第26話 縦と横
本話中にある「上申書」の内容につきましては、第10師団長だった広瀬寿介中将の手記を引用させて頂きました。
尚、同手記は当時、即日発禁処分となっている事を申し添えます。
1924年1月21日
ソビエト社会主義共和国連邦・ゴールキー
ウラジミール・イリーチ・ウリヤノフという名の一人のロシア貴族がこの日、モスクワ市近郊の保養地ゴールキーの山荘において数名の知人・家族に看取られ、寂しく臨終した。
死因についてはいろいろと取り沙汰されているが、一昨年来、数度に渡って重度の脳梗塞を患っており、仮に俗説の一つである毒殺説が正解であったとしても、その余命に大差は無かったのではなかろう、と言われている。
通称レーニンと呼ばれたこの人物の死によって、これまでも水面下、繰り広げられていた後継者争いレースの決勝戦の始まりを告げる号砲が鳴り響く事になる。
片や、ソ連邦共産党書記局長として党組織を掌握するヨシフ・スターリン。
片や、赤軍の創設者にして革命軍事会議議長として軍を掌握するレフ・トロツキー。
その熾烈で血に塗れたレースの行方については、未だ誰も知らない。
大正十三年一月二十一日
(1924年1月21日)
東京・三宅坂
陸軍省・大臣公室
来る26日に行われる摂政宮殿下御成婚式に出席する為、各地の散る陸軍親補職の面々は次々と上京を開始していた。
陸軍首脳部と自他ともに認め、当時の軍国少年達の憧れの的であるはずの師団長級以上の職分に着く彼らにも悩みはある。
それは、
「上京したら真っ先に誰の部屋に挨拶に行くべきか?」
であった。
往年の山県閥の旗艦組織であった陸軍長州閥。
桂、寺内、山県と相次いで指導者を失い、昨今、急速に求心力を失いつつあるとはいえ、前陸軍大臣・軍事参議官・田中義一陸軍大将を総帥に、
教育総監・大庭二郎陸軍大将、
台湾軍司令官・鈴木壮六陸軍中将、
前陸軍次官・宇垣一成陸軍中将、
元陸軍大臣・山梨半造陸軍中将
……と綺羅星の如く将星が連なる。
山県有朋に面従腹背し続け、その死後、急速に力をつけてきた上原勇作元帥陸軍大将率いる陸軍九州閥。
参謀総長・河合操陸軍大将、
前関東戒厳司令官・軍事参議官・福田雅太郎陸軍大将、
元樺太派遣軍司令官・軍事参議官・町田敬宇陸軍大将、
前関東軍司令官・軍事参議官・尾野実信陸軍大将、
参謀次長・武藤信義陸軍中将、
東京南部警備司令官・石光真臣中将
……と、そこには上原の強烈な“ひき”のお陰で、半ば強引に階級をかけ昇ってきた将星達が屯する。
そんな顕職に着く同輩達が右顧左眄しつつ思考の迷宮に佇むの中、ただ一人迷わず、誰も顔を出しそうにない陸軍大臣室を訪れた男がいた。
関東軍司令官・白川義則陸軍中将。
生まれは愛媛県松山市。
故に現陸軍大臣・秋山好古とは同郷の仲であり、地元の先輩後輩という関係にある。
しかし、ただの先輩後輩……という訳ではない。
白川は若い頃、ずっと秋山の家に下宿しており、それこそ飯の支度から掃除洗濯までこなし、時には甘やかされて育った秋山の弟・真之の遊び相手すら務めた。
その縁もあって、数十年経った今となっても秋山は、常にこの白川の将来を案じ、可愛がってくれていた。
同時に白川は、後に歩兵科に転じたとは云え、元を正せば工兵科の出でもある。
教導団時代、上原に直接、教えを乞うた事があり、その縁で工兵元帥の覚えもめでたい。
更に長州閥の首領・田中義一とは幼少時代、隣家同士に住まわっていたという奇縁を有し、加えて次期首領と目される宇垣一成中将とは、陸士同期で親友同士という関係でもある。
全ての閥や人脈に、その人生そのものが繋がってしまうという出来過ぎた偶然の申し子の様な存在。
複雑に入り組んだ陸軍軍閥のマスターピース。
だから、彼ほど
「誰に挨拶に行くべきなのか?」
を迷わなくてはならない存在は他にいない。
