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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第三部
109/111

保管用 26

   (一)


「分かった……分かったよ、ネッド」

 デンビの剣幕に気圧されたデビスがようやく応ずる。過去一度も呼んだことのないデンビの愛称を呼び、突如、激昂した同輩を何とか宥めようとする姿が実に嘆かわしい。

「すまない。少々、興奮してしまったようだ」

 冷静さを取り戻したデンビは大統領の執務机の前に立つと勝手に議事の進行を始めだすが、その事に違和感を覚えた者はいない。

 主導権は彼が握った。

「海軍省はこの協定案に同意する。デビス長官、陸軍もいいかな?」

「あぁ、構わない」

 デビスは背広の裾を引っ張り、身づくろいをしながら席に座る。

 道義的には大問題であったし、実務的にも問題は残るだろう。そもそも、当の日本が兵器の提供を受けるかどうかは疑問の余地が大いにある。

 しかし、政治的には協定締結に同意すべきと考えたようだ。

「ケロッグ国務長官。陸海軍両省は協定締結に同意した。手続きを進めてくれるだろうか?」

 

 (……ん?)


 この時になって初めて司会役がメロン財務長官からデンビに代わっている事にケロッグは気が付いたが、今更それを指摘しても仕方がないと小さくため息をつく。

「承知した。マクベーグ大使に訓電を出そう」


 (とりあえずは、私の責任問題にはなりそうもないな)


 東京のマクベーグがしでかしたミスは協定が締結されれば永遠に闇に葬られる。

 つまりは、上司である自分の責任が追及される事はない。ケロッグにとっては、この一件はそれで十分だ。

 ケロッグは協定締結に結論が傾いたことで大いに気を良くしていた。




    (二)


「マクベーグ大使からの報告によれば、日本政府は合衆国が満州全域における権益を保持する事を望んでいると明言したそうだ。あの地域一帯に大きな影響力を持つ日本が旗幟を鮮明にすれば、北部満州に割拠する中小軍閥が合衆国の軍門に降るのは時間の問題となるだろう。最終的にこの紛争の停戦後にソ連から中東鉄道の権益を買い取る事が出来れば我々は満州全域を支配下における。まぁ、これで良しとするべきかな」

「ソ連が中東鉄道の権益売却に合意するでしょうか?」

「中東鉄道は現状、大赤字の鉄道だ。それに英国が調停に名乗りを上げているのだ。それぐらいは彼らに働いて貰わなくてはならない。英国人もその辺りは承知の上だろう」

「なるほど……それで、満州全域を合衆国の勢力下に組み込むにしても、その先は……その先はどうなるのでしょう? 中華連邦に北京政府を打倒する気概はあっても、実力が伴っていない事は明白ですし……」

 どうにも見通しがつかず、釈然としない――――そんな顔をしたサージャント司法長官の何気ない発言に、その場にいた閣僚達は慄然としていた。

 北京を制する力を与えた張作霖には裏切られ、イデオロギーで大陸全土を動かしうると見込んだ国民党右派も役には立たない。

 満鉄を購入したまでは良かった。

 その政治的決断に間違いはない。

 だが、その先は全てが裏目に出ている……。

 困惑した閣僚達の視線は自然と一人の男へと集まる。

 彼らはその男が答えを持っていると信じていたし、信じたかった。

 何故ならその男は、いつだって僕らを驚かせてくれるから。

 我らのネッドはいつだって夢をかなえてくれる――――。


 (え?)


