胡蝶桜の夢
Prolog.『豊かな教養』――ヤエザクラ(八重桜)の花言葉
誕生日を迎えて二十歳となった今日。
久しぶりの外は、思っていた以上の肌寒さだった。冷え切った空気が一気に体温を奪っていく。俺は右手に冷気を握りしめながら、アパートの階段を下りて道路へと出る。
もう四月も下旬であるが、深夜も回ると、流石に春の陽気は感じられない。
しかし、辺りに目を向ければ、確かに春の季節を実感することができる。
道端に咲くタンポポの花。その周りを舞っているアゲハチョウは、月明かりに照らされて、どことなく儚さも感じさせる。横断歩道の近くには、小学校に通い始めた子供たちの安全を守るため、自動車への注意を促す真新しい看板が設置されていた。
「…………」
――気がつけば、俺は看板の前で立ち止まっていた。何か考え事をしていたかのような気がするが、何を考えていたのかはよく思い出せない。一瞬、何かの記憶が脳裏を掠めたような気もするが、それ以上の追求は止めておくことにした。
一度深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
しかし、形容しがたい違和感を拭い去ることはできなかった。
季節は移ろいゆく。風景も変わりゆく。日常は豊かになり、人々は成長する。
変わらないものなんて、何もない。その――はずなのに。
自分だけが、停滞している。周囲が刻々と変化していく中で、自分だけがそのままでいて、何か、周囲から取り残されたような気持ちになる。見放されたような、見捨てられたような、そんな焦燥感を覚えてしまう。
「…………ッ」
そして、そう思う自分自身に対して、同時に苛立たしさも感じていく。
……ダメだ。また、気持ちが悪い方向に向かっている。このままでは悪循環に陥ってしまう。
「ふう……」
繰り返し深呼吸をして、心を落ち着かせていく。
冷え切った空気を大きく吸い込んで、頭の中も冷やしていく。
「……よし、もう大丈夫」
言い聞かせるように呟いて、俺は再び歩みを進める。
目的地は、この近くにある通りだ。その通りは桜並木が有名で、春を迎えれば、巨大な一本桜を始めとして、数多くの桜が咲き乱れるため、絶好の花見スポットとなっていた。
最も、この時期には、もう桜のほとんどは散ってしまっている。
そう――俺の目的は花見ではない。俺の目的は、また別にある。
そしてそれは、この停滞から脱却するための、小さな突破口となってくれるかも知れない。そんな淡い期待を抱きながら、俺は夜道を通り抜け、目的地へと向かっていく。
通りの手前までたどり着いたのは、それから程なくしてだった。
「……大丈夫」
もう一度だけ、深呼吸をする。そして、意を決するかのように唾を飲み込んで、俺は一歩目を踏み出した。忘れたくても、忘れることのない記憶。今でも、鮮明に覚えている。そう、この曲がり角を曲がればもうすぐ――
そして俺は――息を呑んだ。
通りのシンボルである、巨大な一本桜に――ではない。
その木の根本。一人の女性が、街灯の光に影を落としながら、ギターの音色を響かせていた。
年齢は自分と同年代ぐらいだろうか。外見だけでは判断できないが、外見だけを見れば自分とあまり変わらないように思える。まだあどけなさが残る顔つきが、より一層そう感じさせる。
短く切り揃えられた真っ白な髪は、よく見れば、所々に淡い薄紅色が混じっている。髪の色と同じような肌の色は、淡く赤らめている部分が辛うじて生者であることを実感させる。華奢な体つきと独特の雰囲気も相まって、幻想的な存在感を醸し出していた。
「こんばんは。わざわざ聴いてくれてありがとう」
不意に、彼女が口を開いた。数瞬遅れて、その声が自分に対してかけられたものであることに気付き、更に遅れて、自分がいつの間にか拍手を送っていたことにも気が付いた。
無意識のうちに見入ってしまっていた。その事実にどこか恥ずかしさを感じながらも、俺は拍手を止めて、彼女の下へと歩み寄っていく。
「はじめまして。私は吉乃。君は?」
「……大島。大島滝」
「大島くんか。よろしくね」
第一印象は神秘的な少女だったのだが、言葉を交わすと印象が少し変わってくる。
屈託のない笑み。朗らかな口調。第一印象は、いつの間にか塗り替えられていた。
「私、見ての通り、フリーでシンガーソングライターやってるんだ。今日は別に、人に聴いて欲しくて弾いてたわけじゃなくて、ただ練習してただけなんだけど。……でもやっぱり、他の人が聴いてくれて、それに拍手まで貰っちゃうと……えへへ、すごく嬉しいな」
彼女は本当に、心の底から嬉しそうに笑う。
その表情は、久しく俺が作っていない表情だ。
「大島くんは、普段何してるの? 私が言うのもなんだけど、こんな夜遅くに出歩いちゃって」
「……一応、大学生だよ」
「一応って、何それ。もしかして、講義も受けずに遊んでばっかりとか?」
「…………」
俺は咄嗟に押し黙る。このまま彼女の追求を躱すか、それともただ淡々と事実を述べるか。
だが、微妙な沈黙に何かを感じ取ったのか――彼女はそれ以上の言及を止めてきた。
「そういえば、もうすぐ平成も終わっちゃうね」
話題転換にしては唐突な印象が否めない。
しかし、これも彼女なりの気遣いなのだろう。そう思い、ありがたく受け取ることにする。
「令和――大島くんはどう思う?」
「どうって言われても……。今、君の口から聞いて、初めて新しい元号を知ったわけだし」
「え、嘘でしょ」
彼女が驚く。
「新しい元号だよ? 最近だってテレビであれだけ報道されて――」
「ごめん。最近テレビとか全然見てなくて」
「それにしてもでしょ……」
呆れたような表情で、彼女はこちらを見つめていた。
「ちなみに、令和ってどういう意味?」
正直なところ、別に意味なんて気にしてはいなかった。
ただ、せっかく話を振ってくれたのだからと、俺は言葉を繋いでいく。
「典拠は『万葉集』からだよ。梅花の歌三十二首の序文、『時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す』から引用してあるの。元号の意味は、『明日への希望と共に、全ての日本人がそれぞれ大きな花を咲かせることができるように』だって」
「へえ……」
どちらかというと、彼女の教養レベルに感嘆の声を漏らしつつ、一応の意味は理解することができた。
