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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
100/111

保管用 17

大正十四年十二月十八日(1925年12月18日)

朝鮮半島 京城

朝鮮総督府 総督官邸


 「どうだい。大騒ぎなっただろう」

 京城市内で発行されている新聞を卓上に並べ、犬養木堂は得意気に顔を綻ばせる。同席しているのは後藤文夫、そして石光真清の二人。

 「そりゃ、なるでしょう」

 当然の結果だろう――石光は主の子供じみた反応に苦笑を禁じ得ず

 「英国さんは気が付きますかね」

 と、一方の後藤は今一つ、確信が持てずに、不安気な顔を見せた。後藤の顔色を見た石光が愛用の煙草を揉み消しながら破顔する。

 「ご心配頂かなくとも結構です。しかるべき伝手を用いて、北京駐箚の英国公使リットン伯爵閣下にはお気づき頂く様、手配は整えております」

 石光の言葉に犬養は微笑む。

 「肝心なのは裏で糸を操る英国紳士様に、俺達が何でも御見通しだって分からせることだ。こちらからは何も言わずに、さも偶然を装い、それでいて奴ら自身が己の後ろめたさに怯える様なカラクリこそが肝よ」

 「はい。承知致しております。……それはそうと、閣下の今回の煽動、朝鮮大衆を巻き込んでの普選実施要求というのは、いささか――」

 「やり過ぎだろう? 分かっている。だが、今回に関しちゃ派手なら派手の方がいい。どの道、内地や民政党は何かしらの対案を出してくるだろう。それを元手に次の総選挙で議論し、対決する。その時、我が党が勝てば粛々と外地への普選実施を発議し立法すればよし、民政党が勝てば我が党は下野し、朝鮮、台湾における民衆の自由と権利を擁護する政党として支持を拡大できる。どっちに転んでも悪くはねえ」

 言いだしっぺである犬養の無責任ぶりに石光、後藤の二人とも唖然とする。

 「いいかい? 総選挙ってのは解散が無ければ四年に一度だ。次の総選挙までまだ二年と少しある。次の総選挙で我が党が勝ち、外地普選施行と結論を出しても、実際に施行されるのはその次の総選挙、つまりは六年先だ。よしんば次回総選挙で民政党が勝ってみろよ、更に四年は伸びて実現されるのは最短でも十年先って話になる。時間はたっぷりあるし、その間、外地の民には『焦れて迂闊に暴発したら、内地の議会は黙っていない。時期尚早と判断し権利獲得は遠のくぞ』と耳打ちしてまわる。血の気の多い連中は逸って拙速するかもしれないが、尻馬に乗ろうっていう大半の連中は日和見して大人しく待つだろう。切ったはったで戦わずとも、いずれ与えられるかもしれないと思わせちまえば、巌の様な性根だって砂の城になるってもんさ」

 犬養は半島も台湾も永遠に支配できるとは思っていない。その事は朝鮮に総督として赴任して以降、骨身にしみている。この地は「たまたま日本列島の隣にあった」だけであり、そこに住む人々の慣習、風俗、思想全てが内地とは乖離している。この地を根底から『日本化』するのは不可能だ。明治維新まで多文化を許容する封建諸侯の連合国家であった日本が極短期間で一枚岩の中央集権国家に変貌したのを成功例として、教育さえ徹底すれば朝鮮や台湾も内地同様に変貌させられると考える内地為政者は多いが、一つの民族を他の民族に同化させるなど土台、無理な話だ。

 だからこそ、朝鮮半島を『日本化』するのではなく、アジアという大きな括りの中に置こうとしている。その為に大アジア主義をこの地で説き、新たなイデオロギー、そして何よりアイデンティティーとするべく活動している。だが、それが根付くには時間が必要だ。もし、何ら誇るべきアイデンティティーも無く彼らを独立させれば、この地は迷走し、再び近傍勢力の顔色を伺うだけの以小事大に戻ってしまう。

