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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
102/111

保管用 19

大正十四年十二月三〇日(1925年12月30日)

朝鮮半島北東部・咸鏡北道

日中国境付近


 薄明、行営村の臨時飛行場を飛び立った試製十三式軽爆撃機の後部座席で第一九師団長・森岡守成中将は寒さに震えていた。乾いた内陸気候のおかげで雪は少なく、滑走路の除雪に問題はないが、気温の低さには辟易となる。ましてや高度一五〇〇、風防の無い吹き晒しの後部座席では重ね着した飛行服を纏っても歯の根が合わない程の震えが起こる。

 「もう少し、高度を下げられんか」

 前部に座り機体を操る操縦士の肩を叩くと森岡は声を掛ける。高度が低ければ気温も上がる。寒さに耐えかねての言葉だった。

 「はっ!」

 操縦士は前を見たまま返答し、命じられたままに機首をグッと下げる。山間の狭い平野部、風の流れは読みづらい。加えて日中ソ三国の国境地帯上空である。一瞬の判断ミス、操縦ミスで機体は国境を越え、領空侵犯を犯してしまう。

しかし、森岡の言葉をその意図する物と違い

 「噂に違わぬ勇ましい師団長閣下だ」

 と受け取った操縦士は自分の操縦技量への信頼あっての事だと勝手な解釈を行い、高度を一気に下げる。

 新たな高度五〇〇。

 熟練の操縦士にとっては何が起きても対応できる十分な高さだが、乗り慣れていない森岡にしてみれば地表を舐めている様にも感じる高度だ。絶え間ない震えの由来が寒さによるものだと自分自身、信じたい森岡ではあったが、自ら偵察を買って出た以上、役目を忘れる事は無い。

 「二時方向、見えますか?」

 操縦士が右手を大きく上下に振るい、目標を指し示す。

 「……お、見えた――あれか」

 双眼鏡を覗き込んだ森岡が低く唸る。

 疎らに広がる葉を落とした灌木の中、蠢く人の波、そして積み上げた丸太の様にも見える砲列、粉雪に覆われた地表を葉脈の様に縫っているのは両軍の塹壕だろう。

 北に赤軍、南に米中連合軍。そこでは炸薬と銃弾の宴が昨夜半より行われていた。

 

 戦線は西から『延吉』『図們』『琿春』の街の北側に形成されている。

吉林省東部最大の街で東西に走る鉄道と北から来る鉄道が合流する交通の要衝・延吉、その延吉の東側、図們江の畔にあり、朝鮮鉄道と満州鉄道の接続駅が存在する図們、更にその東にはソ連極東鉄道と満州鉄道が接続する琿春の街並み。

 「さすがはアメリカさんだな……何という火力だ」

 雪原に咲く刹那の花の美しさに森岡は呻く。

欧州大戦に間に合わなかった余剰品の弾薬を浪費するかのように米軍は大口径、中口径の火砲をひっきりなしに赤軍陣地に向け撃ちこむ。山間部から平野部へと浸食しようとする赤軍の顔面目掛けて間断なく砲弾を降らせ続けている。

 圧倒的火力――。

 そこには敢闘精神も士気の高さも関係ない。ただひたすら、経済力の差、物量の差によって戦場の勝敗を決しようという固い意志、それは勝利すら札束によって買い漁ろうという徹底した米国流の合理主義にも見える。

 任官以来、初めて上空から他国軍を偵察するという行為に熱中し始めた森岡は、つかの間、寒さを忘れていた。

 


 当初、南下するソ連軍の進出地点は鉄道沿いに延吉の北に想定されていた。真冬一歩手前の寒さの中、道なき山野に兵を散開させるのは難しいと考えられたからだ。

 しかし、米軍を率いるマッカーサー少将の想定は所詮、合衆国陸軍基準だ。寒さに慣れ、冬を最大の味方とする赤軍を相手とした場合、その想定では過小評価という批判を免れまい。

 赤軍は延吉の北方で沿線の利を捨て、山間部に身を隠しながら東方面に広く展開、延吉のみならず図們、更には琿春の北西に至るまで横広く戦線を広げた。琿春を落とせばソ連領内は目と鼻の先であり、冬期間の長期作戦という厳しい戦いも間もなく終わると望郷の念を抱く赤軍兵士達にしてみれば、最後の難敵は平野部に展開する米軍のみ。手にした小銃の手入れに余念はない。


