第18話 繁栄と狂騒の二〇年代 (1)
大正十三年一月十四日
(1924年1月14日)
東京 霞が関・外務省 大臣公室
その日、日本駐箚アメリカ合衆国大使サイラス・ウッズは幣原喜重郎外相の突然の呼び出しを受けた。
震災により駐箚大使館の建物は全壊し、自らも軽傷を負ったウッズ大使であったが翌日には、総理大臣兼外務大臣に就任したばかりの山本権兵衛に面会を求め、援助を申し出ている。
その時の申し出の言葉は
「米国に貴国を救援する名誉をお与え下さい」
だったという。
プライドばかりが肥大化した日本人の心中を実によく知っている人物である事が、この一言からだけでも分かろうというものだ。
ウッズ大使は、知日派ではあったが決して親日派と言う訳ではない。
彼は単に己の職務に忠実であろうと努めていただけの事であったが、それだけにその日本に対する評価・見識の高さ、確かさというものに関しては定評があった。
この点、彼の上司、即ちアメリカ合衆国第30代大統領カルビン・クーリッジに通じるものがある。
後世「米国の歴史上、最も偉大な大統領5人」に必ず名の上がるクーリッジ大統領は、栄華を極める「繁栄と狂騒の二〇年代」の最高指導者として、国民に高い人気を誇っている。
「サイレント・カル」の異名通り、極度に寡黙な人となりで知られ、その口下手ぶりは亜細亜風に言うところの「有言実行」どころの騒ぎではなく最早「無言実行」の域に達していた。
最も、その口下手ぶりが災いして、政治家同士の裏工作的な部分に関しては全くの不得手であったのだが、それでも政局が安定していたのは、アメリカの良き時代の大統領であったという幸運が多分にあるからだろう。
この前年、米国下院において発議された所謂「排日移民法」、正確には「新移民法」と呼ばれる日本からの新規移民を全面的に排除する法案が下院を通過し、上院に送られると、クーリッジ大統領は上院に対して、この法案の審議先延ばしを水面下で要請した。
無論、口下手・交渉不得手の彼の事である。
加えて共和党政権のクーリッジに対して、民主党優勢の上院が大人しく言う事を聞くはずもなく、現在、その法案の審議に入ってしまっている。
クーリッジ大統領が、この法案の審議引き延ばしを要請した背景については諸説あるが、無論、日米関係の悪化を恐れて……などという理由で無い事だけは確かだ。
彼は日本との関係悪化など恐れてはいなかったし、むしろ世界のどこの国と関係が悪化しても気にならないほどに“ステーツ”の実力を信じていた。
排日移民法に対して否定的な理由、それは恐らく彼の政治信条によるものだ。
頑迷で古風な自由主義の信望者であった彼は、人種差別に代表されるありとあらゆる差別に対して、真っ向から否定的な意見を持っていたから……というのが正解だろう。
クーリッジ大統領は最初から大統領だった訳ではない。
無論、これは言葉遊びの類ではなく、彼は前大統領ハーディングの副大統領だった、という意味においてだ。
先代のハーディング大統領は決して無能でも、悪徳政治家でもなかったが、その大統領時代は常に黒い噂にまとわりつかれている。
彼を大統領にする為に動いたハーディングの同郷集団、所謂“オハイオ・ギャング”と呼ばれる一党の存在だ。
“オハイオ・ギャング”達は、言葉の通りのギャング集団な訳ではなかったが、ハーディングを政界の頂点に送り出すと、連邦政府のあらゆる利権に食い込み、手中にし、連邦政府そのものを巨大な利権集金マシーンとして稼働させ、支配した。
彼らオハイオ・ギャングに対する評価として善人・ハーディング自身の言葉が今に残っている。
「私は敵を恐れない。しかし、敵以上に私を恐れさせるのが友人達の行いだ」
この言葉だけで、ハーディングの苦悩と不幸が分かろう。
ハーディング大統領は苦悩に苛まれながら政権半ばに急死した。
即日、副大統領であったクーリッジが憲法に従い、大統領職を引き継いだ訳だが、大統領就任当初の政権運営は苦難を極めた。
無論、彼を厄介事の海に引きずり込んだのは、“前”大統領ハーディングを支えた政権中枢“オハイオ・ギャング”達だった。
彼らは、クーリッジに対してもハーディング時代に得た利権を既得権益として、その維持を要求したのだった。