 「全くとんでもない大悪党ですな、閣下は」

 呆れた口調の石光は、傍らの後藤と顔を見合わせ、苦笑する。

 「まあ、大悪党としちゃあ、このままで終わらせたんじゃあご期待に沿えねえってもんだ。石光、あっちの件はどうなっている?」

 問われた石光は腕時計に目をやる。

 「間もなく、かと」

 小悪党は自信たっぷりに大悪党に頷きを返した。



 官邸執務室の重い樫製のドアがノックも無しに突然、開けられる。扉を背にしていた石光は間髪入れずに薄汚れた背広の懐に手を伸ばすと忍ばせた拳銃のありかを確かめつつ、年齢を感じさせない速度で立ち上がる。危険な世界に身を置き続けていただけに、瞬時に発した殺気は周囲に冷気さえ感じさせる。

 「木堂さん、来たよ」

 緊張と殺気を放つ室内の一同に対し、狭い部屋の壁と天井に鳴り響く様な能天気な声を張り上げたのは、犬養の盟友・尾崎行雄であった。


 「おう、咢堂。ご苦労だったな」

 尾崎の出現を予期していた木堂は相好を崩す。古い知己の出現に気を良くしたらしい。

 「まったく、俺は現職の大臣様だぞ。それを電報一つで呼びつけるとは……」

 言葉は荒くとも、こちらも機嫌よさ気に応じた尾崎は犬養の傍らに座り、しばしの間、互いの近況を報告しあう。石光も、後藤も、まるで無視された格好だ。

 「連れてきたかい?」

 「応よ」

 二人だけにしか分からない会話を交わした後、尾崎は開け放たれた扉の向こう、廊下に声を掛ける。すると廊下から一人の男が姿を見せる。

 一見すると和服にも似た態もある白い木綿生地の民族衣装の上に、年季の入った焦げ茶色の背広の上着を着込んでいる。何とも奇異の姿だが、より一層、奇異に感じるのは室内に招かれた人物の人相、そして肌の色だった。でっぷりとした貫録ある体格の上にのる顔には大粒な瞳に彫りの深い目鼻立ち、濃い口髭。その肌は纏った背広と同程度に浅黒く、茶褐色と言って良い。

 「犬養先生……」

 部屋に一歩、踏み込んだところで、その茶褐色の肌を持つ男は絶句し、佇む。大きな黒豆の様な両眼はたちまち大粒の涙で溢れかえる。

 「防須君、よく来たな」

 犬養は自ら立ち上がると男の前に行き、その肩を抱く。小柄な犬養は男の肩ほどの身長もない。しかし、犬養は明らかに「防須」と呼んだ男を我が子の様に慈しんでいる。

 男の名はラース・ビハリ・ボース。今では日本に帰化しており、それに際して犬養自ら「防須」の姓を与えた人物だった。


 「立雲から聞いている。俊子夫人、お亡くなりになったそうだね。葬儀に出られず、すまんことをした」

 犬養はボースに頭をペコリと下げる。その所作は如何にも軽いが、気持ちは感じさせる。

 俊子夫人とはボースの妻であり、新宿に店を構えるパンと洋菓子の店『中村屋』の主・相馬愛蔵・黒光夫妻の長女・俊子の名だ。インド独立運動の闘士であったボースは日本に長年、亡命していたのだが、各地で行う反英講演や集会が英国政府の逆鱗に触れる事となり、当時の日英同盟の関係もあって日本政府は英国政府の圧力に屈し、ボースに対し国外退去を求める。

 これに激怒したのが立雲こと頭山満、そして犬養だった。

 両者は結託し、行きつけの店であり、著名な外国人芸術家や国内芸術家のパトロンとしても名を知られていた中村屋社長・相馬にボースの身柄を匿う様に頼み込む。政府に対する反抗である以上、頼まれた中村屋にもどんな災厄が降りかかるか分からない事案であったが、豪気にも相馬は快諾し、社員一同と共にその身柄を匿い通したのだ。

 後に、犬養らの働きかけによって国外退去処分は取り消されたが、その後も英国は執拗にボースの身柄を探索する。ボースと、彼の身の回りの世話をする内に恋仲となった俊子は頭山満を仲人として祝言を挙げたのもつかの間、英国が雇った密偵によって、その後も行方を追われ続ける事となり、僅か8年間に17度もの転居を繰り返すはめとなる。その間、二人は一男一女を授かるも、この年、逃亡生活の心労から俊子は他界している。

