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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第三部
110/111

保管用 27

   (一)



 太ももの内側を流れ落ちる小便の温もりは頭蓋の芯に痺れる様な快感をもたらす。

 極寒の中、その至高の悦楽をもたらす小便が永遠に湧き出し続けてくれる訳ではない。

 数秒後には膀胱内に宝物の様に貯め込んでいた生温かい液体は尽き、濡れた下着も軍袴も身を裂く様な寒さの中、たちまち凍てつく事になる。

 米国から支給されたM1917エンフィールド小銃の固定弾倉に弾薬を装填しながら、白系ロシア義勇軍のワシリー・コロシコフ軍曹は名残惜しげに最後の一滴を絞り出した。


 図們の街、その一角に掘られた粗末な塹壕。

 僅か数百メートル背後には数時間前まで避難民でごった返していた図們駅がある。

 集まった避難民は無事、国境を越えており、もはや、守るべき対象は存在しない。

 ならば、逃げても良かった。

 戦は敗勢。

 コロシコフ軍曹は負ける事に馴れてはいたが、合衆国の全面的な支援を受けている以上「今度こそは――」と思わぬ訳でもなかった。

 しかしながら、どうやら今回も負け戦であり、そろそろ本気で逃げる算段をせねば、待ち受けているのは確実な死のみだ。

 ロシア帝国の軍人としてドイツやオーストリアと戦い、その後はボルシェビキと戦い続けた。

 かれこれ十年になる。

 もう、逃げるのには疲れてしまった。


 赤軍の先遣は彼のこもる塹壕の数十メートル先にまで達している。

 不完全な塹壕内には戦友にして部下である者達が、コロシロフ軍曹と同様に小便と大便と血と肉塊に塗れながら銃を手にしている。

 どの顔も、半分は恐怖の為に泣きそうであり、それでいながら、もう半分は狂気に支配された笑みを浮かべていた。

 開戦時、中隊規模だった部隊も今では戦友の大半が骸となり、分隊とすら呼べぬ規模にまで減じている。

 中隊長以下、士官の尽くは戦死しており、残された兵士を指揮するのは軍曹の役目となっていた。

 生き残った者達の半分は助かる見込みのない傷を既に負っており、壮健とは言えぬまでも、戦えるだけの力を残している者を数えてみても両手の指でこと足りる。

 もっとも、コロシコフ軍曹の指の数は、開戦以降、戦傷と凍傷により随分と常人より少なくなってしまってはいたのだが……。


 コロシコフ軍曹は戦友や部下の誰よりも最後まで生き残りたいと考えていた。

 それは、彼が卑怯であるが故ではなく、ましてや臆病が故でもなかった。

 生きて赤軍の捕虜になることは、死ぬことよりも遥かに辛い運命を辿る事を意味する。

 力及ばず、今生最期を共にする事になった「絆兄弟バンド・オブ・ブラザース」の誰にも、その様な運命を甘受させたくはない。

 だから、彼は彼自身が死ぬ前に、絆兄弟全員の死を確認しておきたかったのだ。


 最後の銃弾を小銃に詰め終えたコロシコフ軍曹は、負傷し、身動きの取れない部下一人一人に手榴弾を渡し、しっかりと握り締めさせる。

 手榴弾は、渡された当人に死と安寧を約束するものだ。

 傷口の手当てもままならぬまま、痛みに耐え続けていた部下達は、間もなく迎えるであろう未来の終局に備え、軍曹に短く礼を言う。

 「生まれて初めて訪れた町の、生まれて初めて訪れた街路を守る為に、糞まみれになって穴の中で死ぬ……変人の集まりだな、この中隊は」

 軍曹は部下達を労いながら、そう語り、互いを笑いあった。

 

 先程、股間を濡らした小便は、既に凍てつき、軍袴はゴワゴワとした触感になっている。

 不快な事、この上ない。

 寒さと吹き抜ける風故に鼻を衝くアンモニア臭などというものはほとんどしなかったが、だからと言って、衛生的であるとは言えない。

 もっとも今更、不衛生だからといって気にするのも馬鹿らしい。

 不衛生で病気になる確率よりも、赤軍の銃弾に穿たれ、無数の銃剣に刺し貫かれる確率の方が今となっては遥かに高い。

 図們の街、名も知らぬ街路の凍てつく大地に急造した塹壕の中、コロシコフ軍曹とその戦友たちは、間もなく押し寄せる赤軍の衝撃波に対し、最後の抗いを見せようとしていた。

 