 一方、赤軍の思わぬ横方向への展開に延吉北方において深めに縦深をとって部隊展開していた米軍は慌てた。

 手薄な状態の図們を落とされ、琿春まで赤軍の手に堕ちれば、敵軍の勝利は確定的になる。正面切って戦わずに赤軍の撤退を見送れば被害は皆無だが、奉天に対し表面的な忠誠を誓っている張作霖の旧部下達である中小地方軍閥は先々、米軍を侮り、その後ろ盾の下、政権を担っている国民党右派の管制を脱しようとよからぬ画策を始めるだろう。

 赤軍を無傷のまま帰す訳にはいかない。例え形式上ではあったとしても米軍は赤軍に

 「勝利した」

 形にしなければならない。

 左翼・延吉の北に合衆国第1師団、中央である図們の街の北に中華連邦国民革命軍第5師、そして右翼・琿春の北に白系ロシア義勇軍――。

 赤軍の横展開に合わせ、後手を踏んだ米軍側もまた東西に広く薄く、展開せざるを得なくなっていた。

 これは米軍にとって大きな誤算だった筈だ。

 慌てて砲兵陣地を構築し直し、塹壕を延伸し、三つの街の北側に抵抗線の傘を張り直す。得意の機力を存分に用い、地元住民という無尽蔵の労働力を投入した抵抗線の再構築作業は赤軍の意表を突いた機動を上回る速度で達成され、それは間一髪間に合うかに思えた。

 しかし、権益侵害に憤慨する米軍、共産主義を憎悪する白系ロシア軍の頑強さに比べると、中華連邦第5師の脆弱さ、言い換えれば戦意の低さがマッカーサーの作戦を台無しにしようとしている。中央を任された第5師は赤軍の積極果敢な機動に翻弄され、徐々に図們の街へと押し込まれつつあり、赤軍も中華連邦軍の鈍い動きからその士気の低さに気が付いていた。


 戦線突破を試みている、この赤軍部隊に対しては既にモスクワから自国領土への帰還命令が出ている。

 クレムリン内部における権力闘争がこの極東の紛争にも影響を及ぼし、外交と国防の総責任者トロツキーに得点を許したくない共産党指導者スターリンと内政を統括するルイコフが強硬に即時撤退を主張した為だ。

 ここまで常勝状態で満州東部を蹂躙してきた赤軍を指揮する極東軍管区司令官イエロニム・ウボレヴィッチにしてみれば不本意この上ない命令ではあったが、モスクワの意向とあっては致し方ない。彼はトロツキーに連なる一派に席をおいており、モスクワの決定に反した行動をとれば彼自身はもとより領袖であるトロツキーにも害を及ぼしかねない。

 既に他の戦線における戦闘は終結しており、中東鉄道の権益回収に成功した赤軍諸部隊は撤退を開始している。残るは大遠征を敢行したウボレヴィッチ直率の部隊のみであり、その部隊も琿春を抜けばソ連本土への道が開ける。

 「脆弱な図們を落とし、その東、琿春に布陣する白系ロシア軍を殲滅すれば作戦は完遂する」

 ウボレヴィッチは戦線を眺めながら、そう考えた。

 米軍との勝敗など、撤退命令の出た現時点となってはどうでも良い事だ。米軍を一敗地に塗れさせれば先々、満州情勢が混沌とするのは目に見えているが、そうなれば米国も本腰を入れて介入してくるだろう。シベリアで日本軍を相手にしていたのと違い、満州で米国と対峙するとなれば互いに本国から離れすぎた地での戦闘だけに致命傷を与える事は適わず、戦乱が長期化するのは目に見えている。そして、その長期の消耗戦で先に根をあげるのはどうみてもいまだ政治的に安定せず、革命後の余波により経済的に混乱しきったソ連の方だ。

 必然として、ウボレヴィッチは戦力を図們に集中させた上で米軍側の分断を狙い、これに対しマッカーサーは左右両翼から赤軍を締め上げようとしていた。


 既に前日から始まった会戦はいよいよ本番を迎えようとしている。

 寒さに慣れた赤軍の機動は確かに米軍の予想を上回った。しかし、米軍の火力は赤軍の予想を遥かに上回っていたのも事実だった。工兵出身のマッカーサー少将が構築した緻密な塹壕線を突破するどころか、辿り着く事すら出来ず、赤軍は死体の山を築いている。

