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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
13/111

第13話 それぞれの想い

大正十三年一月七日

(1924年1月7日)

東京・深川 料亭「万梅」 


 秋山陸相、上原参議官、そして渡辺次官が、陸軍の明るい未来について語り合っている丁度その頃、ここ東京・深川の料亭「万梅」の一室において会合している男たちがいる。

舞台となった万梅は文政年間の創業というから、間もなく100年に達する老舗の料亭であり、現主人も四代目にあたる。先の震災において、周囲の料亭連の大半が倒壊し、焼け出された中、奇跡的にそれらの災厄を免れたのは、老舗にしては珍しく無理な増改築を行わず、小粋な中庭に満々と水を湛える池を配していたからだろう。ここ万梅の名物料理は、「鯉のあらい」と「鯉こく」だという。創業者・初代伝右衛門が信州出身であったことに由来するのだが、開業当初は江戸前の魚を無闇やたらに重宝したがる江戸っ子諸氏からは「田吾作料理」とよく嘲られたものだったそうである。

 

 さて、くだんの会合の中心となったのは、此度の東郷首班指名の立役者・犬養毅である。つい先刻まで東郷邸において、山本権兵衛らと共に組閣人事の談合を行っていたのだが、ようやくそれも終わり、こうして懇意にしている芸妓が待つ万梅に席を移したのだった。

 組閣に関しては思いの外、順調に進んだ。理由は、首班たる東郷自身が陸相に秋山を希望したこと以外は、その一切を山本権兵衛に任せたからである。東郷の信任を受けた山本は、大命降下の「共犯者」である西園寺らと緊密な連絡を取り合い、それぞれの人脈を合して大連立内閣を組閣したのだった。

まず山本系では憲政会の加藤、若槻、浜口らが、西園寺系では政友会の高橋、横田らが、そして「言いだしっぺ」の責任を取らせられる形で革新倶楽部・犬養、尾崎、それに後藤らの入閣が決まったのだ。


 料亭「万梅」のささやかな宴に顔を出したのは、同じく内閣書記官長へ入閣した代議士・尾崎行雄、政友会の幹部で、今回の電撃的な三党合同を西園寺老の意を受けて陰から画策し、自らも司法大臣に入閣した横田千之助、そして憲政会の「獅子」の異名を持つ大幹部・浜口雄幸文部大臣の4人である。いずれも、時に朋友として、時に政敵として、互いの手の内を知りつくした、つまり気心の知れた数少ない仲間内である。

「しかし、正直、驚いたよ。木堂さんが入閣に応じたのには……」

酒が一巡し、ほのかな酩酊状態が座を支配した中、口火を切ったのは尾崎だった。

「そういう愕堂(尾崎の号)さんの入閣にだって、僕は驚きましたよ」

そう言って笑ったのは横田である。

「俺達は駆逐艦だ!なんて啖呵切ってた癖に」

「西園寺の御大から聞いたのかい? あぁ、まぁ、俺はしょうがないよ。言いだしっぺだからな」

と尾崎はペロリと舌を出す。

「西園寺老も東郷首班には心底、驚いてましたよ。僕が坐漁荘に呼ばれた時には、西園寺老、そりゃあもう、興奮しきっていて」

笑い混じりに横田が猪口を口にする。原敬亡き後、西園寺が自らの後継者として可愛がる横田は、持前の邪気のない溌剌さを溢れさせる様に当日を振り返る。

「しかし、まぁ、今回の組閣が思いの外、順調に行ったのは横田君の陰働きのお陰だな。ありがとう」

犬養が軽く頭を下げる。

「それで、これからの東郷内閣の舵取りだが……」

「老から聞いています。満鉄売却の件でしょう?」

横田が答える。

「ちがうよ。満鉄を売るのは東郷さんだ。その件は多分、問題ないよ」

「問題ないって言うより……問題はあるけど、東郷さんがそれを問題にしない、って事でしょう」

犬養の答えに横田が笑みをこぼしつつ応じる。

「全く、後藤さんの考える事には相変わらずとんでもないや。これには心底、驚きましたよ」

「横田君、満鉄の件なんてどうでもいいよ。そんなものは、ね、東郷さんと秋山さんが組んでしまえばどうとでもなるんだ。いまや、海軍全体が言わば『東郷親衛隊』なんだから、陸軍のはねっ返りどもが何を多少、騒ごうがそんなものは踏みつぶしちまうよ。細かい事は、後藤君と高橋さんに押し付けちまえば、二人で何とかするだろう。そんな事は今、我々がせねばならんことじゃない」

