保管用 22
この日、実のところ東京駐箚合衆国大使マクベーグ氏は金子にとって『三人目』の客だった。そして列国の大使を務めている『一人目』と『二人目』の客は時間を合わせ、同時に来訪している。
大使が同時に来訪するというのは異例な事ではあり、場合によっては非礼な事であったが、同時にその二人の大使と金子の間に特殊な関係がある事を物語っている。
その一人は東京駐箚英国大使チャールズ・エリオット伯。
この時、六三歳となっていた彼は長年に渡って植民地統治の実務行政官として経験を積んだ人物であり、英国も参加したシベリア出兵に際しては弁務官を務め、その稀有な言語能力を駆使して共同出兵した他国との調整に辣腕を振るっている。同時に多才な彼は当代屈指の言語学者、著述家としても知られ、学会・文壇からも高い評価を得ていた。
既に東京駐箚大使として五年の歳月が過ぎており、東京に集う各国の外交官の中ではずば抜けて長い任期を誇っている。その意味で、任期の長さが儀礼上、重きを為す外交の場において彼は各国外交団の中で重きをなしている、と言って良い。
濃いブラウンの髪と四角い口髭、愛くるしいと表現したくなる様な大きな目……権謀術数を縦横に操る英国人らしからぬ誠実な雰囲気が、この人物には漂っている。
もう一人は、同じく東京に駐箚する仏国大使ポール・クローデル。
かの大芸術家ロダンの愛人として知られ、自身も天賦の才と美貌を兼ね備えた薄幸の彫刻家カミーユ・クローデルの実弟であり、同時に彼自身も外交官としての活躍の傍ら劇作家、詩人としても活動しており、フランス文壇の重鎮と呼ばれる人物だ。
半白の頭髪、大きくたれた目が、見るからにこの人物の善良さを物語っている。この年、五七歳。芸術一家に育ったこともあって十九世紀後半のフランス芸術界における日本ブームの影響を受け、大変な親日家として日本国内では知られており、赴任して四年、各地で講演などもこなし政財界の有力者に知己も多い。
「ご不便をおかけして申し訳ありません」
型通りの挨拶を済ませた後、金子は恐縮した態でまずはエリオット伯に詫びる。英国大使館は関東大震災の折に倒壊しており、現在、建設中だった。しかし、震災再建の為に必要なセメント、鉄骨、鉄筋、煉瓦などの建築資材全てが日本国内では不足しており、その影響もあって英国大使館の建設には尚、数年単位を要する見込みとなっている。金子が詫びたのは仮大使館で執務をとっている事に対してだった。
「いえいえ」
エリオット伯はニッコリと微笑む。あれほどの規模の震災となれば、建築資材、それに作業員の不足はやむを得ないと理解できる。資材も作業員も本国から取り寄せる事は可能だったが、あえてそこまではしていない。すれば日本政府の不手際を詰り、面子を潰す事になる。
それに、日本政府から仮大使館として提供された華族の邸宅は純和風の庭園と木造家屋からなっており、昔、大名の上屋敷だったというだけあって欧米人が好む異国情緒がそこはかとなく漂い、趣きが良い。その点は気に入っていた。
エリオット伯、クローデル、そして金子には共通点があった。彼ら三人は共に外交官として成功を収めているだけでなく、文学という趣味・副業ともいう分野においても成功と名声を得ている、という点だった。その事はこの三人の関係を職務上必要とされる以上に親密な関係としていた。
元々、第三次日英同盟下交渉の英国側担当者だったエリオット伯は見送られたとはいえ英外務省内の日英同盟推進派の一人。
そしてクローデルはワシントン会議において英米からいじめの様な扱いを受け、孤立を深めていた日本に対し、極めて同情的な立場をとったフランス外交の中心人物であり、その調整・仲介に奔走した経験を持つ。
互いに多彩な才能を持った三人、しかも異国の二人は駐在歴も長く、震災に喘いでいた日本に深い愛情を注いだ人物……。
その関係は、金子と父子二代の関係を構築しているマクベーグとは全く異質の深い交わりだと言えるだろう。
「例の米ソ衝突には困りましたな」
秘書官の差し出した緑茶を手に取りながら、金子は憂いを帯びた表情で二人の外交官に本題を切り出す。
「困ったものです。ホワイトホールも仲介の意向を示してはいるのですが、どうにも米国が頑なでして……。現在は経緯を注視している段階です」
エリオット伯が眉をしかめ、まるで柔道家の様な肉体にその猪首をすくめる。“ホワイトホール”は日本で言えば“永田町”をあらわす隠語で、英国政官界の中枢があるロンドンの街区名称だ。
「現地からの情報によれば、赤軍が優勢な様です。国境に展開している我が陸軍部隊より、その旨、報告がありました」
(え?)