 一同からの熱を帯びた視線に気が付いたデンビは、内心の焦りと驚きを分厚い面の皮で何とか抑え込むことにギリギリのところで成功した。

 唐突に「君なら名案を持っているだろう……」と期待されても、デンビでさえ困る時はあるのだ。

 だからデンビは時間が欲しかった。

 ほんの数分でも、数秒でもいいから自らの頭を回転させる時間が欲しかった。

「皆も知っての通り、合衆国で宣戦を布告する権限を持っているのは議会だ。大統領ではない……」

 僅かな時間を稼ぐ為、分かりきった事をデンビは口にする。 

 その間にも脳内は血の濁流により活性化されていく。

 今、時間が稼げるのなら合衆国憲法を諳んじてみせてもいいし、妻とのなれそめを告白したっていいとさえ思った。

「そして、我が共和党が多数を占める議会であっても、戦争という事態には納得しないだろう。議会の多数派工作など無駄だ。最初から諦めるべきだろう」

 閣僚それぞれが小さく頷く。 

 誰もがデンビの一言一句を聞き逃さまいとしていることが、視線と空気を介して伝わってくる。

 だが、今しゃっべっている内容など、実はほとんど意味のない言葉の羅列に過ぎないのも確かだ。

 頬がチクチクと痛い。

「日本は合衆国を盟邦と位置付け、自らも合衆国と共に戦おうとしている。まるでOKコラルで撃ち合うワイアット・アープを助けに駆け付けたドク・ホリディの様に……となると、さしずめソ連はクラントン兄弟率いるカウボーイズかな?」

 視界の端でジャーディン農務長官が熱心にメモを取りはじめているのに気が付く。

 「そんな事しなくていい!」とデンビは叫びたかったが、若く経験の不足しているジャーディンにその想いは届かない。

「海軍長官、最初に問題を起こしたのが合衆国、法と正義を盾に動いたのが日本という事を考えると、日本の立場はドク・ホリディではなく、アープ保安官なのではありませんか?」

 メモを取っていたジャーディンが顔をあげると、まるで駆け出しの新聞記者の様に例え話の再考を求める。

「……そうだな。農務長官の識見は私など及ぶところではない。感服した」


 (いいから、黙ってろ!)


 四〇年以上も前にOKコラル――OK牧場――で行われた決闘、これさえも元を正せば北軍の流れを汲む共和党支持者だったアープ兄弟と、南軍の生き残りで民主党支持者であるクラントン一家の政治的、感情的対立が原因だ。

 故に北部では英雄扱いのアープ兄弟も、南部にいけば自由を愛するクラントン一家に対し権力を笠に虐げる悪徳保安官という見方をされている。

 この辺り、忠臣蔵の赤穂浪士が旧・吉良領においては怨嗟の対象として酷評されるのと大差はなく、正義というものが如何に勝者に都合が良いものかということを物語っている。



 だが、デンビはこの時、ジャーディンの発言に感謝した。

 意図せず秘められたヒントに気が付いたのだ。

 そうだ。

 OK牧場だ。

 気概ある国民すべてが西へと向かった、あの雄々しき時代――――。

 これだ。


「西部開拓の時代、開拓者たちが先の事を考えて西へと進んだだろうか? 違うだろう。開拓者たちは西に未開の大地があるから進んだのだ。そして二〇世紀、大西部は太平洋で終わったのではない。海を飛び越えた反対側に我々は新たな大西部を我々は得たのだ――――我らは第二の合衆国を満州に建てる!」


 (随分と御大層な言い様だな……)


 若く政治経験の乏しいサージャントやジャーディンはまだしも、古参のケロッグやメロンにはデンビの煽る様な言いざまは、あざと過ぎて苦笑する他はない。

 しかし、デンビの御大層な物言いにジャーディンは目を輝かせ、質問を重ねる。

「では、メインランドより更なる開拓者を募り、満州に送る――という事ですか?」





    (三)


 満鉄購入以降、週に千単位の数の合衆国市民が移民として満州に渡航している。

 その多くは中西部を南北に移動しながら、それぞれの土地において農家の繁忙期の手伝いをして食いつないでいる極貧の小作人集団だ。

 合衆国の市民でありながら、彼ら移動農業従事者は定住生活をおくっていないばかりに教育も福祉も満足に受けられず『貧者の子は貧者』の連鎖を続けている。

 貧しいだけであれば、合衆国流の資本主義社会における脱落者として冷笑の対象に過ぎないのだが、なにしろ推定四百万家族・千六百万人と数が多いだけに、犯罪の温床となりやすく、地域の定住生活者との軋轢も多い。

 それに何より、彼ら中西部の移動農業従事者は南軍の流れを汲む民主党支持者であり、北軍の血脈を誇る共和党支持者とは相いれない。


 共和党・クーリッジ政権は弱者に対する扶助を『潔し』とは考えていない。


 富は己自身の努力によって掴み取るものであって、政府の扶助を期待するなど論外、もっての他である……徹底した個人主義、自由主義を突き詰めたクーリッジのこの哲学は現政権における経典だ。