 だが、それも戦線の一部の事であり、俯瞰すれば、それも赤軍の作戦の一部である事が見て取れる。赤軍は米軍の戦術機動を拘束する目的の為だけに無謀な突撃を米軍陣地に対し繰り返し行い、その間に主力はあくまでも中央突破を狙っている。

 結果として、中華連邦軍が後退を繰り返した図們県正面の戦線は大きく浸食されており、市内北部では市街戦が始まっている。間もなく米軍側の戦線は東西に分断され、琿春県に立て籠もる白ロシア義勇兵は孤立する。赤軍にとって白系ロシア軍は反革命の象徴であり、処罰の対象だ。降伏など認められる筈もない。ウボレヴィッチの最終目標はこの反革命分子の殲滅に局限された。

 孤立の危機に瀕した白系ロシア義勇兵は文字通り、死力を尽くして戦っていた。コミュニストの捕虜となって苛烈な拷問の果てに処刑される事に比べれば、どこからともなく飛んできた銃弾に頭を撃ち抜かれた方が、彼らにとっては遥かにましな死に方なのだ。



 

 行営村臨時飛行場に帰着した森岡は出迎えの師団参謀達に対峙する両軍の状況を掻い摘んで説明する。本来であれば師団長自ら偵察するなど、異例中の異例な行為であり、もし搭乗中の機体に何らかの事故が起きれば指揮系統は大混乱に陥る。

 それでも森岡は長州人だ。弾いた算盤の玉に利があると踏めば、一切合切を突っ込むだけの度胸に不足は無い。

 そして長州は今、陸軍の非主流派であり、森岡自身は師団長に着任して間もない。師団将兵の人心を掌握するには、これまでの様な長州閥の威光と権威を振り回すのではなく、森岡個人の武威に拠らざるを得ない。彼が自ら偵察飛行への同乗を買って出たのは、

 「勇ましき哉、我が師団長」

 という将兵の名望を欲したからだった。森岡はそういう計算が出来る男だった。


 「京城から新たな命令は? 三宅坂は何と言ってきている?」

 一斗缶にくべられた枯れ木の上げる炎に手をかざし、凍えた指先をほぐしながら森岡は留守を預かっていた師団幹部達に尋ねる。

 「我が師団への命令としては今のところ何も……昨日、受領した命令のままです」

 「動くな、か」

 不本意な命令に森岡は小さく舌打ちをすると、別の参謀が報告する。

 「朝鮮軍司令部よりの連絡によれば、動員を完結した平壌の第一八師団が行動を開始、一両日中には朝鮮北部全域に展開を完了する見込みです」

 「第一八師団か――それは心強いが……彼らまで前線に出てくるようだと収拾がつかん状態になっている可能性が高いだろうな」

 第一八師団は旧関東軍から朝鮮軍に配置転換された精鋭部隊だ。朝鮮軍を構成する三個師団の中でも練度、装備、充足率全ての面で他の二師団を圧倒している。

 「京城の第二〇師団も動員をほぼ完結したとの事です。当面、総予備として後方に控える事になると思われますが」

 「ふむ。見たところ赤軍は勝ち逃げする気だろう、長期化する線は薄い。今更、京城近辺に兵を集めたところで間に合わぬ、動けるのは我が師団のみだ。いずれにしろ出戦となれば我ら第一九師団が先鋒を承る事になる。貴官ら、抜かるなよ――それにしても第一八、第二〇両師団まで動員するとは、な」

 「石光司令官殿は奇手を好まれない方と聞いております。念には念を、という事でしょう」


 (面白くも無い意見を言うな)


 森岡は内心、そう思いつつも師団参謀に鷹揚に頷きを返すと、従卒が差し出したブリキのカップに入れられた白湯の湯気を髭にあてる。寒さに強張った顔の皮膚が少しずつ、和らいでいく。