尾崎が横田の酌を受けながら、答える。

「しかし、こう言ったら何ですが、東郷さんを担ぎ出さなきゃ、この国の政治を動かせない……となると、僕は泣きたくなりますね。政党人としては……」

横田がしみじみとこぼすと、尾崎もその言葉に頷く。

「ともかくだ」

煙管をふかしはじめた犬養が火口を煙草盆に落とすと口を開いた。

「俺達には、まずやらねばならない事がある」

「普選の実現……ですね?」

尾崎が片方の眉を上げるようにして、同意を求めるが、犬養は頭を横に振る。

「え?」

といった表情で尾崎と横田が顔を見合わせた、その時、甘辛く煮込まれた「鯉こく」の細かな骨を取り除く作業に飽いた浜口が、膳に箸を放り出す様に置いて不機嫌そうに呟く。

「解散総選挙だ」


「さすがは浜口君、察しがいいね」

犬養がニヤリとすると、尾崎と横田の二人はやはり

(訳が分からない……)

といった顔で応じる。

「木堂さん、どうしてです? 東郷内閣は憲政会、政友会、それに革新倶楽部の三党で議席の9割近くを独占してるじゃないですか? 何をいまさら……」

「分からんかね?」

当時、日本の政党勢力は、伊藤博文に初を求め、西園寺・原・高橋と受け継がれてきた保守本流の「政友会」が270余の議席数を誇る最大会派として君臨し、これに次ぐのが桂太郎が山県有朋の支配下から自立する為の下準備として用意した立憲同志会の流れを組む「憲政会」が130議席の第二党であり、これに次ぐのが急進的な自由主義論者・犬養、尾崎らに率いられた「革新倶楽部」で、これが30議席ほどを確保している。つまり、この三党によってほぼ占められていると言っても過言ではない。他に無産政党などの小会派や無所属議員はいるものの、絶対的にも相対的にも少数勢力に過ぎず、政局の運営に影響を及ぼすほどの力はない。


 犬養は言う。

善きにつけ悪しきにつけ本来、対立すべき政党同士が、『ノアの箱舟』よろしく一つの『東郷の船』に乗ってしまった。しかし、今の段階では東郷を支持するが故の東郷与党ではなく、自らが生き残る為に与党となったに過ぎない。今、東郷内閣が大事を行おうとしても議会において反対する勢力というものが事実上、皆無の状態となってしまう。

 内には、経済不況に対する根本的な対処に金本位制復帰問題。慢性的な食料問題もあれば、昨今、激化しはじめた労働組合運動への対応。普通選挙法の制定に始まり、これと抱き合わせで検討が始まった治安警察法の改定、これまでに幾度も請願がなされたものの政府が無視し続けてきた台湾地方議会設置運動への明確な回答、震災の復興、大資本の製糖業進出に伴う土地買い占めにより、生活に困窮し餓死者を出しかねない状況下に置かれている沖縄、台湾の農民救済措置……。

 外にはジュネーブ新軍縮条約の事前協議の開始から米国が模索する排日移民法への対応、ソ連との国交回復交渉……。

 幸いにも危急を要する軍事的な緊張がないだけで、数え上げたそのどれもが、一つの内閣で全う出来るか分からない程の難事大事である。犬養としては、これらの難題を東郷という御旗の下に、一挙に解決し、国家百年の膿を出し切ってしまいたい。

「もちろん、そのつもりだよ。だから西園寺老に大鉈の振るえる東郷さんを推薦したんじゃないか」

尾崎は犬養に

(何をいまさら……)

といった風に詰め寄る。


「だからよ、愕堂」

いざ動き出してしまえば、東郷内閣を止められる勢力なんぞこの日本に存在しない。だからこそ、本気になって動き出す前に、本当に自分達がやろうとしている事が、国民の支持を得られるのか? 自分達は東郷与党として相応しいのか?

