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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
15/111

第15話 寒波の夜

大正十三年一月十四日

(1924年1月14日)

神奈川県・横浜市



 日本列島を大寒波が襲ったその夜、陸軍大将・田中義一前陸相の私邸に男は現れた。男は、玄関先で『原田』と、だけ名乗り、田中と会いたい、と執拗に要求した。


 田中という男は実に頭がいい。そして、自分でその事を知っている。

――――善きにつけ、悪しきにつけ、この東郷内閣でいかなる形になるかは知らぬが、普通選挙法は通過する。それが世の流れであったし、その方が、田中にとってはむしろ、好都合だ。

 彼は自身の政界進出の下準備として三百万会員を擁する在郷軍人会を前もって組織した。しかし、今の選挙法では、、納税額3円以上の者にしか選挙権は与えられていない。さほど裕福とは言えない在郷軍人会会員のほとんどは、今現在、選挙権を持っておらず、言わば「死兵」に過ぎないが、普通選挙法が成立しさえすれば、彼は三百万の票を意のままに操れる。

 既に政界における落ち着き先は、政友会と決めてある。そして三百万の票を背景に、その政友会を牛耳るのだ。ここ数年、その想いを実現する為に、先を読み、先手を打ち続けてきた。


の筈なのだが……。


 東郷に大命降下がなされて以来、何一つ、思い通りにならない。自らは政界に打って出た後は、陸軍内部は腹心の宇垣を介して支配しようと目論んでいたのだが、その宇垣を陸相はおろか、陸軍次官にすら、押しこめなかった。

 聞けば、渡辺錠太郎少将が、新たな次官に就任したという。渡辺の事はよく知っている。長年に渡って、山県有朋の副官を務めあげた男である。山県の後継者たる田中との付き合いは当然ながら長い。

しかし、それは職務上の事に限っての話だ。彼の私的な部分、となると、やはり


(はて……?)


と思わずにはいられない。何となく、思いだすその姿は、本を読んでいる姿だけである。世代的には10歳も離れているのだし、普段、親しく付き合う必要もなかったので、これといって話をした覚えはない。

田中にしてみたら

「小者」

に過ぎない筈の、この渡辺少将が秋山にどうやって取り入ったものか次官だという。


(とかく、この世はままならぬ……か)


この日、田中は年来の友人を自邸に迎えており、したたかに酔っていた。寒風の夜にも関わらず、冷えたビールを口にし、そう腐らずにはいられないのであった。



 陸軍における田中の人望は厚い。

『長州閥の寵児』

という理由からだけではない。目下の者に対しても決して、気取らず、偉ぶらず……。

気軽に声を掛け、自らを

「オラ」

と呼ぶ、その庶民的な姿勢に多くの人々が魅了されているのだった。


 夜半の突然の来訪者。

田中邸において珍しい事ではない。元来、面倒見の良い男である。面識の有る、無しに関わらず、どうやって探し当てたのか青年将校が酔った勢いで押しかけ、問答を挑んだり、珍奇な自説を開陳したり……。

そんな事は日常茶飯事であったし、その様な無礼者に対しても田中は

「オラに任せろ、オラが何とかする」

と言っては、得心させて帰すのが常であった。その様な若輩者の意見で実際、田中が動く事はない。しかし、言った若輩者にしてみれば、

「田中大将は、実に話の分かる男だ」

と、納得させられてしまう……田中とは、そんな魅力に富む男だ。


 現職大臣であるならば、その私邸には警護の為、巡査が常駐するのだが、田中は前・大臣に過ぎない。

しかしながら、一応『軍事参議官』という肩書を有しているので、陸軍省より運転手という名目で警護の従卒が派遣されている。

「原田」と名乗った、その男はこの従卒と玄関先で何やら揉めている様子だった。先程より

「通せ」

「通せない」

と、押し問答の声が聞こえてくる。その名前に記憶はなかったが、あまりに頑迷な相手の物言いに、困りはてた様子の従卒を哀れに思った田中は、その男と会ってみる事にした。

 ハンチング帽を目深に被り、仕立ての悪いコートの襟を立てた、その短躯小太りで猫背の男を客間に通した田中は、


(はて?)