「でも、梅の花か。個人的には桜の方が、日本らしくていい感じがするんだけど」
素朴な疑問が、つい口から零れ落ちる。
しかしそれが彼女の琴線に触れたようで、先程よりも弾んだ口調で言葉を返してきた。
「そう思うでしょ? 私も、断然桜の方がいいと思うんだけど――でも、それにはちゃんとした理由があるんだよ」
「理由?」
「そう。気になる?」
そう言う彼女の表情は、なぜかどことなく誇らしげだった。
「……まあ」
気にならないといえば嘘になる。
それに――桜の話題を抜きにしても。
俺は、目の前に佇む彼女に対して、もう少し話を続けてみたいと思い始めていた。
何とも言えない昂揚感と、少しばかりの好奇心。
逡巡した末、俺は彼女と話を続けることを選択した。
「それじゃあ、ぜひ」
「そう来なくっちゃ」
破顔する彼女。次の瞬間、グイッと腕が引っ張られる。
「立ち話もなんだしさ。あそこのベンチに、とりあえず座ろ?」
episode1.『あなたに微笑む』――ヤマザクラ(山桜)の花言葉
「それで、ええと……何で新しい元号が、桜じゃなくて梅の花に関係しているのか」
道沿いのベンチに二人で腰を下ろしたところで、俺はきっかけとなった本題に話を戻した。
「うん、それはね――大昔は、花といえば梅を指していたんだ。っていうのも、昔の日本は政治から経済まで全て中国をお手本にして行っていたから、中国文化の影響が強かったんだよね」
義務教育時代に教わった歴史の授業を思い出す。
遣隋使だか遣唐使だかよく覚えていないが――とにかく、昔の日本が中国から様々なことを勉強していたのは知っている。
「梅の原産国は中国で、まさに中国を代表する花なんだ。記録に残る限りでも、約二千年も前から人々に愛されている。寒い中でも自力で花を咲かせる姿は、どんな困難も乗り越える強さと、どんなに酷い環境でも決して弱音を吐かない象徴として捉えられていて、長く戦乱の時代が続いていた古代から現代に至るまで、中国人のアイデンティティとして在り続けているんだよ」
「それで……花といえば梅、っていうのが日本にも伝わったのか」
「うん。特に奈良時代が最盛期だね。さっき話した『万葉集』には、桜の歌が約四十首に過ぎないのに、梅の歌はその三倍、約百二十首も掲載されているんだ」
「……じゃあ、花といえば桜、っていうのが広まったのは?」
「平安時代に入ってからだね。国風文化って言って、それまでの、何でも中国をお手本にするのを止めて、日本独自の文化を見直そう、大切にしようって流れになってきたんだ」
彼女は言葉を紡ぎ続ける。
とても楽しそうに。
「桜も、元々神聖な花として崇められていたんだよ。そもそも桜の語源は、諸説あるけど、『サ』が神様、『クラ』が神様の座る場所を意味しているっていうのが有力な説の一つなんだ。だから桜が咲くことは、昔の人々からしたら、神様が来てくれた証になるんだよね」
すらすらと言葉を連ねていく彼女の知識量に、俺は内心驚いていた。
おそらく、彼女にとって桜とは、ただ好きな花に留まらない――何か特別な存在なのだろう。
「それに、昔の人々は桜の開花状況を見て、田植えの時期を決めていたんだ。お米は、今も昔も私たち日本人の主食であり、そんな大切なお米を作るためには、桜の存在が欠かせなかった……それはもう、神聖視されるよね」
「それで、今度は一転、桜ブームが到来したわけか」
「平安時代の歌集、『古今和歌集』には、梅の歌が約二十首、桜の歌が約七十首掲載されていて、約三倍以上もの差がある。完全に人気が逆転しちゃったの。記録に残る限りでは、日本で初めて花見が開かれたのもこの頃で、時の天皇である嵯峨天皇が主催したんだ。それ以降、花見は天皇主催の定例行事となって、普及が始まった。あの有名な『源氏物語』にも花見の様子は描かれているし、日本最古の庭造りの本『作庭書』にも、庭には桜の木を植えるべし、って書いてあるんだよ!」
彼女の語気が、少しずつではあるが徐々に強まってきていることに気付いた俺は、最早驚きを通り越して、苦笑したくすらなってきた。
一体何が、彼女の心をここまで駆り立てるというのだろう。
「それから、鎌倉時代、安土桃山時代と歴史が経つにつれ、花見の規模もより大きく、盛大に催されるようになってきたの。特に豊臣秀吉が開催した『吉野の花見』は豪華絢爛で、前田利家・徳川家康・伊達政宗といったそうそうたるメンバーが一同に会して、飲めや歌えやで騒いだんだって。しかも仮装してだよ? 今でいうコスプレパーティーだよ? もし過去に行けたら、私は迷いなくその瞬間にタイムスリップするね! 有名な武将と一緒に花見ができるなんて、憧れない?」
「……ま、まあ」
否定はしない。
そこまでの熱気は、俺にはないが。
「この時代には、花見が宴会行事として完全に定着したんだ。まあ、まだ上流階級の人に限定されていたけどね。そして花見が人気になってきた影響で、各地の山や神社に桜が植えられ始めたの」
そうであれば、もしかしたらこの一本桜も、その頃から植わっていたのかも知れない――
そんなことを考えて、少し感傷的な気分になる。
悠久の時の流れの中で、目まぐるしく変化する時代の移り変わりを――この桜の木は、一体どんな気持ちで眺めていたのだろうか。
……周囲が刻々と変化していく中で、自分だけがそのままでいて、何か、周囲から取り残されたような気持ちにはならなかったのだろうか。見放されたような、見捨てられたような、そんな焦燥感を覚えることは――なかったのだろうか。
「……ええと、大島くん?」
彼女の呼びかけで、俺はハッと我に返った。
「……ごめん。ちょっと考え事してて」
また、気持ちが悪い方向に向かっていた。自分を投影して、悲観的になってしまっていた。ダメだって頭ではわかっている。わかっているのに――心はどうしても揺れ動いてしまう。
深呼吸をして、気持ちを落ち着かせていく。
冷え切った空気を大きく吸い込んで、冷静さを取り戻していく。
「本当にごめん。大丈夫だから」
「…………」
「続けて」
「……うん。それでね、江戸時代に差し掛かると――庶民も含めて全ての人々が花見を楽しむようになってきたんだ。そしてついに、江戸時代末期、最も有名な桜といってもいい、ソメイヨシノが誕生するの」
彼女の名前を思い出す。
吉乃。もしその名前が、そのソメイヨシノという桜に由来するのであれば、彼女の桜好きは、親譲りのものであるのだろうか?
