表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

企画もの

サン・イシードロの巡礼

作者: 民間人。

 親愛なる民間人。へ捧ぐ。

 病魔といえばインフルエンザ、天然痘に黒死病、それに黄熱病、コレラ、ガン、など色々挙げられそうだが、時代の盛衰に関わる病気の色々は、人間の人間たる所以を喪失させるに相応しい効果がある。

 神の裁きか運命の悪戯か、或いは単なる自然の摂理か。病は私達のそばに常に寄り添い、そして静かに手招きをするわけだ。


 しかし人間が最も恐れる病巣は、一体どこにあるのか。そんな事を考えると、私達は文字通り病の中枢にあるように思われるのだ。


 舞台は純白の病院、登場人物は実に少数で纏まっている。これが私の考えた恐怖、病巣にたいする所見である。どうぞ、御高覧頂きたく思う。


 それでは、さわりにつらつらと文字を綴るのも野暮というものだから、そろそろ解説者、第三者に病巣の中枢について語っていただくことにしよう。

 あぁ、君達が思うホラーという概念に反する作品であるという批判も、一向に構わないので。是非問いかけの意味を理解して欲しい。



※―――――――――――――――――――以下、本文―――――――――※




 病室の隅には常に子供用のおもちゃがあり、お絵かきセットがあり、風船がある。誰しもが見慣れたそれらがどの病室にも置かれているという事実について、それまで鈴木謙作は気に留めることもなかった。

 心地よい朝の日差しが乱反射する白い壁の中で、揺れるカーテンを呆然と見つめている彼は、これから自分に訪れる幸福な死について思いを馳せていた。

 痛みを伴う社会というものが長く続いた21世紀初頭に、30歳から40歳の人々は職を転々とし始め、やがてどの会社にも望み薄と考えると、自ら死を選ぶ人々が増加していった。徐々に社会問題化する晩婚化に加え、働き盛りの男性が(半ばわがままといわれる理由づけを行なって)自殺をする一億総絞殺社会が顕著になるにつれて、人口は減少の一途を辿り、物価は上昇し、給料は激減する。


 そうした苦しみから逃れるために、病院に訪れる人が徐々に現れ始めると、国家も本腰を入れてこの社会問題に取り組むようになった。


 それから半世紀、画期的な解決策が再発見され、鬱状態の人々はこの施術を受けようと病院に訪れるようになったのである。


 鈴木謙作はその一人ではなかったが、この万能な施術に魅せられた家族達に勧められ、半ば強制的にこの病院へと送られてしまったのである。


 人々が幸福を享受する時に、高度な知性の存在が必要であるか、どうなのか。謙作は間もなく訪れる思考の遮断の前に、そのような事を考えていた。

 隣のベッドから子供をあやすような声と、大人の太い声が響く。中肉中背の男が、何か子供のような挙動でおもちゃが散乱したベッドの上ではしゃいでいる。機関車の汽笛を喉で鳴らす二十代半ばの女性が彼の前のベッドに座っている。


 理性とは実に簡単に破壊されるものだ、謙作にとって、子供らしい彼らは実に不気味に思えたが、同時にどうしようもなく羨ましくも思えた。

 労働、労働、労働に飢えた二十二から二十四までの二年間と、労働によって疲弊したここまでの十年間について思いを馳せると、同時に無邪気な子供の頃の自分と言うものが羨ましく、懐かしく思われた。

 特別に秀でた才もなく、純粋に愛されることのできたその時間。今や自分はその時間を繰り返すためにここに眠っているのだと。彼は安堵感と共に、焦燥感も抱いた。白い病室が突然真っ黒に染まるのではないかと言う不安感、過去と乖離した妹の末路や、彼女を愛撫する両親の狂気と慈愛に満ちた瞳に襲われるのではないかという不安感が溢れ出してくるのである。


「鈴木さん、施術についてご説明いたします。こちらへどうぞ」


 看護師の言葉に、彼は無言で立ち上がる。五体満足の肉体には似合わない、縦のストライプ、景気づけの栄養点滴、少し青白くなった唇が、もぞもぞと病院の緑の照明が深い廊下を歩いてゆく。


「ご気分が優れませんか?大丈夫ですよ、すぐに、楽になりますからね……」


 白衣の天使はそう言って、後に付き従う患者の表情を見上げる。

 その耐え難いほどの無表情が、彼女が本当に救うべき憐れな患者のそれであったために、彼女は決意を新たにして彼を医師の下へと導いた。


 消毒液の耐え難いにおいと、ステンレス器具の光沢が、謙作の目を傷めつける。幾度となく訪れ、泣かされた診察室の不気味なほどの統一感に、彼は過去へ戻るという事実をより身近な出来事だと考えられるようになった。医師は彼の瞳孔の動きや、喉の奥の様子や、脳波のデータや、頭骨の位置などを何度も入念に調べながら、無言の謙作に対して何度も理解したかを確認する。無表情で首を縦に振るこの男に対して、医師は何度も、何度も同じ質問を繰り返した。