 貧者が貧者であり続けるのは、貧者の努力が足りないからに過ぎない。

 合衆国には実際に極貧から身を起こし、一代で大富豪の地位を掴みとった者も多い。現政権内でいえばフーヴァーなどがその典型例だろう。

 雑貨店の小間使いとして週に20セントの給金で働いていた少年が、三十年足らずで数百万ドルの資産を有する大富豪となり、今や次期大統領の最有力候補にまでなっている。

 正にフーヴァーは生きたアメリカンドリームの体現者であり、そのサクセスストーリーに心躍らせられる国民は多く、それ故に人気は高い。

 大統領になって尚、合衆国民の理想の姿である清教徒的な清貧な生活を貫くクーリッジとは極めて対照的だが、両極端に位置する両者は、それぞれ別な意味で合衆国国民の支持を得やすかった。


「そうだよ。極貧生活から抜け出したがっているレッドネックどもには事欠かない。満州には夢があるといえば、喜んで移民していくだろう。なぁに、どうせ南へ行ったり、北へ行ったりしながら綿花農家の手伝いをしている連中だ。満州に行ったところで彼ら自身には大差はないさ」

 半笑いを浮かべながら『赤い首』を嘲るデンビの言い様には、さすがに一同も怯む。

 北軍の宿敵の末裔とは言っても、同じ「白い」合衆国民に変わりはないのだ。

 だが、デンビの提案はこれだけではなかった。

「それと、最近、南部から北部へ黒人の移住者も増えている。南部の馬鹿どもがくだらない差別をするからだろう。不当な差別を受ける黒人の諸君は本当に気の毒だ」

 デンビは顔を顰め、さらに続ける。

「そんな可哀想な彼ら黒人諸君にも満州への移住を勧めてみようではないか。満州には差別など無いといえば喜んで行くだろうし、彼の地には土地だけは十分にある。中国人から土地を買い上げ、レッドネックや黒人に低利で与えれば良い。仲の悪い彼ら同士でお互いに心行くまで差別しあえばよいではないか。数が多い方が有利だと云えば、争って移民するだろう……そうだ、その為の基金を作ろう。満州に合衆国民が増えれば増えるだけ、彼の地の安定は増す。名案だと思うが、どうだろうか?」


 (君は海軍長官なんだぞ?)


 デンビの越権発言を一同は唖然として聞いていた。

 この男は、国務長官よりも、そして陸軍長官よりも席次が下の一閣僚に過ぎない。

 彼は自らの職権の範囲を超える政策の提案を行い始めたばかりか、範囲そのものの存在すら気にもとめていない。

 そもそも、自分自身の職権そのものを理解しているかさえ怪しかった。


「デンビ長官、君は海軍長官なんだぞ? 分かっているのかね?」

 デンビの暴走に対し、さすがに司会役を奪われていたメロン財務長官が苦言を呈する。

 大統領はいない。

 副大統領もいない。

 さらに言えば、閣僚でさえ半数が欠席している。

 ここにいるのは、出発するのが遅れたばかりに新年を故郷で過ごし損ねるという貧乏くじを引いた者達だけだ。

 そんな中途半端な閣議の中で上級閣僚三人を差し置いてデンビは主導権を握り、自説を展開し、甚く御満悦だ。

「ええ、勿論分かっていますよ? 財務長官は海軍について何かご質問が?」

 渋面のメロンの問い掛けにデンビは即答する。キョトンとした表情が実に愛くるしい。

「あ、いや……特にない。分かっていればいいんだ」

 銀行家上がりのメロンは、過去にこういう種類の人間を多く見てきた。

 話してきた。

 大きな夢を語り、盛んに自らへの投資と融資を勧める人物たち……。

 そして、大概の場合、こういった「面の皮の厚い」人物はとんでもない成功をおさめるか、誰からも相手にされずに路地裏で朽ち果てるかのどちらかだ。

 前者の割合は一割に満たないだろうし、最初から騙すつもりの詐欺師の割合はその倍はあるだろう。


 (彼はどっちだ?)


