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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
2/111

第2話 山本権兵衛

大正十二年九月三日

(1923年9月3日)

首都・東京


 加藤友三郎首相の死去を受け、首班指名を受けた山本権兵衛首班の内閣、世に言う『超然内閣』は、その産声を上げる寸前、全く不意打ち同然の辻斬りを受けた。いや、辻斬りを受けたのは正確には山本内閣ではない。

 斬られたのは帝都・東京。

 より正確に言うのならば大日本帝国。

 斬ったのは地震と言う忌み名を持つ、この国に有史以前から巣食う札付きの大悪党であった。山本内閣発足二日前のこの日、九月一日午前十一時五八分。

 関東南部を襲った災厄は、誰もが予想もしない程の被害を帝国の心臓部に与えたのであった。


 『関東大震災』という名のその災厄は、相模湾北部を震源地とし、震度七、マグニチュード7.9という途方もないエネルギーを放出、この地の底の暴君の怒りに呼応する様に、地上では東京府内一三四箇所が同時に出火、火炎は丸二日間、東京一円を容赦なく舐め続けた。

 この火災による熱波は凄まじく、一日の夜には東京府内で最高気温四六度を記録するほどであり、罹災者総数は帝国総人口の5%に達した。死者・行方不明者は三名の皇族を含む十万四千余名、負傷者五万二千余名、全壊・半壊等、建造物の被害は五五万軒以上。

 その推定損害額は五五億円にのぼり、これは国家予算の四倍弱(一九二二年度一般会計予算十四億七千万円)に達するという被害をもたらした。


 明治維新より五五年。

 帝国は日清、日露以上の国難を迎えたのであった。



 山本権兵衛という人物に対する評価は衆目が一致する。

 曰く「日清、日露における海軍の最高指導者」、曰く「原敬の盟友」、曰く「薩派の巨頭」――。

 どれもが正確であり、どれもが適確に彼を表現している。彼は海軍軍務局長として日清戦争、海軍次官、として日露戦争を迎えた。この間、事実上、海軍の軍政面を一人で取り仕切り、多くの逸材を発掘し、登用を行った山本の大胆かつ堅実な戦略、加えて類稀な慧眼が戦争の勝利に大きく貢献したのは言うまでもない。

 又、彼は政友会総裁・原敬と巧みな連携を駆使し、山県閥の専横に対抗し、

 『陸の長州、海の薩摩』

 の伝統を作り上げる事に成功した。これに関しては後世、『閥族政治』時代として非難があるのも事実ではあるが、少なくともこの時代、陸・海軍はそれぞれの閥族勢力が完全に掌握しており、軍全体として積極的に政治に関与しようとする姿勢を示す事はなかったのである。

 ちなみに軍が軍として政治に積極的な関与を行うようになったのは、後年、陸軍が「軍務局」なるセクションを設置した以降の事であって、この時点においては「単に軍は軍の言い分を言ってる」、つきつめれば、単なる「予算増額要求」に過ぎず、これは実際、今日でも見られる様な「省庁間の予算配分」を巡る主張と大差はない。

 議会制民主主義・政党政治が未成熟な時代、陸軍・官僚・貴族院を複合的に組み合わせた巨大連合体「山県閥」に対抗する政治勢力を築き上げる為には、彼自身が掌握する海軍と、原敬が掌握する衆議院最大勢力・政友会の連携は絶対的に必要な結合であったのだろう。



 しかしながら……より正確に彼を表現するのならば、もう一つ、必要だろう。

 即ち『非運の宰相』

 今、山本権兵衛を表現するにこの第四の評価こそ、最も相応しいと思われる。


 最初の非運は第一次山本内閣のあっけない幕切れだった。政友会総裁・原敬と力を合わせ、山県閥、更には元老勢力を追い詰め、止めを刺す寸前まで追い込んでいた。しかし、彼はあっけなく失脚した。

 新型戦艦に関する海外発注先選定を巡って、部下である松本和海軍中将と、ドイツの造船会社シーメンスとの間に巨額の贈収賄工作が行われたとされる『シーメンス事件』の露見である。この事件が明るみするやいなや、盟友として昨日まで共に、打倒山県閥・元老勢力に力を携えていた原・政友会が、あっさりと手を引いた。

 更にこの機を逃さず、半ば失脚寸前にまで追い込まれ、政界引退を覚悟していた山県有朋が息を吹き返す。山県は持ち前の強粘質・業陰険な性格を剥き出しにして山本に対して報復を行い、これを退陣させたのだ。

 もし、この時、シーメンス事件が起きなければ、山本は後継首班に原敬を推挙した事であろうし、原は日本初の政党内閣を十年、早く組織した事であろう。この十年の差は、政党政治の熟成と定着いう観点からみれば、後の日本にとって真に悔やまれるかも知れない致命的な十年であった。

 そして二度目の悲運。雌伏十年の時を経て、満を持して政界に復活した彼を待ち受けていたのは『関東大震災』という天災と、『虎の門事件』という、無政府主義者・難波大輔によって起こされた摂政宮暗殺未遂事件だった。

 またしても山本権兵衛は志半ばにして政権を降りなくてはならなかった。


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