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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
107/111

保管用 24

大正十四年十二月晦日(1925年12月30日)

東京・千代田三番町

東郷私邸前


 靖国通りから一本奥まった小さな通りに面して東郷の私邸はある。

 政府中枢、そして皇居にほど近いこの辺りには、列国の中でも大国と呼ばれる国々の大使館が立ち並んではいるが無粋な高層建築など無い時代、周囲を見回しても視界を遮るのは背の高い樹木ばかりであり、私邸の辺りには東京とはいえ、震災を免れた古い街並みの匂いが色濃く残っている。

 彼の住む番町はその名の通り江戸時代、江戸城勤番の番士達が屋敷を置いていた地域であり、石を投げれば、やれ旗本の裔だ、やれ御家人の出などという生粋の江戸先住民に当たるような場所だ。それだけに町人文化の薫る下町とは違った武家文化の趣を色濃く残している。


 東京とはいえ師走、さすがに街路を抜ける風は外套の合わせに入り込み、下に着た官給品の綿肌着ではその寒さを防ぎきれない。

 「――――ねぇ旦那、そのくらいにしといたらどうです?」

 「うるさい。お前はうちの内儀か。それともあれか? 俺の母親にでもなったつもりなんだろう」

 「よしてくださいよ、やっこ同士で気色悪い。旦那、随分と悪い酒ですなぁ」

 「悪いのは俺じゃなくてこの酒の方だろう。色はいいが味はひでえな。番茶で薄めたみたいな味がするじゃねえか。これじゃあ悪酔いだってするだろう。ほれ、もう一杯」

 その細い通りに面した道路脇にこの日、店を出した屋台の天ぷら屋の亭主は、皺の刻まれた五十絡みの顔に迷惑そうな表情を浮かべながらも突き出された二合枡に一升瓶から冷酒を注ぐと宵の口から飲み続けている酔漢に乱暴に差し出す。官庁街の裏通りである千代田のこの辺りに屋台を見かけるのは珍しい。

 「ねぇ、旦那。うちは天ぷら屋なんですよ。天ぷら喰ってもらえないと商売あがったりなんですけどねえ」

 日本酒の仕入れ値は高いが、売値は安く、儲けは少ない。亭主の嘆きにもかかわらず客は、あっという間に枡を空にすると皿に盛られた青菜の香の物を指先で摘み、指をしゃぶりつつ再び枡を突き出す。

 「馬鹿を抜かせ。貴様みたいな素人の揚げた天ぷらなんぞ金を貰っても喰わぬわ」

 程良く温まってきたらしい客はいっそう悪態をつき、亭主の鼻っ先に「おらっ」とばかりに枡を突き出し、あおる様に上下させて酌を要求する。

 「たちの悪い客だなぁ、ったく」

 態度の悪い客に調子を合わせ、小柄で痩せた亭主も負けずに悪態をつく。


 江戸の昔より、料理の素人が最初に手を出す水商売といえば

 「屋台の天ぷら屋」

 と相場が決まっている。魚屋の売れ残りを更に値切って手に入れた痩せた魚介や庭先に目を出す野草など食べられる物であれば何でもタネ(具)にできる上に、衣にする小麦粉は安いモノで十分だったし、あとは油さえあれば、料理感の乏しい素人でもそこそこの物が出来るからだ。

 おまけに肝心のタネが新鮮でなくとも――というよりも、少々、傷みかけていたとしても――高温の油で揚げてしまえば、腹痛など起こされる心配は、まず無い。その上、癖の強いゴマ油を使い、衣の色が薄茶色になるまでカリッカリに揚げる江戸風の天ぷらならば、タネの鮮度や風味など二の次であり、要は

 「ツユで衣を食わせるもの」

 なのだ。見栄え良く大ぶりだが値の張らないタネに座布団でも巻いたかのように衣をつけ、それを使い込み過ぎて素材の味が染み込んだゴマ油を用いてじっくりと揚げ、そのゴマの風味で熱々のまま食わす。揚げたてのそれは、器に盛られた濃口の醤油におろし大根と酒を合わせただけのツユにちょいと浸ければ

 「ジュッ」

 と音の出る様な大変な代物だが、これをまた涼しい顔で口中に放り込むのが粋なのだ。油物だけに腹もちが良く、その上、粉物だけに満腹感もある。無論、これを飯の御菜オカズにしようなどとするのは田舎者のやり様で、それこそ野暮というものだ。飯の代わりをするのが米で作った酒であり、腹に入れてしまえば大した差はない。


