第23話 東郷ドクトリン
本話の執筆にあたって
1928年7月22日付
「大阪朝日新聞」掲載記事・高橋是清談話
を参考にさせて頂いた事をここに記します。
後に、犬養が親しい新聞記者に対して東郷内閣に関して語った事がある。
「実際のところ、僕の心中において、東郷首相の有する『政治的発言力』に期待すること、実に大ではあったが、その『政治的識見、手腕』といったものに関しては全くの未知数……というよりも、正直、期待していなかった…というのが本音だったよ。
首班指名を受けた後の東郷首相とは、閣議で連日の様に顔を合わせていたけれども、その政治的な方針に関しては東郷さんは滅多に語らなかったからね。
というよりも、そもそも方針があるのか? どうかさえ、明らかにしなかったからねぇ。
閣議の最中の東郷さんは、いつもニコニコとして終始、機嫌が良さそうだったな。笑顔を浮かべて、半ばつかみ合いになりそうな剣幕で議論する閣僚達の意見にじっと耳を傾けている……って感じだった。
聴き手に回るのは構わないけど、本来、閣議で総理がすべき事柄、つまり議長役にすら全く関知せず、しきりと頷いたり、感心したりを繰り返すのみだったのには閉口したけれどね。
そうそう……加えて言うのならば、副総理兼陸相として入閣し、東郷さんに代わって議長役を務めてもおかしくない秋山さんに至っては、隣席に座る同じく酒好きの高橋さんに対して水差しに隠し入れてきた酒を勧めている始末だったよ。酷い話さ。
まぁ、しかも勧められた高橋さんも、あの通りの酒好きだからね、一緒に呑み始めちまって……。
最も、高橋さんは自分自身が総理を務めていた頃、国会の予算案審議中に、湯茶代わりに酒を呑んでいた様な人だからね、閣議程度じゃあ呑んでも仕方ないかもしれんがね。
首相、副首相、それに内閣の長老までもが、そんな調子だったから議事進行役は、尾崎が渋々、務めていたよ。
内閣書記官長(今日的に言う内閣官房長官)だから、仕方ないだろうが時折、俺の顔を実に怨みがましい目で見ていたのを今でも思い出すね。
最初の日、閣議が終わってから、若槻君と横田君、それに幣原君ら閣僚の中でも若い連中が心配げな顔をして僕を部屋の隅に呼んだんだ。若いと言っても彼らだって、いつ首相になってもおかしくないような実力者だろう? その連中がだね、まあ、当然だろうけど、元帥杖を持つ二人の英雄に対して呆れかえってしまった様で
『もしかしたら、自分達はとんでもない凡人俗物を首相に戴いてしまったのではないでしょうか?』
と、心底、衝撃を受けていたらしくて、すがる様な顔で僕に詰め寄ってきたんだ。僕にしてみたら、こっちの方こそショックを受けていたんだけどね。それでも年長者として彼ら若い者を励まさなきゃいかん、と思って、僕自身が鬱々とした気分だったけれども、空元気をだして見せたもんだよ。
しかし、数日して僕らは気がついたよ。政界の実力者を自負していた僕達なんか、東郷さんの目から見たら、所詮『一介の平参謀』程度の存在に過ぎず、東郷さんが『司令長官』なんだ……って事をね」
大正十三年一月十五日
(1924年1月15日)
帝国議会議事堂
「朕、ここに帝国憲法第七條により衆議院の解散を命ず」
衆議院議長・粕谷義三が厳かな口調で解散詔書を読み上げる。
日本中が、いや
「アドミラル・トーゴー」
の名を知る世界の全ての者達が注目し、期待した内閣総理大臣・東郷平八郎による所信表明演説が行われた第48回帝国議会は、こうして終了した。
期せずして沸き起こる「万歳、万歳」の大合唱。
事情を知る者は満足気に微笑み、
事情を知らぬ者は腰を抜かし、
事情を知らされていた者は不敵な笑みをこぼす。
この日、東郷平八郎が衝撃的な解散・総選挙宣言の直前に打ち出した、その所信表明演説の内容、すなわち後に
『東郷ドクトリン』
と呼ばれる事となるこの内閣の方針は、単に東郷内閣の政策を表明しただけに留まらず、その後の後継政権に対しても、執拗にその政策の継続的遵守を要求する拘束性の高い内容であり、実に遠大で長期的な視野に立ったものとなっていた。
取り分け、強権的とも言える国策主導の経済政策の数々は、当然の事ながら右側に居並ぶ者達より
