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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
20/111

第20話 元田肇邸

 原敬内閣において鉄道大臣を務めた代議士・元田肇の家では、慣例として朝食は大広間において、その家の者、全員が膳を共にする。

当主である元田の政治家という職業柄、夕食を共にする事が難しい故に根付いた慣例で、家族の他に秘書、書生は無論の事、居候、女中に至るまで、同じ料理ののった膳を前に座り、歓談し、食す。


 その日の朝、即ち大正13年1月15日においても、その慣例は守られた。

元田肇は、第1回衆議院選挙より当選を続けた古強者の代議士であり、第一次山本権兵衛内閣において逓信相として入閣して以来、政友会の重鎮として隠然たる勢力を誇っている。

剛直な人物、と世間においては評価されているが、原敬内閣の鉄道大臣時代においては、鉄道路線の新設に関して露骨な利益誘導を行って、各地に政友会の地盤を作りあげた事でも知られている。

今日、政友会が院内最大会派として君臨していられるのは、元田が各地の名士や地方富裕層と結んで作りあげた強力な地盤によるところ、大である。

それだけに党内における発言力、すなわち子分代議士の数も多いという事だ。


 しかしながら元田、現在の総裁である高橋是清、そして高橋総裁体制を支える横田千之助とは絶望的に不仲な関係である。

 それというのは、原敬暗殺後、高橋是清が総裁の座と、総理の座を受けた頃に遡る。

前述した様に、原内閣の閣僚であった元田は、高橋が内閣改造を行わずに原内閣の閣僚をそのまま引き継いだ事により、高橋内閣においても鉄道大臣に留任した。

しかし、政友会結党以来の古参幹部を自負する元田は、外様同然の高橋総裁擁立には当初より不満があった。

元田は同じく不満を覚えていた僚友である文部大臣・中橋徳五郎、農商務大臣・山本達雄らと語らい、高橋に対して辞表を提出、これにより内閣倒壊の引き金を引いたのだ。

そしてこの時、この元田らの行動に激怒した政友会総務・横田が、元田一派を政友会より除名する、という騒動が起きる。

 無論、一年を経ずして元田らは政友会に復党したが、この一件が高橋・横田らとの拭い去りがたい遺恨となり、同じく高橋・横田体制に不満を持つ反主流派の床次竹次郎一派と元田一派は急速に接近する事になったのだった。


 この日の朝の元田は、すこぶる沈鬱な表情を見せたまま、食もすすまぬ様子であった。

本日より国会が始まる、とあって、朝食の膳部には縁起を担いで、御頭付きの小鯛に昆布〆、そして甘栗が添えられており、これに加えて気を利かせた女中頭の才覚により、元田の好物である湯豆腐や、厚く切った大根の味噌汁が出されたにも関わらず、これらに箸もつけず、ただただ、左手に飯茶碗、右手に箸を持ったまま、心ここにあらず、の風であった。


 東京・麻布に広大な敷地を有する元田邸には母屋の他に、いくつもの離れ屋がしつらえてあり、その離れ屋には若い秘書や、書生達が住んでいる。

それに加え、先年の震災により焼け出された娘夫婦が出戻り居候を決め込んでおり、加えて、この娘婿の同僚が住いに困っていると聞いた元田は、わざわざ新たに離れ屋を新築すると、大人物らしい鷹揚さを持って、この同僚に貸し与えたのであった。

当然のこと、この「居候」である娘夫婦とその友人も、この朝食の席に顔を揃えている。

「是非、娘を貰って頂きたい」

と大政治家である元田が懇請して姻戚関係を結んだ婿殿も、そしてその友人も、大学において教鞭をとる身であり、俊才として将来を嘱望されている人物だ。



「敏さん、元田先生、お元気が無かったようだね」

『敏さん』と呼ばれた婿殿は、朝食後、出勤用の衣服に着替える為、離れ屋に戻る途中、友人に声を掛けられた。

二人の住まう離れ屋は隣り合っており、友人と二人、並んで歩く。

「さて……岳父殿は昨夜、夜半に出掛けられて、お戻りになったのは今朝方になってからだ、と女中達が話していたよ。さすがにお歳もお歳だし、お疲れだったのではないかな?」

「ほう、さすが大政治家ともなると、夜中もオチオチ、寝ていられないものなのかね」

友人は仕切りと感心する。

「まぁ、出かけた……と言っても、二軒隣なんだけどな」

婿が笑いながら答える。

「二軒、隣……っていうと、床次先生のところだね?」

「あぁ、碁敵だからね、床次先生とは。朝まで碁でもやっていたんだろう」

「しかも、負けたか……」

そういうと婿とその友人は大笑し、各々の仮住まいに入って行くのだった。



 15分ほどすると、二人は待ち合わせた様に、仮住まいの狭いながらも立派な玄関を出立し、いつもの様に“大家”である元田に対し、これも慣例となっている出勤前の挨拶をすべく、再び、母屋に上がり込んだ。