 目線の先で、半壊した中国家屋の影から濃い緑色をしたブジョンノフカを被った赤軍兵士が飛び出してくるのが見えた。

 右手には棒付の手榴弾、首からはスパイクを装着したモシン・ナガンを吊っている。

 まだ髭もはえそろっていない少年兵だ。

 この少年兵を先頭に、初老の、或いは中年の兵士が続く。

 彼ら放つ悲鳴のような吶喊の声を耳にするだけで、軍曹には彼らが職業的な軍人でない事を一瞬のうちに理解した。

 恐らくは動員された農夫や鉱夫、或いは工員だろう。

 半ば恐慌状態の彼らが赤い理想に燃えて従軍したとは考えづらい。

 恐らくは脅迫じみた手法を用いて動員された、ただの一般人に過ぎないだろう。


 「こんなところで殺し合うほどには互いを知ってもいないし、憎んでもいないのだが……」

 

 赤軍と白軍、革命派と反動派という違いがあると言うだけで、実際に戦場で殺し合う運命を受容したちっぽけな存在……。

 微かに沸き起こる憐憫の情を抑え、コロシコフ軍曹は構えた小銃の照準を定めると引き金を引く。

 乾いた空気の中、渇いた銃声が半壊した街路にこだまする。

 あどけなさの残る顔をした少年がのけぞった。

 吹き飛ぶといった風ではなく、膝から下の力がスゥーッと抜けた様に、支えを失った頭から崩れ落ちていく。

そのさまは、まるで人形の様だ。

 後続していた初老の男が、何やら叫びながら倒れた少年の手から手榴弾をもぎ取り、二歩進む。

 軍曹は再び引き金を引く。

 弾倉には六発の銃弾を込められるが、実際の残弾は残り一発。

 初老の男が大地に膝を着く。

 両手で腹を抑え、苦悶の表情を浮かべる。

 男は不運だ。

 血が流れ果てるまで、彼の苦痛は続く事になる。

 軍曹は相手に即死を施せなかった事に小さく舌打ちし、己の技量の未熟さを罵った。


 斃れた少年と、倒れた老人、その後ろを駆けていた中年男の顔には明らかな恐怖が宿った。

 「こいつは逃げるな」

 目の前で二人の戦友を射たれた中年男の未来を軍曹は予見し、別な兵士へと照準を改める。

 敵でない者を殺す程、銃弾が余っている訳ではない。

 米軍はふんだんに弾薬を供給してくれたが、補給を請け負った筈の中国軍は雲散霧消しており、彼の手元にそれは今日も届かなかった。

 残り少ない弾丸が、いつになく軍曹を冷徹な殺人者に変貌させている。

 あと一人、確実に殺す。

 その先は――――。

 

 中年男が立ち止まった。

 彼は振り返る。

 彼の傍らを別な兵士が駆け抜け、追い抜いてくる。

 逃げると判断された中年男は、既に軍曹の脳内において存在しない。

 軍曹は勢いよく突っ込んでくる一人の兵士に向け、薬室に残った最後の弾丸を放った。

 魂魄の塊は狙い過たず、兵士の胸に鮮血の射入孔を穿った。

 もう、弾は無い。

 軍曹はそれを確認すると、満足気に頷き、壕内を見回した。

 立っている者はもういない。

 先程まで、隣で小銃を撃っていた伍長は頭の半分ほどが消えてなくなり、首の上についているのは下顎だけとなっていた。

 口内が剥き出しとなり、奥歯の歯並びまで容易に眺める事が出来る。

 もう彼が虫歯に悩まされる事もあるまい。

 赤軍兵士が塹壕に雪崩れ込んでくるまでの残り数秒、自らが最期に振るう武器は、銃剣を装着したこの小銃が良いのか、或いは扱いなれた円匙が良いのか、束の間、逡巡する。

 急造の狭い塹壕内で、長い銃剣は扱いづらい。

 それに基本的に刺突武器は軌道を読みやすく、熟練した者ならば容易に躱せる。

 対して、突くことも、薙ぐことも出来る円匙は優れた近接武器だ。

 おまけにリーチが短いだけに、こんな空間でも思う存分、力任せに振り回せる。

 軍曹は、足元に転がっていた円匙を拾い上げると、握りしめた。

 赤軍の先頭を奔る兵士は数歩先に迫っている。


 ふと、先程の中年男の存在を思い出した。

 彼は「無事」逃げただろうか?