しかし、彼に迷う理由など、これぽっちも無かった。
何故なら、白川は心底、秋山に惚れ込んでいたのだから。
「ご無沙汰しております、閣下」
小柄な白川は、見上げる様にして肥満体の大男である秋山に敬礼する。
「閣下はやめろ、閣下は」
答礼し、笑いながら秋山が席を勧めた。
その言葉に白川は少年時代同様の笑みを浮かべ、「では……」と一つ、咳払いして話し始めた。
「兄やんから、今度、陸軍大臣に就任する、と聞かされた時には心底、驚きましたよ。兄やんがまさか大臣職を受けられるとは……」
“兄やん”とは、下宿人時代、弟・真之が兄・好古の事をそう呼んでいるのを傍で真似て以来、呼び慣れている愛称だ。
秋山も、白川も、実の兄弟同様の存在であると互いを思っている。
「まぁ、いいじゃないか。これも縁ってやつだよ」
秋山は照れ臭そうに笑う。
「渡辺次官はどうですか?ご期待に添えていますでしょうか?」
陸軍次官に渡辺を推薦したのは、白川だったのだ。
人事畑を長年歩み、人事局長まで勤めあげた経験を持つ白川は、陸軍部内において、ただでさえ顔が広い。
その上、白川自身も山梨半造大臣の下で次官職を経験しており、その際「山梨軍縮」という難局に直面、緩急織り交ぜた辣腕ぶりを発揮して、これを見事に乗り切っており、その職務内容については精通している。
ある意味、陸軍の中では特異な存在である秋山の補佐役として、誰が適任だろうか、と考えた時、最初に浮かんだのが、同じく特異な存在として目立っている様な、目立っていない様な不思議な存在であった渡辺を推薦したのだ。
朴念仁で、どこか超然とした渡辺ならば、恣意的に振る舞って反発される事もないだろうし、それによる妙な軋轢なども起こさずにうまく乗り切るだろう…と。
最も、本心を言ってしまえば親補職だろうが、何だろうが関東軍司令官という顕職なんぞ放り出してでも、自ら次官となって駆け付け、秋山の補佐役を買って出たかったのだが……。
「うん。渡辺君は働き者だよ、よくやってくれている。いい人を推薦してくれたと、白川には感謝している」
その言葉に白川は心底、安心する。
どう考えても、政治向き、軍政向きではない秋山の陸軍大臣就任であったが、思いの外、渡辺がうまく女房役を務めているようだった。
「白川には済まないと思っている。こんな大変な時に関東軍を率いさせてしまって……」
「滅相もない。お気にされますな、その様な事」
「どうだ?実際のところ、現地の様子は?」
「軍に関して言えば、佐官、尉官連中は、かなりの反発を見せています。しかしながら、何しろ相手が軍神・東郷元帥ですからね、事を荒立てるほどの度胸がある奴はおりません。下士官・兵は、むしろ逆にホッとしている様子さえ、見受けられます。しかし、民間人達はかなり……」
白川はそう言うと、懐から一通の書類を取り出す。
『上申書』と題されたその書類の署名者の欄には、関東軍隷下として駐箚する第10師団長の名がそこには記されている。
「お読みいただけますか?」
「うん」
――――そこには、満州において猛威を振るう「大陸浪人」と呼ばれる者達の行状の数々が書き記されていた。
曰く、汽車賃も支払わずに一等車両に乗り込み、抗議する支那人車掌に対し「日本人だ、文句があるか」と怒鳴る。
曰く、街中で郵便局員を捕まえ、「自分宛の郵便物があるはずだ」と、配達途中の郵便物を道路に投げ出し、抗議する郵便局員に大怪我を負わせた。
曰く、支那人の貴婦人を街中でからかい、酌婦の如く扱う。
曰く……。
それは現地治安責任者としての悲痛な叫びであり、このままでは反日運動の高まりを遠からずして抑えられなくなる、というが旨が記されていた。
「何だ、これは?」
秋山が、驚きと怒りの咆哮を上げる。
「満州の現状ですよ、それが。日本国内や朝鮮半島で食い詰めたヤクザまがいの連中が、次々と満州に入ってきていますから」