『似非社会主義』
と呼ばれ、左側に居並ぶ者達からは
『国家資本主義』
と揶揄されるほどのものであったが、それ以上に明治期以降、国家目標を失っていた日本国民に対し新たな目標を提示したものとして、国内に限らず各方面から驚きをもって迎えられた。
東郷を担ぎあげた政党政治家達の目指したもの…それは、彼らの毛嫌いする疑似的な社会主義体制でも、強圧的な資本主義体制でもなく、内政的には今日に言うところの「重福祉国家」であり、軍事・外交・経済面から見た場合、将来的な「域内大国」となる事を最終目標としたものだった。
その目指した政策の数々は実に多方面、多岐に渡る膨大なものであり、これには多くの政党政治家達にとっての悲願というべき内容が数多く盛り込まれていたことから、議場内において、我知らず感極まり、すすり泣く議員さえいたという。
東郷はその冒頭、次の様に語り、この政策の必要性を訴えた。
「今、支那の地においては北京政府、広州政府、更に各地の軍閥や共産主義者の一党が個々各々の主張を行い、騒乱を起こしており、これに加えて関東州には我が帝国が、香港には英国が、北満にはソ連が利権を有し、上海他の租界には列強各勢力乱立する状況となっております。
しかるに兵馬を持って得た物は、兵馬によって奪われるのが、世の常、世の理であります。
支那国内の騒乱に乗じて、我が国が出師して何の益がありましょうや?
我が内閣は、支那に我が帝国の確固たる地歩を固めるにあたって、兵を用いず、金を用いるべきである、と確信するのであります。
彼の国の騒乱が、今後100年の長きに渡って続くものではない、というのは自明の理でありましょう。
もしかしたら、1年後には平定されているかも知れず、或いは明日の朝には平穏を取り戻しているかもしれませぬ。
しかるに、この騒乱が今、直ちに収まったとした時、一体、我が国に何が出来ましょうや?
……残念ながら、今の帝国には何も出来ませぬ。
支那の政府は、彼の広大なる領土を治め、民を鎮撫するにあたり、鉄道を敷き、道路を通し、港湾を整え、産業を興さなくてはなりません。
それには、まず金です。
その時、我が国は支那に対し、その求めに応じて5億6億、よしんば10億円の援助、借款であろうと、これに応ずるだけの国力を養う事が、今は何より大事であると考えます。
もし、我が国が貸さず、英米両国いずれかが貸したと致しましょう。
過去を鑑みるに彼らは必ずや独占的に支那に対して借款を施し、それをテコとして彼の地における経済覇権を確立し、莫大な利権を得る事となりましょう。
翻って、現在の帝国の窮状を考えるに、こと経済において英米に対抗する事は残念ながら難しいと言わざるを得ません。
よしんば、出師によって寸土を得たとしても、これをもって英米に対抗する事など最早、論外、不可能の極みにございましょう。
何度でも繰り返しましょう。
兵馬を用いて得た領土などというものは、容易に兵馬により奪い去れるのだと。
しかし、金により得た経済利権、これは形のあるものでは無い以上、他者が易々と奪えるものではありませぬ。
故に我が内閣は、我が国は来るべきその日に備えて、英米に伍する国力の充実を図るのが帝国にとって第一であり、肝要であると考えます」
帝国主義全盛期の最終ターン、各国が狙う最後の獲物である中国本土の覇権争いにおいて、良くも悪くも先頭を走っていた日本の『一方的離脱宣言』とも、聞き様によっては聞こえるが、この『東郷ドクトリン』の根底にある考えが、中国に対する“良き隣人”としての善意によるものなどでは決してなく、あくまでも日本の国益を中心とした
『経済的帝国主義』
である事に疑う余地はない。
しかし、それまで明治維新以来の日本が突き進んできた
『軍事的帝国主義』
とは明らかに一線を画している事も確かなのである。
この日、東郷が発表した具体的な政策の数々、その全てを網羅する事は出来ないが、中でも最大にして緊急を要する懸案事項である震災復興に関しては、後藤新平復興院総裁の原案を叩き台として、東京市内の罹災地区全ての土地を国庫負担により買い上げ、根本的な都市計画から練り直す事を基本構想とした。
