保管用 20
「――――内府は我が右手を両の手で御取りなさると頭上に押し戴き『この勝利はひとえに御辺の御蔭でござる』と申されました」
帰郷した愛息・長政の仕草をまじえた無垢で嬉しげな様子に、父・如水は老いた頬に皮肉な笑みを浮かべ、こう問うた。
「その時、お主の左手は何をしていた?」
何故、その時、家康を刺殺しなかったのだ?
父のその問いに長政は絶句したという――――。
この有名な一節は、関ヶ原の戦いの後、再会した黒田父子の会話と伝承されており、稀代の名軍師・黒田官兵衛の秘めたる天下への志を裏付けるものとして、古今ありとあらゆる時代小説に引用されている。
ところが、誰もが知るこの名場面、実は福岡藩・黒田家の家臣による創作と言われている。何故ならば、この逸話が初めて流布される様になったのは、熱気覚めやらぬ関ヶ原の戦い直後どころか、戦国の息吹を色濃く残す江戸初期ですらなく、なんと時代を大きく下った大正五年の事であり、そうである以上、とてもではないが事実に基づいた話であるとは思えない。
ほんの僅かな会話で黒田如水・長政父子両者それぞれの人となりを余すところなく伝えているこの名文の創作者は福岡藩士・金子清蔵直道の子で幼名を徳太郎と名乗った人物によるものだ。
不磨の大典『明治憲法』の原文起草に参画したこの人物、大正年間には明治帝の業績を讃える史書の編纂を任され、その上、維新回天の正史ともいうべき史書の編纂作業をも同時並行にて行いながら、尚且つ、この示唆に富んだ創話が織り込まれた「黒田如水傳」までも個人的趣味で書き上げるという偉才の持ち主……。
長じて名を堅太郎と改めたその人物は、今、東郷内閣において外務大臣を務めている。
大正十四年十二月三〇日(1925年12月30日)
東京・千代田霞が関
外務省
この年の九月、工事作業中の不始末から全焼した第二次仮議事堂から皇居正面を向いた時、ちょうど左手に見える洋館二階建ての建物が外務省だ。位置としてはちょうど、現在建設中の本議事堂と第三次仮議事堂の間に挟まれる形となる。
日本の憲政の総本山たるべき国会議事堂は、まるでこの国に議会主義が根付くことを拒否するかのように祟られた建物だった。
最初の議事堂は竣工から僅か二か月、よりによって第一回目の国会召集の前日に火災で全焼。慌てて建設された仮議事堂は震災を何とか乗り越えたものの今回の火災で焼失、本議事堂の建設には未だ数年を要する事から突貫工事で第三次仮議事堂の建設が進められた結果、三か月という極短期間で一応の竣工をみている。
しかしながら、天災を乗り越えて尚、人災で失われるというのは、まるでこの国が古より負わされた宿命の様にも思われ、まさしく波乱の運命を背負った建物だったと言えよう。
繰り返し焼失し、繰り返し建てられる議事堂。それは、まるで
「似合わぬ買い物だ」
と、地下に眠る祖神の群れが現世の後継者に対し、彼らが標榜する西欧流民主主義を嘲弄するかの如くであった。
年の瀬のこの日、外務大臣・金子堅太郎の招きに応じて外務省を訪れたのは東京駐箚米国大使チャールズ・マクベーグだった。
震災当時の東京駐箚米国大使として未曽有の国難に瀕していた日本への支援に熱心だったサイラス・ウッズは満鉄売却の功績により離日し、現在は本国において政権中枢に復帰、その後任となったエドガー・バンクロフトは任地・日本を大いに気に入り、両国の友好構築に多大な貢献をしたもののこの年の七月、保養地・軽井沢の別荘において急逝している。
そのバンクロフトの後任として赴任してきたのが、共和党の重鎮で米国政界屈指の名門マクベーグ家の当主であるチャールズであり、着任してまだ数週間といったところだ。