 メロンは、そう思った。




    (四)


「約束の地、という訳か……」

 そう呟いたのはデビスだった。

「馬鹿げたジム・クロウ法(南部11州で制定されている有色人種差別法)のおかげで、南部は非白人達にとって住みづらいからな。彼らに満州が約束の地だといえば、こぞって動き出すだろう」

 デビス自身は南軍と北軍の支持者が激突して州内が半ば内乱状態になった中西部のミズーリ州の出身であり、しかも「セントルイスの虐殺」で有名な悲劇の街セントルイスの生まれだけに、南軍、北軍それぞれの感情に理解がある。

 当然、黒人をはじめとした有色人種のおかれている厳しい状況もよく分かっているし、目の当たりにして育ってきた。

「満州に合衆国民が多く住めば、それだけ戦時動員能力が向上するのは間違いないだろう。将来的に現地で兵力が調達できるのであれば、メインランドから増援を送る必要もないし、そうなれば馬鹿げた議会との交渉も必要ないな……第二の合衆国を作る、これは悪くない意見だと思うよ、ネッド」

 デビスの発言に、ジャーディンが頷き、サージャントも賛意を示す。若い彼らは夢のある話が大好きだ。

「現地で十分な兵力が動員可能となれば、それ自体が抑止力となるか……なるほど」

 国務長官であるケロッグにとって、その政策が対外的にどの様な効果があるかが気になるところであり、民主党の支持層や貧しい黒人層を満州に送り込むことで、それが安定に寄与するのであれば悪くない取引だと思える。

「だが、今日出さなくてはならない結論ではないだろう? 大筋、国務省としては賛成するつもりだが、また皆が揃った時に話し合おう。いいかい?」

 今日の議題は日本との協定締結に関してだ、忘れてもらっては困る……自らの責任が追及されない事が確定した以上、あらぬ方向に議論が進んでも困るし、一同の気が変わりでもしたら一大事だ。

「そうだね、本題を忘れるところだった。日本との手続きを進めてくれないか」

 一同が彼の意見に賛意を示した。

 デンビはその事にひどく満足気であり、上機嫌になっていた。




    (四)


ワシントンD.C.

デュポン・サークル付近


 その夜、D.C.随一の繁華街デュポン・サークルに面した一件のナイトクラブで男たちは会合を開いていた。

 店内は、霧の様な紫煙が漂い、敢えて抑えられた客席の薄暗い照明は隣席に座る他の客の顔すらはっきりとは伺えない。

 無論、店内のざわめきと喧騒により、他人の会話に聞き耳を立てる事は難しい。

 禁酒法の時代にも拘らず、男たちは酒を飲み、ジャズを聴き、肌を露わにした女たちのバーレスク・ショーを楽しんでいた。

 合衆国政治のお膝元であるD.C.においてすら、禁酒法の存在は極めて軽かった。

 禁酒法は、権力者が権力を振るう為の方便であり、権力者を罰する類のものではないからだ。

 故に権力を持つ男たちが禁酒法を気にすることはない。


「なるほど、素晴らしい。君の提案は実に的を射たものだな。我々の利益にも合致する」

 高級スーツに身を包んだ初老の男がデンビを誉めそやす。

 誉めてはいるが、その誉め方は海軍長官という政府要人に対して、あくまでも上位者のそれだ。

 本来であれば、その様な言い回しが可能なのはクーリッジ大統領だけだろう。

 対するデンビは必死に追従に徹した笑いを頬に貼りつかせ、上位者の褒め言葉に対し、大袈裟に礼を述べる。

 デンビは自分が面前にいる男よりも下位者である事を承知しているし、承知している以上、へりくだり、相手の歓心を得ようと努力していた。

 その点、デンビは卓越した努力家として称賛されて良い。

 もし、相手が望むのであれば、ここでメイドの格好をして得意のカクテルを披露したっていい。

 それほど、両者の間には立場に開きがある。

「今日のところは提案のみとなりましたが、遠からず、黒人の北上は収まり、彼らは西へと移動を開始するでしょう。お約束します」

 男はデンビの発言に満足の笑みを浮かべるとグラスを掲げ、賛意を示す。

 