「本当に施術の意味を理解していますね?貴方やその家族は私達に対して被害を主張しませんね?何ら責任を負いかねますが大丈夫ですね?」


 謙作は黙って何度も頷く。医師は訝しむように彼の顔を覗き込み、ついに最後の手順に入った。


「では、ここにお名前を記名し、捺印をお願いいたします」


 謙作は迷わずペンを取った。過去への回顧と、自らの価値とを天秤にかけて、その名も印鑑も、軽々と持ち上げるに足るものであった。


 それに対して、医師は片眉を持ち上げる。彼は、この患者‐鈴木謙作という名の無個性な人物‐を救う事が非常に重要な事であると、自分がこれからする事によって彼が救われるのであると、そう言う心持であった。


 インクの匂いとアルコールのにおいとが霧消すると、医師はその粗末な紙切れを彼の診察カルテの中に仕舞い、そして、看護師に指示を出した。指示を受けた看護師は、診察室と地続きの点滴室へと向かう。そして、注射用の器具を持ち込んで、鈴木謙作の浮き上がった青い血管の上に射しこんだ。はじめて彼の顔が少し歪む。それをよい傾向だととらえたのか、看護師が静かに「大丈夫ですよ」と囁いた。


「それでは、静かに深呼吸をして下さい。一、二、三……」


「……嫌だ。死にたくない」


 謙作がポツリと呟く。看護師は注射を続けながら、彼に優しく語り掛けた。


「死ぬんじゃありません。生きるんです。生きる為に、する事です」


「そうじゃない、嫌だ!生きているだけなんて御免だ!」


 謙作はそう言って立ち上がり、注射器を強引に外すと、診察室を飛び出した。廊下を駆け抜ける時の空気の感触が、彼を焦らせる。背後から「彼を止めなさい!」という叫び声が響くと、看護師や、医師や、真っ白な服が縦のストライプを囲い込むと、激しい怒号を上げた謙作は呆気なく取り押さえられる。女よりも弱い力、青い唇が枯れんばかりの大声で叫ぶ。身動きを取れないように拘束された彼に、注射器を持った医師が診察室より近づいてくる。逆光に隠れた彼の顔は貼り付けたような無表情であり、怒号を上げる謙作の口を片手で押さえつけると、注射器を静かに腕に射しこんだ。


 謙作はそのまま、静かに眠りに落ちた。鈴木謙作と言う人物の最後の時間は、ここであっけなく終幕を迎えたわけである。



 無邪気に玩具で遊ぶ大人が三名いる病室に、鈴木謙作の両親が現れると、部屋中に匂う消毒液の匂いよりもなお強い、香水のにおいが彼らを驚かせた。

 二人の坊やは彼らの様子を見て無気力だった瞳を輝かせて微笑む。謙作の母が謙作のでこに頭を重ねると、熱のこもった不思議な感覚に興奮した謙作が奇怪な言葉を使って笑いだした。母は安堵の表情を浮かべ、無口であった謙作にキスをする。柔らかな唇に触れた頬は過剰なまでに口角を持ち上げて笑い、その声は病院中に響くほど大きなものだった。


「よかった。謙作の方は成功したようだな」


 謙作の父は無邪気に鼻をすすって笑う謙作を見て、小さく肩を持ち上げた。母はその仕草に振り返り、満面の笑みで返す。


「あの子は無気力になってしまったけど、それでも前よりは幸せそうだけどね」


「自殺など、合法化されてはたまらない。()()()()()()()()()()()()()()()」 


「本当に、この幸せが一番大事」


 そう言って母は謙作を強く抱きしめる。謙作はゲラゲラと笑いながら、何度か母の頭を撫で、そして首を規則的に振り回した。

 病室の外で、担当医が静かに佇んでいる。実に奔放に笑う、謙作の姿を見て、口の端を持ち上げた彼は、彼らに気付かれぬように足早に病室を後にした。


「そう言えば、謙作の書きかけの小説?はどうする?」


「消してしまいましょう。きっと、彼も思い出したくないはずよ」


 途端に暗い表情を浮かべた母親に、謙作は笑いかける。彼女は愛しい息子に強い抱擁を返した。父は、静かに微笑む。自らの言葉から棘を抜き取るように。


「……そうだな。消そう」


 主治医は口元を隠しながら、足早にナースステーションを通り過ぎて行った。

 彼は、こう思ったに違いない。幸福とは、生を繰り返す劇薬であると。






※―――――――――――――――――――以上、本文―――――――――※











しにたいっていうのはね、

そういうことじゃなくってね。

だからね、おねがいします。

ぼくのことばをかえして。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 怖いですね! 病みが広がっています。 健康とは何か、治療とは何か、考えなければいけないと思いました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