幣原外相とウッズ大使の会談について語る前に、一度、当時の日本を取り巻く状況について記述しておきたい。
様式化してあるので、異論はあるであろうが、基本的な流れの誤差は少ないと作者は考える。
当時の日本、その貿易事情を単純化すると、米国に「生糸」「絹織物」を売り、その金で「鉄」「石油」「綿花」を輸入、この内、綿花を「綿織物」「綿糸」に加工し、英国に輸出する。
そして英国、及び英国植民地、つまりポンド圏諸邦から「工業原料」や「工作機械類」を購入し、最終的に廉価だが、ただそれだけで信用性にも機能的に劣る「機械類」や「綿織物」を中国やインドに輸出する事により成り立っていた。
つまり、日本が輸出してまともな評価を受けていた商品は、この「絹」と「綿」の二品しかなかったのである。
しかし、残念ながら綿自体には高度な技術が要求される物ではなく、言ってしまえば、どこの地域・国でも自給自足程度のできるものであった。
史実においては世界恐慌の発生を端緒として、英国は「イギリス連邦」を結成しブロック経済を導入、以降、植民地保有国は次々と自国経済防衛の為「ブロック経済圏」を設定、ブロック外からの輸入に対して徹底した高関税による保護主義を打ち出した事により、「持たざる国」日本の輸出産品はその行き場を失っていく。
そして、必死に市場を求める日本によって購買余力を持つ大市場として目を付けられたのが中国市場だったのである。
蛇足であるが、この「ブロック経済圏」――――英国では「スターリング・ブロック」と称したが――――に対して膝を屈し、仲間に“入れてもらった国”の一つに南米の雄国・アルゼンチンがある。
小麦や肉類、そして銅を主要輸出産品とする同国は、これら戦略物資の輸出により第一次世界大戦時に膨大な外貨を稼ぎだし、当時、世界第五位の経済大国となるにまで躍進、その経済力を背景として世界第9位の海軍力を保有、南米諸国としては初の“列強入り目前”と思われていた。
しかし、英国や仏国がブロック経済圏を世界恐慌時に確立した事により、同国経済を支えていたこの戦略物資の輸出が一日にして不可能となる。
外貨獲得の手段を失い、困窮した同国は、英国の経済圏に組み込まれる事を承諾する代わりに、輸出量の割り当てをしてもらう事によって自国経済の崩壊を防いだ訳だが、およそ10年間に渡って英国より植民地同然の半ば属国的な扱いを受ける事となる。
尚、アルゼンチンにおいては、この時の10年間――――同国では屈辱的地位に甘んじたこの期間を「失われた10年」と呼ぶ――――の反動により、第二次世界大戦勃発後、同国は極度の
「反英が故の親独路線」
に転じる事となるのだが、それはまた別の話である。
さて、日本においてはどうであったか……?
欧州大戦後の1921年に締結された『四カ国条約』への発展的解消として破棄された『日英同盟』であったが、仮にその後も同盟関係が継続していた……とした場合、どうなったであろうか?
残念ながら、何ら有力な資源という物を持たず、必要不可欠な輸出産品の育成を怠った日本が、世界屈指の資源保有国アルゼンチン以上の扱いを英国より受けたとは考え難い、というのが真実だろう。
日本においては、1920年代より大きく分けて二つの路線が成立していた。
一つは、現状維持派。
当時の経済関係を重視し米国・英国との無用な摩擦を避け、中国市場においても協調路線で行こう……という考え方であり、この中心にあるのが当然ながら財閥を中心とした一派である。
これに対するのが、現状打破派。
米英両国と多少、摩擦を起こそうが、とにかく自国の経済圏を確立する為に中国市場を独占した方が利がある……という考え方の一派。
この考え方を主導したのが、暴力装置の管理者にして使用者たる軍部、そして、この新たなる利権に目を付けた新興財閥群である。
史実においては、腐敗した政党政治に対し不満を募らせた官僚集団と結んだ現状打破派(軍部)が主導権を掌握し、その後、それに現状維持派(財閥)が迎合した結果、日中戦争から太平洋戦争へ……と突き進んでいく事になるのであるが、仮にこの時、現状維持派が権力闘争に勝利していたとして、結果はどうであったであろうか?