同時に、その計画総予想金額は5年間合計で55億円、このうち国庫負担25億円とされ、民・民間投融資30億円に達するであろう、と発表されたのだが、この莫大な予算執行に対しては、さすがに議場内はしばらく騒然としたものだった。
続いて、政治面では、犬養・尾崎らの急進的自由主義者達の要求を全面的に受け入れた普通選挙法制定と治安警察法の改定が主軸であり、同時に台湾・朝鮮における地方議会(道・市・郡議会の発足)の設置が発表された。
また、職掌範囲が広範過ぎてしまい日本の経済規模に見合わなくなってきていた農商務省の農林省と商工省への分割も行う事とされた。
経済面では、若槻・浜口らを中心に立案した金本位制への復帰、震災手形支払い猶予令の停止、銀行再編、主要穀物専売制の導入、国際競争力をつける為の設備投資助成、貧窮に喘ぐ台湾・沖縄への資本投下促進策、小中規模農家保護を目的とした官制農業組合の組織化等々…。
外交では、米国が制定を目指す新移民法に対して翻意を促し、対中関係では世界に先駆けて関税協定の締結を行う事により、対日感情好転を狙い、加えて対ソ国交回復交渉の早期妥結を目指す。
教育・福祉においては、完全給食制度の導入によって初等教育の普及を図り、国民全体の教育程度の底上げを企図することとし、更に中等・高等教育への進学率の大幅向上を促進する為に進学奨励金の増額を行い、支給対象拡充を図る。
更に、現行5大学を擁している帝国大学を一挙に三倍の15大学とすることも併せて発表されると共に、大学の研究開発費に産業界の資金を利用する為の「産学提携」を促進し、その道筋を作る事とした。
そして福祉政策の目玉となったのは、大正11年に始まった健康保険制度を拡充し、世界初の「国民皆保険制度」達成を最終目標とするとされた。
国家予算の33%・4億8千2百万円(陸軍2億2百万円、海軍2億8千万円)に達していた軍事予算は、今年度中に関しては額面上の減少こそ見られなかったが、陸軍においては渡辺陸軍次官が発案した徴兵制の時限停止措置、海軍ではジュネーブ軍縮会議への参加決定により、次年度以降の実質的な削減は確実となった。
また、東郷発案の「舞鶴理論」に基づき、兵器という軍備上の新たな器の調達よりも、地方インフラの整備と民需転換目的が明らかに優先された室蘭・大湊・釜山・元山・高雄への鎮守府設置、及び舞鶴の鎮守府再昇格が上げられるが、むしろこれは軍事政策というより、将来の基幹産業育成を目的とした民民投資による経済政策と呼ぶべきだろう。
同時に具体的な予算削減に対しては“面子”から応じづらい陸軍省・海軍省の体面を尊重し、両省予算の予備費を流用することによって、国内技術の研究開発・保護育成・資金援助・規格統一を目的とした両省共通の外局として「帝国技術院」の新設が発表されたが、この新設外局の母体となったのが、分割される農商務省の内局で大正10年に設置されたばかりの「工業品規格統一調査会」と、その外局である「特許局」であった事からも、その目的が「工業発展や経済効果」にあり、事実上の軍事予算削減である事は明らかだった。
演説が進み、その施策の数々が明らかにされるにつれ、議場にいる誰もが思った。
「これほどの数々の政策施策、果たして実現できるのか?」
「予算は一体、どうするのだ? 軍事予算を削るぐらいでは焼け石に水だぞ?」
「公債・借款などで賄うにしても、復興計画自体の規模が大きすぎるのではないか?」
そして、彼ら一人一人の疑念が最高潮に達した瞬間、東郷は居並ぶ464名の議員一人一人と目を合わせる様に議場全体をゆっくり見回すと宣言した。
「満鉄を売る……」と。
この日の翌朝、各紙の一面を飾った「満鉄売却」の四文字。
東郷のこの言葉に対し、周囲を窺いつつも頷いた者は、大きく分けて二種類に分かれた。
これは無論、発表したのが
「軍神・東郷」
であったからこそ、彼らは混乱し、躊躇いながらも頷いたのであり、もし、それ以外の人物……即ちは「憲政の神様」と呼ばれた犬養毅であろうと、「財政の神様」と呼ばれる最大会派政友会の総裁・高橋是清だろうと、自他ともに認める「財界の領袖」加藤高明であったとしても、彼らの政治生命は瞬時にその場で終わりを告げていたであろうし、生物としての生命も遠からずして不本意な終わりを告げた事に疑いはなかったと思われる。