と怪訝に思う。

動きに軍人らしさが微塵もなく、下位者特有の卑屈さもない。大概の軍関係者ならば、例え泥酔していようと田中を目前にすれば、少しはシャンとするものだが、この面前の男、特に酔っている様子でもないのに、横柄な態度が全身から滲み出ている。


「これを……」

面前の原田と名乗る傲岸な男が、スーツの内ポケットから取り出した封書を差し出す。封書の差出人の名を見て、この面前に鎮座する男の傲岸ぶりに納得した。納得すると同時に、それまで『傲岸』に見えていた原田の様子が『威丈夫』と見えてしまうのだから、人間とはいい加減なものだ。


「西園寺公の御使者でしたか……遠路、お疲れ様に存じます」

田中は口調を改め、慇懃に原田の機嫌を取り結ぶ。原田は無言で立ち上がると、田中の開封を待たず、私邸を後にしようとする。田中は慌てて

「お待ちください、お返事は如何様に?」

と問いただすが、問われた原田は無礼にも振り返りもせずに答える。


「西園寺公は、お返事を必要と致しておりませぬ」

「さてさて、では、どう致せば……」

「西園寺公は、お手紙を出してもおりませぬ」

「は……?」

「今宵、私はこちらには参っておりませぬ」

(……!?)


田中はようやく理解した。


(なるほど。これが政治というものなのか……)



 原田が辞去した後、田中はその『密書』の封を開けた。そこに書かれていた内容は、明日、国会で発表される東郷内閣の施政方針の要目についてである。

 無論、満鉄売却に関する一件も、そこには記されている。その一文を目にしただけで、半白の髪を短く刈りこんだ頭皮に怖気が奮い立ち、全身の血流が急速に膨張し、顔面が紅潮するのが分かる。


怒髪、天を衝く、というやつだ。


しかし、田中の胸中を支配したのは、東郷とその施策に対する怒りよりも


(西園寺公は何故、これをオラに…?)


という純粋な疑問であった。


「どうしました?」

余りに座敷に帰ってこない田中の様子を怪訝に思った、その夜の客である浪人中の前・代議士森恪と腹心中の腹心・宇垣一成陸軍中将が心配げな顔で客間に顔を出す。田中の耳に彼らの言葉は届かない。


(西園寺公のおぼし召しは……オラにこの企てを止めよ、という事であろうか……?)


(何故、オラなのだ?)


(東郷平八郎……秋山好古……山本、犬養、高橋、加藤……?)


(オラに何が出来る……?)


(東郷……元帥、秋山元帥、上原元帥……?)


もう、この辺になると田中は、思考の迷宮に巣くう疑心暗鬼という名の鬼にその肝を喰われ始めている。


(いや、おかしい……上原ともあろうものが、満鉄売却に賛成するとも思えぬ……が?)


(売却……金……軍縮……上原は軍縮に反対の筈だ……)


(そもそも、満鉄売却などという絵空事に関東軍が大人しく言う事を聞くのか?)


(関東軍? 関東軍と云えば、その司令官は……白川義則)


(まてよ……白川は松山の生まれだ。秋山とは同郷の筈、その子飼いの将と云ってもよい……)


(白川の出は、確か……工兵科!)


(秋山……白川……上原! ええぃ! 糞、気がつかなかったわ! まんまとつながりおったわ!)


(政治に疎い東郷元帥閣下を籠絡し、その武名を利して満鉄を売らせる。中央の参謀本部は、いまや九州閥の意のままに動く本営だ。そして省部には政治を知らぬ秋山・渡辺を配して、これを傀儡とし、現地部隊は白川に抑えさせる。その全ての裏で糸を引くのが上原!?)