 英国人ならばフィッシュ&チップス、米国人ならばホットドッグ、中国人ならば饅頭――気の短い事が何より自慢の江戸の職人衆が、仕事の合間の腹ごしらえに好んで食してきた天ぷらは、云わば下町のファーストフードに相当するものだ。

 無論、吟味された上質のタネに、天女の纏う羽衣の様に薄手で上品な衣という、格式ばった料理屋が好んで出す凝った技法の天ぷらも存在はしている。だが、そんなものは京の味であって江戸のそれではない。江戸っ子にとって天ぷらとは、あくまでも懐の寂しい時にでも腹いっぱい食える庶民の食べ物であるべきものなのだ。



 「旦那――総理がお帰りの様ですよ」

 東郷の私邸前に差し回しの黒塗り自動車が横付けされたのを目にした亭主が客に告げる。

 「応――。親父、美味かったぞ」


 (酒飲んでただけじゃねえか)


 「ありがとうございます」

 ついに只の一口も売り物の天ぷらを喰ってもらえなかった亭主は、底なしの大酒呑みをようやく追っ払う事ができると内心、ホッと息をついた。



 「東郷さん――東郷さん」

 通りの反対側から大声を上げたのは、ほろ酔い気分の秋山だった。道を渡ろうとする足取りがおぼつかない。その聞き覚えのある大声に振り返った東郷は、秋山の姿を認めるとニッコリほほ笑む。

 「おう、秋山さん――この界隈に天ぷら屋とは珍しい。オイも御相伴に預かろう」

 東郷は私邸とは反対側に向かい、スタスタと歩き出す。予定外の行動に警護の巡査たちは大慌てだ。

 「親父。もう一杯だ」

 こちらに歩いてくる東郷の姿を認めた秋山は呑み直せるとばかりに嬉々として今、伏せたばかりの枡を再び突き出す。一方、顔を顰めた亭主は足元に置かれた一升瓶の残りに自然と目をやる。

 「今夜はもう店仕舞いかな――」

 酒が終われば今日の商売はあがったりだ。酒の無い天ぷら屋なんぞ誰も見向きもしない。闇に覆われはじめた晦日の空を一瞬見上げると小さく息を吐いた。



 「焼酎、熱くしてくだされ」

 屋台の黒光りする立飲台に手をかけるなりウキウキとした口調で東郷が注文をいれる。

 「すみません。うちはやってないんですよ」

 現職総理にして元帥海軍大将、救国の英雄を前に亭主は被っていた手拭を脱いで恐縮し、半白のイガグリ頭をペコリと下げた。東郷はその言葉に秋山の手元に視線をやる。そこには枡に注がれたなみなみの冷酒。

 「よか。冷のままでもよかよ」

 白髭に覆われた口元を綻ばせ、優しく相好を崩した東郷は、恐縮する亭主を慰める様に言った。

 「いえ、あの……熱燗とか、冷とかではなく焼酎をおいてないんですよ。酒とビールなら……」

 小皿に盛った薬味の大根おろしと小女子の昆締めをお通しとして差し出しながら、申し訳なさそうに亭主が答える。

 「おいてない……」

 東郷は目を丸くする。心底、ショックを受けた様子だ。

 「酒には燗をつけますか? 花正宗になりますが……」

 「おいてない……焼酎をおいてない、じゃと?」

 「……ええ。こう言っちゃあ何ですが、東京じゃあ芋の酒なんか売れませ――」

 亭主が皆まで言わないうちに東郷が叫ぶ。

 「貴様っ!」

 「ひぃ」

 思わず目を瞑り、首を竦める。若い頃から潮風に鍛えられただけに、本人の意思と関係なく声が大きいのは東郷の特徴でもある。

 「勝手にあるはずだ。家内に尋ねて持ってきなさい」

 亭主はその時になって初めて東郷が話しかけている相手が自分ではなく警護の巡査である事に気が付く。筋違いも甚だしい命令ではあったが、命令され慣れている性故か、巡査はさしたる疑問も抱かぬと見え、間髪入れず復唱すると折り目正しく回れ右をし、通りの向こう側――東郷の私邸目指して駆け出していく。


 (うちにけえって飲めばいいじゃねえか)


