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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
21/111

第21話 決戦の朝 (1)

大正十三年一月十五日

(1924年1月15日)

帝国議会議事堂・閣議室


 東郷内閣の晴れの門出となるこの日、100年に一度とも言われる昨夜来の大寒波により関東一円は房総に至るまで一面の雪景色となっていた。

無残な焼け跡や泥濘を覆い隠した白銀の輝きに迷信深い人々は、口々に言う。

「東郷元帥の御維新の証なり、これは吉兆なり」と…。


 国会開会前、閣議室に参集した東郷内閣の全閣僚は、幣原外相の報告に我知らず、呻いた。

「訪米……ですか」

そう呟いたのは農商務大臣を務める若槻禮次郎だった。

その声音には、明らかな当惑の響きが含まれていた。

一説によれば、IQ200を超えていたとも言われる天才・若槻は、清廉ではあるが天才肌故に、どこか儚げな風があり、政党人としては線が細い。

根本的に他人に対する押しが弱く、決断力に欠ける部分があり、卓越した行政処理能力を有してはいるが政治家というより官僚向きの質なのだ。


「この大事な時期に……。いくらなんでも非常識過ぎやしないかね?」

腹立たしげな心情を隠そうともせずに、そう発言したのは憲政会において若槻と次期総裁の座を争う文部大臣・浜口雄幸だ。

浜口はライバルである若槻とは対照的に、圧倒的な意志力と、政党政治家的な押しの強さを持つが、同時に時として本人自身の仇ともなりうる一歩も引かぬ頑迷さがある。

その性質は自他共に認める“小細工嫌い”であり、その政治手法は常に“正面突破”だ。

ある意味、一歩間違えれば犬飼、尾崎と同様の

『裏街道まっしぐら』

な政治家人生を送ったとしてもおかしくない性格の持ち主であり、魅力的だが、それだけに敵も多い。


「それで幣原君、何と答えたんだね? ウッズ大使閣下に」

時として詰問調の強い口調となってしまう浜口の発言に対し、ムッとした様子を露わにした幣原を制するように内務大臣・加藤高明が発言し、場を取り繕う。

加藤と幣原は共に三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の娘婿で、義兄弟の関係にある。

加藤が長女を、幣原が三女をそれぞれ娶っており、その関係もあって公私に渡って幣原は何かと加藤に弟分扱いをされているのだ。

内心、加藤は次期総裁の座を、御しやすい若槻に禅譲し、その次代を幣原に…と考えている。

これは無論、自身が院政を行う為の布石としてである。


「米国の要求は『可及的速やかに招請したい』との事でした。ウッズ大使閣下は、日頃、柔和で礼儀正しい紳士なのですが、今回ばかりは大変な勢いで迫られましたよ。あの様子では、昨夜は一睡も出来なかったんじゃないでしょうか? 正直、私としては、『前向きに検討する』としか答える事は出来ませんでした」

「薬を効かせ過ぎたんだろう? お得意の……」

吐き捨てる様に浜口が幣原をなじる。

二人は元々、中学時代の同級生であり、そんな私的な信頼関係もあって、時折、必要以上に強い口調にってしまう。

浜口が幣原を咎めだてたのは、これ見よがしにウッズ大使が外務省に来訪している最中に、わざわざコントラクト・ブリッジに目のない賭け好きの英国大使チャールズ・エリオット卿を招待した事だ。

何の事はない、英国大使はただ、トランプを楽しみに外務省を訪れただけであったのだ。

もっとも、米国大使が勘違いするように仕向けたのは、幣原一流の詐術ではあったが……。


「渡りに船、とはこの事ですな」

憲政会同士の内紛を面白げに眺めていた犬養毅逓信大臣が煙管に煙草を詰めながら呟く。

「どういう事だね? 犬養君」

東郷を除いて一座の年長者である蔵相・高橋是清が尋ねる。

「東郷総理を西園寺老に奏薦して頂くにあたって、私は山本海軍大将から重々に釘を刺されましたからね、東郷元帥に傷がつく様な真似だけはするな、と」

「それと、訪米と何の関係がある?」

「東郷総理が訪米している最中にやってしまいましょうよ」

「一体、何の話ですか?」

若い横田千之助法相が

(また、犬養の爺さんが何か面白い事を考え付いたな…)

