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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
10/111

第10話 上原元帥 (3)

大正十三年一月七日(1924年)

東京・三宅坂 陸軍参謀本部


 上原の瞑目により室内を覆いつくした陰湿な空気を破ったのは、参議官室事務取扱の任に当たっている一人の老大尉だった。老大尉は、扉の内側に一歩入ると

「元帥閣下、陸軍省よりお言伝が参っております」

と、年季の入った見事な敬礼と共に告げる。

 上原が『陸軍省』という言葉に瞑目したまま微動だにしなかった為、取りなすように今村副官が老大尉よりメモ綴りを受け取る。今村は、その内容を一読すると上原の腰掛ける長椅子の背後に周り、小声で耳打ちする。

 しばしの沈黙の後、

「よし」

と言葉短く発し、立ち上がった上原は、

「秋山陸相より、人事兵備について参議に諮りたい…との事である。これより陸軍省に出仕して参ろうと思う」

と、一同に告げる。秋山陸相からの伝言に対して

『相談があるなら自分で来い……』

などと、下らぬ意地を張り、互いの格を気にするような上原ではない。何より上原と秋山は、陸士三期の同期であり、私的には「俺、貴様」の仲である。


 上原の言葉に列を成していた閥の面々が割れ、通り道を開ける。

突、その中より晴れがましい面持ちで福田大将が一歩、進み出て

「では、ご一緒致します」

と、溌剌と申し出た。

半瞬、上原の思考が途絶える。

……忘れていたのだ。

福田も自らと同格の軍事参議官である事を。


(ふん…全く気の効かぬ奴だわい…秋山はわしと二人で話したいと言ってきているというのに)


 ……はて?

自分は何故、この福田という人物を重用したのだろうか?

若い頃は颯爽とし、大志を抱き、大いに「長閥打倒」などと気炎を上げていたものだったが…。

どうも、何かが違う。

権力がこの男を老醜に変えたのだろうか?

その考えは同時に、上原自身を何やら妙に不面目な気持ちにさせられるものだった。


 激しやすいがカラッとした性格であり、親しみやすい元帥として下士官兵に

「カミナリ親父」

の愛称を奉られ人気のある上原ではあったが、この時ばかりは

「わきまえよ、福田」

怖ろしく平板で抑揚のない声音を発し、当事者・福田の追従笑いを凍らせる。次に一歩、歩を進めた時には最早、福田の存在など、既に思考の流れに入る余地はない。慌ただしく、陸軍省に上原出仕の連絡を有線電話で入れる今村の声を背に、上原は秋山の待つ陸軍省・大臣公室へと向かった。


 参謀本部と隣り合う陸軍省本館まで、歩いて十分余り。互いに広大な敷地面積を有するだけに隣接はしているものの、玄関先から玄関先までの距離は実に相当なものであった。

 参謀本部の古風な庭園造りの庭先を通り、通用口を抜け、芝生を基調とした西洋庭園風の陸軍省の敷地に入る。

 その広大な敷地内では、いくつもの幕舎が張られ、その下では炊き出しが行われている。この三宅坂近辺に住み、震災により家を失った大勢の市民が、大人の拳骨程もある大きな握り飯と山盛りの沢庵、それに大根、白菜、高野豆腐、油揚げを陸軍式に形が無くなるまでクタクタに煮込んだ熱い味噌汁という献立の夕餉にありつこうと、日の暮れかかった冬空に列を成し始めている。

 震災直後、市民の苦境を見てとった上原が、時の陸軍大臣・田中義一に直談判して、習志野糧抹支廠から緊急に軍需物資を運んでこさせ、実現した「陸軍印」の給配所である。

 実は、上原はこれだけに飽き足らず、参謀本部の敷地内にある庭園にも幕舎を張らせようと考えつき、山県有朋が手ずから図面を書いたと言われる、その贅の限りを尽くした豪華な日本庭園を、私兵同然の存在である第一工兵連隊を使って根こそぎ整地してしまおうとしたのだが、

「明治大帝陛下が、愛でたお庭にございます」

という周囲の顔を蒼褪めさせた諫言に渋々、諦めたのであった。


 列をなす市民の一人が上原の姿を見つけると、深々と頭を下げる。その姿に、周囲の市民も気が付き、最初の一人を中心にお辞儀が居並ぶ列を波の如く広がっていく。単に元帥という高級将校が歩いているから、ではなく、寒さと復興作業に疲れ切ったこの体に染み渡る夕餉の算段をしてくれたのが一体、誰であるのか? 彼らは気が付いているのだ。