 亭主は客の我儘に呆れ果てながらも商売を忘れない。一人は酒ばかり飲み、一人はその酒すら飲んでくれない。それでも客商売、年の暮れの寒空に店を出したのは、良い気分で新年を迎えたいからなのだ。

 「何にしましょう? 今日はシイタケに紅葉の塩漬け、漆の新芽の香の物、菜っ葉が少々、それにエビ。エビはすり身で召し上がっていただきます。あてに具合が良さそうなのはマコガレイの花揚げですかね、何と言ってもアッシが深川の堤防で今朝、釣っ――」

 「薩摩芋」

 燗焼酎を口に含んだ東郷は沁みわたる温かさに幸せそうな顔で応じる。

 「……あいにく芋は切らしておりまして。だいたい江戸っ子はあまり芋の天ぷらなんてものは――」

 焼酎が喉を通る音が一際高く響き、東郷の目が再び丸くなる。

 「薩摩芋がない、じゃと?」


 (なんかこう、嫌な予感がするな……)


 亭主の不安は、東郷邸に向かって走り出す二人目の巡査の姿によって証明されたようだ。



 噛み口から立ち上る湯気、その香りすら甘い。

 「うまい。うまいですぞ、御亭主」

 厚切りにした薩摩芋に粗塩を軽く擦りこんだだけの天ぷらに東郷はいたく感心している。火傷しない為に口の中で転がしながら、熱々の焼酎で飲み下す。

 「そりゃあまあ……芋がいいですから……」

 東郷邸から取り寄せた薩摩芋は亭主が今まで見た事も無い様な肥えた芋だった。

 「ケチケチするな。もっと厚く切れ」

 横から焼海苔を咥えた秋山が亭主に注文をつける。芋の話ではない。秋山は相変わらず天ぷらを食べようとしない。彼が「厚く」と注文したのは、やはり東郷邸の勝手から取り寄せた焼目のきれいな板付けだった。これにワサビを添えて皿に盛る。

 「板ワサはな、厚くなくちゃいかんぞ。向こうが透けて見える様な切り方はするな」

 「へい」

 背にたっぷりワサビをのせると、秋山はそれを無造作に口に放り込む。傍から見ても、尋常なワサビの量ではない。まるでワサビに板付けをつけて食べている様なものだ。

 「効くなぁ……親父、まいった。こりゃうまいぞ」

 目尻に涙をあふれさせながら秋山が感極まり咆哮する。

 「へぇ。そりゃあまあ、相州小田原の名代、鈴廣の上物ですからね……さぞかし、うまいんでしょうね。アッシは食べた事、ござんせんが」


 (酒代と……粉代ぐらいは貰ってもいいよな……)


 焼酎に薩摩芋、板付け。いずれも店の売り物ではないが、手間賃ぐらいは弾んでもらいたい。先の震災までは工場に勤めており、料理など一度もした事のない五十男の亭主は焼け出された被災者の一人だ。工場も家も灰燼に帰し、家族を養う為に天ぷら屋を始めた。いくら素人料理だとはいえ、その位の金は貰ってもいいはずだ。


 (総理と参謀総長か……帰ったら坊主達に自慢してやりてえが、この人ら、金払ってくれるかな?)


 亭主はたわいもない事を考えながら、焼酎に燗をし、忙しく酒を注ぐ。



 「間島の情勢ですが……米ソ両軍ともに布陣を完了、現在、延吉―図們―琿春の線で揉み合っているとのことです。先程、現地の森岡師団長から情報が上がってまいりました」

 東郷が腰を落ち着けたのを見て秋山が要件を切り出す。

 「万が一に備え、朝鮮の石光には作戦準備を命じておきました。米軍側が潰走したならば我が陸軍の出番もあるかと考え、図們江の南に第一九師団、これを先鋒とし後詰に第一八師団をあてるつもりです」

 「承知した――図們、琿春近辺における在留邦人の避難状況は如何?」

 「琿春の領事館が仕切っています。領事警察からの通報では図們の朝鉄駅構内は大分、ごった返しているようです。機関車の何輌かが故障を起こしているらしく……但し、予想よりも米軍側の動きが良い。市街戦に突入する心配は恐らくないでしょうが、皆無とは言えません。万が一の場合には、国境の南に配置している収容部隊に越境に命じて強行救護にあたらせるべきだと考えております」

 「宜しい。ですが、越境せねばならぬ時、それはあくまでも邦人保護の為だと心得て頂きたい。シベリアからようやく撤兵したばかりなのに再び越境したとあれば……今の段階では各国のいらぬ不審を招きます」