「酷いものだな、まるで無法者じゃないか」
「満鉄付属地内に住んでいる支那人達は、本当に気の毒な状況です。やつら治外法権下をかさにきて、まさしくやりたい放題ですよ。取り締まって取り締まっても、次から次へと流れ者が入ってくるからキリがない」
「……」
「いまや、まともな在満日本人、特に婦女子は付属地から一歩も出られない状況です。もし、うっかり出たら……」
「支那人に報復される、と?」
白川は小さく頷くと、息を吐き出す。
「正直、良い機会でしたよ、今回の満鉄売却話しは……。このままでは、我々軍人がどんなに引き締めようとも大陸浪人達に満州は食い潰されてしまうところでした。満鉄が無くなれば、彼らも尻尾を巻いて引き揚げるでしょう。日本人はこれ以上、恥を晒さずに済みます」
「そうか」
老眼鏡を胸ポケットに戻しつつ秋山は書類を白川に返す。
「どうだ、今日、これから久々に……」
秋山の宴の誘いの言葉に、白川はやや悲しそうな顔を見せ
「申し訳ありません。これから先約がございまして……27日までは東京におりますので、また別の機会にお願い出来ますでしょうか?」
「おぉ、そうか。では仕方あるまい。楽しみにしておるぞ」
そういうと秋山は立ち上がり、白川の手を両手でがっちり握る。
「兄やん、酒はホドホドになさって下され」
白川が満面の笑みで、いつもと変わらぬ別れの挨拶をする。
そして、やはり秋山も数十年来、いつも同じく繰り返し、白川に与えてきた言葉で此度の再会を結んだ。
「しっかり勉強せいよ、白川」
秋山にとって白川は、いつまで経っても自家の二階に住む下宿生なのであった。
大正十三年一月二十一日
(1924年1月21日)
東京・三宅坂
陸軍参謀本部・軍事参議官詰所
軍事参議官・田中義一は年来の旧友・張作霖を泣き出さんばかりの表情で出迎えた。
その田中の目を見た瞬間、張作霖の心中においても、ここまで来る道すがら日本人に対して抱いていた疑念が氷解し、双眸に熱いものがこみ上げる。
両者は両の手で握手したまま、互いにしばしの間、無言となる。
怜悧な軍政家で策謀家と思われる田中だが、根は激情家でもある。
この辺りが、下々の者達に慕われる所以でもあるのだろう。
「こうして会うのは何年振りだろう」
田中が駐在武官時代に、習い覚えた流暢なロシア語で話しかけた。
「田中が旅順で寝込んで以来だから……3年ぶりになるかな」
張作霖も、やや中国訛りのあるロシア語で答える。
田中は中国語を解せず、張は日本語を知らない。
自然、二人の共通言語はいつしかロシア語となっていた。
「その節は世話になった。知らぬ土地、という訳ではないが、やはり旅先での病というのは心細かったからな。君が来てくれた時は本当に嬉しかった」
「何を今さら……」
張はその大きな口髭を撫でると、田中の心中に流れる変わらぬ友情を確認した。
「田中、早速だが」
張が要件を切り出そうとした瞬間、田中が右手を軽く上げ、言葉を制する。
「雨亭、分っている。日本が満州から手を引く、という件だろう?」
“雨亭”とは、張作霖の字だ。親しい仲の者は、皆、こう呼ぶ。
張は長椅子に身を沈めると、頷く。
「分っているなら、話は早い。日本は本気なのか?」
「今の政府は……東郷首相は本気だろうな」
「それでは困る。これまで、どれだけ日本軍に便宜を図ってきたと思う?」
「とは言うものの、政府の方針だからな」
田中としては不本意ながらも、そう応える他はない。
「日本が手を引くのなら、俺はもう、日本に用は無い。問題は南満州鉄道を誰に売る気なのか、だ」
張の「日本は用済み発言」にやや反発を覚えたものの、実際のところ、友人だからこそ、そういう忌憚の無い言葉で語りかけてくるのだろう。
俺に聞くなよ……そう、言いたげな表情をして田中は黙りこむ。
田中にも張にも見当はついている。