 「お言葉だけで……。ありがとうございます」

 再会早々、恩人である犬養が内地から遠く離れた京城にあっても一家の事を案じていてくれた事実を知ったボースは素直に感謝する。


 「さて、防須君。君に頼みがあってきてもらった」

 しばしの間、旧交を温めあった後、犬養は改まった口調でボースに対し話し掛ける。

 「知っていると思うが……先日、俺はこの朝鮮の地で外地住民の権利獲得の為、デモを行った」

 犬養の言葉にボースは頷く。

 「存じております。犬養先生の宣言、本国と植民地を同等に扱おうという愛護の精神、虐げられたアジアの民は大いに奮起致しますでしょう」

 やや興奮した表情を見せたボースは追従でも何でもなく、真にそう思い込んだ口調でしきりと頷く。

 被支配民に選挙権が与えられるなど夢の又夢。

 極一部の富裕層を除けば満足な教育も受けられず、社会的な権利が著しく制限されたアジアの同胞……。その被支配民にも本国民と同等の権利を与えるべきである ――犬養の京城大行進は、そうボースに解釈されている。

 「私に頼みとはなんでございますか?」

 命の恩人である犬養の頼みであれば、何でも聞く。そう言わずとも分かる口調でボースは身を前に乗り出した。




1925年12月18日(大正十四年十二月十八日)

中華民国 北京

北京駐箚英国公使館 公使執務室


 英国の度重なる呼びかけにも関わらず、米国は中華民国、中華連邦の相互承認という譲歩案を受け入れようとしない。あくまでも北京政府を倒し、中華連邦を中国大陸の正統政府に押し込もうと策動し続けた。

 何故か?

 「侮られている」

 そう英国政府は結論付けた。英国政府の推す中華民国に東北三省への侵攻能力は無く、民国から東北三省を分離した状態が永続的に続くはず……。しかも、米国は公式には民国を正統政府として国交を結んでいる。首尾よく目論見通りに連邦が民国を打倒すれば、米国の優先権は中国全土に及び、もし仮にそれが不可能であっても東北三省を事実上、植民地化した上でワシントン体制遵守を御旗に中国本土でも英国と対等の地位が与えられるべきだと主張できる。

 「強欲にもほどがある」

 英国政府はそう判断した。外交と謀略に関しては百戦錬磨の手練れであると自負している。国益を守る為であれば自国兵士を地獄の戦火の中に送り込むことも厭わなかった。

 最高の頭脳に加え、時として非情に徹しきれる決断力。

 それこそが英国だ。


 手始めに朝鮮半島内で英国が港湾租借を狙っていると情報を漏らし、英国は中東鉄道をソ連から買収するらしいと噂を流す。

 続いて張学良に近い馬占山を蜂起させる。馬占山の支配地は中ソ日三国の国境に近く、中東鉄道沿線にも及ぶ。その反乱を見た米国は疑心暗鬼に陥るだろう。叛乱の背後に民国政府と英国だけでなく、港湾の提供者として日本が、そして鉄道の売り主としてソ連が介在し、共に暗躍しているのではないか?と。

 無論、英国も日本も米国同様に頑迷な反共国家だ。むしろ米国よりも、君主制度を擁する日英両国の方が共産主義ソ連を不倶戴天の敵とみなしていると言って良いだろう。日英両国がソ連と手を結ぶなどあり得ないはずだが、そのあり得ない事を平気で行い、誰よりも巧く仕切るのが英国だ。英国に対し先入観を持って判断してはならない。そんな狭量な判断を下した者は敗者の列に並ぶ義務を負うのだ。

 英ソ日三国に包囲される可能性に怯えた米国は、短期間で馬占山を討ち取り、その叛乱の芽を断ち切るべく討伐部隊を編成し国境地帯に出兵するだろう。必然的に中華連邦と、全く事情を知らないソ連の間に緊張が走り、偽装の砲弾一発で中ソは激突する。

 正面に民国・英国。

 背後に赤軍。

 口を開けば「法の遵守」とうるさくがなり立て、臨検活動に精を出す東郷・日本にしてみれば、英国の一味と思われるのはさぞかし不本意だろうが、今回は少しばかり我慢してもらおう。