とばかりに、割り込んでくる。

「だからさ、総選挙、総選挙だよ」

煙管に火がつけたマッチを右手で振って消しながら犬養が応える。

「総理抜きでやるんですか? 総選挙を」

「犬養さん、いくら何でもそれはひどいよ……選挙は我々、政党人の拠って立つところだろうが。我々は東郷与党として、東郷内閣の政策を世に問うのが使命だって、あんた、そう言ってたじゃないか? だから、私だって前倒し解散・総選挙に賛成したんだ」

「第一、東郷内閣の政策を世に問うのに、肝心の東郷総理がいないのでは、話にならんじゃないですか」

横田、浜口が次々と反対意見を口にする。

「横田君、浜口君。ダメだよ、若い者が楽をしようしちゃあ」

老練な犬養は二人の反論を『どこ吹く風』とばかりにヒョイとかわしてしまう。

無理もない。

犬養と横田達では年の差で15歳以上、政治家としての経歴では20年以上の差があるのだ。

「いいかい? 東郷首相を神輿にしたら、どんな政策だって通っちまうんだ。分るだろ?」

「だからって、総選挙中の外遊だなんて、あり得ないですよ。第一、目指すところは一緒でも立っている位置が違うんですよ、僕たち政友会と憲政会、それに革新倶楽部では……。東郷総理がいるからこそ、我々はこうして肩を並べて立っていられる。その肝心の東郷総理が不在では、ばらばらになってしまうんじゃないですか?」

「横田君。君はそんなんだから、いつまでたっても西園寺老の御用聞きなんだよ」

「何だと!? 木堂!」

突然の罵声。

温和で普段は飄々としている横田だが、一旦、カッとすると根が頑固者なだけに手がつけられなくなる。

前述した元田一派除名騒動の際の独断専横など、その代表例だ。

その時も、

『党内の実力者を除名するなどあり得ない、穏便に済ませよう……』

と反対意見を唱える穏健派を押し切り、除名を即時、断行している。

横田は、豪華な刺繍の施された大きめの肘掛の付いた閣僚椅子を後ろにはね飛ばすような勢いで席から立ち上がると、侮辱した犬養に対し掴みかからんばかりの表情で頬を紅潮させている。