 「それにしても……あんな豪勢な戦のやり方は見た事が無い」

 機上から見た米軍の投射弾量を思い出し、森岡は呟く。

 「小手先の戦巧者や将兵の武勇など、あんなやり方を前にしたら意味など無いだろうな……」

 森岡率いる第一九師団も、決戦師団に位置づけられる第一八師団ほどではないにしても対ソ最前線部隊として装備は内地師団に比べ優遇されている。それでも米第1師団に対し火力で優位を手にする事は難しいだろう。いや、難しいどころか不可能だ。

 怜悧な赤軍は一部の部隊を犠牲にして米第1師団を陣地に拘束し、その間に中華第5師を粉砕し、白ロシア義勇軍を殲滅する作戦に徹している。そしてその作戦は成功しつつあるように思え、逆説的に言えば赤軍は米軍に対し戦術的に勝つことを最初から諦めている。


 (赤軍の粘り強さは尋常ではない。不屈だと言って良いだろう。その赤軍相手に……我が陸軍でさえシベリアで苦戦した赤軍相手に最初から勝ちを諦めさせる――か)


 米軍が苦戦し、赤軍が勝利を掴む寸前、越境し、一挙に介入する。それが森岡の描いていた絵図だ。米軍の実力は知らなかったが、赤軍の実力はシベリアで経験済みであり、米軍と交戦して満身創痍の赤軍相手であれば、十分に活躍でき、武功は誇りたい放題になると踏んでいた。

 しかし、米軍の能力は桁違いだった。

 火力に限定して言えば米軍第1師団に対し、朝鮮軍3個師団でようやく伍するかどうか、というレベル。まるで砂を大地に撒くかの如く砲弾を浴びせる、あの戦い方……重砲を機関銃か何かと勘違いしているのではないかとうがった見方をしたくなる。

 

 (是が非でも軍功をあげたかったのだが――な)


 米軍を誉めそやす想いとは裏腹に、森岡は自己保身の為、この会戦への介入を願っていた。

 シベリア撤兵以降、日本に差し迫った戦争の気配は無い。それは即ち、高級将校が軍功をあげる機会の滅失を意味する。非主流派においやられ、更には年齢的にも中将としての定年が近づいている。ここで功を成し遂げ、大将への昇進が適えば、長期に渡る外地勤務の軍歴からして最低でも朝鮮軍司令官職、運が良ければ三顕職まで狙えるが、中将のままでは来年春には予備役編入だ。

 

 (冗談じゃない)


 それでは何の為にこれまでの半生、山県に、寺内に、そして田中や宇垣に頭を下げてきたのか分からない。そうかといって騎兵科出身である事を利用して秋山にすり寄りたくても、秋山自身に派閥を作り上げる気概がないのでは結局、一時しのぎだ。


 (やっちまうか――――)


 理由は後付けで何とでもなる。

 好都合な事に、最前線に布陣している歩兵第七三連隊長の大家徳一郎大佐は陸大時代から偏屈で傾奇いた人物で通っていたし、彼に曖昧な命令を下せば、勝手に踊ってくれそうでもある。

 現状、臨戦態勢を敷いている第一九師団ではあったが許可されているのは、避難してくる邦人を国境の内側で収容し、救護する事までだが、大家ならば独断で拡大解釈してくれそうだ。後日、仮に介入が三宅坂から問題視されたとしても

 「連隊長の独断専行だ」

 と言い張れる。大家は梅津、永田、小畑、前田、篠塚ら天才が揃い踏みした陸大二十三期卒という不幸により、卒業成績は芳しくない。ここで一旗揚げねば、いずれ少将どまりで退役だろう。


 (大家は武功をあげたいだろうな……)


 焚火の煙が奇妙に埃臭い。今、図們江河畔で連隊を指揮しながら同様に焚火に手をかざしているであろう大家の姿を想い、その思考を想像する。

 戦場になりつつある三つの街の中でも朝鮮鉄道と満州鉄道の接続駅のある図們の住民の半数は在留邦人だ。数日来、数千人にものぼる在留邦人を琿春領事館員と領事警察が必死に避難誘導し、国境の鉄橋上を朝鮮鉄道の特別列車がひっきりなしに往復している。

 苦労して築いた生活基盤を捨てて途方にくれた様子の在留邦人の目に第一九師団の将兵は、どう映っているのだろう? 図們江を渡らず、安全な場所でのんびり構えているように見られているのではないか? 第一九師団が、ほんのちょっとでも国境を超えれば彼らは財産を失う事はなかった筈……。

