第1話 鷲は次高山を越えず
昭和十六年十二月八日
(1941年12月8日)
布哇諸島・北北東二百二十浬
現地はまだ払暁というにも早い時間だ。天候は快晴、波が若干、荒れているものの艦上機の発艦に不都合が生じるほどではない。
南雲は瞑目したまま、ただ、待っている。
乗艦する旗艦『赤城』以下の空母群の飛行甲板上には、完全武装を施された艦上機の群れが、暖機運転を行っており、その轟音が艦橋を吹き抜ける潮風の音や、艦首が切り裂く波音と交じり合い、奇妙なほどに苛立たせる。狭苦しい艦橋内には、司令部に籍を置く大勢の参謀達が詰め掛けており、ただでさえ小ぶりな赤城のその空間は、身動きが出来ぬほどに混みあっていた。
淀んだ空気に耐えかねた誰かが咳払いする。そしてその咳払いを咎める様に、別の誰かが咳払いをする。
(いっそ、窓を開けて潮風を中に入れようか……)
赤城艦長を務める長谷川喜一大佐は、参謀陣の苛立ちを見るに見かねて、ふと、そう思い立つ。それ程に参謀達の、とりわけ通信参謀と情報参謀、航空甲参謀の三人はイラつき、殺気立っているのだ。
(困ったものだ。始まる前から、頭に血を昇らせているようでは)
自らよりも年少で兵学校の後輩にあたる若い参謀達を、静かな目で眺めつつ、長谷川は深く、そしてそっと息を吐き出し、諦念と自らの汗ばんだ掌をさり気なく軍跨の横で拭う。
(ふむ……茶でも持ってこさせるか……)
自らの思いついたその考えが、素晴らしい名案の様に思えた長谷川は、艦橋入口に詰める従兵に声を掛けようと、振り返った瞬間、視線の先で突然、大声が上がる。大声を上げた通信兵が手にしていた電文を、ひったくるように奪い取った通信参謀が、その文面に目を落とす。待ちきれなくなった他の参謀が電文を一目、見ようと他者を押し退ける様に通信参謀の間近に詰め寄っていく。
しかし、通信参謀は、それらの同僚達を手でかき分け、押しのけながら、早足で南雲の前に近寄り、敬礼を行うと、両腕をピンと前に伸ばし不動の姿勢で電文を読み上げ始めた。
「発・第五艦隊司令部
宛・連合艦隊司令部 第三艦隊司令部
ワシハ ツクタカヤマ ヲ コヘス 』
以上です」
その瞬間、艦橋内の全員が大きく息を吐き出し、どよめきが起きる。
隣にいる者と笑いながら握手を交わし、互いの肘を叩きあう者、思わず込み上げてきた想いに耐え切れず、目頭を軍服の袖で拭う者、そして呆けた様な顔をし、虚脱感から手近の物に縋りつき、辛うじて座り込まないようにする者……。
様々な姿で、それぞれが、その文面の意味を噛み締めていく。
「長官……」
南雲の横で直立不動の姿勢のまま立っていた参謀長・酒巻宗孝少将が頬を紅潮させ、安堵の表情を浮かべながら話しかける。
「鷲は次高山を越えず、か……。よし、艦隊進路方位二八〇度、第二戦速。発動時刻は航海参謀に一任する。ミッドウェーの北二〇〇浬を掠めよう」
「復唱、艦隊進路、方位二八〇度、第二戦速。宜候」
航海参謀の生田茂也中佐が、やや声を潤ませつつ復唱し、その命令はやがて後続の艦に対しても発光信号によって伝達されていく。
南雲は長官席から立ち上がると、その小柄な体を突っ張るようにして振り返る。
「諸君、艦隊をここまで引っ張ってくる苦労、並みの神経では務まらなかった事でしょう。本当に、ご苦労さまでした」
上官らしからぬ、異様なほどに丁寧な口調で南雲は訓示した。
「ありがとう、みんな。帰ろう、横須賀へ」
そう言って訓示を結んだ南雲は、右手をスッと挙げ、一同に敬礼を行う。その敬礼に対し、その場にいた全員がこの上ない程に整然とした答礼を返す。南雲はゆっくりと皆を見回し、一人一人と目線を合わせ頷き、一巡すると手を下ろした。
それを合図として艦橋内は再び、先程以上の喧騒に包まれていった。
艦橋を覆い尽くす喧騒の最中、南雲は人知れず赤城の通信長・関春夫少佐を手招きした。
「横須賀に帰れる……」
という喜びから少々、浮かれ気分だった関は、普段、話した事もない雲の上の存在である艦隊司令長官・南雲の手招きに怪訝な表情を浮かべつつ、そっと近づく。近づきつつも関の心中には、何やら、とてつもなく嫌な予感が到来する。その嫌な予感の原因である南雲は、平素の無口な古武士の様な風貌からは想像も出来ない程、ニヤついた笑いを浮かべながら、関の耳に口を近づける。関は思わず、小柄な南雲に合わせて腰を屈めると、その耳にささやき声が流れ込んできた。
