第14話 裏の裏
大正十三年一月十四日
(1924年1月14日)
静岡県清水市興津・坐漁荘
この日、日本列島を覆った大寒波は、坐漁荘のある静岡県清水市に対しても手抜かりなく襲いかかり、十数年ぶりとなる雪を降らした。
坐漁荘の一室、午後の一刻。
遊びに来た横田と昼食を共にし、したたかに酒を飲んだ。障子戸を介して忍び寄る寒気と、書生の用意した赤々と炭の熾る火鉢の温かみ。酔いと寒さと温かさの絶妙な調和が、どこか心地よく西園寺を包み込む。
師・大村益次郎の亡骸にすがりつき、泣きじゃくる一人の青年。
(なんだ、こいつ、自分じゃないか……)
盟友・陸奥宗光の葬儀の席上、畳みに突っ伏し、嗚咽を漏らし続ける初老の男性。
(おや? これも自分だ……)
怨敵・山県有朋の亡骸の納まる棺桶内を冷淡な目で見降ろす老人。
(あぁ、やはり自分ではないか……)
病魔により、生前の溌剌とした山県からは想像も出来ないほどに痩せ細った、かつて山県であったモノ……。
型通りの焼香を済ませた西園寺は、自らの老齢を理由として早々に席を立とうとする。
突、左の袖を誰かに掴まれる。
思わず、よろける自分。
袖を掴む黒ずんだ爪と干魚の様な色の細い腕。
その先は棺桶の内へ、内へと続く。
西園寺の目線が棺桶内へと移る。
その底では、狂気を宿した血眼をクワッと見開いた山県が西園寺を睨みつけている……。
西園寺は驚かない。
亡者の腕を振り払うと、傲然と背を向ける。
(山県、俺の勝ちだ……)
ハッとして、西園寺は目を覚ました。
抱きかかえていた火鉢の炭が、もう間もなく灰の底に沈みこもうとしている。異様な喉の渇きを覚え、脇に置かれた湯呑の冷めきった茶を貪る様に飲む。貴人に相応しくなく、口端から垂れ落ちた茶を荒々しく和服の袖にて拭う。
(陸奥、すまぬ。忘れておったわ……)
書院机の上には明日、開かれる臨時国会の東郷首相・所信表明演説の草稿が置かれている。内閣書記官長・尾崎が起草し、閣議において披露されたものを西園寺子飼いの司法大臣・横田千之助が聞き書きしてきたものだ。
発表前の内閣申し合わせ事項である。本来ならば閣外の西園寺に見せて良いものではない。しかし、横田自身に罪の意識はない。師とも父とも敬愛する西園寺への手土産のつもりで持参したものだ。
無論、西園寺も横田を非難するものではない。自由に生きたいばかりに生涯、妻帯しなかったような男である。横田の行為自体は、露見すれば厳しく弾劾されるべき行いではあったが、物事が全て四角四面で出来ている訳では無いことについて、西園寺はこの国の誰よりも知っているのだから。
「急がねばなるまい……」
我が子のように可愛がる横田の、その乱文悪筆を静かに眺めていた西園寺であったが、ほどなく決心を固めたかのように手を叩く。枯れ枝の様な手が発した微かな拍手を聞き洩らさなかったと見え、僅かばかりの間を置いて、廊下を小走りに駆けて来る足音がする。
「お召しにございますか」
襖越しに声が聞こえた。書生、という肩書で先年より西園寺邸に住み込んでいる原田の声だ。いずれは秘書に……と考えてはいるが、この時点ではその候補生、と言ったところか。
西園寺邸には、この原田に限らず、将来、政治家を目指す多くの書生が住み込んでいるのだが、この男は少しだけ毛色が違う。その正体、実は住友財閥の社員なのである。西園寺の実弟にあたる住友財閥の現当主・十五代目吉佐衛門友純より、密かに
「兄上の手足として動くように…」
と派遣されてきた男だ。無論の事、今日的に言う
「ボディガード」
を兼ねているだけあって、明晰な頭脳を持つだけでなく腕もかなり立つ。西園寺自身は預かり知らぬ事であったが、この原田、住友友純より万が一、西園寺の身辺にて
「荒事」
が起きた場合の処理役も言い含められているのだった。
「手紙を書きたい。硯と筆を」
西園寺は短く原田に指示を出す。一礼して消えた原田が、ほどなく書箱に硯、筆、便箋、封筒など一式を部屋に用意し、西園寺の面前にそれを並べた。そのまま下がろうとすると
「待ちゃれ、原田。直ぐに済む」
と声を掛ける。ほどなく、短い手紙を書き終えた西園寺は、その封書を原田に手渡すと
「これを今宵の内に田中に渡すように……。よいか、汝自身の手にて直に渡すのだぞ」
「はっ」
無論「どちらの田中様にございますか?」などとは訊ねない。それを訊いたら、秘書など勤まらないことを双方とも心得ている。原田は無言でその封書を油紙と紫の布に包み込み、雪のちらつく坐漁荘を足早に後にする。
火箸で灰を掻き分けると、空気に触れた炭が再び赤々と熱を発しはじめる。その火鉢に手をかざした西園寺は独り言をこぼす。
「すまぬな、木堂……」
火鉢の明かりを反射したその顔……。
うっすらと笑みを浮かべたその目は、正に妖狐のそれであった。
2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加
2010年3月6日 誤字訂正