エリオット伯は金子の発言に内心、驚く。
英国独自の立場として見ると合衆国が赤軍と衝突するのは大いに結構な話だ。当面、米国が後押しする奉天政府の南下の恐れは無くなり、北京政府は、より盤石になる。だが、赤軍が勝ち過ぎるのは困る。共産主義者は、その存在自体が悪だ。駒として扱える範囲に止め置かなくてはならない。
現状、エリオット伯のもとには、英国の誇る情報網より『米軍の勝利は動かないが、それなりに痛手を受ける筈……』という分析が届いており、英国と北京政府にとって理想的な展開と思われた。
無論、いくら親密な仲にある金子が示した情報だからといっても、それを全面的に鵜呑みにする程、エリオット伯はお人好しではない。日本は日本の思惑があって情報を加工し、リークしてくるはずなのだ。その点は、個人的な親しさとは別次元の話であり、公人として理解せねば個人の友誼など成り立たない。
「我が国と致しましては、邦人保護の観点、そして満州、ひいては支那情勢全般の事を考えあわせますと、軍事介入もやむなしと判断しています。両大使閣下にはその点、予めご通知申し上げたいと思い、御呼び立てした次第です」
「出兵ですか? 貴国がそこまでしなくてはならない状況だとは思えぬのですが……」
エリオット伯は金子の言葉に控え目だが即座に反論を行う。ホワイトホールに確認するまでも無い。米国がそれなりの傷を負った方が英国にとっては何かと御しやすい。日本が介入して日米側が圧勝したのでは実につまらない結末だ。
「貴国民保護と言われますと、我が国としては異論は挟みづらい。ただ、兵力の投入にはそれなりに注意が必要でしょう。貴国はシベリアで苦い経験がおありだ」
一方のクローデルも、人道的な見地から出兵に反対はしないが、欲を出して居座ると問題にするぞ、と言外にほのめかす。
二人の反応に、金子は頷きを返し、日本が満州に兵力を長期出兵する意図が無い旨を説明し、それなりの了解を得る。その口調は、あくまでも「日本も迷惑しているのだ」と、いった風だ。
軍事介入に関する説明が一通り終わった後、金子は口調を改め、英仏両国の大使に唐突に腹案を披露する。
「今回のソ連による満州侵攻という局面に際し、我が国としては現在、締結中の四国条約に修正を加えたいと考えております。是非、両国の御賛同を得たい」
「四国条約の改定ですか? どの様な?」
二人の大使は顔を見合わせ、金子に問う。三人で顔をあわせる機会は多いが、普段はあまり政治的な話はしない。気の合う仲間同士、それぞれの趣味の話題が中心だったが、今日は最初から最後まで公人としての討議になるらしい。
「第一に太平洋島嶼・属地・権益に限定されている条約第一条の適用範囲を支那大陸にまで広げた形に修正したい、と考えています」
金子の提案に対し、クローデルは小首を傾げ、無言となる。
「中国大陸まで? どういう事でしょうか? 中華民国の領土をも含むという事ですか?」
エリオット伯は怪訝な声音で問い返す。
「その通りです。四国条約の協調精神は誠に良い。四国間の軍事衝突を回避し、外交的解決を定義した素晴らしいものです。我らは、この精神をより国際社会に広めるべきと考えます。その手始めとして支那大陸方面にもこの条約の適用範囲を広げたいと我が国政府は考えています」
金子は強い口調で二人の大使を前に演説する。そこには老人特有の思い込みと頑迷さがそこはかとなく漂っている。
「改定の主旨は理解できますが……」
エリオット伯は少しだけ困惑した口調で問い返す。
「適用範囲を広げれば、民国の主権問題が絡んできますし、民国内に権益を有する国々も含まねばならないと思います。四国だけでの締結という訳にはまいりますまい」
その言葉を聞いた金子は鼻先で嗤う。