「全艦に打電してくれ。文面は『本艦隊は演習を終了せり。これより横須賀へ帰投す』だ。それから二航戦の山口、三航戦の原に伝えてくれ。後で連絡機を仕立てても良いから酒でも呑みに来い、秘蔵の酒と肴を出すから、とな。うん。平文でいいよ」
「し、しかし、長官。二航戦はともかく、三航戦とは六十浬以上、離れています。隊内無線では届きませんが……」
「だから、さ、通常の無電でいいよ」
まるで『とびっきりのいたずら』を思い付いた悪童の様な顔で、南雲が微笑む。
「あの、長官? 通常の無電、と言われますと、布哇でも傍受されますが?」
「だからさ」
南雲は、この上もなく無邪気な笑顔をその皺深い相貌に浮かべると、呆けた顔をみせる関にそう言った。
昭和十六年十二月八日
(1941年12月8日)
仏印東南沖 二百六十浬
ハワイ沖に展開した南雲・第三艦隊に
「鷲は次高山を越えず」 ―――― 即ち、「米国に開戦の意思なし」
の無電を発した第五艦隊は南方作戦従事の為、進路を南南西、即ち真方位210度にとり、速力16ノットにて進撃していた。
僅か二時間ほど前まで、彼ら第五艦隊の前方を扼す様に横断したり、蛇行を繰り返したりして、その行く手を遮っていた米アジア艦隊は、別れ際に
「貴下の航海に神のご加護を」
の発光信号を残し、フィリピン方面に去っていった。第五艦隊旗艦・空母『翔鶴』の艦橋では司令長官・近藤信竹中将が前方を見据えたまま、愛用のカップに注がれた珈琲を一口、口に含む。
「アチッ!」
珈琲の思わぬ熱さに舌を焼かれた近藤であったが、自嘲気味に微笑むと、これをきっかけとして常日頃の平静さを取り戻していった。茫洋とした風貌で、如何にも田舎の旦那然とした近藤ではあったが、対英仏開戦以降、急激に関係が悪化しつつある米国アジア艦隊が、南方作戦の主幹部隊を率いる自らの面前に現れた時には、正直、肝を冷やしていたのだった。
「合衆国を刺激するな。万が一の時は、例え何があっても最初の一発は米国側に撃たせよ」
大本営は帝国陸海軍の前線部隊に対して、この様に厳命しており、この命令が最重要である事を繰り返し通達してきた。帝国海軍の最先鋒という大任を命ぜられた第五艦隊においても台湾西方の策源地・馬公を出航後、各艦の艦長が下士官兵卒に至るまで訓示を行い、機銃弾一発が巻き起こすことになるであろう、この“取り返しのつかない間違い”を未然に防ぐべく、神経をすり減らしてきたのだ。
開戦劈頭に行われる、ある意味、正々堂々、真正面からの英領マレー半島への上陸作戦。
その作戦支援全般を任せられ、出撃してくるであろう英国・東洋艦隊邀撃の任まで帯びた第五艦隊は、広大な南シナ海を晴天に恵まれつつ一路、目的地である英領マレー半島の要衝・コタバルを目指し、静かに進撃していく。事前に数十回もの図上演習を繰り返し行い、ありとあらゆる要素を想定し尽くした第五艦隊司令部一同は、既に「人事を尽くして天命を待つ」の境地に達していた。これより先、何が起ころうと、全て打ち合わせた通りに各戦隊、各艦、各員が動けば勝利は自ずと我がものとなるはず……。
そう、固く信じていた。
「長官、瑞鶴索敵4番機より入電です」
通信参謀・古尾谷平介中佐が近藤に声をかける。
「英艦隊発見す。コタバル市より方位75度、距離80浬、速力18ノット。進路は方位85度から90度です」
「やっと出てきたか、英艦隊……」
近藤の口調は、まるで大石由良之助の到着を待ちわびた塩谷判官のそれのようであった。
「近い、近いではないか!」
「予測通り、針路に立ちはだかってきたな」
瑞鶴4番機の報告により、静かだった艦橋内が一瞬で沸き返し、空気が沸点に達する。
「長官、矢を放つ時かと存じます。やりましょう」
航空戦の専門家である参謀長・市丸利之助少将が、病的に痩せた感のある顔を緊迫させ、充血した眼を見開くと間髪いれずに近藤に詰め寄る。
「そう慌てるな、参謀長」
先程の一杯の珈琲の熱さで、常日頃の平静さを取り戻した近藤は、殺気立つ艦橋内にいる者達全てを落ち着かせるように、潮に焼かれた野太い声をわざと平板に発音する。