 「邦人保護……のみですか?」

 秋山は不満気に問いかける。この根っからの武人は、叩ける時には、叩いておきたい――そんな風に考えているようだ。

 「左様。邦人保護であれば大義名分が立ちますし、他国にとやかく言われる心配もない」

 「閣下も随分と政治家らしくなられた」

 相方の行儀のよい返答に少しだけ嘲る様に秋山はそう言う。

 「戯れられるな……しかし、秋山総長」

 秋山の反応に少々、気分を害したのか、東郷はややきつめの口調で返す。

 「今、彼の地では邦人の生命財産に危機が及んでいる。財産だけが害されるのであれば我が国の国際的立場を考えて自重せねばならぬ時もあるやもしれぬ。しかし、邦人の生命に危険が及ぶと言うのであれば、政府は断固としてこれを阻止する」

 「そこに一線を引く、と?」

 秋山が確認するかのように問う。

 「左様。我が国はいかなる時も武力の行使も恐れない。それにより引き起こされる事象全てに対し、この先、如何なる代価を払う事になったとしても、国民の生命の危機に対しては決然と立ち上がる。それが国際社会に対する日本の明確な意志と受け取ってもらわなくてはならない」

 「いつでも抜くぞ、ですか」

 秋山は左手を腰にやると刀の鞘を持つ真似をし、右手で虚像の束を持つ振りをしてみせながら自嘲する。

 「しかし、抜いたら退けなくなるのが我らの武家の運命さだめですが……このご時世で、まさか斬捨て御免を実践する事になるとは――」


 斬捨て御免――木端同然とはいえ、武士階級出身である以上、秋山も東郷もその言葉の真の意味を少年時代から骨身に叩き込まれている。それは

 「士分の者への非礼無礼に対しては、これを斬り捨てても法には問わない」

 という後世、市井に伝えられている様な生易しいものではない。

 武士はひとたび刀を抜いた以上、迷わず断じて斬らねばならない。恫喝だけを目的として抜刀することがあってはならず、刀を抜いた以上は相手を確実に斬り倒すだけの技量を備えていなければならない。故に日頃から武芸の鍛錬に励まなくてはならないのだ。

 もし万が一、斬り損じる様な事態になれば、それは『武士の恥』であり、己の腹を斬って恥辱を雪がねばならない。つまり、武士は特権として与えられた筈のこの『御免許状』により、かえって安易に刀を抜くことを戒められていた――という訳だ。


 秋山の言に東郷は頷く。

 「出来れば抜きたくはないが、こちらが抜きたくないという事を相手に悟られてはならぬ。悟られれば、我らの覚悟を試そうとする不埒者が必ずや現れよう。世界中のどの国であろうとも、誰であろうとも、我が帝国の覚悟を推量する様な真似をさせてはならぬ。万が一にでも日本人を害する事になれば、どの様な報復を受けるか分からぬ……そう思わせてこそ、各地の邦人は守られ、邦人は安心して海外に雄飛できるというもの」

 「英国も、フランスもそうやって世界を制しましたからね――それが良いでしょう」

 「英仏はそこに権益という欲が絡む。当然、否応でも我が国も絡んでしまう。どうせ絡むのであれば、あくまでも控え目に目立たぬようにし、欲得ずくだけではないと思わせねば各国の信頼は得られまい、と……オイはそう考えております」




 「参謀総長もおいででしたか。お邪魔ですかな?」

 仕立ての良いフロックコートにシルクハット、手には象嵌が施されたステッキ。長身の老人は見るからに上流の出と分かる紳士だった。

 「お宅に伺いましたら御内儀より、こちらに御出でになられるとお聞きしましたので……」

 紳士は悠然と東郷の横の立呑台に肘を預ける。まるで、高級バーのカウンターにでもいる様な上等な立ち居振る舞いだが、場違いなこと、この上ない。

 「金子さんか。申し訳ない、御足労をお掛けしました」

 「外相、この店の板ワサ、なかなかうまいですよ」

 東郷と秋山は金子を自然に受け入れる。


 (金子って外務大臣の金子子爵か……また、凄い人が来ちゃったなぁ)


 亭主は恐る恐る、新たな客となった金子に問いかける。

 「何に致しましょう。……今日は薩摩芋の天ぷらが評判のようです」

 「うむ。じゃあ、それを二つ三つ。それとバーボンをロックで頼む。氷は固いところを選んでくれたまえ」


 (ばーぼん? ろっく? 何だそれは?)