「我が国の諺に『下手の大連れ』というものがあります。役立たずが何人揃っても役立たずに変わりはなく、役立たず程、集まりたがる――という意です」
「それは、また、きつい事を」
軽く侮蔑を含み、吐き捨てる様に言い放った金子の言葉に二人の大使は思わず苦笑する。二人とも否定しないところから、内心では同意見である事が伺える。
「フランス大使閣下を前にこの様な事を言うのは本意ではないが、九カ国条約の一例もあります。多国間の枠組みは結局、条約本来の意味を失わせ、締結の利を薄くする。ましてや、不成立となれば全てが水の泡です」
クローデルは本国政府の下した九カ国条約批准拒否の裏に英国政府の工作があった事を知っている。それは他の二人にしても同様だろう。外交的には非礼な話であり、批判を甘受せねばならぬ事ではあったが、政府による調印と国会による批准が別物である以上、政局が変われば致し方のない話だ。
「なるほど。外相閣下のおっしゃりたい事が分かりました」
クローデルは得心した様に頷き、傍らに座るエリオット伯に語りかける。
「対象範囲を太平洋から支那大陸にまで広げる事によって、条約に謳っている現状維持の範囲を広げる、という意味だと思われます。そうでしょう? 外相閣下」
「その通りです」
クローデルは金子の言葉に頷くと、即座に対案を出す。この辺りの明敏さは構想力と想像力に恵まれた人物ならではというところか。
「民国領土のみならず、東アジア全域を明確に適用範囲に広げるというのは如何でしょうか? 現第一条で明記されている適用範囲はいささか不明確ですので、この際、明確に範囲を定義するのが宜しいかと思います」
「東アジア全域といいますと、貴国の仏印、我が英国の英印まで含めるという事ですか?」
クローデルの対案に問い返しつつ、エリオット伯は早速、利害の計算を始めた様子だ。心なしか表情が硬くなっている。
「それは良い案ですな。我が国には全く異論はありません。英国は如何ですか? 太平洋・東アジアの現状維持は我が国よりもむしろ、英仏両国の権益に沿った話だと思われませんか?」
金子はクローデルの提案に大きく頷き、微笑みを返す。
太平洋島嶼領土、属地、権益の現状維持を約定した四国条約の適用範囲を東アジア全域にまで広げる――。
英国もフランスも本国から遠く離れたこの地域に植民地を保有し、同時に権益も保有している。それは同時に、軍事上の負担を少なからず負うという事になる。
特に日英同盟が無くなり、アジアにおける「番犬」である同盟国・日本を失った英国は、その後の威海衛の租借期限延長に加え、米国のアジア参入により脅威度が急増しており、この先も負担の増加が見込まれている。
後押しする張作霖の北京政府による満州奪還が現実的には難しい以上、米国が満州のみで満足するならば現状維持は既定の方針であり、中華連邦の国家承認すら既に視野に入れている。だからこそ、その方針に従って馬占山軍閥を用いてソ連侵攻を誘発、北方脅威を演出し、奉天政府と米国による南下の企図を挫折せしめたのだ。現状維持に利は大きい。
フランスも同様だった。
欧州大戦の戦場となったフランスは、ドイツから多くの植民地をもぎ取ったが、戦時国債の返済もあって経済的にはともかく財政的には非常に厳しい状況が続いている。遠隔地である仏印防衛や大陸権益保護の為の軍事負担増加は極力、抑えたいのが本心だ。現状維持が約束され、負担が軽減されるのであれば大いに望むところだ。
一方、日本は自らが招いた以上、隣地・満州に米国勢力圏が出現し、既存のフィリピンと南北から挟まれた状況になることは想定内であったが、英国による威海衛軍港化は全くの想定外の成り行きであり、黄海沿岸は想像以上に軍事緊張が増している。その上、決定的になったのは今回のソ連による南進だ。