「瑞鶴4番機に敵艦隊の詳細について報告するように伝えてくれ。……特に空母の有無についてな」
……数分後、接敵中の瑞鶴索敵機より報告電が入る。
「戦艦2、空母1、巡洋艦2、駆逐艦4、上空に直掩機なし」
古尾谷中佐が興奮気味に近藤に報告する。
「直掩機なしとは……。舐められたものだ」
近藤は長官席で頬杖をついたまま、苦笑する。
市丸参謀長、主参謀である服部勝二大佐が同調したように笑うが、航海参謀とともに英艦隊位置を作図していた航空甲参謀・山口文次郎中佐が躊躇わず直言する。
「英艦隊はマレー半島の基地航空戦力に期待しているもの考えられます。半島よりの距離は僅か80浬、十分に英空軍の制空圏内であります」
「かまわぬさ」
服部主参謀が山口の心配をよそに笑顔を見せる。
「油断はせぬ。無論、慢心もせぬよ、だが……」
服部はここで言葉を切り、周囲を大きな双眸で睥睨しつつ言葉を継ぐ。
「所詮、航空戦は数の勝負だ」
参謀達の声を聞き流しつつ、近藤が決断する。
「よし、作戦案甲一号を採用。六航戦、七航戦、第五戦隊、第七戦隊、五水戦に発光信号。目標、英東洋艦隊、攻撃隊は順次、発艦を開始せよ。それから前衛の五水戦には、最大戦速にて敵艦隊との距離を詰めるように伝えてくれ」
作戦案甲は、英艦隊が迎撃に出撃してきた場合を想定して練られたもので、その規模、配置により一号から一八号まで立案されていた。これに対して、英艦隊が未出撃の場合は、作戦案乙一号から八号までが想定されており、これとは別に出撃した筈の英艦隊の位置が特定できない場合に備えて、作戦案丙が立案されており、更に万が一、対米戦に突入した場合の丁案一号から一六号が用意されていた。
『英艦隊出撃』の報は、事前に哨戒任務に就いている潜水艦部隊より伝えられており、問題は甲、丙いずれかの案で上陸作戦を進捗せしむるか……? にかかっていたのだが、瑞鶴四番機のもたらした報告により作戦案甲が採用される事となったのだ。数々の作戦案の中でも甲一号は近藤以下艦隊司令部が、最も自信を持って練り上げた作戦案で、英国が上陸予定地点近海に東洋艦隊主力を配置した場合を想定したものだ。
近藤の発した、その言葉を合図に、五航戦に属する新鋭正規空母『翔鶴』『瑞鶴』が風上に艦首を振り始める。続けて六航戦の空母『山城』『扶桑』が、更に七航戦の空母『伊勢』『日向』も同様に、その長大な艦体を風上に向けるべくゆっくりと回頭を開始する。
時を同じくして艦隊に所属する戦艦、巡洋艦からは次々と水上偵察機や水上観測機が射出され、戦場となるコタバル市の沖合に向けゆっくりと編隊を組み上げつつ向かう。
同時に旗艦『翔鶴』の前方30浬では前衛を務める軽巡洋艦『立霧』以下、4個駆逐隊16隻の駆逐艦が濃藍に染まる海原を舳先で切り裂きつつ、敵艦隊に針路をとり、急加速していく。
鈍足の下駄履き水上機部隊、そして五水戦の役目は戦果の確認であると同時に被撃墜搭乗員の救出。日本海軍は大金を投じて養成した搭乗員を無駄遣いする気は、サラサラない。
1個水雷戦隊を動かすには膨大な燃料と予算を必要とするが、例え一人でも救出に成功すれば十分、お釣りがくる事を知っているのだ。
「舵、もどーせー、増速、第三戦速」
「よーそろー」
「戦闘機隊より順次、発艦開始せよ」
この時、放たれた第五艦隊の航空戦力は艦戦108機、艦爆72機、艦攻54機の合計234機。
昭和十六年十二月八日、午前8時25分。
史上初にして、最大級の海上航空戦力による海戦が今、開始された。
昭和十六年十二月八日 午前八時三〇分
ハワイ・真珠湾
(現地時間12月7日 午後1時30分)
米太平洋艦隊司令部
「本当にいたのか、ジャップの艦隊が……」
米太平洋艦隊司令長官ハズバンド・E・キンメル海軍大将から手渡された写真――――PBYカタリナが撮影した西進する日本艦隊――――に目を釘付けにしたまま、米陸軍ハワイ方面司令長官ウォルター・ショート陸軍中将が呟く。
「ウォルター、私の前でジャップなどという下品な言葉は使わないでもらおうか」
キンメルは葉巻を灰皿でもみ消しながら、2歳年上の同輩に訂正を促した。
「ふん……」
(この、ジャップ贔屓が……)