父はガーフィルド政権の司法長官、叔父は日本とも関わりの深いタフト政権の財務長官を務めたという建国以来の政治一家で生まれ育ったマクベーグは、まるで三角おにぎりの様な巨大な鼻と窪んだ双眸が印象的な老練極まりない政治家であり、同時に決して世間一般的な美男子とは言えないが、見た者に瞬間的に記憶させるという意味において、外交官としては誰もが羨む様な面貌の持ち主でもあった。
来日して以来、彼が金子と面談するのはこれで三回目だった。
彼を出迎えた長身痩躯の老外交官が、米国上流界に絶大な人脈を保有していると申し送り資料には書かれていた事を記憶の辞書の中から引きだす。
金子は特にセオドア・ルーズベルト政権時代に閣僚の座にあった者達と関係において特筆すべきものがあり、それはまるで戦友同士の様に深い絆で結ばれているとの事だった。その中には、ルーズベルト政権の陸軍長官を務めたウィリアム・タフトも当然ながら含まれており、そのタフトが大統領を務めた折には父フランクリン・マクベーグが閣僚として仕えている。
その意味で、金子という存在はマクベーグにとって
「主筋の友人」
という関係にあたる。排他的で、何かと伝統を誇りたがる東部エスタブリッシュメントの一員であるマクベーグにとって、こういった父の代から続く既成の人脈というのは非常に重きをなす物だ。加えて言うならばこの年、六五歳になったマクベーグではあったが、未だ父・老フランクリンは故郷において存命であり、その意向にはなかなか逆らい難いものがあった。
ひとしきりの歓談の後、金子が要件を切り出す。
「貴国が望むのであれば――」
大日本帝国は、満州情勢への軍事介入もやぶさかではない、と考えている――。
古武士の様な風貌の金子は威厳に満ちた口調で、そう言った。
(ふむ――)
マクベーグは、その言葉にしばしの間、沈黙する。
……かつてエドウィン・デンビは、主君クーリッジに対し
「吠えかかる番犬」
と、日本の役目を評し
「中華連邦が独り立ちできたのなら切り捨てる」
とまで断言している。その言葉は、それを聞いた善人クーリッジにより即座に否定されたが、その思考がワシントン中枢の支配的意見である事に変わりはない。マクベーグ自身もそうであったし、日本着任以降、連夜の歓待により無類の日本好きに変貌した前任者バンクロフトでさえ、意識の根底ではそうであった。
(ようやく、日本はその役目を思い出したか)
内心、ほくそ笑む。
日本が無意識のままにその役目を負っている事を、大枚をはたいて満州鉄道を買い取った合衆国政府としては期待しているのだ。メインランドから遠く離れた東洋の一角に忠実な番犬がいるか、いないかは合衆国の対アジア政策上、非常に重要だ。何と言っても陸軍にしろ、海軍にしろ、軍を海外拠点に配備するには金がかかる。番犬がいれば、その役目を肩代わりさせられる。
かつて合衆国はその役目を清政府自身に期待し、列国に率先して北京議定書で定められた莫大な賠償金を対清融和政策に用いた。しかし、その後、清は倒れた。
続いて、曹昆・呉佩孚の直隷軍閥に巨額の資金を投じ、その役目を期待した。しかし、彼らは百戦錬磨の英国に追従する道を選び、合衆国の意のままとなる事を良しとしなかった。
そして、英国支配を根底から覆す事を期して莫大な支援を行った奉天軍閥・張作霖。その張作霖でさえ米国の意向も威信も一顧だにせず、簡単に裏切った。
繰り返される背信行為。
まさしく、合衆国の対支政策は踏んだり蹴ったりの連続だった。中国の権力者たちは恫喝すれば恐懼して頭を下げ、援助をすれば感謝の印にやはり頭を下げるが、米国人はその伏せた頭に隠れた顔の色までは読みきれず、結果、いつも読み損じる。
(何もかも間違っている――)
「英国の方が一枚上手だからだ」