 白髪痩身、削ぎ落としたような頬が薄気味の悪ささえ感じさせる男の名はアルフレッド・スローン。

 老けた容貌だが、実際の年齢はまだ50歳とデンビよりも若い。

 自動車産業界随一の切れ者として知られる彼は、各地の中小自動車メーカーの吸収合併を繰り返し、遂には一昨年、世界の誰もが知っているフォード・モーターを売上世界一位の座から追い落としたGMの最高経営責任者だ。

 即ち自動車産業の街デトロイトの新たなる支配者という訳だ。

 

 デンビは海軍長官に就任する以前、三期に渡りミシガン州選出の下院議員を務めている。

 そしてミシガン州の選出議員は無名の州都ランシングではなく、大票田デトロイトを制しなくてはならず、そのデトロイトを支配しているのが、かつてはフォードであり、今はGMを率いるスローンだった。

 彼が、自信を持って臨んだ四期目の選挙であえなく落選したのは、当時のフォード一門がウィルソン率いる民主党へと、その支持を転じた故だった。

 フォードに見限られたデンビは、必然としてその宿敵であるGMを率いるスローンの支持を得なければならず、そして両者の関係は現在、極めて良好だった。

 この関係は、海軍長官に転出した今でも変わりはない。

 クーリッジ政権が任期を全うした時、デンビは海軍長官を辞する事になるだろう。

 その時、デンビは一民間人に戻り、元の弁護士業で生きていく事など考えていない。

 次なる目標は上院議員。

 上院議員となり閣僚経験者として共和党を牽引していかなくてはならない。

 そして上院議員になる為には、選挙の洗礼を受けねばならず、その洗礼を突破するのに必要なのはデトロイトの有力者の支持だ。

 その意味で、デンビの真の主人は彼アルフレッド・スローンなのだ。



 フォード一世が支配した街、そして今、スローンが支配するデトロイトには今、大きな危険が迫っていた。

 フォード・モーターは、その代名詞であるT型フォードを300ドルという格安な価格で提供し続ける為に単純作業に甘んじる低賃金労働者を必要としていた。

 均質化、画一化を何よりも重視し、その価格の安さで世界を席巻したT型フォードに必要なのは、高給取りの熟練工ではなく、むしろ、無学で、経験の不足した低賃金に甘んじる工員なのだ。

 それなくして、T型フォードは成立しない。

 

 対するGMは、さまざまなニーズに応えるだけの品揃えを企業戦略に据えている。

 それに必要なのは適度に熟練した工員であり、彼らが多少、高給取りであったとしても、GM車最下層のシボレーグレードの売値自体がT型フォードに対し1.5倍と高価なだけに十分、支払いが可能だった。

 

 狂乱の20年代、爆発的に自動車は普及した。

 各社は増産に次ぐ増産を繰り返し、それはまた、飛ぶように売れた。

 自動車産業の好景気は、必然として従業員給与の上昇をもたらし、そのベースアップは年に10%前後という高水準となり、クーリッジが政権を担当する以前に比べると凡そ従業員が得る収入は1.5倍に高騰していた。

 高い給与水準が、更なる好景気を呼び込み、需要を喚起するのは必然だったし、余裕のある人々は高級品へと嗜好を移していく。

 世の流れに対して、フォードは、その主力T型フォードの値下げを繰り返す事によって販売台数を伸ばそうと戦略を立てたのに対し、GMは販売価格を上げ、高級感を出す事によって売り上げを伸ばそうとした。

 結果はGMの勝利だった。

 給与水準の上昇による人件費コストの上昇にフォードは音をあげる。

 そしてフォードはより安価な労働力を求め、それに応えたのが南部の黒人だった。

 

