第11話 騎兵の神様
大正十三年一月七日(1924年)
東京・三宅坂 陸軍参謀本部
宇垣一成という人物は、大変にマメな人柄であったらしく、毎日欠かさず、日記をつけていたという。
大正・昭和期の軍・政界の裏事情に通じていた人物だけに、その日記の資料価値は大変高く評価されているのだが、その日記の一節に秋山好古に対する評が確認できる。
曰く、『性、純にして無垢、無私にして無策』つまり
『お人好しの馬鹿』という意味である。
上原が秋山の待つ大臣公室に足を踏み入れた瞬間、甘辛い匂いが鼻をつく。
「呑んどるのか? 秋山」
眉をひそめつつ、大臣椅子に座る秋山に声を掛ける。
「ん? あぁ、貴様か」
秋山は机の下に慌てて隠したらしい一升瓶を取り出すと、続いて引出しから湯呑茶碗を二つ取り出す。一升瓶と湯呑茶碗、これを両手に持ち、立ち上がると入口で立ったままの上原に座るように促す。促されるままに上原が来客用のソファに腰をおろす。腰からぶら下げた手拭いで湯呑の内側をゴシゴシと拭った秋山は、テーブルの上に茶碗を二つ並べると、一升瓶からなみなみと酒を注ぐ。
「まったく貴様という奴は……」
上原は、苦笑と共に湯呑を手にし、その中身を一口、口に含む。
「いい酒だろ? 高橋さんから貰ったんだ」
実にいい笑顔を浮かべ、嬉しそうに秋山が自慢する。
「高橋って、ダルマさんの事か?」
ダルマとは政友会総裁・高橋是清蔵相のあだ名である。ツルツルに禿げあがった頭部と、胸まで届く顎髭、丸々とした体躯、そしてその浮き沈みの激しい人生を擬えてつけられたものだ。
「あぁ、旨いだろ。何とかって関西の有名な酒らしい」
秋山は、その切れ長で大きな双眸を細めるとニコニコとほほ笑む。
「で、なんだ? 話とは……」
と、上原は湯呑の中身を一息に飲み干すと、秋山に酌をするように催促する。
「あぁ……陸軍次官を誰にしようかと思ってね」
「ふむ。しかし…俺としては、次官云々より貴様が大臣を引き受けた事に驚いたが……いったいどういう風の吹きまわしだ? 貴様らしくもない」
再び注がれた酒を一口、口に含むと上原は上目づかいに悪童っぽく尋ねる。
「はっはっは、似合わんだろう」
秋山は照れ隠しの為か、意図的に大声で笑う。
「東郷さん……東郷首相がね……」
「首相が? 何と言ってお前を口説いたんだ?」
「昨日、使いが来てね……東宮御所に来てほしいって言われたんだ。真之の昔話でもするのかと思ってね、時々、墓参りにも来てくれていたから……で、行ったら『頼みがある』って言われたんだよ」
「……」
「それで、じゃあ引き受けましょう、って答えたら、陸軍大臣だった」
「な……!?」
くっくくく…………
どうにも抑え様のない笑いが上原を襲う。
いつしか、上原は大声で笑い、それに秋山もつられたように笑い出した。
ふと、テーブルの下棚に置かれたガリ版刷りの冊子に目が行く。
「なんだい、これは?」
と、目線で尋ねる。足元から一升瓶を取り上げ、突き出された湯呑に酌をしつつ秋山が答える
「さっき、宇垣君が置いていったよ」
「宇垣が? 見てもいいか?」
秋山は首肯する。冊子の表題は『帝国陸軍ニヲケル国防方針ノ私案』と書かれている。さすがに若干16歳にして小学校の校長を務めた前歴を持つ宇垣、中々の達筆である。
上原は、右手に湯呑を持つと、その中身をちびりちびりと口にしつつ、冊子に読みふける。対して、秋山は上原の読み終わるのを待つ間、手酌で茶碗酒をあおる。そして読み進める上原のこめかみに血管が浮き上がるのを、横目で見つつ、さも楽しげに見続けている。
宇垣の提出した冊子『帝国陸軍ニヲケル国防方針ノ私案』と題したを上申書を要約すると、陸軍の4個師団を削減し、その浮いた経費で装備の近代化を図る、といった内容だ。
内容自体は目新しくはない。2年前と3年前に行われた山梨半造陸相時代の二度の陸軍軍縮と大差はない。違うのは、山梨の軍縮が四個中隊編成だった師団を三個中隊に編成し直す事により、師団数を減らさず、兵員の削減を行ったのに対して、宇垣のそれは現行の常備二〇個師団体制を一六個師団体制に組み直す、という点だ。
そして、宇垣私案の結びにはこう書かれていた。
「常備師団数の削減は、誠に分かりやすく国民に対して陸軍が予算削減に応じたという好印象を与えうる。加えて、その削減予算を持って残余師団の装備更新、及び航空・戦車・砲兵等の新部隊設立予算等に充当するを持って事実上の陸軍予算削減を免れる」
読み終えた上原は机の上に冊子を投げ出す様におく。秋山は実に愉快そうに尋ねる。