とは、彼らは考えない。意のままにならないのは、競合他者が優れているからだとも、自分自身の力が及ばないからだとも考えない。合衆国が勝てないのは、ルールが悪いから。ただ、それだけだと考える。
(日本人は建前と本音を使い分ける。しかも、より建前を重んじ、本音を押し隠し、結果として損をすることを厭わない。)
(そして何より、建前を重んじる日本人は正面切って裏切る事を良しとしない。これは大きい)
マクベーグは着任以来、僅か数週間で日本人のその習性を見抜いていた。
小さな島国で幾世代にも渡って肩を寄せ合い、慎ましく暮らしていくには『恐怖』も『享楽』も支配権力の原動力とは成り得ない。お互いの体面を重んじ、建前を建前として認め合い、嘘を嘘と知りつつ、必要以上には相手を問い詰めない。その様な真似をする無粋な人間は他者から総じて疎んじられ、社会的に抹殺される。それが狭い国土によって育まれた揺らがぬ民族性となっている。
「揉め事を起こすな」
正邪、善悪、好悪といった思想感情よりもまず先に、揉め事自体を忌避し、内輪の融和を第一とする。
「揉めるぐらいならば、己が損をしてでも一歩退いた方が良い」
それが国際社会に遅れて転入してきた日本人の処世術。だが、それが世界で通用する事は無い。
(理想的な番犬だよ、君達は。もし、合衆国が日本を切り捨てても、合衆国を恨まず「自分たちの何が至らなかったのだろう」と身内同士で首を傾けながら考えこむだろうな、日本人は……)
マクベーグは深々と頭を下げると、金子の申し出に対し謝意を表明した。日本人の体面を重んじ、丁重に。
一方の金子外相。
否、金子に限らず、東郷とその一党にとって日本外交最大の「由々しき問題」は彼らが一線を退いた後に確立された現在のワシントン体制にあった。中でも、体制を担保する三つの条約の内『四国条約』に対しては強い不信感を持っていた。
日米英仏の四国によって太平洋の現状維持を確認し合い、協調体制を保証した四国条約は欧州大戦後の主要国際関係論であった国際協調主義の時流に乗り、締結当時、日本国内においても政財官民を問わず、諸手を挙げて歓迎された。勝者敗者を問わず、悲惨な結果をもたらした欧州大戦の状況がつぶさに知れ渡るにつれ、戦争に対する嫌悪感は人々に強く根付き、欧州大戦を最後の世界規模の大戦とすることに日本国民は全面的に同意した故の事だった。
しかし、同時に四国条約は当時、下交渉が行われていた第三次日英同盟の締結を見送るという結果をもたらした。今後、軍事的な解決手段をとらないと条約に包括的に記されている以上、軍事同盟は無用であるという(東郷たちから見れば)恐ろしく短絡的な理由によって――。
これにより日本は「無同盟時代」へと突入した。
日露戦争期の英国から受けた様々な助力を知る東郷一党にとって、この状況は許し難い。
原敬暗殺という非常事態に急遽、後継暫定内閣的に発足し、この四国条約への調印を行った時の内閣を率いていた高橋是清でさえ内心、そう思った。
揉め事を嫌い、本質的に政党政治家でない高橋は、この時、巨大なカリスマを失い、分裂しかねない状態にあった政友会に担がれ、閣僚ほぼすべてを前内閣から引き継いだ状態で内閣を発足させた以上、前内閣の閣僚陣が推し進めた国際協調路線に表立って反対する事はしなかった。しかし、日露戦争の折、戦費調達に英国が深く関与していたことを誰よりも知る立場にあった彼は、頼れる同盟国が存在しない状態というものが、どれだけ心細いものかを痛切に感じていた。
支那問題を介して国際法原理主義を全面的に打出し、国際連盟中心の多国間関係構築を推し進めていると世界中に思われている清廉潔白、完全無欠の正義の味方、東郷一党。
しかし、彼らの正体はとてつもないエゴイストであり、最終的に現ワシントン体制そのものの破壊を企む凶悪なテロリスト集団だったのだ。