(おのれ……上原め! 断じて、貴様の思い通りにはさせんぞ)


 全てが氷解した。田中の心中において、腑に落ちぬ全てがこの瞬間、不幸にも繋がってしまった。軍政家として辣腕を振いながらも「弾の下を知らぬ男」と揶揄され続けた陸軍大将・田中義一。

冷静に考えれば、秋山陸相・渡辺次官という政治力皆無コンビの存在が、このパズルのピースとしては如何にも不似合い、ということなど直ぐに気が付きそうなものであったが、

「西園寺公よりの密書」

という名誉な(と当人は信じた)出来事と、そして何より

「上原への憎悪」

という感情が彼の理性と判断力を曇らせてしまったのだ。



「森君、すまんが一人、紹介してくれないかね」

政友会右派に属する森恪は、前回の総選挙に落選し、議席を失ったものの、政界入りを目指す田中の政治ブレーンを務めている。森は、かつて満州鉄道株式会社に圧力をかけ、時価70万円程度の価値しかない撫順炭鉱を220万円という不当な価格で買わせ、その金を手土産に政界に参入、たちまちの内にのし上がり、今や顔役の一人に数えられるまでになっているのだが、とにかく金の噂が絶えない札付きの人物だ。

 しかし、政治的には対中強硬派の論客であり、そのタカ派ぶりが同じ対中強硬路線の田中に気に入られ、側近を務めている。


「どなたを? です」

「いや、特に意中の人物がいる訳ではない。むしろ、君の方が詳しいだろう。そうだな……真に国を憂えるもので、政略に長け、知名度も高く、人望もある……それに野心も、だな」

「政略にも、と言われるところを見ると、在野の右翼ではなく?」

「そうだな、むしろ既成の政治家が良い。どうかな?」


 森はしばらく考え込む。ああでもない、こうでもない、と天井を見上げたり、扇子で風を送ったり……。

5分…10分…20分、ようやく一人の名を思いついた。

「いました、一人」

そういうと扇子をパチリと閉じる。

「ふむ。その人物の力、どれほどのものだね?」

「彼なら割る事が出来ますよ」

「何をだね?」

「政友会を、真っ二つに」

そう言うと、森は丸眼鏡を中指で押し上げニヤリと笑う。


「政友会を真っ二つに出来る……だと?」

田中の脳裏に、政友会の面々の顔と来歴が凄まじい勢いで走馬灯の如く浮かぶ。

 そして一人の人物に行きつく。

かつて平民宰相・原敬の右腕と呼ばれた男。原敬が暗殺された後、政友会後継者の最有力候補と言われながら、総裁選挙で当時、外様同然の高橋是清に敗れて以来、反主流派に転落せざるを得なくなった男。そしてその男は高橋擁立の中心となった主流派・横田千之助とは犬猿の仲として知られている。

「なるほど……床次だな?」

「ご明察、恐れ入ります」



 床次竹二郎。

慶応二年(1867年)生まれ。この時、56歳。

政界への転出組が少ない司法官僚上りの人物で、当初はさほど注目された人物ではない。その名が政界に知られるようになったのは、大正二年(1913年)の第一次山本権兵内閣成立時に遡る。当時、首班指名されたものの政界における地盤の弱かった山本権兵衛に、同じ薩摩出身者である事を武器に近づき、原敬率いる政友会との盟約を成立させた立役者となってからだ。この時の山本・原連合が、山県有朋を失脚寸前にまで追い込んだ事は以前、述べた通りであり、当然ながら山県の寵愛を一身に受けて出世街道を驀進した田中にとっては、忘れられる相手ではない。



「しかし、奴は……薩摩じゃないか」

田中は少し眉をしかめ、吐き捨てる様に呟く。

「ご心配なく。床次君はその様に小さな男ではありません。薩摩よりも国を愛していますので」

森のこの言葉は、ある意味「長州閥の頭領」に対して不遜極まりないものであったが、無論、田中は気がつくはずもない。

しばしの沈思の後、田中は重々しく口を開く。

「よかろう。床次と組もう」


 大寒波の襲ったその夜、横浜から東京・麻布の床次邸に向けて一台の車が疾駆する。その後部座席には、上原への怒りに我を忘れた田中義一が身を沈めていたのだった。事の成り行きを楽しむ森と、危惧する宇垣を乗せて。

2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加

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