場の空気が凍てつき、誰もが一瞬にして

「政友会、政権離脱」

という最悪の絵図を思い浮かべた。

横田ならやりかねない……と、周囲に思われているのがこの男の長所であり、短所でもあるのだ。

「まあ聞きたまえ、横田君」

犬養は、横田の怒気が目に入らぬかのように、ゆったりと椅子に身を沈めたまま愛用の煙管を弄ぶ。

「僕は言った筈だよ、我々が東郷与党として相応しいかどうか、それを国民に問いたい、と」

欧州大戦後の反動不況、それに追い打ちをかけるかのような震災……。

窮状に喘ぐ国民の東郷に対する期待の大きさ。

その圧倒的な知名度、人気。

国民は選挙において、東郷内閣の行う政策に対し、圧倒的な支持をもって応えるだろう。

だが、それは東郷への期待感故にであって、個々の政策、その優劣是非を巡ってではない。

言うなれば、

『政策は二の次』

的な東郷への人気投票の様な選挙になってしまう。

犬養は語気を強める。

「それでは行かんのだよ、絶対にな」

個々の政党が、それぞれの政策を訴え、その優劣是非により選挙結果が決まる。

この大原則を変えてはいけない。

我々の示す政策以上に優れた政策があれば、国民はその政策を提示した者・政党に対し投票する、という事でなければ選挙の意味がない。

「ふむ……。要するに木堂さんが言いたいのは」

沈黙を守っていた最大与党・政友会の総裁高橋是清が軽く咳込みながら発言する。

高橋は政策政治家であって、純粋な意味での政党政治家ではない。

党務に党利党略、多数派工作などの根回し的な仕事は『御免蒙りたい』タイプの男。

要は面倒臭いのだ。

「選挙結果によっては、閣僚の首も、政策の中身も変えるべきだ……という事だね?」

「ご明察。高橋総裁、その通りです。我々は帝国の将来を見据えて『満鉄を売る』という決断をした。そして、それを当然の如く選挙において堂々と主張されなくてはならない。しかし、世の中は広い。野に隠れた逸材があまたの如くいるかも知れず、そして、その者達が我々の考えた以上の政策施策を胸に秘めているかもしれない。満鉄は一度、売ってしまえば、買い戻す事は不可能だ。だからこそ、僕は国民に問いたいのだ」

「満鉄を売る、これがどれだけ国民の反発を買う事になるか? それは、もう皆、十分に理解している事だと思う。しかし、このまま選挙に突入すれば『東郷首相だから……』という理由で、己の腹の底では据えかねていたとしても、実際の投票は与党側に入れるだろう。国家百年の禍根を残してな」

高橋が嘆息まじりに言葉を結び、瞑目した。

「国家百年の禍根……か」

加藤が呟き、横田が席に座り直し応えた。

「分ったよ、木堂さん。外遊している間に選挙戦を行おう、っていう意味がね。東郷首相抜きで、我々の主張が受けいられるかどうか? 政治家として、己が本分を尽くそう。よし、政友会は腹を括ってやる。