 頭を垂れる市民達に、上原は軽く手を上げる事はするが、口はへの字に曲げ、眉間には深く皺をよせ、ただでさえ怖い顔をよりいっそう歪めながら、その場を早足で通り抜ける。


この男、照れているのだ。




 上原が陸軍省本館に足を進めた瞬間、薄暗い長大な廊下の奥より軍靴の音高く、歩を進めてくる集団に気づく。一団の方でも、ほどなくして上原の存在に気づき、足を止め、一斉に敬礼を上原に対し送り、上原も軽く答礼する。

「閣下、お珍しいですな。省部においでとは」

と、声を掛けてきた人物、即ち、前陸軍大臣・田中義一陸軍大将である。

「秋山の機嫌伺いかね?」

嫌味だ。

上原の声には、やはり毒がある。田中義一は、山県有朋・寺内正毅・桂太郎と権力と陸軍の中央を流れてきた長州閥の現在の領袖、つまり上原とは仇敵の間柄……という訳だ。

識見に富み、英邁な人物として知られているが、とにかく政治的な野心が強いと評されている割には

「田中? ふん。弾の下を知らん男だ」

と日清・日露の激戦を知る老将達の評価は低い。田中がその軍歴の大半を軍政方面に費やしたのは事実ではあったが、日露では満州軍の参謀も務めている。決して「戦場を知らない」訳ではないが、他人からの印象とは兎角、そういうものだからこれは仕方のない事であろう。

そして、上原自身も田中を「弾の下を知らん男」と見ている。


 加えて……田中という人物を上原が嫌う理由のひとつには、無論、『九州閥』対『長州閥』という閥族意識からであったが、実はより大きな理由がある。

田中は、己が政界に転ずる道具として陸軍を利用しているように感じるからである。

自らを「当代随一の技術将校」と自負する理科系元帥・上原であるからして、勿論「単なる勘……」などというあやふやな根拠の無い事で人を貶めたりはしない。

 田中の所業、例えば、在郷軍人会の創設など、その最たるものであろう。会長には乃木将軍と共に奉天会戦の指揮を執った川村景明元帥を据えているものの、実質上、田中の意のままに動く在郷軍人会は、いずれその政界転身に伴い、巨大な集票機械として動きだすだろう。

「先を見据えて」

と言えば聞こえは良いが、どうにもこの小賢しさが上原の癇に障るのであった。


上原の吐き出した毒を意に介さず、田中が応じる。

「秋山閣下に次官人事の件につき、上申して参りました」

「ほう、それで誰を推薦したのかね? 向学の為に承りたいものだが」

その問いを待っていました……とばかりに田中は背後に控える一団の一人を顎でしゃくり

「無論の事、宇垣中将です。本当なら、彼こそ私の後任の陸軍大臣にと考えておりましたが……まぁ、組閣は東郷首相閣下のお考え、私の様な者の預かり知らぬ事ですので」


(やはり、宇垣か)


上原は表情を変えず、宇垣に一瞥すら与えず、

「宇垣君ならば、まぁ、大臣の補佐役ぐらいならば大過なく務まるであろうの」

と、賛意とも嫌味ともつかない事を言う。

「参議官閣下は秋山大臣に何用で?」

今度は田中が問う。

「大臣より、今後の人事兵備について相談したい、との申し出があったのでな。こんな老骨に相談なんぞせずともよいのにな」

と、言外に

「俺は秋山に呼ばれてやって来たのだ。呼ばれもせぬのにしゃしゃり出たお前と一緒にするな」

の意を含ませる。

もし、最初の上原の問いに田中が殊勝に

「大臣職の引き継ぎをして参りました」

と答えていれば、この様な毒は吐かなかったであろうが、

「次官人事を上申……」

という言葉の背後に、政治に疎い秋山を馬鹿にし、飾り物にしようとする意図がありありと感じられたからである。


 上原は長年にわたって強粘質の巨魁・山県有朋と渡り合い、その嫌味な性格に幾度となく神経を逆なでされ、幾度となく己の胃の腑を傷めつけられたものだったが、その山県亡き今、逆に

「味方ではない」

と認識した相手には寸時も手間を惜しまず、必要以上に毒を吐き、塩を塗り込む事が日常になってしまったようだ。

そう、まるで山県の亡霊が憑いたが如く……。

そして、その亡霊は「不毛な輪廻転生」の果て、いずれ目前の田中にも受け継がれていくのであろう。


「宇垣中将の次官への選任、参議官閣下にもご賛同頂けるものと信じております」

と、あくまでも、田中は上原の毒に気づかぬふりをし続ける。

かつての上原がそうであったのと同じように……。

田中の言葉が耳に届かなかったふりをして、上原は一段の脇をすり抜け、大臣公室へと続く廊下を歩み始める。


(宇垣か…)