候補として上げられるのは北京政府、米国、英国、ソ連。
そのうち、国交のないソ連の可能性は低い。
ソ連が利権を有する中東鉄道や、その支線と南満州鉄道が連結されれば、満州一帯に巨大な鉄道網が構築される事になるだろうが、対ソ防共ラインを朝鮮半島北限にまで南下させる以上、入れ替わりにソ連が進出してきたのでは、日本として甚だ面白くない。
そうでなくても、ソ連領内を策源地としていると思われる共産五列に悩まされているのだ。
次に北京政府。
これは、ある意味、最有力候補だ。
「対華二十一カ条の要求」により99年間、租借期限を延ばしたばかりの満鉄を返還する、となれば中国国内の反日意識は一挙に好転するだろう。
但し、二つの点で問題がある。
まず、徴税制度が事実上、崩壊してしまっている北京政府にそれを購入するだけの資金力は無く、基本的な国家財政ですら英米からの支援に頼っている現状では、その資金援助無しには買い取る事は不可能だ。
そして、英米両国が、絶対に北京政府に対して満鉄買取に関する資金援助を行わない、という点だ。
もし、日本が中国国内における利権を中国に返却(有償ではあるが)するとなれば、諸外国が中国国内に有している利権に対する返還運動が連鎖的に発生し、それこそ野火の如く、その運動は一気に広まっていくだろう。
米英両国、加えて仏国も中国国内に租借地や租界を有する以上、この“厄介な”返還運動が広まるのだけは避けたいし、中国国民を無用に刺激したくない。
故に、両国は北京政府の呉佩孚に飴玉を与えてでも、抑え込んでしまうだろう。
残る二カ国である英米両国のうち、いずれかが、或いは両国が共同でこの新たなる利権を手に入れる事になるのは間違いない。
「これは、オラも今朝、聞いたばかりの極秘情報なんだが……」
田中は、そう言うとまるで耳打ちでもするかのように小声で語りかける。
「東郷首相は、間もなく訪米するそうだよ」
その言葉に、張は頷く。
「ありがとう、その情報で十分だ。では、我が奉天の命運は米国と共に在り、という事だな」
「そう、結論を急ぐなよ、雨亭」
田中は一口、茶をすすり、言葉を継ぐ。
「雨亭は、奉天の王として終わる気なのか? それとも、中華民国総統の地位を欲するのか?」
張作霖は応える。
「無論、中華民国総統の地位だ」
だったら、もし、売却が成立したあかつきには、米国が欲するだけ鉄道の敷設権を与えてしまえ。
米国が欲しいのは、鉄道線路ではなく、その付属地だ。
線路沿線幅2キロに渡って延々と連なるその付属地こそが、米国の欲する物。
だったら、どんどん敷設権を売って売って売りまくれ。
そしてその金で、兵を養い、剣を磨け。
いずれ、米国はその資本力にものを言わせ、満州に膨大な鉄道網を構築するだろう。
同時に、その付属地には中国市場を狙う米国企業や工場群が続々と進出してくる。
そうすれば、米国は北京の呉佩孚ではなく、奉天の張作霖こそ、自らにとって善き同盟者である、と考えるようになる。
その時こそ、北京に兵を進める時だ。
「それでは、東三省は米国の敷設する鉄道によって虫食いだらけの布の如く、ボロボロにされてしまうではないか」
張は、田中の言葉に頷きつつも、付属地という名の治外法権地だらけになってしまう満州の将来を案ずる。
「なぁに、鉄道なんてものは、所詮、川だ。便利な運河を親切な米国が作ってくれる、と思えばいいのさ」
「うむ」
やや、納得しかねる、といった表情で、張作霖は手にした湯呑を弄び、やがて意を決したように尋ねる。
「田中、日本はそれでいいのか?」
双眸に猛禽類を思わせるような暗い炎を煌めかせつつ田中が応える。
「おい、雨亭、勘違いするな。今の話しは陸軍大将・田中義一としてではなく、雨亭の友人・田中義一として意見を披歴しただけだぞ」
その思わぬ言葉に絶句した張作霖に対し、
「だがな」