「染井村っていう村の植木職人が、『オオシマザクラ』と『エドヒガンザクラ』っていう桜を交配させて生み出した桜なの。さっき話した『吉野の花見』、豊臣秀吉が盛大に花見を行った場所――吉野の地名にあやかって、『ソメイヨシノ(染井吉野)』って名付けられたんだ。花が大振りで香りのいいオオシマザクラと、花が咲いた後に葉が出てくるエドヒガンザクラ。それぞれの桜の特徴を取り入れたソメイヨシノは、接木で増えて成長も早く、公園・沿道・川辺など様々な場所に植樹されて、瞬く間に日本全国に広がったの。今の日本に植えてある桜の八割は、このソメイヨシノなんだよ」
その話を聞いて、俺はまたしても驚いた。ソメイヨシノという桜の特徴ではなく――それよりも少し前、彼女が口にしたオオシマザクラというその言葉。彼女と違い、名前ではなく名字ではあるが、まさか自分の名字がこのタイミングで出てくるとは思っていなかった。
奇しくも、お互いに桜の名を冠する者同士。
そう考えると、今日この日、この桜並木の通りで出会ったことに対して、何か運命めいたものを感じずにはいられなかった。
「こうして、日本全国で桜の木を目にすることができるようになって……花見も、日本全国の人々が楽しむようになった。明治時代の初期には、花見の形も完成して、この時代に私たちがやっている花見と、もう全然変わらないんだよ――って」
言い終える前に、彼女は気恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「ま、また拍手……歌ってもないのにされちゃうと、何だか恥ずかしいな……」
彼女の博識ぶりに圧倒された俺としては、賛辞の意味も込めて素直に拍手したつもりだったのだが、思いのほか、彼女は恥ずかしそうに笑っていた。ついさっきまでヒートアップしていたので、その反動が来たのかも知れない。
「いや、凄いね。……正直、最初はあんまり乗り気じゃなくて。令和のことも、何となく世間話のような感覚で訊いたつもりだった。そこから話が逸れて、話題は桜の歴史に移ったけど――でも、それをきっかけに色々な話を聞けて。勉強になったし、楽しかったよ。だから、ありがとう」
「…………!」
夜中に偶然出くわした、幻想的な女の子。
ふとした思いで話をしてみたが、終わってみれば、楽しい時間を過ごすことができた。
「……ほ、本当に? その……迷惑じゃなかった?」
先程までとは打って変わって、恐る恐るといった口調で彼女が尋ねてくる。
「私の悪い癖なんだ。桜の話になると、ついつい熱が入っちゃうの。……桜が嫌いな人ってそんなにいないけど、ここまで好きって人もあんまりいないの。だから、こんなに話しちゃうと、大抵苦笑されたり、ちょっと引かれたりするんだけど……」
まあ、普通であればそんな反応もあるだろう。実際、話を聞いている途中には、表情にこそ出さなかったものの、俺も内心では苦笑したくなっていたからだ。
だがそのおかげで、彼女の気持ちは何よりも伝わってきた。
「中途半端に好きなんじゃなくて、本当に好き、っていうのが伝わってきたから。そういう、何ていうのかな……尖ってる、っていうか。そういった個性的な人は、個人的には嫌いじゃない」
俺がそう言葉を届けると、彼女はホッとしたように息を吐き、安堵の表情を浮かべた。
「良かったぁ。……ほら、私たち初対面でしょ? 仲がいい人だったらそれなりにフォローしてくれるけど、初対面の人にはストレートに言われることも多いんだよね」
「そういうのは仕方ないし、割り切るしかないよ。……ところでさ」
一呼吸置いて、話を聞いている間にずっと気になっていたことを彼女に質問してみる。
「どうして、そんなに桜のことが好きに? 何か、特別な理由でも」
彼女が桜のことを好きだという気持ちは充分に伝わってきた。
ならば、なぜ彼女は、それ程までに桜を好きになったのか? もしかしたら、先程俺が予想したように、彼女の両親の影響なのだろうか?