 その皮肉で歪な思考に軍曹が気づくことはない。

 視線を向けると、中年男がこちらに背を向け、塹壕と反対側の方向に向かい、走っていくのが見えた。

 顔は見えず、表情はうかがえないが、彼の背からは死への恐怖があふれ出している。

 「逃げのびてくれればいいが……」

 軍曹は、もはや敵ですらない中年男の背に向かって呟く。

 それは、逃げて生き延びるという選択肢を放棄した軍曹から中年男に送る「手向け」の言葉となった。


 

 一際、小奇麗なギムナスチョルカを纏った将校らしい人物が、ホルスターから拳銃を取り出すと中年男に、その照準を合わせる。

 将校は突撃する赤軍兵士の列の最後尾に立っている。

 その将校が、この街路の攻略を命じられた部隊の指揮官である事は間違いなく、同時に彼が狂信的な共産主義者である事も疑いない。

 将校は、何の躊躇も無く、戦場に背を向けた部下であったはずの中年男を撃つ。

 一発だけでなく、二発、三発と撃つ。

 中年男が絶命しているにも拘らず、将校は引き鉄に込める力を緩めようとはせず、敢えて撃ち続ける。

 まるで、自身の誇るべき戦果であるかのように、無駄で無意味な弾薬を死体に浴びせ続ける。

 何を言っているかは聞き取れないが、聞くに堪えないような罵声を骸に放っている事が伺えた。

 この日、軍曹は初めて敵を憎悪した。

 その将校にこの世のすべての悪を感じ、同時に後悔した。

 もう一発。

 あと一発の銃弾があれば、あの将校を殺せるのに……と。

 


 

 赤軍兵士が塹壕の縁から壕内に飛び降りようとした瞬間、それは唐突に起きた。

 「それ」が何であるかを軍曹が把握できたのは、実のところ、ずっと後になってから――――そう日本軍の野戦 病院の病床において目覚めた時の事だ。

 今まさに壕内へと跳躍した赤軍兵士の身体が宙に舞い、捻じれ、そのまま軍曹の頭上を素通りして、あらぬ方向へと吹き飛んでいく。

 軍曹は、今まさに自身へ襲い掛かろうとしていたその兵士と目線を合わせたまま、兵士が空を飛んでいくのを見た。

 半瞬遅れて、壕内に立つ軍曹の頬を熱風が薙いでいく。

 掴みかけた勝利、約束された戦功を、この瞬間、赤軍兵士達は理不尽にも剥奪されたのだった。



    (二)