頷いた二種類の一方、それは国民と呼ばれる者達であった。
日清、日露、欧州大戦。
それぞれの時局において、常に戦争に勝利し続けた結果、日本は得た物を守る為、奪われない為に膨大な軍事費の負担を余儀なくされ続けた。
それは僅か30年前、下関条約により清国から割譲された筈の遼東半島をロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉によって失った過去に対する一つの反省故にであり、これこそが、今日の日本を“死に物狂い”の軍拡に走らせる要因の一つともなっていた。
列強三国の圧倒的な軍事力の前に恐怖し、屈服した日。
超大国と思われていた清国に勝利し、勇躍、世界に雄飛せんと国民全てが夢想した瞬間を襲ったこの歴史的な挫折は、即ち東郷の言う
「兵馬によって得た物は、兵馬によって容易に奪われる」
との言葉にピタリと符合しており、勝てば勝つほどに過大な負担を負わされ続けた大多数の国民にとって、正しく実感できる言葉であったのだった。
もう一つは職業軍人と呼ばれる者達。
三国干渉受諾に際し、時の明治政府は激怒する国民に対し「臥薪嘗胆」を乞い、国民もこれを受け入れた。
この臥薪嘗胆により、日清戦争終結から日露戦争勃発までの極短期間で、陸軍は多数の火砲機関銃を装備する近代陸軍へと生まれ変わり、海軍は後の「日本海海戦・完全勝利」の原動力となった六六艦隊計画艦である戦艦『三笠』『敷島』『朝日』らを建造し、更にアルゼンチンより『春日』『日進』の2隻を1600万円にて購入した。
そしてこれら全てが、その後の日露戦争の勝利へと繋がった事を、いまだこの国の軍人達は忘れていなかった。
当時最新の軍備の数々、その調達を可能としたのが、実は遼東半島割譲を放棄する代わりに清より支払われた4500万円にあったのだ。
何故ならば、戦争賠償金として得た3億円のほとんどは、英米への戦時借款返済に消え、僅かに残った“金”を元手に日本は当時、一流国としての最低条件とされた「金本位制」へ参加する事に利用されたからだ。
当時の国家予算が、僅か8000万円程度であった事を勘案すれば、如何にその4500万円という対価が莫大なものであったかは明白であるし、その4500万円が無ければ後の日露戦争の勝利も無かったのは自明の理だ。
満州鉄道の売却も、この遼東半島返還の故事前例を思い起こせば、この国と国民・軍部に対し、将来の更なる雄飛を約束する
「二度目の臥薪嘗胆」
を乞うものなのだ……と大多数の軍人達には「都合良く」理解されたのだった。
だが……。
当然の如く、満鉄売却に対し反発する勢力の存在もあった。
父祖の、親兄弟の、そして自らの血を流して得た国家の至宝を金の為に売る…。
「軍神・東郷」
という巨大にして絶対的な存在を前にして、彼らの想いは鬱屈し、地に潜そんだ。
その、どす黒い怒りの炎は、長期的には国民の絶対的な支持という灰に覆われ、その下に隠れ、自然消滅の道を辿るかと思われた。
犬飼も、尾崎も、後藤も、西園寺も、高橋も、加藤も、そして山本でさえ、東郷の前に立ちはだかる者が存在するとは考えなかったのだ。
当時、三井物産、三菱商事ら財閥系企業を抑え、日本最大の商社に成長していた鈴木商店の資本金1億3千万円さえも軽く上回る、資本金6億4千万円、年間経常利益5千万円以上という亜細亜最大の複合企業「南満州鉄道株式会社」に絡む利権や特権、既得権益を保持する者達が、これを易々と手放すと考えたのは、彼らの甘さだったと言えるだろう。
「金により得た経済利権、これは形のあるものでは無い以上、他者が易々と奪えるものではない」
と、東郷自身がその演説の冒頭に語った通り、満鉄に繋がる経済利権を持つ者達の「正当な」反撃は必然であった。
2009年11月25日 計算間違い訂正…。
大変、失礼いたしました。
2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加
2010年1月20日 文章推敲により訂正。