「……桜ってさ、春を代表する花で、新たな始まりの象徴でもあるよね」
唐突に語りだした彼女に対して、俺は咄嗟に気構えるが、
「あ、大丈夫大丈夫。安心して、桜の歴史はもう語らないから」
笑いながらそう言われて、すぐに気を休ませる。
まあ、また長話が始まっていたとしても、それはそれで良かったのだが。
「私ね、小学校を卒業すると同時に、親の仕事の都合で家を引っ越したの。それで、小学校の頃の友人とはみんな別れることになっちゃって。新しい中学校では、知り合いが一人もいなかったんだ」
彼女の語調は、桜について語っていた時とは違い、神妙なものとなっていた。
一瞬、あまり訊かない方がいいことを訊いてしまったかと後悔したが、彼女が話を止める素振りを見せなかったので、謝罪の言葉は後で口にすることにした。
「他の子供たちは、みんな地元の小学校からそのまま来てて、私だけが余所者だった。最初は怖くて、あまりみんなと話せなくて。……だからかな。中々みんなの輪に入ることができなくて、上手く馴染めなくて、……次第に孤立していって、最後には――みんなから虐められるようになった」
「…………」
彼女の表情に、初めて翳りが差した。
「結局、不登校になっちゃって。それでも、何とか中学校を卒業することはできたけど――卒業をした時期には、また親の仕事の都合で、引っ越さないといけなくなったんだ。中学校の子たちと別れることになるのは、むしろ嬉しかったけど――でも、次の高校で、また同じような目に遭うんじゃないかって、不安で仕方がなくて、夜も眠れなかった」
初めて会った時、初めて言葉を交わした時には、予想すらできなかった彼女の暗い過去。
でも、きっとそういうものなのだろう。
人は誰しも、悲しい過去や重たい過去を抱えて――それでも頑張って、生きているに違いない。
「そんな時だったんだ。眠れない夜に、部屋で聞いていたラジオから、その歌が流れてきたのは」
そこで再び、彼女の表情が和らいでいく。
「春先に定番の、桜をテーマにした卒業ソング。その歌を聴いた時、私、自分でもよくわからなかったんだけど……涙がね、止まらなかったんだ。拭いても拭いても、目元が潤んじゃって。歌が終わっても、しばらくそのまま涙を流してた」
そう話す彼女の目元には、見ればうっすらと涙が浮かんでいた。
だが、彼女の表情には翳りがない。それはきっと、当時の彼女もそうであったのかも知れない。
「しばらく泣いて、しばらく考えて。それでね、気付いたんだ。この涙は、悲しくて溢れてきたものなんじゃないんだって。その歌に感動して――桜っていう存在が、私に何かを与えてくれて。そうして、溢れてきた涙だったんだって」
彼女の頬を伝う一筋の涙は、月明かりで輝いて見えた。
「次の日、私は真っ先に、新しく通う予定の学校に行ったの。そして、そこに咲いている桜の木を見た。しっかりと見て、目に焼き付けた。その時にまた、何だか、勇気付けられたんだよね。凄い励まされた……ってわけじゃなくて、まるで、誰かに小さな手のひらで後押しされたみたいな――それは本当に、僅かな気持ちの揺らぎだったけれども、でもそれは確かに、私の中に溶け込んで、不思議と前向きな気持ちにさせてくれたんだ」
気が付けば、目の前には、出会った瞬間の彼女が立っていた。
「高校生活は、楽しい青春時代を過ごすことができたよ。友達もたくさんできたし、一緒に遊んで過ごした。もちろん、嫌なことが何一つなかったわけではないけれど――中学校の三年間に比べれば、遥かに充実した三年間だった」
彼女は言葉を紡ぎ続ける。
とても――楽しそうに。
「だから私は、桜が大好きなんだ。私に勇気を与えてくれた、私を成長させてくれた桜が大好き。そして――今度は私が、誰かに何かを与えたい。そう思って、桜についてたくさん勉強したし、その魅力を多くの人々に伝えるために、旋律に、思いを乗せて奏でるんだ。――いつかの私のような人に、今度は私が、何かを与えてあげることができるように」
話し終えた彼女の顔は、とても晴れやかだった。
「……嫌なことを話させてごめん。あと、ありがとう」
遅ればせながら、謝罪の言葉を口にする。それと、感謝の言葉も。
「あはは、別にいいよ。もう終わったことだし。私は、今が楽しければそれでいいかな」
過去を塗り潰さず、目も背けず、しっかりと向き合ってきたであろう彼女。
それに比べて、俺は――
「あのさ、代わりに……ってわけじゃないけど、私も一つ訊いてみてもいいかな?」
「何?」
「最近、何か悩んでることでもあるの?」
「…………」
心情が表情に出てしまっていたのだろうか。それとも、彼女が心の機微を読むのに長けていたのか――あるいは、その両方か。
「大島くんの目、昔の私の目に似てるんだ。夜眠れなくて、疲れ切って。世界の全てが色褪せて映って。そんな目をしてるの。こんな夜遅くまで起きてるのも、眠らないんじゃなくて、眠れないんじゃない?」
鏡で自分の顔など見ていなかったからわからないが、ストレスが体のあちこちに悪影響を与えるというのは、医学を勉強していない俺でもわかる一般的な常識だ。彼女でなくても、もしかしたら通りがかりの人に心配されるレベルの顔にまで、なってしまっているのかも知れない。
「…………」
否定するには難しく、肯定するにも勇気がない。
結果、沈黙することを選んでしまうが、
――『いつかの私のような人に、今度は私が、何かを与えてあげることができるように』
彼女の言葉が反芻される。
先程彼女が口にしていた言葉に、縋ってみてもいいのだろうか。
再び逡巡した末に――俺は少しだけ、自分の過去を話すことにした。
「一ヶ月ぐらい前に……とても辛い出来事があって。最初は、悲しくて苦しくて、言葉にできない感情をどうすればいいかわからなくて。でも、家族にも相談できなくて、大学どころか外にも出ず……家に引きこもるようになって」