と前置きし、言葉を続けた。
「この大日本帝国という国には、議会という誠に便利なシロモノがあってだな、この議会ってやつを抑えなければ、政治は進まないんだよ。例え、神様でもな……」
テーブルに両手をついた田中は、ぐっと前に身を乗り出し、挑戦的な微笑みを浮かべる。
「オラが議会を仕切ってみせる。東郷の好きにはさせん」
同日・夕刻
麹町・料亭「追分茶屋」
「どうかね、おたくの大将は?」
遅れて登場した白川が、熱燗を猪口に受けつつ、尋ねられる。
「あぁ、いつもの通りさ。あの方は馬以外に興味はない」
そう言うと、猪口をあおる。
やや、燗が過ぎているのか、白川は渋い顔をする。
「そうか。ならば、秋山閣下には悠々たる老後を送って頂こう」
白川から返杯を受けつつ、宇垣がにこやかに応える。
「そういう、貴様のところの御大将は?」
酒がさほど得意ではない宇垣は、匂いを嗅ぐだけで、杯を置く。
「ふん。元帥昇進の件は辞退し、定年とともに退役するそうだよ。それからは政界に身を置くそうだ」
「やれやれ……」
「市ヶ谷8期の筆頭が退役か……ようやく頭の上が涼しくなりそうだな」
そう言ったのは、顔面に大きな刀疵を持つ台湾軍司令官・鈴木壮六陸軍中将である。
ここでいう“市ヶ谷”とは旧制陸軍士官学校の事だ。
明治新政府は当初、フランス軍方式の教育制度を導入しており、その制度の下で教育されたのが、俗に言う“市ヶ谷○○期”或いは“仏式○○期”と呼ばれる士官学校生であり、第1期から11期生までが存在しする。
例えば、上原や秋山などはこの“仏式3期生”にあたり、日露戦争の諜報活動で高名を馳せた明石元二郎大将なども“仏式6期”にあたるのだ。
しかし、第12期生以降は、教育方針がプロシア軍方式に改められた事から、本来12期生と呼ばれるべきなのだが、“普式○○期”、或いは単に“陸士○○期”と呼び習わされる様になったのだ。
そして宇垣、白川、鈴木の三人は、この陸士1期(つまり通算12期)の同期生であり、同時に数十年来の親友同士でもあるのだ。
「田中大将が退役となると、こりゃ人身御供が大勢必要だな」
有力将官が退役すると、慣習として、人事刷新を名目にその前後、数期の将官が一斉に予備役編入を余儀なくされる。
陸軍では、これを半ば自嘲気味に“人身御供”と称しているのだ。
無論、これは慣習であって強制ではない。
ただ、それ以上、どうあがいても芽が出そうにもない将官が軍に残っていても
『○○閣下でさえ退役するのに、何を未練がましく軍に残っているのか?』
と、後輩の将官達から軽侮の目で見られ、その後はまるで掌を返したように「晩節を汚した」「物乞い閣下」などと陰口を叩かれ、蔑まされるのだ。
「8期の大庭総監、河合参謀総長、山梨大将」
白川が名を上げる。
「9期の町田大将、福田大将、田中大将」
宇垣が指を折り、鈴木が付け加える。
「10期の尾野大将……まぁ、この辺りまでは当然、お供して頂こうか」
白川が蕎麦をすすり、笑いながら付け加える。
「どうせならば、市ヶ谷の11期までまとめて予備役に回ってくれると助かるんだがね」
「そりゃ、望み過ぎだよ。それに11期はボンクラ揃いだ、気にする事は無い」
口の悪い鈴木が吠え、皆で大笑する。
「全く、いつまで長州だ、薩摩だ、なんて下らぬ事を言ってる気なんだ? 連中は……」
「お連れ様がお見えになられました」
店の女中が障子越しに声を掛けてきた。
「おぉ、来たか。入ってもらってくれ」
宇垣が機嫌よく招き入れる。
その言葉に女中が小さく、どうぞ、と声を掛け、障子戸を引く。
「お招きにより参上致しました」
そこには廊下に両手をつき、深く頭を垂れた上原元帥の秘蔵っ子・武藤信義中将の姿があった。
2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加