 米国政府が忘れかけていた赤軍という物騒極まりない存在を思い出し、英国との対立を長引かせるのは得策ではないと思わせせれば良い。それで連邦による民国政府打倒の思惑は霧消し、背後の赤軍に対応する為、軍事的には激突しつつ、外交的にはソ連と国交のある英国に調停斡旋を願い出るだろう。しかも、自身は共産主義の中国本土進出を防ぐ防波堤とならざるを得ない。まるで、英国が支配する中国本土を守る為に……。

 役者たちは巧みに役割を演じ、舞台は無事、千秋楽を迎える筈だった。



 すっかり頭の禿げあがったリットン伯爵は小さく呻くと、手にしていた新聞を机の上に放り投げる。

 「あり得ん」

 投げられた新聞の紙面には、東京で若槻らが目にした写真と同じものが掲載されている。扱いはかなり大きく、新聞の一面の半ばが写真となっている。彼が手にしていた一紙に限らず、どういう訳か北京市内で手に入る新聞全てに同様の写真がでかでかと載っている。

 若槻も、浜口も、写真に写る犬養の存在にばかり注目していた。恐らく、大部分の者が同様だろう。

 しかし、英国人達は違った。この米国に恥辱を与え、外交的に屈服させるという謀略に参画した全ての英国人が唖然とし、事の重大さに改めて気がついた時、慄然とした。

 「間違いありません。馬占山将軍です」

 馬を良く知り、この謀略をリットン伯爵とともに推し進めた張学良は、ため息をつき、断定する。

 ――横断幕を手にした民衆達の前、ステッキを片手に闊歩するイヌカイという日本の政治家。その隣で只一人、場違いな漢服を着込み、何故、自分がここにいるのか分からない、という当惑した表情を浮かべる男。韓服や洋装、和装姿の民衆の中、特徴的な八の字髭をはやした伝統的な漢服姿の男は周囲から明らかに浮き、明らかに目立っていた。

 「馬め、こんなところにいたとは……」

 全ての謀略のキーマンとなる馬の存在は消してしまうのが最良の選択だった。だから、彼を人知れず抹殺するつもりだった。激戦地からの救出要員と見せかけた工作員を送り込み、彼を拉致し、闇から闇に葬るはずが、気が付いてみれば工作員からは一向にその後の連絡はなく、馬の行方は杳として知れない。

 「何故、馬将軍は朝鮮に――」

 張学良の問いにリットン伯爵は首を左右に振る。

 「この際、何故かは問題ではないだろう」

 老いたリットン伯爵の表情は絶望に瀕している。

 「問題は……問題は、我々の工作、その全貌を日本が知っている可能性がある、という事だ」

 「馬将軍の攻撃が赤軍の侵攻を誘発したことは米国も承知しているでしょう。だったら、全ての罪を日本に着せる事も可能なのではありませんか?」

 若い張学良の指摘はさすがに的を射ている。

 「米国に何というのだね? 『馬将軍が朝鮮にいる。ここに証拠の写真がある。真の黒幕は日本だ』とでも言うのかね? やめてくれ」

 リットン伯爵は大袈裟な身振りで手を振り、言葉を続ける。

 「よろしいか、張将軍。万が一、真に受けた米国が日本を問い質しても『知らない。別人だろう』と言われて話は終わりだ。この権利を叫ぶ群衆を捉えた新聞紙面を飾る一枚の写真が動かぬ証拠などと言っても、東京もワシントンも鼻で笑いとばすわ」

 「でしたら――」

 尚も抗弁しようとする張学良をリットン伯爵は手で押し止める。何と言っても彼は大総統・張作霖の嫡子、その利用価値は限りなく高い。老練なリットン伯爵であるからこそ、その価値を知り、機嫌を損じぬように丁重に扱っている。本当は馬将軍を推薦してきたこの浅はかな張学良という小僧を怒鳴りつけたいのだが……。

 「先程も言ったが、日本が全て知っている可能性があるという事だ。それでいて、彼らは馬将軍の身柄を殊更、誇示するだけで、我らになんら要求もしてこない。公式にも、非公式にも」