大学進学を機に始めた一人暮らし。
その選択が、幸か不幸か、外界から隔絶された独りの世界を完成させてくれた。
「でも、時間が経つにつれて、徐々に虚無感の方が大きくなっていって。スマホも見ず、テレビも見ず、ただ、起きて、ご飯を食べて、寝る。食べ物がなくなった時だけコンビニに向かう。そんな無為な毎日を過ごすようになった」
実際には、ご飯もそんなに食べていない。空腹を抑える程度に食べていただけで、一日三食も食べてはいない。というか、そもそもよく覚えていない。その時期の記憶は曖昧で、断片的だ。
「そんな風に過ごしていたんだけど、最近、このままじゃダメだって思うようになったんだ。自分だけが、停滞している。周囲が刻々と変化していく中で、自分だけがそのままでいて――何か、周囲から取り残されたような気持ちになって。見放されたような、見捨てられたような、そんな焦燥感を覚えて」
言葉を、気持ちを、吐き出していく。限界まで堪えていた何かが、堰を切ったように溢れ出していく。俺は俯いて――そこから先は、喉を通っていく声は、言葉にならなかった。
「……大島くんは、偉いね」
不意に、彼女が告げる。
見上げると、彼女はなぜか泣いていた。
「一人で苦しんで、一人で耐えて、……それでも、一人で頑張ってきたんだね」
彼女は、隣に置いていたギターを手に取ると、微笑みながらそう言った。
「今の大島くんに聴いて欲しいの。私の歌、私の想い」
彼女がギターの弦に指をかける。すうっと、小さく息を吸う。
そして、そこからは――
そこからは、ただ圧倒された。
彼女が口ずさむ言葉は、歌詞であって想いだった。彼女の奏でる音は、旋律であって鼓舞だった。
エンジェルラダー。雲の切れ目から差し込む太陽の光のことを、そう呼ぶ。
今の気持ちを例えるなら、まさにその言葉以外に見当たらない。
空を覆っている分厚い雲の間から、一筋の光が差し込んできて、天使が舞い降りる。
そんな、感覚だった。
「……どうだった? 私の歌、大島くんに届けることができたかな?」
俺は拍手を送ることすらできず、彼女の方へと目を向ける。
人間は本当に感動した時、ただ鳥肌を立てることしかできないのだとこの時知った。
「……届いたどころか、貫かれたよ」
「あはは、何それ」
彼女につられて、俺もつい笑ってしまう。
「あ、大島くん、やっと笑ってくれた。……うん、大島くん、やっぱ笑ってる方がいいよ」
ぎこちない笑いではないのは、自分でもわかる。
何だか憑き物が落ちたような気分だった。これも全て、目の前にいる彼女のおかげだろう。
「……俺、また大学に行くことにするよ。このまま腐ってちゃ、ここまで育ててくれた家族にも申し訳ないし」
俺の言葉に、彼女は一言だけ、「そっか」と呟いた。
過度に嬉しがることも、過度に心配することもない。
その一言に、彼女の優しさが体現されているような気がした。
「……あれ? でもよく考えたら、もうすぐゴールデンウィークが始まっちゃうんじゃ……」
「そう。だからもうしばらくは、家に引きこもっていてもいいかも知れない」
「何それ! もうー!」
二人で一緒になって笑いあう。
それからも、俺たちは多くのことを語り合った。「っていうか、その髪の毛の色、凄いね」「ロックでしょ?」「ロックっていうより、クレイジーだよ」……他にも、大学で所属しているサークルのこと、バイトのこと、趣味のこと……夜が明ける頃には、即興で音楽を作り、二人で歌い合ったりもした。時折通りゆく人が、道端で歌っている俺たちを訝しむように眺めていくこともあったが、そんなことも気にならないぐらい、楽しい時間を過ごすことができたのだった。
翌日。俺は寝ぼけ眼を擦りながらも、久しぶりの大学へとやって来ていた
敷地内に植えられている桜は、すでに散ってしまっている。しかし、彼女――吉乃の歌を聴いた上で改めて眺めてみると、色々と思うところもあるものである。
そのまましばらく桜を眺めていたい気分だったが――そういうわけにもいかないので、名残惜しいが、俺はその場を後にする。今日の講義までまだ時間はあるが、休んでいた間の単位数も取り戻さなければならないし、最近顔を出していなかったサークルのメンバーにも、一言ぐらい挨拶に行った方がいいだろう。ゴールデンウィーク期間中に講義はないが、サークル活動は普通に開催されるからだ。
「……大島?」
と、そこまで考えていたところで、不意に背後から声がかかる。
「やっぱり、大島だ。……大丈夫!?」
思考を中断して振り返る。
そこには、先程考えていたサークルのメンバーである一人、深山春奈が立っていた。
凛々しさを湛えた秀麗な顔立ちは、今は驚きと心配が入り混じったような表情を見せている。背中まで届く綺麗な髪は、チョコレートのように甘く染まっていて、対称的に自然体な肌の色が、大人のコントラストを鮮明にしていた。
久しぶりに会った友人の姿が以前と変わっていないことに、俺は心地よい安堵感を覚える。
「深山か。久しぶり」
「久しぶり……って、大島、本当に大丈夫なの!? みんな心配して――」
「大丈夫だよ。迷惑かけてごめん。他のみんなにも、後で言っておくから」
「迷惑なんて……そんなこと、思ってないよ。でも、あんなことがあって――」
「深山」
俺は、彼女の言葉を遮った。
「せっかく、立ち直れて来れたんだ。……今はあんまり、そういうこと話したくないし、思い出したくない」
「あ……ごめん、そんなつもりじゃ……」
「いいよ、わかってる。逆の立場だったら、俺もそんな反応をすると思うから」
おそらく、サークルの友人からも、心配するようなメッセージがスマホに届いていたのだろう。ありがたいと思う反面、その時に返事ができなかったことを申し訳なく思う。