震災復興と経済成長を国家再建の道と位置付け、政府・国民のベクトルが内向きに向いている今、外部に打って出る余力はまるでない以上、現状維持こそが望ましい。
日英仏三国の利害は現状維持で一致している。
問題は中国大陸を「ニュー・フロンティア」と位置付け、満鉄と満州をその策源地と位置付けた合衆国だ。
ソ連の南進という事態発生により、掌中にした国民党右派のシンパを煽動して民国本土に揺さぶりをかけ、中長期的に北京政府打倒を目論むという方針は気が遠くなるほどの時間を要し、あまりに悠長すぎる。
かといって、性急に自国の軍事力を用いて南下し、大陸本土の権益を得ようとする行為は何より米国市民が許さないだろう。本質的に『殴られたら徹底的に殴り返す』防衛戦争以上の事を市民は望んでいない。無論『殴られたら殴り殺す』事ぐらいは平気でやってのけるのだが……。
米国も今、決定打を有していない。民国全土に経済進出するという最終目標を達成する為に取り除かなくてはならない障害があまりに多く、あまりに高過ぎるのだ。条約改定に反対した結果、もし、三国が共同して
『中華連邦の存在は、これを認めない』
と宣言すれば、米国の威信は地に堕ち、野望は完全に潰える。満州を手に入れた代価として九カ国条約の機会均等精神を自らも放棄した以上、今更、その条約履行を求める訳にもいかない。そうとなれば米国にとっても、現状維持は最良の選択ではないが、最悪の選択でもないという結論にはなる。
何より、ソ連という『規格外の脅威』に直接的にさらされているのは米国一国だけであり、満州という緩衝地帯の南にいる日英仏が素知らぬ顔をすれば、最悪の場合、満州から叩きだされる。
「米国が同意するのであれば、貴国の提案に我が国政府としては前向きに検討するでしょう」
ソ連南下の裏事情をこの場において唯一人知るエリオット伯は、脳内での損得勘定を終えていた。英国として理想的な展開を日本から提案されるという状況は大いなる喜びであり、フランスの提案は更に素晴らしい。
北京駐箚英国大使館が主導した『馬占山謀略』の要である馬占山の身柄を日本が確保しており、しかも、その件を金子が一切触れない事に関しては多少なりとも不気味に感じてはいたが、自身と金子との個人的な友誼の結果、日本側は不問に付すと言う態度なのかもしれない、という想いもある。
実際には金子をはじめとした東京中枢は、京城の犬養一派によるこのカウンター謀略の動きどころか、存在すら全く掴んでいなかっただけなのであるが……。
「政府判断を待たねばなりませんが、大筋、我が国は同意する方向で話を進める事を望みます」
クローデル大使は両者に力強く頷く。
財務状況に不安の残るフランスは日本の立場に近い。それに長い年月をかけてせっかく手に入れた大陸権益を米国が主導する九カ国条約により、あやうく制限されかけた苦い経験を有している。しかも、土壇場でそれを自らが反故にした事により国際的に厳しい批判を浴び、恥の上塗りをした以上、現状維持は最良の結果であり、大いに満足できる。
問題は本国の政局不安だ。月単位で内閣総辞職と組閣を繰り返しており、列国の失笑を買っている事を知っている。高級官僚とはいえ、一官僚に過ぎないクローデルがそこまでは責任をとれないが、誰が政権をとろうとも現状維持以上の成果を求める事はないだろう。
四国条約第一条の改定に関して、日英仏は一致した。
残るは米国だけだが、その説得工作に関しては金子が主導する事を両大使と確認する。無論、両大使の進言に従い、両国外務省ルートからも米国務省に工作が行われるであろうが、中心となる交渉役はあくまでも日本という事になる。
その時、ふと、クローデルが思い出した様に尋ねた。
「先程、外相閣下は『第一に』とおっしゃられたが、まだ他にも何かあるのでしょうか?」