第12話 元帥談合
大正十三年一月七日
(1924年1月7日)
東京・三宅坂 陸軍省 大臣公室
窓の外は既に冬の空にその支配権を譲り渡している。
漆黒の闇の中を見渡す窓辺に上原は立ち、寒風吹きすさむ東京市街地に見入る。
かつてこの窓から見渡した空は、あちらこちらの歓楽街の艶やかな灯を反射し、その明りの下に活気と生命力を感じさせるものであったが、今、眼前に広がる空は闇に包まれている。
震災による荒廃は東京から夜の生命力をも奪ってしまったようだった。
「なぁ、上原……」
片手に湯呑を持ち、窓辺に立つ上原にむかって秋山が声をかける
「貴様は陸軍次官に誰を推す気だ? お前のとこの武藤君か?」
「武藤の名前を知っているとは、驚いたな」
上原が秋山の無頓着ぶりを嘲る。
「そのつもりだったが……秋山、お前は宇垣を推す気か?」
「うーん。田中君も宇垣君もすっかりその気でいるようだけどね……」
如何にも「弱ったな」という顔で秋山は上原の背を眺める。
「ほう……では、南でも推す気かね?」
南次郎中将は、ほとんど政治的な人脈というものを持たない秋山に唯一、忠誠を誓っている騎兵科出身の人物で、田中や宇垣と親しく、準・長州閥ともいうべき立ち位置にいる。
その性格は同じ騎兵科出身者らしく、秋山同様に飄々としてあまり細かい事を気にしない。
長らく、秋山の女房役である副官を務めていただけに、性格も似てしまったようだ。
「俺と南じゃ、省部の書類は誰も見なくなっちまうよ」
自嘲気味に秋山が笑う。
「もうすぐ来るよ。さっき呼びにやったんだ。会ってやってくれ」
「誰だ?」
振り向きながら上原が訊ねた、ちょうどその時、公室の扉をノックする音が聞こえる。
公室事務取扱の若い中尉が扉に立ち、来客を告げる。
「大臣閣下、渡辺少将閣下がお見えになりました」
「渡辺?」
上原は、その名を聞いてもピンとこない。
(……はて、誰だったかな?)
新たなる来客に席を譲る為、上原はソファに立て掛けられたままの自らの軍刀を手にすると、部屋の片隅にあった木椅子に腰をおろす。
「渡辺少将、入ります」
野太い声と共に、大男が入室してくる。
その人物、年の頃50がらみ。
天然パーマらしく軽くウェーブのかかった頭髪をキレイに七三に撫でつけている。
良く肥えた体躯、大きな双眸に四角く整えられた口髭。
しかしながら、その表情は室内に先客がいた事に驚いたのか、やや困ったような表情になる。
「ああ、渡辺君、済まなかったね。忙しいところ……」
秋山は引出しから新たな湯呑を取り出すと、やはり腰から下げた手拭いで中を拭きながら、腰を掛けるように勧める。
「いえ、大臣閣下のお召しですから」
緊張した面持ちの渡辺少将は、手渡された湯呑に注がれる液体が酒だと気が付き、驚きを交えながら凝視している。
(どこかで会ったな……どこだったかな……)
上原は、渡辺の顔を盗み見ながら、思いだそうとする。
「渡辺君、単刀直入に言うが、次官を引き受けてくれんか?俺はこの通りの人間なんで、苦労をかけると思うが……」
「……はっ、光栄に存じます」
秋山の言葉に、渡辺は心底、驚いた様子だ。
眼を丸くし、手にした湯呑を思わず落としそうになり、慌てて両手で抱えこむ。
(……あ、四部長の渡辺だ)
上原は思い出し、苦笑する。
昨年、自分が参謀総長時代に歩兵第一旅団長だったこの人物を参謀本部第四部の部長に据えたのだった。
参謀本部四部は「戦史研究」を主に行う部署だ。
参謀本部を構成する四つの部の一つ。
作戦研究を担当する第一部、諜報防諜を担当する第二部、交通通信管制を担当する第三部に比して、その存在は軽い。
職務は日清、日露は元より、古今東西の歴史的な戦略、戦術を主に研究し、戦史書の編纂であり、実のところ、閑職といってもよい。
しかも歴史を扱う部署だけに、その部員は陸士出身者よりも一般大学出身者が多く、その性か陸軍においては一種、独特のリベラルな雰囲気を持つ部である。
(ふーん、秋山もまた奇抜な人事を……)
緊張を解そうとしているのか、さかんに湯呑に口をつける渡辺を見つめながら、上原は考える。
渡辺錠太郎。
明治七年生まれ。この時49歳。
『給料日には部長室前に本屋が列をなす』
と笑い話にされる程の読書家。
欧州大戦中から戦後にかけて、オランダ駐在武官を振り出しとして長期にわたり欧州に滞在、その悲惨な戦争の様相を目の当たりにしてきている。
その時の詳細な報告書が上原の目にとまり、第四部長に据えたものだった。
山県有朋にも、その見識を買われ、長らく副官を務めていたことから
「山県(長州)閥」
と言えなくもないが、どうも本人にその自覚が根本的に欠けているらしく、秋山同様に表だって政治的な動きを見せた事はない。
(しかし、まぁ、意外にいいかもしれん。秋山は大雑把過ぎるから、几帳面な渡辺なら良い女房になるだろう)
内心、上原は安堵する。
自派の武藤を頑迷に推す事も一時は考えたが、最有力候補の長州閥・宇垣に比べれば、遥かに渡辺はマシだ。
(なにしろ、害が無いからな。渡辺ならば……)
『反対する理由』が思い浮かばないまま、上原は秋山の陸軍新体制に対して傍観者たる事を決める。
(問題は……田中・宇垣の出方だが……。しかし、渡辺も奴らと同じく山県に列成す者だけに表立って反対には動けまい。案外、秋山、そこまで考えたか?)