前述したとおり日本の主要輸出品目は「絹製品」(国内で資源段階から調達でき、国外に輸出できるレベルの商品というものが、残念ながら日本では絹以外には存在していない。綿織物も輸出産品であるが、日本国内では綿花の栽培が出来ない為、米国、インドよりの原料輸入に頼っていた)であるが、1930年代半ばに米国・デュポン社が「人工絹」の開発に成功すると、「工業製品」としての地位を急速に失い、絶対的取引量の少ない「高級商品」化してしまう(最もナイロンの普及までには数年の時を要するのだが……)
つまり、どちらの路線を取ろうが遅かれ早かれ、国産で唯一、外貨を稼げる存在であった「絹製品」の商品価値が暴落する事により、経済は崩壊していたのである。
史実における当時の日本を、後付けのイデオロギーを是として支持する向きもあるが、要は中国市場を自国経済ブロックに組み込みたい、という経済的欲求により、日本は戦争の道へと進んでいったのだ。
「暗黒の木曜日」――1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所における株価大暴落に端を発した世界恐慌の始まりまで、残り5年と9か月余り。
日本経済の体質を変えない限り、歴史は変わらない。
『富国強兵・万邦対峙』を国是とした明治維新より五十有余年。
日清・日露という二度の国運を賭した大戦争に勝ち抜く事により『富国強兵』は実現された。
『万邦対峙』に関しては、幕末明初の
「貴国はいまだ未開の蛮国であり、その様な国に自国民の裁判を委ねる訳にはいかない」
という列国の暴論に屈し、治外法権、関税自主権放棄という屈辱的な不平等条約を結ばざるを得なかった先人達の無念を、外相・陸奥宗光の執念により晴らし、更に欧州大戦に乗じて国力を大きく伸張させる事により、遂には国際連盟・常任理事国の一角を占めるに至った。
これにより念願だった『万邦対峙』も成し遂げたと言ってよい。
しかしながら、成し遂げると同時に、国家としての目標を見失ったこの国の政治と国民は、対華二十一カ条の要求、国際連盟への加盟、シベリア出兵……と次第に迷走を始める。
政権交代の度に入れ替わる「対外協調路線」と「対外強硬路線」
国内に山積する諸問題から目を背ける為の安易な海外進出。
国民(しかも国内で貧窮に喘いでいる者ほど、夢を追って海外へ進出したがる)の冒険心を刺激する事により、それに乗せられた人々は、次第に自己の不遇を欺瞞し、ぶつけどころのない不平不満を他民族への支配欲・権勢欲で満たそうとすることで、無意味な差別意識が生まれ、助長され、無駄な軋轢を周辺諸国、周辺民族との間に呼び起こすとなる。
例えば、当時の日本国民のうち、高等教育を受けたり、資産を有する者程、中国人や被支配民族(朝鮮人や台湾人)に対する差別意識が極めて希薄である。
何故なら、彼らいわゆるブルジョワ階級、即ち富める階級に属する者は、自らが差別された経験もなく、同時に富めるが故に他者を無意味に辱める必要もないからだ。
まさに『金持ち喧嘩せず……』の道理なのだ。
アジアから多くの留学生や労働者、果ては革命運動家達を受け入れ、彼らを庇護し、支援し、彼らに感謝されたのが、こういった人々であった。
反対に、日本国内で貧しい者ほど、前述した人々に対する非合理的な差別意識が強い。
日清で勝ち、日露で勝ち、欧州大戦で勝ち組となり、帝国はその版図に台湾・朝鮮を加えたにも拘わらず、一向に自身の生活は向上しない……。
何故だ?
彼ら貧しい大衆の素朴な疑問は、いつしか自らの不平不満不遇の全てを、差別意識に転嫁する事により、精神的な均衡を保とうとする様になる。
そしてこの精神作用こそが、
『民族意識の高まりは、国内階級闘争を淘汰する』
というファシズムの理論展開に利用される土壌を作り上げる。
そう、ナチスによるユダヤ人政策のように……。
『貧乏人ほど心も貧しかった』のが、当時の実像なのだ。
十数万人もの尊い命を贄としながらも
『関東大震災』
は、この国に与えられた最後のチャンスであるのかも知れなかった。
2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加