「どう思うね?」
「どうにもこうにも、こんなものはペテンだ。宇垣は思ったよりも阿呆だったな」
「ふふん」
秋山は鼻をならす。
「貴様、俺にこれを見せたくて呼んだんだろう?」
手に持った湯呑の残りを一息で空にすると、再び「注げ」とばかりに突き出すと、秋山は一升瓶の残りを心配そうに眺めてから、酌をする。
「俺は、お前がもし『次官には宇垣を推す』と言ったら、応諾するつもりでおったが。これなら、うちの福田の方がマシだな」
「いいか、秋山……」
上原が身を乗り出す。
「山梨の陸軍削減の頃ならばまだしもだな、今、この宇垣の私案の通りに師団を潰してみろ。3万5千の兵とその家族が生活に困窮する事になるんだぞ? 昨今の不況、帝国の経済では今、これらの壮丁を受け入れるだけの余力がないではないか?」
「お前から、経済の話が出るとは思わなかったな。俺には経済の事はよく分からん」
「仮にも帝国の陸軍大臣たるもの、もそっと勉強せい。まぁ、経済状況の事は置いておくとしてもだな」
上原の主張はこうであった。有用な資源がほとんど皆無に等しく、欧米に比べて産業の近代化に関して大きく遅れをとっているこの国が、先の欧州大戦のような「国家総動員体制による総力戦」など行える訳がなく、陸軍に限らず海軍も含めて、この大日本帝国という国自体が長期戦に関しては全く不向きな国家であるという事実。故に、日本の軍備というのは、精強無比なる常備軍の確保を第一とし、且つ、この精鋭を一撃にて使用し、初戦において敵勢力に致命的な打撃を与える事により、もって敵の戦意を喪失せしめ、講和に持ち込む、という戦争のやり方しか出来ない――――というものであった。
この構想自体は、以前から上原が主張していたものであって、取り立てて目新しいものではない。要約すれば極端な
『短期決戦思想』
であり、日本の総合的な生産力、すなわち継戦能力をある意味、見切っており、その意味において当時とすれば、実に的を得た戦略ドクトリンと言えなくもない。
上原の最終結論はこうだ。宇垣私案の通りに四個師団を潰したら「最初の一撃」に使用できる兵力が足りない。師団を潰すのは簡単だが、再建するのには相当な時間が必要となるし、時間という物が、敵味方に平等に過ぎるものである以上、その時間の分だけ敵に備えを許し、そして備えられた分だけ皇軍の血が流れる――――という訳だ。
「そのやり方は、日清の時は成功したが、日露では失敗したじゃないか」
秋山は熱弁をふるう上原を揶揄するように、その考えを正す。
「旅順を落としても、大連を落としても、結局、二年の月日をかけて奉天まで落とさなければ決着がつかなかった」
「ああ、あれは相手が悪い。サンクトペテルブルグに手は届かんからな」
「我が国が攻め込んで、相手の首都を落とせる国なんて、支那とシャムぐらいなものだろう? ロンドンもパリも、それにワシントンだって遠いぞ」
「まぁ、肝心なのは手の届かん相手とは喧嘩はせぬ事だな」
上原は悪びれずに言う。
「日露じゃあ、世界中から借金しまくってようやく勝ったんだ。二度目はない。俺はシベリアで懲りたよ」
「貴様らしくもなく弱気な事を」
酒豪の秋山と違い、上原はさほどに酒に対して免疫がない。
次第に饒舌さを増していく。
「まぁ、詰まる所、金だよ。アメリカさんと違って、英国も仏国も、その本国事情は我が帝国と対して変わらん。しかし、やつらには植民地がある。結局、植民地から金を吸い上げ、その金で大国面してるだけさ。スペインを見てみろ。一昔前まで英国と世界を二分していた国だ。それがどうだ? 植民地が全部、独立しちまった今、列強の1カ国にすら数えて貰えんじゃないか」
「しかしだな……金のない我が帝国としては、軍の近代化の為には宇垣君の私案を採用するしかないかな? 苦肉の策だが……」
「軍の近代化は必須だ。俺は技術で喰ってきたんだから、この国でそれが一番、判っているつもりだ」
上原は湯呑を煽る。秋山の手に持つ一升瓶は既に空だ。秋山は渋々、立ち上がるとコート掛けの向こう側に隠しておいた同じ酒を持ってくる。
「軍の近代化には金がかかる。それは仕方のない事だ。秋山、お前は騎兵科出身だろ? 10年、20年後、騎兵が必要だと思うか?」
「上原、貴様には分からんだろうが、騎兵の本質は機動と打撃だ。敵陣を蹂躙し、敵陣を迂回し、敵陣をあらぬ方向から崩壊せしめる、それが騎兵の真骨頂だ。だから、馬はかわいいが、馬に乗る必要はない。
極論すれば、足の速い奴を集めてもいいんだろうが、そうもいかん」