「まあ、また今度飲みに行こう。時期的に新歓とかあるだろうし」
俺たちが加入しているサークル名は、『全学科親睦交友会』。大学内に設置されている全学科から希望する学生が加入し、それぞれの学科で学んでいることを共有しあい、学問の徒として教養を深めていく――というのは立派な建前で、実態はただの飲みサークルだ。
ちなみに俺は農学部。深山は心理学部で、最近できた公認心理師という国家資格の取得を目指して、勉強に勤しんでいるらしい。
「……そうだね。うん、大島の元気そうな姿を見ることができて、あたしも安心した」
彼女はそう言って目を細める。その表情に、俺は一瞬だけドキッとした。
「でも」深山が言葉を続ける。
「何かあったら、あたしに相談して。どんな些細な悩みでもいい。ううん、悩みじゃなくても……嬉しかったことでも、頑張ったことでも、何でもいい。とにかく、話を聞かせて。あなたは――大島は、絶対に……独りじゃないんだよ」
真っ直ぐにこちらを見据えて、深山が言葉を紡いでいく。その姿に、少しだけ、あの日の彼女を重ね見たような気持ちになった。
吉乃。彼女もまた、こんな俺なんかに対して、真摯に向き合ってくれた存在だった。また話をしてみたいと思えるような存在だった。
……そういえば、彼女とは連絡先を交換した記憶がない。話に熱中して忘れてしまっていたのかも知れない。一瞬、後悔の感情に襲われるが――俺はすぐに気を取り直した。何となくだが、あの場所に行けば、また、彼女と会えるような気がしたからだ。
「……大島?」
「ああ、ごめん」
考え事を始めると意識が周りに向かなくなるのは、俺の悪い癖だった。
「うん。その時は、よろしくお願いしようかな」
俺の言葉に、深山は「任せて」と微笑んだ。
episode2.『心の平安』――ヒガンザクラ(彼岸桜)の花言葉
それから、深夜になると通りまで散策することが俺の新たな日課となった。
彼女とは、思っていたよりも早く再会することができた。彼女は決まって、同じ場所で、同じような時間帯にギターを弾いていた。夜遅くにならないと姿を見せないため、翌朝が早い時には会うことは難しいが、俺はなるべく彼女と会って話すようにしていた。
ちなみに、昼間に一度だけ、近くのコンビニで姿を見かけた時があったが、店員の格好をしていたので驚いたものだ。曰く、昼間はいくつかのバイトを掛け持ちしていて、生活に必要なお金を稼いでいるらしい。夢を追うフリーター生活も、楽なことばかりじゃないんだなと改めて思った。
その影響なのかどうかはわからないが――彼女は決まって、俺に大学生活のことを訊いてきた。勉強は大変じゃないかとか、サークル活動は楽しいかとか……。
大学生活を味わったことがないという彼女にとっては、俺の何気ない日常も、刺激的に感じられるのかも知れない。
一方、彼女が俺に対して話すことはといえば、相変わらず桜に関する話が大半だった。
そして今日もまた、俺は彼女の隣に座って、彼女の話に耳を傾けている。
「――っていうわけで、川沿いとか河川敷には桜が多く植えてあるんだよ」
「……なるほど。そういうことだったのか」
しかしまさか、江戸幕府八代目将軍、徳川吉宗の名前まで出てくるとは。
彼女はもう、学者の域にまで達しているのではないだろうか。
「それだけ桜って、日本人に愛されているんだよ」
それは確かに、そう思う。
こういった話を聞けば聞くほど、日本人にとって、桜は特別な花であるのだと感じる。
「まあ、日本の国花になっているぐらいだからな」
「……って、思うでしょ?」
妖しい笑み。そしてどこか誇らしげだ。俺も段々とわかってきたが、この表情は、彼女が桜のことについて話したくてうずうずしている時の表情だった。
「……違うのか?」
「私としても残念なんだけど、実は違うんだ。正確には、日本の国花って決まってないんだよ」
意外だった。俺はてっきり、日本を代表する花は桜とばかり思っていた。
「まあ、法律上は明記されていないだけで、実質的には国花みたいなものだけどね。こんなこと言っちゃうと、菊派の人たちからは怒られるかも知れないけど」
「菊派?」
「菊も日本を代表する花なんだよ。天皇家の象徴だし、パスポートに描かれているのも桜じゃなくて菊の花でしょ?」
「……確かに」
あまり意識したことはなかったが、そう言われてみれば、菊の花も日本を代表する花だろう。
「他にも、警視庁のシンボルも菊徽章だし、国会議員のセンセイ方が胸に付けている議員バッジも菊の花だよ」
「逆に、桜がシンボルマークっていうと――」
「警察、消防、自衛隊だね。特に自衛隊はあちこち桜のマークだらけで、年中桜祭りだよ! 陸海空全ての旗に桜星っていう桜のマークが使われていて、その数で階級や部隊の規模も表しているんだ。陸上自衛隊を例にすると、大隊旗で桜星一つ、旅団長で二つ、師団長・方面総監で三つ、最高位の陸上幕僚長になると、四つもの桜星があしらわれるの」
……自衛隊の話ともなってくると、流石に小難しくてよくわからない。
師団と旅団。果たしてそれは、一体何がどう違うのだろう。
「他にも官品マークって言って、自衛隊の官給品には全て小さい桜マークがあるんだよ。これはもう、本当にありとあらゆるものに付いていて、小銃や戦闘服なんかの個人に支給されるものに始まり、机や椅子などの事務用品、戦車みたいな大型装備、果ては駐屯地内にあるマンホールの蓋にまで! その中にそれぞれ記号が書かれているのもあって、その意味を表しているんだ。需品ならQuartermasterのQとか、武器ならWeaponのWとか」
「……桜が絡めば、本当、何でも詳しいんだな。自衛隊のこととか、俺全然わからないし」
「あはは……まあ自衛隊に関しては、親が自衛官だからっていうのもあるけどね」
「……へえ」
聞けば、彼女の父親が陸上自衛官とのことだった。