 執務室の床に敷かれたペルシャ絨毯を蹴り上げる様にリットンは立ち上がり、苛立たしげに室内を歩き回る。

 「もし――もし、彼らが何らかの要求をしてくるのであれば、それを逆手にとって証拠とし、米国にこの一件は全て日本の企みだと喧伝できる。悪辣な日本人は米国を東北三省から追い出して、再び満鉄の利権を握るつもりだ、とでも何とでも言って……。しかし、英国の弱みを握り、尚且つ、彼らは何ら要求をしてこない。彼らは絶対的に優位な筈なのだ」

 リットン伯爵は張学良に向き直る。先程まで蒼白だったその顔は、今では落ち着き払い、仮面の様に無表情だ。彼はこう考えた。


 (この写真、この一枚の写真を我々に見せつける為に群衆を動員し、各国の報道機関を京城に集めたとしたら――)


 思い至った思考に伯爵の頬は総毛立つ。


 (トウゴウなのか、或いはこのイヌカイという政治家がやったのかは知らぬが……これは我々の口を封じる一手なのではないか。彼らが口を閉ざしている限り、英国側からは動けない。交換条件を口にした途端、それが証拠となる……)


 一つ、咳払いした伯爵は諦念とした口調で呟く。その言葉は御曹司・張学良を前にして英国の弱みを見せまいとする欺瞞に満ちたモノだった。

 「既に米軍と赤軍が北の大地で激突している以上、少なくとも当初の目的は達せられている。米国はソ連という危険な隣人の存在を思い出し、英国と対決する姿勢を改めるだろう。全方位に喧嘩を売るほど米国人は愚かではない。問題は証人という切り札を持つ日本政府が手札を見せていない事だが――極めて好意的に解釈するとして、彼らはその切り札を我ら英国にだけ見せ、米国に見せる気が無いのかもしれない。そして最も悪意的に解釈するとしたら……いや、よそう。かつての同盟者である日本人がそこまで卑劣な連中だとは思いたくない。いずれにしろ明らかになっている事象全てを勘案すると、我らの役目はここまでだろう」

 それは現場責任者として中華連邦政府、合衆国関東州民政局、極東ソ連軍を思うが儘に操ったリットン伯爵による終結宣言だった。

 

 しかし、残念ながらジョンブルが想像する以上にサムライは悪辣な存在だった。



大正十四年十二月十八日(1925年12月18日)

朝鮮半島 京城

朝鮮総督府 総督官邸


 身を乗り出すボースに犬養は微笑みを返す。彼の真っ直ぐな気持ちがありがたい。

 「頼みってのは、この京城にインド亡命政府を作ってもらいたいんだ」

 「は? 政府……団体ではなく、ですか?」

 ボースは面食らった顔で、犬養を見つめる。二の句が継げない。

 「あぁ、団体じゃだめだ。堂々と政府を名乗れ。無論、お前さんをはじめ、亡命政府に参画するインド人全員の身の安全は俺が責任を持つ。朝鮮半島にいる限り英国には指一本触れさせん……いや、触れられない、かな」

 分かる者だけに分かる冗談に気を良くしたのか不敵を絵に描いた様な老人は、黄海の向こう側で慌てふためいている英国紳士の姿を思い浮かべ、残忍な笑みを浮かべた。

 「犬養先生、誠に……誠にお許しいただけるので?」

 夢でも見ているかの様な茫然とした口調でボースは呟く。

 彼ら独立運動家は、あくまでも個人の集合体であり、公式にも非公式にも『政権』などと呼べる存在ではない。言わば、無責任な存在である。真に故郷を憂い、命を賭す運動家も多いが、それ以上に運動資金調達と称して犯罪に手を染める者、詐欺或いは強請まがいの寄付を強要する者も実に多い。それもこれも、全ては『個人』及びその集合体『団体』が主体であり、法で己を律する『政府』ではないからだ。個人の名望がいくら高かろうが、結局のところ、個人の思惑で動くし、仮にその個人が死ねば、彼に提供した資金も全て闇に消える。それが恣意的な団体であっても同じ事であり、これでは、独立運動家に対し物心両面で援助する者も、その運動の先行きを危ぶみ、何事も控えてしまう。

 しかし、団体から一歩前に進み、『政府』となった場合、その運動の目的は単なる『独立』から『独立後』まで見通したものとなり、その精神は受け継がれる。そして『政府』を運営する為には様々な法律や規律、規定が必要であり、それこそが政府の意志となる。個人の思惑など介在する余地もなく、指導者個人の生死に際しても残された政府組織によって連続性を担保できる。

