら在地の露系住民が厚遇される可能性は少なく、中国人と同列に扱われるのがオチだろう。

 更に、可能性の一つとして、彼らが最も恐れているのはソ連が満鉄を買い取った場合――同地では、まことしやかにこの噂が流れていた――これだけは絶対に避けたかったし、もしそうなれば、彼らはこの地を捨て、新天地を求めて再び旅立たなくてはならなくなってしまう。


「日本の首相、訪米す」

この知らせは、彼ら露系住民にとって吉報以外の何でもなく、ここ数年来、耳にしたニュースの中でこれほどまでに彼らを喜ばせたものは無い。

だが、同時に彼らは不安にも思う。それは

「米国が買わなかったら、どうなる?」

という悪夢についてだ。

 故に、彼らは何としてでも米国に満鉄を購入させたかったし、その為ならば、ありとあらゆる手段を講じよう…という結論に行きついたのは当然の事であった。

幸いにも…と言うべきなのか、露系住民の中には、多くのユダヤ系ロシア人も含まれている。

当時、彼らユダヤ系ロシア人達はロシア革命を主導したレーニン、トロツキーら革命家の多くがユダヤ系に属していた事から、同じ亡命者、被迫害者であったにも関わらず、他の露系住人から一種、蔑視敵視された存在であったが、この言われなき敵視に対する失地回復とばかりに、彼らユダヤ系ロシア人達は、彼らの有する同胞間のネットワークを駆使する事とした。

即ち、米財界で重きを成しているユダヤ系米国人達に働きかけ、米政府に対して激烈なロビー活動を行わさせる事としたのだ。

彼らの力をもってすれば

「日本政府が腰を抜かす程の金額を提示」

させる事も不可能ではない、と彼らの多くは考えていたし、そしてそれはある部分に置いて事実でもあった。

 問題は、それほどの金額を米政府が提示した場合の米国民の反応だった。

繁栄と狂騒の時代…と呼ばれ、国民全てが富んでいたかの如く考えられがちな当時の米国であったが、庶民の実生活は借金に借金を重ねた上での享楽主義であったし、実際には食費を削ってでも車などの高級嗜好品を手に入れよう、という極めて不健全な発想の上に成り立っていたのだ。

 翻って、豊作が続いた農村地帯では、穀物をはじめとした換金作物の大暴落が発生しており、困窮した農民達が町に出荷される牛乳や食肉類を満載したトラックを襲撃し、物流を阻害する事により農産物の値上がりを図ろう、といった山賊まがいの半ば子供じみた所業まで行って作物の価値を高めようとする事さえ各地で行われていたのだ。

 故に彼らは考えた。巨額の買い取り代金を納得させる手立てとして、理論によって損得を訴えるのではなく、冒険好きで投機的な米国民の精神に直接、訴える方法を選択したのだ。

こうして、

「夢と希望にあふれた大地・満州」

という幻想をジャーナリズムを使って喧伝し、19世紀末に終結が宣言されたニュー・フロンティア史の新たなる1ページに、この満州を加えるべく

「ニュー・フロンティア・キャンペーン」

が密かに、そして様々な形で行われる事となったのだ。




「冗談ではないぞ…」

奇しくも、この日、朝食の食卓において朝刊第一面を目にした三菱銀行頭取・串田万蔵と三井銀行頭取・池田成彬は、それぞれの自宅においてほとんど同時に、同じ言葉を吐き出した。

そしてその想いは、住友銀行を率いる八代則彦、第一銀行を影響下に置く渋沢栄一、日本最大の資金量を誇る安田銀行総裁、二代目・安田善二郎も恐らくは同じであったと思われる。

 東郷内閣の提唱した「金融再編」、即ち中小銀行の大銀行への吸収合併という政策自体は“滅私の財界人”渋沢栄一の賛意を得た事により、また、内相・加藤高明と密接な関係にある三菱銀行の全面的賛同により大きく前進していた。

 この中小銀行吸収合併は、既に数年前に安田銀行が中心となって十五行が合併し、金融界の安定に大きく貢献したという実績のある施策であり、東郷内閣もその安田銀行の成功をテストケースと見て、この金融再編を推進したのだった。

 当初、彼らビッグファイブを率いる“バンカー”達は、この金融再編計画に対しては、不良銀行など押しつけられたら自銀行が共倒れしかねない…と懐疑的な見方をしていたのだが、やはり彼らも商人であり、成功すれば以降の日本経済の主導権を握れる、という魅力には抗しがたかったと見え、既に水面下、少しでも経営状態の良い銀行を傘下に収めようと暗闘を開始した矢先だった。


 英国の亜細亜支配の先兵として、往年の東インド会社と同様の活動をみせる頭脳集団“香港上海銀行”の有力幹部達から

「亜細亜の頭脳」

「彼らがいる限り、日本を経済的支配下に置く事は不可能だ」

として一目も二目も置かれる、日本の誇るバンカー達を蒼ざめさせた当日の朝刊各紙、その記事の見出しはこの様なものであったという。

「内閣閣僚と財閥の黒い癒着」

「憲政会と三菱銀行、その繋がり」

「政友会に広がる三井、住友両財閥の政治支配」

加藤高明が率いる憲政会が三菱財閥から多額の献金を受けているのは、公然の事実であったし、三井財閥が三菱財閥への対抗上、その反対政党である政友会に献金しているのも事実だった。

同じく、政友会二代目総裁であった西園寺公望の実弟・十五代目吉左衛門友純が君臨する住友財閥が、その流れもあって政友会に対して献金を行っていたのも、当時、よく知られていた事実であったし、第一や安田にしてもそれぞれ政界に対する影響力保持の為、同様の政治献金を行っていたのは世の常だ。