よろしいですな? 高橋総裁」

高橋が乾いた笑いと共に応ずる。

「僕は最初から反対なんぞ、しておらんよ」

「どいつもこいつも、変わり者の謗りは免れそうにないな。楽に勝てる選挙をわざわざ、ややこしくするのだからな……」

いかにも洗練されたブルジョアの雰囲気を醸し出している憲政会総裁・加藤高明は、眼鏡を外すと中指と親指でコメカミをほぐし、不敵な笑みをこぼす。

「まあ、その方がお楽しみも増えるというものだが……」

犬養は一同を見回し、一人一人と視線を合わせると、頷く。

「政治家の本気ってやつを、軍人上りの素人どもに見せてやろうじゃないか、えぇ?」



 無論、今は閣議中である。

『軍人上りの素人』呼ばわりされ、政党政治家達の熱い想いから取り残された集団もいる。

即ち、東郷首相、秋山副首相兼陸相、財部海相の三人。

この三人も当然ながら出席している。

軍政畑を歩んできた財部を除き、少なくとも東郷と秋山は基本的に問われない限り口を挟まない。

しかし、周囲の政治家達がどう思っているにしろ、彼ら二人は、自分が『お飾り』の存在とは全く思っていない。

軍事兵略についてなら、一晩中でも語ってやる……という凄まじいばかり自負を持って、この場に臨んでいるのだ。

同時に政治政略に対しては専門外だ、というかなり割り切った認識を持っている。

彼らの尺度では、陸軍が海軍に口を出さぬように、海軍が陸軍を無視しているように、政治に対しても、それと同様、と考えているようだった。

強烈な専門家意識。

軍事スペシャリストとしての誇り。

様々な悪条件や劣勢を物ともせず、与えられた難題を克服してきた者だけが持ちうる自尊心の塊。

元帥の称号、伊達ではない。


 たとえば、東郷は総理としての自らの役目を戦艦の艦長である、と捉えていた。

砲術が主砲や副砲を、機関が缶室と機械室を、航海が航法と操舵を……。

戦艦には、それぞれ専門的に訓練を受けた士官、下士官兵がおり、それぞれの本分に全力を尽くす。

艦長である以上、艦自体の性能に関する予備知識は必須だが、逆に砲術や機関、航海などの専門知識に関しては全く必要ない。

何故ならば、それぞれの部署にはそれぞれの専門家がおり、艦長の役目とは、その部署の専門家の人物・能力を把握することなのだ。

10の能力の物を12に出来る者もいれば、8にしか出来ない者もいる。

その点において、大日本帝国という戦艦を動かす各部署の専門家、即ち閣僚に対し東郷は大いに満足を覚えているのだった。



 ふと、内閣書記官長・尾崎行雄が思い出したように秋山陸相に尋ねる。

「秋山陸相、昨日、上原元帥と会われたそうですが、上原元帥は如何でした? 満鉄売却の一件については?」

突然、話しかけられた秋山は少し吃驚したような顔をしたが、包帯の巻かれた左掌を軽く差し上げ、

「あぁ、上原なら大丈夫だよ。反対はせぬ、恩顧の者どもにもさせぬ、と大見得を切っていた……が」

「が?」

「正直、厳しいと思っておる。上原はあの通りの男だし、敵も多いからね」

「秋山陸相と上原元帥、御二人が組んでも陸軍を抑えられませんか?」

「尾崎さん、私も同席しておりましたが……何かしら、援護策を講じた方が良いのではないでしょうか?」

財部が遠慮しがちに秋山に助け船を出した。

山本権兵衛が、その才覚に惚れ込んで娘婿に迎えた、この物静かな軍政家は、閣僚経験が豊富なだけに政治に関しても精通しているが、海軍外の事に関して積極的に口を出そうとはしない。

それだけに専門外である陸軍の事に関しては遠慮がちに語った。

「財部海相、援護策とは具体的に……?」

「一番は予算面で、政府が陸軍に多少なりとも譲歩する姿勢を見せれば、と思うのですが。例えば、震災復興資金の一部を陸軍に……」

と言いかけた途端に高橋蔵相が遮った。

「それは駄目だ、財部さん。満鉄売却益は復興資金に対してのみ充当する。予算内の復興割当分が減るから、確かに緊縮予算路線は緩和出来るだろうが、その浮いた予算でやりたい事が我々には山ほどあるのだ。それに、だ……陸軍の機嫌ばかり伺うのには、正直、もうウンザリしているんだよ、我々はね」

陽気な高橋にしては珍しく苦々しげに語る。

隣に座る高橋のざっくばらんな物言いに、陸軍を代表する秋山としては苦笑する他はない。

「しかし、どうでしょう? 仮に300万程度でも良いと思うのですよ、満鉄を売却する事が陸軍にも益がある、そう彼らに思わす事が出来れば……」

高橋に、にべもなく袖を振られた財部はそれでも縋る様に政治家達の顔を見回す。

財部も軍人なだけに、陸海の垣根を超えて、その心情は理解できるのだ。

しかし『ここが天王山』とばかりに閣僚達はいずれも苦虫を噛み潰した様な顔で、目を背ける。

「だったら、海軍の予算を回せばよい」

その言葉に、財部は目を剥いた。

何故なら、その声の主が高橋蔵相ではなく、東郷だったからだ。

「総理、そんな御無体……」

「おいは本気じゃど」

東郷は物静かに財部を諭す。

しかし、財部も海軍を代表してこの場にいる以上、そう簡単に譲る訳には行かぬ。

「陸軍と海軍では、必要とする装備、知識、能力、そのいずれもが違い過ぎます。兵の教育一つとっても数さえ揃えばいい陸軍と違って……」

「おいおい。財部さん、あんまり馬鹿にしてくれるなよ」

財部の言葉に今度は秋山がぼやく。

本当は、財部の失言にかなり腹を立てているのだろうが、その大本が自分への助け船だっただけに、あくまでも口調は柔らかかった。

さすがに自らの失言に気がついた財部も素直に詫びを入れた事により、その場は収まるかに見えたが、秋山が突然、何かを思い付いたような顔になり、ニタリと微笑む。

その微笑みに、財部は嫌な予感がした。

そして予感は的中した。


2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加

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