しかも結構お偉いさんらしく、多くの部下を指揮する立場にあるらしい。
「幹部自衛官って大変なんだよ。大体二年か三年ぐらいで異動になるし」
その話を聞いて、彼女の学生時代の話を思い出した。親の仕事の都合で引っ越しが多く、そのせいで中学校では馴染めず苦労したと言っていたが、そういった事情があったのか。
「そういえば、自衛隊の駐屯地にも、桜って植えてあるよな」
俺の先輩にも自衛官がいるが、一度だけ付き合いで桜祭りというものに参加したことがある。普段は入ることができない駐屯地だが、その日は一般に開放されて、敷地内で花見を楽しむことができるようになっていた。あの時に見た桜も、綺麗だったことを思い出す。
「それにも、ちゃんとした理由があるんだよ」
妖しい笑み。またこの表情だ。
「この前、桜の歴史についてざっくり話した時のことは覚えてる?」
「ああ……確か、昔は桜じゃなくて梅が人気だったんだろ。中国の影響で。でも、それから逆転して、どんどん桜が人気になっていって、っていう」
「そうそう。再び人気を博したのは平安時代に入ってからで、この頃に花=桜という概念が定着した。でもね、この時期の桜の人気っていうのは、観賞用――見て楽しむだけに限定されていて、今のように何かのシンボルマークになったりはしていなかったんだ」
以前の話と、先程の話を思い出す。
確か、歴史上初めて花見を開催したのは時の天皇だったはず。
しかし、その天皇家を象徴する花といえば菊である。
「『平家物語』に登場する諸行無常っていう言葉に代表されるように、日本人特有の価値観が相まって、桜には儚さや無常観といった印象を連想する人が多かったんだ。短命の人に対して、桜の花のようにすぐに散っていく人、っていう比喩表現で使われていたり……あんまり縁起のいいシンボルではなかったんだよ」
「じゃあ、それこそ自衛隊なんかには縁起が悪いんじゃ……」
「まあ、戦う人たちにとってはそうだろうね。戦国時代には各地の戦国大名がそれぞれ自分の旗を掲げていたけど、桜の旗ってないんだよ。『花は桜木、人は武士』っていうように、自分自身が死ぬことは恐れていなかったんだけど、一族まで散ってしまうのは流石に避けたかったんだろうね」
「ちなみに、花がポトリと落ちるのは打ち首を連想させて縁起が悪いからって、椿の花も使われなかったんだ」と、合間に雑学まで披露してくれた。
……最近になって思い始めたことなのだが、桜のことを抜きにしても、彼女の教養レベルはかなり高いのではないだろうか。
「じゃあ、なぜ自衛隊で桜が多用されているかっていうと、そのルーツは明治時代から昭和時代にかけての、帝国陸海軍まで遡るの。戦場で死ぬことを花が散ることに例えて『散華』とも言うように――国のために命を捧げる、その象徴として桜はピッタリだった。それで、軍の上層部にも好まれたみたい。歌詞に桜が頻出する『同期の桜』『歩兵の本領』みたいな、軍歌や戦時歌謡もたくさん作られた。当時は、戦意高揚の意味もあったんだろうね」
その話を聞いて、俺は再び歴史の授業を思い出していた。
特攻隊。爆弾を積んだ戦闘機に乗って、敵の戦艦に突撃、玉砕する。出撃する前から死ぬことが宿命付けられていた彼らには――桜という存在は、どう映って見えていたのだろう。
「特に太平洋戦争末期には、特攻兵器の名前にそのまま使われている。機首部に大型徹甲爆弾を搭載した小型戦闘機の『桜花』、四式重爆撃機の派生型である『桜弾機』といったように」
「……ますます縁起が悪くなってきたんだけど」
「でもね、自衛隊では本当に桜をよく使ってる。それは、軍隊とは――日本においては自衛隊とは、何よりも伝統を重んじる組織だからだよ。軍歌である『陸軍分列行進曲』『軍艦行進曲』なんかは、今でも普通に演奏されている。歩兵を普通科、駆逐艦を護衛艦、攻撃機を支援戦闘機と言い換えるようになっても、本当に大切なものは忘れない。伝統は――絶やしちゃいけないんだ。だからこそ伝統足り得るんだよ。確かに、旧軍時代は悪いように使われていたかも知れないけど、良い意味だってちゃんと込められていたの。それを、まるでレッテルを貼るかのように、過去を全て否定してしまうのは――ダメなんだよ」
「それに」と彼女は言葉を続けていく。
力強く、厳かに。
「目を背けちゃダメだよ。殻に閉じこもって逃避をしても、事態は何も解決しない。改善しない。どんなに嫌なことが過去にあっても――それを美化しろとか、乗り越えろなんて言いはしない。けれども、目を背けることだけは絶対にダメ。それは事実として、確かにそこに『在った』もの、確かにそこに『在った』こと。その物事には、その事実には、真摯に向き合っていかないと……ダメなんだよ」
彼女は、真っ直ぐにこちらを見つめている。
それは――
それは何となく、自衛隊のことを言っているようでいて、俺に対して何か訴えかけているような気もした。彼女の真剣な眼差しには、どことなくそんな気配が感じられた。
「…………」
「…………」
互いに押し黙るが、彼女の視線はしっかりとこちらに向けられたままだ。視線を交錯させるが、俺は何と言葉を発していいのかわからない。そのまま、森閑が場を支配する。
それから、一体どれだけの時間が過ぎ去ったのだろう。体感的には永遠にも感じられた静寂を打ち破ったのは、俺のスマートフォンから流れる着信音だった。
「…………?」
見れば、深山からの電話だった。こんな時間に――と自分のことは棚に上げるが、それにしても一体何の用件だろう。気になったが、内容によっては、この雰囲気の中で喋りづらいかも知れない。
応答するかしまいか数瞬迷うが――そうこうしているうちに、着信音は途切れてしまった。
俺は少し後悔しながらも、スマホをポケットにしまい込む。
「電話、出てもよかったのに。今の誰から?」