彼らにしてみれば

「何を今さら…」

な事実あったが、この日の新聞各紙の論調は、まるでこの事実が、初めて暴露された新事実であるかの如く、センセーショナルな論調で、彼ら財閥が主導して政治家に金融再編を行わせたのだ…という主旨の厳しい弾劾記事が社説にまで書き綴られていたのだった。

もし、記事の内容がこれだけであったのなら、彼らバンカー達は、それこそ鼻先で笑い飛ばし、食事をとる箸を休める事すら無かったであろう。

だが、新聞各紙の記事は異口同音に、その記事の末尾を次の言葉で締めくくっていた。

「本日、47道府県の以下の場所において政党と財閥の癒着に断固反対する国民総決起集会が行われる。良民よ、駆けつけよ!」




同日 陸軍参謀本部 

軍事参議官 第三詰所


「これで宜しかったのでしょうか?閣下」

細面の顔に噴き出す汗を必死にハンカチーフで拭きつつ、陸軍省新聞班長・三宅光治大佐はかつての上司に対し、おずおずとお伺いを立てた。

「まだまだぬるいが…まぁ、初っ端はこんなもので良いだろう。この先もこの調子でどんどん、各紙を炊きつけろ」

そう答え、数紙の新聞を机の上に放り投げたのは、田中義一陸軍大将だった。

この田中という人物、帝国軍人として極めて早い時期から「世論操作」の重要性に気が付いていた。

彼の概念では、世論こそ総力戦の源…であり、世論を味方にできなければ、どのように巨大な戦力を保持していようが、戦争には勝てない、と考えていた。

国内世論の反発により、亡国となった先例を探すのには苦労しない。

欧州大戦末期のドイツ、そしてロシア。

いずれも巨大な軍事力を有しながらも、蟻の一穴が如く、国内の不協和音を統制しきれずに国を失った。

田中はドイツやロシアが滅びさる3年前の大正4年には、既にこの世論操作の重要性に関して、ある程度の認識を有していたらしく、原敬内閣の陸軍大臣として初入閣した際、真っ先に手掛けたのが「陸軍省・新聞班」の創設であり、その時、田中の手足となって新聞班の基礎を築いたのが当時、陸軍省副官兼陸軍大臣秘書官を務めていた三宅光治大佐だったのだ。

その後、三宅は田中の後押しを得て欧州駐在武官への栄転を経て、帰国後は新聞班長を既に2年以上も務めており、新聞各紙に対する影響力と情報操作という面のノウハウに関して、ずば抜けた才能を発揮していた。

「はい…お任せを」

“主人”の一応は満足気な様子を見て三宅は安堵する。

「三宅、念の為に言っておくが、記事の背後に陸軍省新聞班の存在がある事を気付かれるなよ。それから今はまだ、東郷首相の名前は、絶対に出すな、いいな」

「はい、閣下の思し召しの通りに…。この後も閣僚と財界に焦点をあて、叩きます」

「うむ、頼むぞ」

そう言うと、軽く掌を振り、三宅に退室を命じる。

田中は、湯呑を手に取ると茶をすする。


(この勝負、東郷を巻き込んだらお終いだ…如何に東郷を神様として扱うかにかかっている…)


 田中の狙いはこうだった。

東郷が訪米中、すなわち東郷の言葉を直接、日本国民が聞く事が出来ない間に、雌雄を決してしまう。

例え、海外から東郷が何を言ってこようが、構わない。

国内で口を出されたら分が悪いが、海外でいくら東郷が騒ごうが、

清廉無垢なる東郷閣下は腐敗した閣僚に操られ、間違った考えを吹き込まれていたのではないか?…という疑念を新聞各紙に書かせれば済む話だ。

 田中の中で、東郷を叩く考えは全くない。むしろ、新聞報道を介して、東郷を“世俗とは乖離した高潔な軍神”として徹底的に祭り上げ、同時に東郷周辺の人物、すなわち閣僚陣を徹底的に罵倒し、その政治生命を断つ。

云わば、閣僚陣を清廉潔白な東郷に纏わりつく“糞蝿の如き者ども”と国民に思い込ませる事が重要なのだ。


「君側の奸を討つ」


 古来から政権争奪の至高の方法論として受け継がれてきたこの法則を使うだけの話だ。

この場合の“君”は東郷であり、“奸”は閣僚陣だ。

そして、自分は頃合いを見て表舞台に登場し、“奸”を討った英雄となり、“君”の傍に立って、新政を司る。

東郷を傀儡として…。

「考えてみれば…便利な道具だな、軍神と言うのは…」

田中は、口角を悪魔的な角度にまで吊り上げると、冷めた茶を飲み干し、次なる一手に掛かるべく、懐からとり出した手帳を眺めやった。

先日、密会した枢密院の首領・伊東巳代治を介して紹介された枢密院副議長・平沼騏一郎より、

「多少の行き過ぎには目を瞑る」

との言質を得ている。

平沼は法曹界出身の大物であると同時に、国粋主義団体の主宰者でもあるからして、当然が如く、此度の満鉄売却話に対して内心、承服しかねると考えていた。

それに何より、平沼の法曹界、中でも警察・検察に対する発言力の大きさは閻魔大王の異名の通りだ。

陸軍省新聞班を隠れ蓑にジャーナリズムを扇動し、平沼の影響力を介して警察権力を味方につけた田中にしてみれば、これから始まる選挙戦など単なる茶番劇に過ぎないのだ。

田中は老眼鏡越しに手帳内の目的のページを見つけると、傍らに置かれた電話に手を伸ばし、交換手を呼び出すのだった。


2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加

2010年1月26日 誤字訂正

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