キンメルの言葉が聞こえなかったふりをしつつ、ショートは内心、毒づく。
米国海軍の職業軍人、とりわけアナポリス出身の高級将校達には、ある意味「癖」とも言える共通項がある。即ち、極度と言っても良い「日本贔屓」である。無論、個人差はあるものの、大半の海軍の高級軍人にとって、日本という国には対して畏敬の念を抱いていたし、彼らのほぼ全員が士官候補生時代の練習航海で日本を訪れた時に受けた熱狂的な歓待を昨日の事の様に記憶している。そして、何よりかの『生きた伝説』『軍神』アドミラル・トーゴーの薫陶を間近に受けた日本海軍に対しては、ほとんど羨望に近い、嫉妬にも似た親近感を感じているのであった。
「長官」
太平洋艦隊参謀長エイモス・マクレーン大佐が、キンメルに声をかける。
「なんだね? 参謀長」
先程、もみ消したばかりの葉巻に再び火を付けながらキンメルが答える。
(長官は動揺しているな……)
既に小一時間も前から、葉巻に火をつけ、そして火を消す動作を繰り返すキンメルに、やや憐れみを覚えながらマクレーン大佐が続ける。
「ミッドウェーの南にハルゼー少将の任務部隊がいます。少将の事ですので、万が一にも間違いがあるかも知れませんが…」
「あぁ、ハルゼーが……そうだったな」
キンメルは再び葉巻の火を揉み消し、アナポリス同期の猛将に想いを馳せる。
「ハルゼーに『絶対に手を出すな』と厳命してくれたまえ。偉大なるアドミラル・トーゴーの弟子達は、我々の喉首にナイフを突き付けておきながら、何もせずにお帰りになられるのだ。しかも、最後の最後に英国人もかくやという様な大仰な一礼をしているのだからな。彼らの礼儀正しさに敬意を表して、今回は丁重にお見送りするように、とな」
『大仰な一礼』とは、無論、南雲が撤収の際に発した
“本艦隊は演習を終了せり。これより横須賀へ帰投す”
という平文無電だった。これは、どう考えても
「俺達は、いつでもお前達を殺れたんだぞ……」
という警告としかキンメル以下の米国軍人達には思えないものであったし、事実、南雲の意図もそうであったのだ。
「はい」
キンメルの言葉に一礼して副官であるギデオン・グレンジャー大尉が退室すると、それまで黙り込んでいた首席参謀ホレイショ・キャンベル大佐が口をひらいた。
「アジア艦隊の司令長官が、老練で慎重なハート中将閣下で助かりましたな」
その言葉に、キンメルが答える
「ふん。ハートは何もしない事によって我々、太平洋艦隊を救った最大の功労者になった訳だが……」
「ハート閣下御自身のお命も救った、という訳でしょうね」
参謀長マクレーン大佐が、キンメルの言葉を継ぐ。
「だろうな……まんまとしてやられたよ。このハワイの近海に別動艦隊を密かに送り込んできたほどの日本海軍だ。恐らくは、ハートが接触した日本艦隊(近藤信竹中将率いる第五艦隊)に対して万が一、手を出していたらアジア艦隊は、あちらこちらから沸き出すように出てくる日本海軍によって揉みくちゃにされて壊滅させられていただろうからね」
その言葉に、ようやく事の重大さを認識したショート陸軍中将は、略帽を被りながら、席を立ち、それに続くようにキンメルの幕僚たちも次々と、長官公室を退室していく。
彼らの背を見送りながら、キンメルは傍らの軍用電話を取り上げる。
ワシントンDCにいるキング海軍作戦本部長への直通電話。
結果としてみれば、太平洋艦隊は一人の戦死者も一発の弾丸も撃たれてもいない。だが、足元に近づいていた日本艦隊に、全く気がつかなかった、無警戒だった……という事実を糊塗する訳にはいかない。激情家であると同時に非情さにおいても際立っているキングの罵声を浴びる前にキンメルは己が非を認め、職を辞すつもりであった。
半生を捧げてきた海軍を去る事に、さほどキンメルは悲観していない。むしろ、晴々とした爽快感さえある。彼の敬愛してやまないアドミラル・トーゴーの国・ジャパンのソードファイターは己の非を認めると、華々しくハラキリを行うのだと聞いている。
そして自らハラキリを行う事により、全ての罪が無に帰すのだと……。
キンメルのそれは、完全なる誤解だったが、先々の栄達を断たれた初老の軍人にとって、実に魅力的な見解に思えているのだった。