秋山の冗談に上原もしばし笑う。
「戦車が欲しいのだろう? 騎兵科に」
上原の言葉に、秋山は目を細め、相手の出方を伺う様に前に踏み出す。
「……あぁ、無論、欲しい。宇垣君の私案では戦車科として独立させる、と書いてあるが、戦車は騎兵科にこそ相応しいと俺は思っている」
「騎兵科で仕切れよ、戦車を。俺が賛成してやる」
秋山が上原の言葉に驚く。
「いいのか? 歩兵と砲兵科の連中に恨まれるぞ」
先の欧州大戦時に出現した「戦車」は、その登場から未だ10年に満たない。膠着状態の続く塹壕戦の均衡を破る切り札として産み出された当時の最新兵器である。生まれたての兵器だけに、その使用方法が定まっておらず、戦車自体の研究も各国陸軍毎、各兵科毎に違い、その進化は無限に枝分かれし続けている状態であった。当時の日本陸軍においては、英仏より数両の各種戦車を輸入し、その用法を研究中の段階であったが、主体となっているのは陸軍最大の兵科である「歩兵科」である。
しかし、これに対して「野砲を積んでいるのだから我々の範疇である」と主張し、一歩も譲らず予算配分を要求しているのが「砲兵科」である。
秋山を頂点とする「騎兵科」は機関銃の出現により、かつて「戦場の華」と呼ばれたその神通力的な突撃スタイルが既に「時代遅れ」の産物に過ぎない事を自ら無謀な突撃を繰り返す事により証明してしまっている。騎兵の存在がもはや、時代遅れの存在であること一番実感しているのが、他ならぬ騎兵科自身なのである。
もし、宇垣私案の様に戦車科を独立した兵科として運用するとしよう。その場合、新たに創設される「戦車科」には他の各兵科より初期人員を集められる。各兵科の比率を単純化すると
『歩兵:その他=7:3』
である。この「その他」には砲兵、騎兵、工兵、輜重、軍医衛生……と多数の兵科が含まれる。つまり、初期配置人員は
『歩兵科7:その他3』
という事になる。
つまり、戦車科は歩兵科に支配される……というだ。これがどういう事かというと、先々の戦車の用兵方法論が「歩兵戦力を中心とする視点」で語られ「歩兵の支援戦力としての有用性」を求める研究がなされ、進化する事を意味する。つまり『歩兵直協戦車』の誕生へと繋がるのである。
同様に戦車を砲兵科に任せれば、火力重視の進化を遂げるであろうし、騎兵科に任せれば突撃力重視の進化を遂げる。
では、何故、各兵科単位で新兵器の綱引きが行われるか? 理由は至って簡単なものである。
すなわち「ポスト」である。
例えば、戦車部隊の編成が将来、戦車連隊、戦車旅団或いは戦車師団へと進化を遂げるとする。その時、それぞれの最高指揮官は連隊長、旅団長、師団長となる。歩兵科が戦車科の主導権を握れば、当然、これらの指揮官職に附されるのは歩兵科出身の将校となり、それだけ歩兵科はより多くのポストを得ることになる。ポストを得るとは、それだけ自分自身の未来において出世する可能性が広がる…という事なのである。
「構わんさ……」
上原は秋山の問いに、事も無げに答える。
「その代わり……」
上原は言葉を切り、湯呑をテーブルに戻すと、肘を膝の上に置き半身を乗り出すようにして言う。
「航空科を新設する時には工兵科で仕切らせてもらおう。どうだ?」
「……」
秋山はしばし考え、答える。
「分かった。その話し、乗ろう」
よくif戦記において
「陸軍はノモンハンの反省に立って戦車を強化…云々」
といった表現を散見します。
しかし、実際、当時の陸軍がノモンハンの戦闘結果から得た反省は
「機関銃を増備すべきだ」
でした。
当時の陸軍の見解によれば、
「戦車は勇敢な歩兵の肉弾攻撃(ほとんど特攻ですが…)によって容易に撃破せしめる。
よって戦車に歩兵を近づけない様にするのが重要であり、それには機関銃の増加配備が有効…」
と言った事のようです。
要は同じ戦訓から得られたデータでも、見る者の視点によって変わるといった事でしょうか。
今回、日本陸軍(というより世界中の軍隊においても同様ですが)の弊害であった「兵科セクショナリズム」「歩兵科中心主義」を少しだけ塗り替えたく改変作業を行いました。
歩兵科視点で発展した日本の戦車史は「歩兵戦車・97式チハ」を産みましたが、騎兵科視点で進化する事になる拙作「新高山秘録」では、当然、違う進化を遂げる事と思います。
拙い文章と進まない展開でご迷惑をおかけしておりますが、今しばらく、お付き合い下されば幸いに存じます。
平成21年12月19日 サブタイトルに話数を追加