 「すみません。生憎、ここのところのお天気の塩梅で今日はいいばーぼんが獲れなくて……今度、河岸の連中に恥をかかせるなってよく言っときますんで。相すみません」

 氷と聞いて魚か何かと思い違いしたらしい亭主は答える。

 「……そうか。天気周りが悪いのか」

 その言葉に金子は眉を寄せ、訝しげな顔を見せるがそれ以上は何も問わず、東郷持参の焼酎を注文する。


 「秋山総長もご一緒であれば話が早い」

 小ぶりの盃に少量の焼酎を注ぐと金子はそれを一息に干す。

 「御命令通り英国、米国、フランスの三国に例の一件、提案して参りました」

 「各国の反応は如何です?」

 「悪くない――今の段階ではそれ以上は申せませんが、大方、我らの思惑通りに進むでしょう。条約修正は時間の問題とお考え頂いて構いません。軍事介入に関しても邦人保護という名目である以上、表立って反対論を唱える列国はありませんでした。渋い顔はされましたが」

 金子は三人の大使との会談を思い出したのか微かに頬を歪める。

 「そうですか……しかし、四国条約の修正が決まれば、我が国の負担が増えるのではありませんか?」

 東郷と金子の会話に秋山が割り込む。有事が起きる度に英米仏の都合で良い様に我が陸軍が使われては堪らぬ、と内心、思っているようだ。

 「秋山総長、それは取り越し苦労というものだろう。四国が手を結べば、そうそう事を荒立てようとする国などある筈もない。それこそ、我ら四国に刀を抜かせぬ方便となります」

 秋山の懸念を東郷は即座に否定するが、今度は金子が口をはさむ。

 「そこです。問題は……」

 眉間に皺を寄せ、老外相は言葉を続ける。

 「敵が存在しない時の味方同士の関係ほど危ういモノはないでしょう。当面はコミュニストどもがその役割を演じてくれるでしょうが……脅威不在となれば遠からず主導権争いや内輪揉めを始めるのは歴史の必定。ここに又、一計を案じねばなりますまい」

 「……どういう事です?」

 怪訝な表情を見せたのは秋山だったが、東郷は即座に理解したようだった。

 「新たなる敵を育てる――ですか。これはまた、面白い。実に面白い」

 不敵な、或いは不気味とも形容できる微笑みを浮かべる東郷の様子を見て、金子は主が自分の意図を理解した事を確信した。


 同時に不安にも思う。


 金子の知る東郷は、こういった政略謀略分野の話題には興味も関心を示さない人物だったはずだ。それが、今では打てば響く様に反応してくる。戦略上の仮想敵を指定し、これを研究し、対抗策を練るのが軍人の性とはいえ、東郷の反応には、より陰険さがある。もっと下衆な、言うなれば政治家臭い反応だ。


 (こんな人ではなかったはずだが……)


 背筋の表皮を不快な何かが這いずる様な感覚。

 日本海海戦の功績を讃えられる度に「ただの奇蹟でした」と謙遜し続けている東郷だが、巨大与党を従え、絶対的な権力を掌中にし、国民的に神と崇められ続けた結果、何かが変調をきたしたのではないか。

 それとも、東郷という人物が軍人としてはともかく、政治家として凡庸な人物と云う認識は、もしかして周囲の人間の単なる誤りではなかったのか? 或いは、この人物の変質を政治家としての一段の成長と見るべきなのか……。


 金子は、東郷に今は亡き山県有朋の影を見る様な錯覚を感じた。

 その生涯に渡って「一介の武辺でござる」と自身を語る事を好んだ山県の言動と、自らの比類なき軍功を「ただの奇蹟である」と一言で片付ける東郷――。

 晩年の山県がそうであったように、東郷も権勢を得た事によって欲が芽生え、変節したのではないか?


 (ふん。どうせ、我らに残された時間は、そう長くない。仮に東郷さんの本質を我らが見誤っていたのだとしても……時が全て消し去ってくれる。所詮、数年を経ずして我ら全員、死に絶える他はない老醜の身に過ぎぬ)


 老人であること、それは残された時間が僅かであるということ――。

 未来を見ずに済む金子は、それがありがたい事であると初めて感じていた。



―――― 無手の本懐 第二部 完 ――――

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