 「結氷確認致しました」

 森岡にとって、工兵第一九連隊からの報告は実に待ちに待った待望のものだった。

 既に、京城を介して東京から介入許可の命令は受領している。

 しかし、介入しても良いと言われても、大河・図們江を挟んでいる以上、簡単にはいかぬ。

 いくら準備を整え、満を持していたとはいえ、国境を跨ぐ鉄橋を確保するだけでは、師団単位の兵力を迅速に対岸へと送り込む事は難しいのだ。

 隊列を組んで対岸に渡るほど悠長な状況ではない。

 戦場に降臨すると同時に戦闘を開始しなくてはならない。

 図們の街は既に戦場であり、その戦場に押し込む以上、行儀のよさは評価の対象ではない。

 だからと言って、冬期の図們江を舟艇で渡る事はままならず、何より、第一九師団はその様な装備を有していない。

 結局、第一九師団の選択肢としては、この地方で古くから行われている渡河の方法、即ち「凍るのを待つ」しか、なかったのだ。


 「図們の駅はまだ確保されているのか?」

 森岡は参謀の一人に確認する。

 「はい。白軍が粘っております。駅にはいまだ少なからぬ避難民がいるとの情報が……多くは邦人だと思われます」

 参謀は見てきたような嘘を言う。

 台本に書かれた通りの台詞を参謀は語り、森岡はそれに返答しなくてはならない。

 師団の日誌にはこの会話も記録される。

 だからこそ、会話を続けなくてはならない。

 小さく息を吐いた。

 呼気全てが白く舞うような寒さだ。

 「そうか。邦人がまだいるのか……ならば、急がねばなるまい」

 床几に座ったまま、森岡は小さく頷き、令を下す。

 「始めよう」

 師団参謀が小さく頭を下げる。

 息を吹き込まれた機械仕掛けの人形の様に、参謀以下の軍事官僚たちは、次々と命令を発し、通信波や伝令が師団隷下の部隊へと飛ぶ。

 ほどなく季節外れの春雷にも似た砲撃音が聞こえはじめる。

 森岡の頭上を師団砲兵が放った大口径砲弾が図們の街目掛けて突進していく。

 ほぼ同時に師団飛行中隊も国境線を形成する河を超える。

 この日、日本軍は遂に越境したのだ――――。



 先陣を切るのは、森岡の出身兵科である騎兵二七連隊。

 これが鉄橋上を騎乗のまま、暴風の如く駆け抜ける。

 図們の街中において白軍が踏ん張っているおかげで、国境の鉄橋近辺には現時点で流れ弾さえ飛んできてはいない。

 だからといって悠長な行動が許される状況ではない。

 対岸に急速展開し、強固な橋頭保を確保するまでは秒単位の緻密な軍事行動が必要であり、それを行うには戦慣れた「正規の軍隊」としての能力が必須だ。

 そして今、任についている第一九師団の将兵はその要求に応えられる能力を有する集団だった。

 橋の上を行く騎兵連隊とは別に、鉄橋の東側を歩兵第七三連隊が、そして西側を歩兵第七四連隊が横方向に大きく散開しながら凍った図們江を押し渡る。

 工兵が厚みを計測し、太鼓判を押したとはいえ、流れ弾一発で氷は叩き割られ、氷上の兵士は凍てつく図們江に攫われる。

 だから、少なくとも第一波である彼らが対岸に渡りきるまでの数分の間、赤軍に反撃を許してはならない。

 白軍の協力者や特務機関員が事前に調べ上げた赤軍の砲兵陣地に向け、師団砲兵は対砲兵戦を開始し、飛行中隊は小型爆弾と機銃掃射によって惑乱する。

 幸い、赤軍は第一九師団の存在を知ってはいても、その動きを掴んではいなかったようだった。

 傍受した通信波の乱れが赤軍の混乱を物語っている。


 歩兵連隊の渡河完了を確認した森岡は作戦を第二段階へと進める。

 図們の街、街路に塹壕を掘り、赤軍の猛攻を支えていた白軍将兵を収容し、市街地に突入した赤軍を殲滅する。

 赤軍は強い。

 その粘り強さには感嘆する他はない。

 しかし、所詮はパルチザン戦のエキスパートに過ぎない。

 日露戦争の折の好敵手だった精強なロシア陸軍の伝統と血脈は白軍将兵へと受け継がれており、今の赤軍は編制途上、中身のない海綿と精神を失った搾りカスに過ぎない。

 現段階において、世界五大陸軍国の正規編制師団、それも戦慣れした一線級部隊と正面から四つ相撲できる実力など、最初からない。

 問題は赤軍を日本軍の土俵にのせるかどうかだけであり、同じ土俵に立ってしまえば彼らには、はなから勝ち目などないのだ。

 シベリアで失敗したのは、赤軍が日本の用意した土俵にのらず、花道の通路で足を引っ掛け、小突いたりする様な真似をし続け、これに血を昇らせた陸軍がまともに反応し、不得手な場外乱闘を繰り返したからだ。


 もうシベリアの轍は踏まない。


 図們の街に赤軍が隠れ蓑に出来る民間人はおらず、今、街の中にいるのは敵である赤軍と、敵ではない(だからといって味方だともいえない)白軍のみだ。

 つまり、誰を撃っても問題ない。

 相手のまわしに指先が引っ掛かった以上、森岡は渡河を終えた時点で勝利を確信していた。


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