 ボースは根無し草だった。

 独立を望むインド民衆の支持は得ていても、あくまでも独立運動という名の反英運動を志向し、実践する一個人に過ぎない。

 そのボースに犬養は亡命政府樹立を勧めている。

 つまりは、独立運動の核となるだけでなく、独立した後まで見通し、民衆からの支持や支援の受け皿となる様な正式な組織を作れという訳だ。

 無論、今までもボースをはじめ多くの独立運動家はそれを願い、それぞれの亡命先で各国政府に許可や政治的な庇護を願い出ていたが、英国の様な列強と対立するリスクを請け負う冒険主義的な政府など戦争中でもない限り存在しておらず、独立運動家達の願いが適う事はない。

 「構わねえ。それにこの話を持っていくのは、お前さんのとこだけじゃねえんだ―――」



大正十四年十二月十八日(1925年12月18日)

中華民国 上海

フランス租界


 轟音、閃光、そして爆煙。

 散発的な銃声が聞こえ、やがてそれが止む。爆発直後に聞こえた怒声や罵声も今では悲鳴と呻き声に取って代られ、僅かなその声も無慈悲な銃声によって沈黙を強いられる。

 「お迎えにあがりました」

 漢服の男、背広姿の男、作業着姿の男……雑多な衣装を纏い、拳銃やライフルを手にした集団の唯一の共通点は黒い覆面をしている事だけだ。外観からでは、その集団がいずれの国の者であるかも定かではない。

 声を掛けられたのは浅黒い肌に細く切れ長の目、がっしりとした首回りが印象的な初老の男であり、その名をファン・ボイチャウという。仏印ベトナム独立を目指す抵抗組織『ベトナム維新会』の最高指導者の一人だ。

 先頃、フランス租界警察により上海市内で拘束され、間もなく故郷・仏印に護送される予定だったファンは、この時、自らに向けられた言葉が日本語である事に気が付いた。ファンは数年間、日本に居住していた経験があり、日本語は流暢では無いモノの操る事に問題が無い程度には話せる。

 「誰の指図か」

 祖国独立運動に半生を奉げてきたファンは落ち着き払った口調で尋ねる。命を狙われた事、拷問を受けた事、友人知人の死を間近に見た事……感傷的な精神力ではとてもではないがもたない、あまりにも陰惨な半生だった。その半生に裏打ちされた言葉は自然と威厳を帯びる。

 「……クォン・デ候殿下の命により」

 一瞬の間を置き、そう答えた黒覆面の男にファンは冷笑を浴びせる。

 「そう言えと言われたか? そう言えば私が信じると――顔すら見せぬ男の言葉を信ずると」

 ファンは頭を横に振る。

 「それに殿下はこの様な荒事をなされる方ではない」

 断定的な口調だった。揺らぎない信念に裏打ちされた自信が感じられる。その様子に黒覆面の男は説得を諦めたのか、被っていた覆面を自ら脱ぎ捨てるとファンに非礼を詫び、言葉を続ける。

 「大日本帝国陸軍・影佐禎昭大尉であります。現在は朝鮮総督府の石光機関に属しており――」

 「よろしい。影佐さん、それでよろしい」

影佐の言葉に、今度こそファンはニッコリと微笑む。

 「朝鮮――なるほど。貴方をここに寄こしたのは犬養先生ですね。お懐かしい……では参りましょう。さあ、急いで」

 主君であるクゥオン・デ候の名でも動かなかったファンだったが、犬養の名を口にしただけで理由すら聞こうとしない。絶大な信頼を寄せている事が、その事実だけで分かる。


 乾燥した冬、爆発の余波により建物に火が燃え移り、辺りには黒煙が充満しつつある。その煙を断ち割る様に武装した特務機関員が走り回り、目撃者全ての殺害に余念がない。フランス租界警察の異変に気が付いた他列強の租界警察が動き出すまで、そう時間的な余裕はないだろう。

 毎日の拷問にもかかわらず、ファンの体は十分以上に頑健であり、年齢とは不相応に身軽だった。彼は後ろを振り返らず、駆け抜ける様に先程まで租界警察だった建物を後にした――。

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