「政治家が自ら『憲政の常道』をひっくり返すことまでして、厄介事全部を東郷さんに押し付けちまうんだ。せめてもの罪滅ぼしに総選挙で国民に信を問うのが、わしら政党人のケジメってもんじゃねえかい?」





同日同刻

東京・赤坂表町 高橋是清邸



「馬鹿な事を!」

「後藤君、気は確かかね!?」

犬養らと時を同じくして、政友会総裁・高橋是清蔵相邸に参集したのは、憲政会総裁・加藤高明内相、後藤新平復興院総裁、幣原喜重郎外相、農商務大臣に入閣した憲政会副総裁・若槻禮次郎の4人であった。

たった今、後藤が秘策中の秘策としていた

「震災復興資金調達の為、満州鉄道を売却する」

という、東郷内閣の大方針を二大与党の首領に話したのだった。

思わず声を荒げた二人――――前者が高橋、後者が加藤――――は、


(はめられた!)


と思わずにはいられなかった。奇しくも二人の胸中に同時に沸き起こったこの想いは、正しく自らの政治生命を失いかねない、との衝撃を携えていた。

「道理で、話しがおかしいと思いました」

顔を赤くしたり、蒼くしたりしている日本を代表する二人の大物政治家とは対照的に、意外と落ち着いていたのは外務官僚上りの幣原だった。若干43歳で外務次官に昇り詰め、欧州大戦、ヴェルサイユ講和会議、国際連盟の創設、ワシントン条約の締結…と様々な難局において常に日本外交の一線で活躍してきた人物だけに

『くぐった修羅場の数が違う』

のかもしれなかった。

「いいじゃないですか、後藤さん。僕は賛成ですよ」


「おい!」

声を再び荒げたのは加藤である。この加藤、日清戦争という非常事態後も比較的、友好関係を保っていた両国民の仲を決定的に引き裂いた所謂「対華21カ条の要求」を出した大隈内閣当時の外務大臣を務めており、対外強硬派として剛腕を知られた人物である。最も、その剛腕ぶりを西園寺に嫌われ、苦節10年余、万年野党という地位に落ち着いてしまっていたのだったが…。

この加藤が外相を務めていた折の外務次官が幣原だった、という関係もあったが、何より両者共に三菱財閥の娘婿、義理の兄弟にあたっており、その奇縁もあって、なんとなく幣原を目下に見ている。「おい」と呼ばれた幣原はあえて加藤を無視し、続ける。

「買い手は米国ですよね? いやあ、こりゃあ、いい。これで日米両国100年の平和が生まれますよ」

「でしょう? 満鉄、満鉄って騒ぐ奴も多いですけどね、日本は四方を海に囲まれた海洋国家なんです。

海洋国家が鉄道、走らせて喜ぶ…なんてのはね、こりゃあ不健全ですよ」

後藤も幣原に酌をしながら、何かしら持前の怪しげな理論を嬉しそうに話す。

「後藤君、復興予算なら国債を発行するにしろ、米英に借款を申し込むにしろ、何とかするから、どうかそればっかりは諦めてくれんかな?」

高橋が達磨の様な巨躯を縮めるようにして、後藤に懇願する。

「ダメです」

後藤はにべもない。


「では、肝心の東郷首相は何て言ってるんだね?」

自棄になりかけている加藤が手酌で酒をあおりながら尋ねる。

「山本さんから聞いた話では、首相はただ一言『それが国家百年の為というならば、冥府の乃木には、わしから詫びを言っておくよ』とおっしゃったそうです」

「……」

これには加藤・高橋、言葉もない。しくじったら腹を切る、という意味だろう。東郷が、満鉄売却という難事について、どれほどの理解をしているかは分からないが、少なくとも命がけで大命降下を受けた、という事だけは確かのようだ。

「人間も軍神と呼ばれる様になると、さすがに肝の据わり方が違いますな」

幣原は何故か仕切りと感心しているようだ。


 とは言うものの……。

加藤も高橋も一流の政治家である前に大商人であり、怜悧な財政家である。満鉄売却により得られる利益と、失われる利益を天秤にかければ、今の日本にとってどっちが得か損かの算数は出来る。

 だが、二人とも政治家でもあるのだ。

満州で流された数十万の血の代償として得た満州鉄道を、こうも易々と売る・売らないというような話の対象として語るのが怖いのだ。

もしかしたら、激昂した民衆が、かつての日比谷焼き打ち以上に暴れ狂い、内閣を倒壊させるのではないか?