 この時代、ジム・クロウ法に代表される厳しい差別に南部の黒人は晒されていた。

 白人と非白人では、飲食店で席を別にされるのは当たり前だったし、病院の出入り口や病床、バス停の位置も、更には公共機関の窓口までもが白人とは区別された。

 奴隷身分を解放されたからといって黒人が経済的に豊かになった訳ではない。

 経済的理由から満足な教育も受けられなかった彼らは、過酷な労働条件の農村部で日雇いとして稼ぐか、都市部のスラム街で逼塞するかの二択しかなった。

 だが、低賃金労働者を欲したフォードが職場を解放した結果、黒人は長年住んだ南部に見切りをつけ、職を求め、北上を開始する。

 100万人の南部黒人による北上、これが1920年代に合衆国内の社会問題となった世に言うところの『大移動グレート マイグレーション』だ。

 デトロイトだけでもここ5年間で90万人程度だった人口が150万人へと急増しており、その増加分のほとんどが黒人だ。

 彼らにとってデトロイト市こそが安住を保証する「約束の地」に思えたのだ。


 フォードは安価な労働力を手に入れようとしていた。

 それは、低価格戦略に社運を賭けるこの会社には無くてはならないものだったが、同時に犠牲を払わねばならなかった。

 但し、それを払ったのはフォードではなく、その本拠地デトロイト市そのものだったのだが……。


 第一に、人口の急増にデトロイトの住宅供給が追いつかない。

 住宅だけでなく、道路も、水道も、電気も、インフラ全てが不足し、市の担当者は悲鳴をあげた。

 インフラの不足は都市部のスラム化を急速に推し進めていく。

 第二に黒人を見かける事すら稀だった中西部北部の街にわずか数年で黒人が溢れかえったのだ。

 当然ながら、既存の住民だった白人層は都市部を逃げ出す。

 北部の白人たちも、南部の白人たちほどではないにしろ大なり小なり、黒人に対する差別や嫌悪の情は抱いている。

 隣近所全てが耳障りな南部訛りを話す黒人になれば、住んでいた白人が転居するのは当たり前だ。

 元々、合衆国人は自宅などの不動産を単なる資産としか見ていない。

 資産に愛着を持つ国民性ではないのだ。

 焼煉瓦で彩られた古い瀟洒な北部の街並みは、見る間にケイジャン風の南部カラーで覆い尽くされ、近郊の都市とは似ても似つかなくなる。

 あまりの急激な変化に驚き、都市部の白人は郊外へと移り、その空いた空間に更に黒人が入り込む。

 この流れは加速していった。

 

 「君の提案で南部黒人の北上が止み、今いる黒人たちが満州へと向かえばデトロイトは旧来の街並みを取り戻すだろう。そして、それはわが社の利益へと繋がり、白人の選挙民は君の深慮を讃え、感謝するだろう……投票日にね」

 そう語るスローンは差別主義者ではない。

 彼は徹底した合理主義者であり、同時に長期的な視野で経営や経済を見る事の出来る人物だった。

 当時、各都市において主力公共交通機関の座を占めていた路面電車会社を次々と買収してバス会社へと商売替えをさせたり、株式を売らない会社にはあらゆる手段を用いて廃業に追い込むなどして、自社製のバスを売り込むことをやった。

 経営者側の意のままになる労働者を密かにスカウトし、その人物を他の労働者に悟られないように労働組合の幹部に据える様な工作を行ったりもした。

 結果、GM内で発生する労働争議の多くは労使が裏でつながった茶番劇だった。

 スローンの先を見抜く経営センスは抜群だ。

 だから、デトロイトに低賃金労働を良しとする黒人が流入する事を止めさせなければならなった。

 彼の眼にはその先にある、追い込んだはずのフォードの復活が見えていたのだ。



「この先、フォードが合衆国内で生産を続けるのは難しくなるだろう、な」

 スローンの言葉を聞きながら、デンビはグラスの氷を通して吊るされた電灯を眺める。

 電灯の形は、ほとんど歪まない。

 恐ろしく純度の高い水で、恐ろしく固く仕上げられた氷だ。

 

 (この氷一個で貧乏人の給与1週間分が飛ぶだろうな……)


 経営戦略の話に興味の持てないデンビは、ぼんやりとそんな事を考えていた。

 スローンは、そんなデンビの思考などお構いなしに講釈を続ける。

「彼らがT型に固執し、偏重した経営戦略を続ける限り、安価な労働力を求め、国外に生産拠点シフトしていくしかない。彼らはこの先、欧州へ、アジアへと軸足を移していくだろう――――たった一つの車種に全力を投じるという博打。フォードは確かに一度、勝利した。だが、二度は無い。少なくとも合衆国内ではこれ以上、作れないし、仮に作ったとしても価格が上昇したT型など誰にも見向きもされない。安物で世界を制する事は出来ないという事だ」

 

 長年の宿敵フォード。

 その凋落を確信したスローンは皮肉に満ちた会心の笑みを浮かべていた。


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