 大家はきっと避難民からの刺す様な視線に居心地の悪さを感じている筈だ。

 自身の保身と栄達、避難民からの冷たい視線。

 少将での退役が予定された未来である大家大佐に現状、保身を図る道理はない。あくまでも栄達を狙う道しか残されておらず、その為には、軍功が最低条件だ。

 大家大佐は故・宇都宮太郎陸軍大将直系の『佐賀左肩党』に属しており、その佐賀左肩党は宇都宮大将没後、武藤信義中将に引き継がれている。若くして一閥を継承した武藤を籠絡して己が掌中に握り、自らの薩摩閥と佐賀左肩党を合流させる事によって陸軍九州閥を主宰した上原元帥も今は冥府の住人であり、石光大将、武藤中将を中心とした現・九州閥は現在の秋山体制を支持している。だが、その秋山に閥族意識など皆無であり、前時代であれば別な道が開けたかもしれない大家大佐も今の秋山陸軍ではその伝手によって生き残る手段も使えまい。


 (賭けてみるか……どうせ、負けても賭け金を払うのは俺じゃない)


 犠牲の羊を憐れみ、森岡は微かに口角をあげると、傍らにいる師団参謀の一人に声を掛ける。

 「七三連隊に師団命令を――在留邦人救護の為に取り得る手段全てを講じよ、と」

 それは曖昧な命令だった。

 「救護の為に取り得る手段全て」を拡大解釈すれば、図們駅周辺に集結しつつある避難民を直接収容する為に越境を許可されている様にも受け取れる。

 森岡の出す師団命令はあくまでも「救護活動」だが、大家大佐の性格と願望を考えれば、それを「収容活動」と解釈し、収容の為の手段として「排除行動」も許されると思い込むに違いない。平素、自らを陸軍部内における愚連隊であるかの如く吹聴し、肩で風切り、粋がっている佐賀左肩党の連中であれば、この機会を逃すまい。

 排除行動が始まれば、話は早い。

 歩兵七三連隊が交戦を開始すれば、介入部隊救出と援護を名目に旅団を、更には師団主力の投入も可能だ。三宅坂から難詰された時には、全てを大家大佐の暴走で片付ける。仮に監督責任を問われそうになれば、佐賀左肩党ひいては九州閥の横暴であると喚き立て、敵失をもって長州閥の得点とすることも不可能ではなく、その上、軍功をあげてしまえば万事問題ない。


 (現場は現場、三宅坂には後で何とでも言い繕えるさ)


 それは名案に思えた。

 しかし、その考えも白湯を口に含み、凍えた脳みそに血流が流れ込むと愚策だと知る。


 (いや、ダメだ。こいつら俺の命令を聞かぬだろう)


 一斗缶の周りに屯し、森岡の命令を即時実行するでもなく空虚な官僚的議論を始めた緊張感薄い参謀達を見詰め、微かにため息をついた。

 大家連隊長以下、現場指揮官達は師団命令を疑問にも思わないだろうが、師団本部に詰め、肝心の命令書式を整える参謀達は違う。彼らは三宅坂、或いは京城からの介入許可命令が無い限り、どんな師団作戦命令の書類を書こうともしない。徹頭徹尾、軍事官僚と化した陸大出の俊才達の中に師団長に着任したばかりで、つき合いの深さもそれほどでもない森岡の命令を軍令に抵触しかねないと知りつつ手伝う様な“気の利いた”将校はいそうにない。

 一昔前であれば現場が多少、独断専行しても軍中枢にいる所属閥の幹部達がそれを揉み消し、取り繕ってくれた。だからこそ現場の少壮将校達は失敗を恐れず、大いに腕を振るえた。

 しかし、今は時代が違う。

 仮に森岡が秋山の閥に属していたとしても秋山に森岡の独断を糊塗する気などさらさら無いだろう。秋山はそういう男だ。日露戦争のおり、旅団参謀として長年使えただけにその事は十分、分かっている。


 (やはり、上の判断を待たねばならぬか……つまらぬ時代になったものだ)


 高緯度地方の冬、遅い朝。森岡は凍えた背を更に丸くした。


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