そして、その与党たる自分らの党も、これを最後とばかりに瓦解するのではないだろうか?

そして、それに便乗した軍部が得意の横槍を繰り出し、ようやく根を張り始めたばかりの日本の政党政治を、自分達の手で幕を引く事になるのではないのか?

 考えれば考えるほど、大それたことを企てていると実感し、加藤も高橋も口を揃えて、後藤を諌め続けていると、

「卑しいですよ、お二方とも」

と、あっさりと幣原に撫で切られてしまった。物怖じしない性格の後藤に言われるならまだしも、

『たかが官僚』

と思っていた幣原に言われたのでは

「自分こそ日本を代表する政治家」

と自負する両人の立つ瀬があまりにもない。


 押し黙る両者を無視して、幣原が後藤に向き直る。

「満鉄売却の件、心得ました。この幣原、その企てに一口、のりましょう」

そう言うと、取り出したハンカチーフで額に浮いた汗を拭い、高橋家の書生に茶を所望する。

「しかしですね……満鉄を売却した金の使い道。実際のところ、これが問題でしょう?」

「使い道って、震災の復興に決まってるじゃないか」

後藤の、さも当然といった答えに

「軍部がそれを認めますかね?」

と幣原が、疑わしげな視線で問い返す。

「震災復興に使うから、アメリカさん、満鉄を買ってくれ……これは話が通りますよ。売りたい人間と買いたい人間の意見が一致するんですから、おっしゃる通り、米国は大金を出すでしょう。しかしながら、その金で大砲買ったり、軍艦なんぞ造ってみなさい。あとで、世界中からとんでもないしっぺ返しを食らいますよ。後藤さん、保証できますか? 軍部にその金を使わせない、っていう」

幣原がギョロ目を光らせ、後藤に詰め寄り、それをみた加藤、高橋は

「ほれ、見たことか……」

とばかりに冷たく後藤を見返すのだった。

「なにしろ軍部……。陸軍大臣も海軍大臣も、内閣を代表して軍を差配するのではなく、軍を代表して内閣に入閣してくるんですからね。立憲国家としては本末転倒もいいところです。あ、こりゃ失礼」

幣原が、あやうく不敬罪ともとられかねない統帥権絡みの話を出す。これに対しては高橋が膳に猪口を置き、紙巻き煙草を取り出しながら呟く。

「軍部は軍部で統帥大権を楯に予算獲得の為にゴリ押ししてくるし、内閣は内閣で編制大権を楯に軍部の力を弱めようとする……悪循環だからねぇ」

「あぁ、欧州大戦後に帷幄奏上された帝国国防方針でしたっけ? あの時はあきれましたな」

これまで無言だった若槻が思い出したように口を挟む。

「陸軍が初動20個師団、戦時40個師団体制。海軍は海軍で例の八八艦隊ってやつでしょう?」

「見積もり額を見た時には驚きましたよ。こいつら正気なのか? って。海軍さんの八八艦隊の建造費用だけで毎年3億円、その維持費が6億円の合わせて9億円でしたからね。国家予算が15億しかないって事を知らないんでしょうかね?」

「子供と一緒だよ。欲しい物、全部、言ってみました!ってやつだ。腹を空かした貧乏人の倅を駄菓子屋の前に連れて行くと同じ事が起きる」

高橋の冗談に、ひとしきり座に笑いが起こり、和む。


「腹を括ろうじゃないか、加藤さん」

吸い掛けの紙巻きを、手近の煙草盆で念入りに揉み消した高橋が加藤を正面から見据えると持前のテノール歌手の如き声を出す。

「僕たちは政治家だよ。軍部が何を言いだそうが、国民が何を求めようが、己らの正しいと信じる道を堂々と指し示すのが、政治家ってものだろう。満鉄売却代金、いくらになるか知らんが、その金が軍艦に化けるか、ビルヂィングに化けるか、この国の未来を賭けてみようよ」

「どうするんです?」

長年に渡る政敵ではあるものの年長である高橋に敬意を表して、居住まいを正すと加藤が問う。

「解散総選挙だよ」

2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加

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