 食がすすまなかった元田は、既に自室である書斎に引っ込んでいたので、二人は遠慮しようかとも考えたが、廊下より挨拶だけでも……と考え、書斎の廊下に向かう。

書斎と廊下を隔てる雪見障子を開けるのを遠慮した二人は、

「お義父さん、行って参ります」

「元田先生、行って参ります」

と障子に影だけ残し、その場を後にしようとしたのだが、

「二人とも時間があるなら、少し話していかんか」

と声を掛けられた。

 震災以降、近隣の交通事情が悪化しており、二人は北青山にある職場までの通勤に際しては、同じ大学において教鞭をとっている1歳下の後輩に自家用車で迎えに来させていた。

その後輩が来るまでなら……と考えた二人は室内に入り、上座に座る元田の前に正座する。

「お疲れのご様子ですね、お義父さん」

婿が眼の下にクマを作った岳父を気遣うと、傍らの友人が頷く。

「心配かけて済まないな。二人は昨日の夜、僕が床次君の家に行ったのは聞いているかね?」

「はい。女中さんが朝、噂話をしているのを小耳に挟みました。また、碁ですか? お身体に障りま…」

婿の言葉を友人が遮る。

「敏さん、先生は違うお話でいかれたのだと思うが……そうでなくては、我々を呼びとめた理由がない」

元田は察しの良い友人の方を見て、ニコリッとすると

「床次君の家に伺ったのは、夜中の1時を回っていたんだ。さすがにそんな時間に碁では呼ばれまい」

と薄く笑った。

「お呼ばれになったのですか? そのような夜中に。床次先生という方は、いったい」

やや婿が憤然として呟くと、元田が諭す。

「夜中に呼ばれれば、呼ばれる程、重要な用事だ、とは思わないかね?」

「……にしても、度が過ぎていますよ」

納得しかねる、という様子の婿に対し、その友人は冷ややかな視線を投げかけ、元田に向き直り、その言葉を待つ。

「森格、という人物は知っているね? 二人とも」

「面識はありませんが、噂には聞いております」

「どう、思うね?」

婿は答える。

「国士である、と……」

友人は答える。

「腐臭のする俗物ですな」

友人の人物評にやや鼻白んだ様子の元田であったが、面白い、と小声で呟く。

「その森が、床次君の家にいたよ」

「はい」

「田中大将と宇垣中将もいたよ」

「えっ?」

元田の意外な奇襲攻撃に二人は驚く。

「いずれにしろ、今日の国会で東郷首相が発表する事だから、今、君達に話しても差し障りはないと思うが……」

と、やや躊躇いがちに元田は語り始めた。

昨夜の床次、森、田中、宇垣との会談内容について。

東郷が今日、国会において発表する政策や方針、無論、これには満鉄売却の一件、そしてこれらを背後で操る上原元帥一派の非道も含めて。

昨夜、田中らから聞いた話を最大漏らさず、元田は二人に語った。

「どう、思うね?」

「上原元帥、ともあろう人が……正直、信じられません」

と、これは婿。

「その鎮守府を各地に設置するというのは、帝国の産業構造を改編し、合理化に尋常ならざる効果を上げるでしょう。だが、私なら、それに加えて……」

と、友人。

この友人の癖として理路整然と演説臭くなるのを素早く察知した元田が、皆まで聞かず、その言葉を遮る。

「森や田中大将達は、床次にこの企てを阻止するべく立ち上がれ、と談判に来ていたんだ」

「それで、森先生や田中閣下が床次先生を後押しすると?」

「敏さん、元田先生が言いたいのは、そんな事じゃない。元田先生、床次先生は受けなかったんですね?」

「ほう。君は政治家になるべきだな」

元田は、羽織の内懐から懐紙を取り出すとひとしきり、鼻を噛む。

昨夜、一睡もできなかったのが66歳という年齢には堪えたらしく、疲れが風邪を呼び込んでしまったらしい。

「そうだよ」

かみ終わった懐紙を再び懐にしまった元田は、言葉を継ぐ。

「森達に捩じ込まれて、困って僕を呼び寄せたんだ」

「……でしょうな」

「今の日本で、東郷首相に刃向う者は馬鹿だよ。床次君も僕も政治家だから分かる。森が如き只の調子者とは違うからね」

「馬鹿、とは選挙に勝てない……という意味でしょうか? それとも、東郷内閣の政策が優れている、という意味でしょうか?」

「どっちもだよ。僕はね、正直、今の内閣の連中が羨ましいと思う。東郷閣下の威光でなんだって思い切って好きな事が出来る。後援者や政商の顔色を気にせず、長年、自分の胸に秘めていた政策を実現する絶好の機会だからね」

婿は、岳父の言葉に、さも納得したかのように

「確かに。今朝の新聞、どれをとっても東郷首相、東郷首相と、庶民の期待を煽る神輿記事ばかりでした」

と賛意を示すと、友人は逆説的に言葉を受けた

「それもこれも、東郷が“いれば”の話でしょう」

元田は、その友人の言葉に驚いた。


(軍神に向かって、なんと畏れ多い事を……)


と、内心、舌を巻く。

しかし、同時に、


(面白い事を言うではないか、この若造……)


との思考が芽生える。

そして、その思考の別名を『野心』という。

そして、それは明治23年の第1回衆議院選挙に当選して以来、30年以上に渡って、政界の第一線にて活動し続けた男の嗅覚に何かが匂った瞬間だった。



「小畑様、永田様、お迎えの方がお出でになりました」

障子越しに女中の声がした。

「ありがとう」

小畑、と呼ばれたのは婿の小畑敏四郎陸軍中佐。

永田、と呼ばれたのは、その友人の永田鉄山陸軍中佐。

陸軍大学校において教官を務めている二人は、陸士・陸大の同期であり、共に将来の陸軍を担う者として、期待を集めている。


 二人は門前に乗りつけられた自動車に大股で急ぐ。

「おはようございます。お待たせしました。小畑中佐、永田中佐」

「おはよう。今日はいい日になりそうだな、東条」

「は?」

迎えに参上した彼らの1期下の陸大教官・東条英機少佐は永田の言葉に、戸惑いつつ、まるで従卒の様に後席のドアを開ける。


 この日、陸軍大学校の3つの教室において、多少の混乱が生じた。

それは3人の教官が、前日に申し渡していた授業内容とは全く違う講義を突然、行ったからであった。

その講義の内容は

「総力戦体制の構築について」

というものだったと言う。


2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加

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