上原は僚友・秋山の考えに驚きを覚える。
同時に
(まさか……な)
と苦笑がこぼれた。
恐らくは、秋山に近い人物、恐らくは関東軍司令長官を務めている白川義則中将あたりの入れ知恵だろう。
「引き受けてくれるなら、これを読んでみて意見を聞かせてくれんかね」
秋山は、例の『宇垣私案』を渡辺に手渡す。
「失礼します」
湯呑をテーブルに置いた渡辺は、鼻眼鏡を胸ポケットから取り出しかけると、冊子を手にし、生来の速読術を持って異常なスピードで頁をめくっていく。
その早さ、秋山も上原も驚くばかりだ。
「よく練ってあります。さすがは宇垣中将ですね」
「だけ……かね?」
「あ、いえ……宜しいですか?」
「言ってみたまえ」
と、秋山が口にする直前、興味を覚えた上原が割って入り、先を促す。
渡辺の意見は、至極単純だった。
曰く、
「徴兵制の一定期間停止」
というものだった。
当時、陸軍の各師団の平時充足率は五割。
この内、職業軍人と呼ばれる者は実は三割程度である。
つまり二割が徴兵された一般人である。
エリート中のエリートとされる帝國大学出の初任給が、四五円から五〇円少々の時代の話である。
日雇い労務者が一日二円貰える時代に、徴兵された兵の給与はたったの四円五〇銭、これに加えて留守家族に対して生活補助として九円が支給される。
つまり徴兵された兵に対して、一か月十三円五〇銭の給与が支払われ、この他に三食の食事は元より、褌からチリ紙に至るまで支給する軍隊生活、加えて各自に渡される兵器の購入、整備費用などまで含めると平均一人当たり月二十五円が消費される。
陸軍二十個師団の二割が徴兵された兵で充足されている訳だが、その徴兵を一時停止する事により、年間三千万円の経費が浮くという。
シベリア出兵関連の特別予算まで含めれば、陸軍予算は凡そ二億円。
そのシベリア出兵も保障占領中の北樺太を除いて、ほぼ撤兵が完了しており、今後、陸軍の予算は縮小に向けて一気に加速する中、三千万円という予算を浮かせる事が出来れば相当に楽になる。
「徴兵というのは効率がいいように思えますが、実はかなり非効率なものですからね」
渡辺はそう言って、鼻眼鏡を胸にしまう。
「徴兵制の停止とは……大胆だな、君は……」
度肝を抜かれた……といった感じ上原がため息混じりに言葉を発する。
「しかし、徴兵制を停止するとしたら、いざ戦時には間に合わんじゃないか」
「ドイツを範とするべきです。元帥閣下」
渡辺が巨人・上原にも臆せず、反論する。
「ご存じのように」
欧州大戦で敗れたドイツはヴェルサイユ条約により陸軍兵力を10万人に制限された。
しかし、ドイツ陸軍はこの制限に対して、将校・下士官の大部分を軍隊に残留させ、一般の兵を解雇するといった方式で対抗した。
それは一見すると
「職業軍人の生活を保護し、本来、市民である一般の兵を民間に復帰させた」
ともとれる。
しかし、その真意は、
「教育・訓練に時間を要する職業軍人を手元に残し、有事には一般市民を徴兵する事により、戦力の質的な維持を目指す」
というものである。
しかしながら敗戦国のドイツと違い、戦勝国である日本において、そこまでやる必要は当然なく、数個師団は緊急派遣用として現行の充足率を維持すればよい。
他の十数個師団においては必要な年数だけ充足率の低下に関しては甘んじて受けることになるが、余剰予算で装備の近代化を図れる、といったものだった。
「ふむ」
確かに師団その物を消滅させる宇垣私案と違い、将校・下士官が軍隊に残る事により、短期間で戦力の回復が見込める。
いや、むしろ、将校・下士官だけで編成された「空っぽの師団」を事前に多数、用意しておく事で、戦時には短期間で師団を養成できる。
国民から何かと評判の悪い徴兵制度を一時停止したとしても、既に徴兵を経験し、除隊している予備役、後備役を召集すれば当面、兵の質的な低下は皆無だし、その上、国民世論は歓迎するだろう。
無論、徴兵停止期間が十年単位の長期に及べば、別な弊害も出てくるであろうが、当面は凌げる。
何より、職業軍人を解雇せずに済むのが、この渡辺案の良いところだ。
「渡辺少将。早速、その案で陸軍の再編計画を進めてくれ」
上原の言葉に、秋山が咳払いする。
「あぁ、すまん。大臣は貴様だった」
苦笑する上原に秋山が豪快な笑い声で応え、つられて渡辺も笑い出すのだった。
正史に言う宇垣軍縮は
「陸軍の近代化に成功した」
と評価の高いものでしたが、同時に後年の太平洋戦争中の慢性的な将校・下士官不足の遠因ともなりました。
本話ではその点を何とか改変したかったのと、渡辺錠太郎氏の表舞台への登場を早めたかった点にあります。
正史においては、二二六事件の犠牲者となった渡辺氏ですが、拙作においては、今後も長きにわたって活躍して頂きたいと思っています。
2009年11月25日 誤字及び計算間違い訂正…。
お恥ずかしい限りです(汗)
2009年12月19日 サブタイトルに話数を追加