(席次ならば武藤の方が上ではあるが……)


(所詮、次官人事。親補職ではない以上、参議官会議でいつでも首はすげ替えられる)


(秋山が推せば、やむを得ぬかな……まぁ、しばらくは参謀本部を手堅くまとめてからでも良い……)


 実のところ、上原はこの宇垣という人物については、未だその力量を推し量れていない。一介の陸軍中将でありながら、青年時代に大隈重信の知己を得て以来、政財界に強力な人脈を形成しつつあるというからには、いずれ軍より身を引き、政界を志す気であろうか。

弁は立つし、頭も切れる。青年・中堅将校達に声望があり、うるさ型の老将達からの評判も上々のようであるし、そして何より態度に卑屈さがない。実に堂々としたものだ。

恰幅の良い体躯を綺麗にプレスされた軍服に包み、たまごの様な顔立ちに、清潔感のある短髪に口髭、腹の底から湧きあがるような大音声と、不屈不退転の意志を感じさせる鋭い眼差し。

どれをとっても、軍人として必要な物、全てを揃えているような風がある。

田中同様に「弾の下を知らん男」なのだが、全くそんな事を感じさせず、むしろ歴戦の名将の如き風体である。


(まさに将器とはこういうものなのか……)


と、つい感じてしまう魅力があるのだ。


 陸士1期(通算12期)、陸大14期を共に首席で卒業した俊才……というだけならまだしも、この宇垣なる人物、山本権兵衛内閣(第一次)が推進した軍部大臣現役武官制の廃止を阻止すべく「陸海軍省官制改革ニ対スル研究」という怪文書を各方面にばらまいた過去を持っており、『軍部大臣現役武官制』とは、山県有朋が首相時代に制定した官制だ。

 大正元年当時、陸軍が求める二個師団の増設を、予算難を理由に認めようとしない西園寺首相を倒すべく、陸軍大臣・上原勇作は陸相単独辞任・帷幄上奏という「伝家の宝刀」を抜き放ち、その後、この『軍部大臣現役武官制』を盾に、陸軍が後継陸相を西園寺内閣に送らなかった事により、同内閣は総辞職を余議なくされている。

 この陸軍の横暴に、民衆は憲政擁護運動を組織し対抗、西園寺内閣の次の桂内閣が、この問題の処理を誤って民衆の怒りを買い、短期で退陣すると山本権兵衛に大命降下が降りる。その山本内閣において組閣当初から重要問題とされたのが、この『軍部大臣現役武官制』から『現役』の二文字を削り、予備役、後備役にまで範囲を広げる…という制度改革だった。

 もし、山本内閣の改革が成功すれば、この官制を制度化したのが、山県である以上、その面目は丸潰れとなり、影響力の低下は免れない。宇垣はこの時、失脚寸前にまで追い込まれた領袖・山県有朋を救う為とはいうものの、前述の怪文書を流す、という帝国軍人にあるまじき手段を講じてまで改革に対して徹底抗戦し、倒閣運動に手を染めた、という前科がある。

 結果からしてみれば、宇垣の思惑は外れ、長州閥ナンバー4である陸軍大臣・木越安綱陸軍中将が自らを犠牲の羊として差し出すことにより「軍部大臣現役武官制廃止」は衆議院にて可決された。

しかしながら、同時にシーメンス事件に揺れた山本内閣も瓦解、この政局混乱により、幸運にも山県は政治生命を断たれることなく、その後も政界に君臨し続ける事となったのだ。

 尚、この怪文書事件には後日談があり、さすがにその行動は、時の軍上層部の勘気に触れたとみえ、宇垣はその後、大きく出世の道を遠回りする事になったのだが、砂中の玉石、再び頭角を現し、少将への任官こそ遅れたものの、同期の先陣を切って中将への昇進を果たしている。


 結局のところ、上原が宇垣に対する評価自体を保留しているのも、その怪文書事件で見せた侠気にあるのかもしれない。同時に、エリート中のエリート、陸軍の至宝とまで噂される宇垣一成ほどの男に、怪文書事件という、下手をしたら予備役編入されかねない様な決断をさせてしまった「大正政変」の引き金を引いた上原自身が、無意識に感じる負い目なのかもしれない。


 正直、自らの閥に属する将軍たち…武藤はともかく、福田、石光あたりでは宇垣に太刀打ちするのは難しいだろうな、と諦念とした感想を抱き始めている。


(さすがは長州閥。伊達に権力に長居していた訳ではないな。どうにもこうにも層が厚いわ)


上原元帥の憂鬱な日々は続く。


平成21年12月19日 サブタイトルに話数を追加


平成22年1月31日 文章推敲により訂正

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