沈黙を保っていた彼女が、不意に口を開いた。
その表情は、先程と比べてやや緩まったようにも感じられる。
「深山っていう、前に話したサークルの友だち」
「へえー……男の子? 女の子?」
「女だけど……」
何やら妙に食いついてくるなと疑問に思ったが、そういえば、彼女は俺の大学生活に関して興味があったことを思い出した。もしかしたら、大学での交友関係も気になっているのかも知れない。
「その子とは、どういう関係なの?」
「学部は違うけど、サークルで一緒になったんだ。よく覚えてないけど、色々話したりしているうちに仲良くなって。悩み事とか、相談に乗ってもらったり……向こうは心理学部で、多分、そういうカウンセリングみたいなことも勉強してるんじゃないかな。何か、こう、……言葉では表現しづらいけど、一緒にいると心が安らぐっていうか、落ち着いた気分になるんだよね」
彼女はうんうんと頷きながら、相好を崩していた。
「……大島くんにもそういう人がいるんだね。安心した」
「そりゃ……友人ぐらいいるよ。引きこもりじゃないんだから」
「でも、この前まで引きこもってたんでしょ?」
「うっ……」
それを言われると、その通りなのだが。
「あの時は……本当にどうしていいかわからなくて」
「ねえ。その時に、その子には相談しなかったの? 前に話を聞いた時には、家族には相談できなかったって言ってたけど」
彼女に言われて、俺は以前の発言を思い出す。
――『一ヶ月ぐらい前に……とても辛い出来事があって。最初は、悲しくて苦しくて、言葉にできない感情をどうすればいいかわからなくて。でも、家族にも相談できなくて、大学どころか外にも出ず……家に引きこもるようになって』
あの時は、本当にどうしていいのかわからなくて、やり場のない感情だけが、ただ渦巻いていた。
「後から気付いたけど、深山からも心配する連絡は来てたんだ。でも、その時には……そんな気分じゃなくて」
俺がそう言うと、彼女はほんの一瞬だけ、悲しそうに目を細めた。
「……ううん、仕方ないか。起こってしまった事実は覆せない。過去は塗り替えられない。だから、これからどうしていくかが大切だよね。その時の大島くんには、手を差し伸べてくれる人がいたけれども、その手を掴む余裕がなかった。でも、今はきっと違うはず。もし、また何か辛いことがあった時、同じように手を差し伸べてくれる人は必ずいる。その時は、今度こそ――その手をしっかりと握り返してあげて。……私との約束だよ?」
「……ああ」
彼女は嬉しそうに微笑んでいる。先程までの重苦しい雰囲気は、どこかに霧散してしまっていた。
「明日、さっきの子にはちゃんと謝ってあげるんだよ。電話に出れなくてごめんって」
「……わかってるよ」
どうせ、サークルに出れば顔を合わせることになる。
その時にでも、一言謝っておこうと思った。
と、思っていたのだが。俺が想定していたよりも早く、彼女とは顔を合わせることになってしまった。
翌日の昼下がり。今日は午前に講義を入れていなかったので、少し遅く来て一人学食で昼食をとっていたのだが、目の前の空席に誰かが座ったかと思えば、何と深山春奈その人だったのだ。
「……電話。出てくれなかった」
開口一番、寂寥感が入り混じったような声で、深山は呟いた。
俺は慌てて言葉を返す。
「いや、その、もう夜も遅かったし――」
「寝てたとしても、翌朝スマホぐらい確認するでしょ。その日の朝のうちに電話してくれてもよかったし、メッセージだけでも返してくれたらよかった。朝忙しかったとしても、同じ大学にいるんだから一言ぐらい――」
「わかった、俺が悪かったって。……ごめん。謝るよ」
「……本当にそう思ってる?」
「思ってるよ。ごめん。……それに、本当のことを言えば、深山が電話してきた時、俺まだ起きてたんだ。けど、色々考えていたら電話に出れなくって……今日謝ろうって思ってたけど、サークルに顔出すときでいいかって先延ばししてた。でも、やっぱり早めに言うべきだった。本当にごめん」
俺は精一杯の誠意を込めて謝罪した。その気持ちが彼女にも通じたのか、
「……いいよ。許してあげる」
と、何とか深山の許しを得ることができたのだった。
「本当のこと、ちゃんと話してくれたみたいだしね」
少しだけ目尻を下げながら、深山が呟く。機嫌は損ねずに済んだようだ。
「でも、あたしが言うのもなんだけど、そんな時間まで何してたの?」
「ええっと……ちょっと他の子と会ってて――」
瞬間、再び彼女の目元が険しくなる。
「誰? その女の子」
「ちょっと待て。俺は女とは一言も――」
「大島、男友達を話す時は『他のヤツ』って言うでしょ。知り合いじゃなければ『他の人』って言うし。『他の子』って、それ絶対女じゃん。しかもタメか年下」
おいおい鋭すぎる。女という生き物は男に比べて勘が鋭いと言われているが、ここまで瞬時に思考が働くものなのか。
……このまま誤魔化すかとも思ったが、今の彼女の追求を逃れる自信はなかった。というか、下手に言い訳すればするほど、機嫌を損ねてしまいかねない。
そう判断した俺は、あっさりと白旗を上げることにした。
「……最近知り合ったんだよ。この近くに、桜並木で有名な通りがあるだろ? 夜になると、そこでギターを弾いて歌ったりしている、路上ミュージシャン……みたいな子で。歌を聴いたり……まあ、少し話したり」
「ふうん……?」
嘘は吐いていない。が、彼女の機嫌は中々直らなかった。女性の対応マニュアルは難しい。
俺はこの状況における正答を見出すことができなかったが、とりあえず学食の皿を一皿差し出してみることにした。すると彼女は苦笑して、「大島のそういうところ、嫌いじゃない」と返答する。どうやら間違えた選択ではなかったらしい。
「でもいいよ。あたし、今日からダイエット始めることにしたから」
そう宣言する彼女の昼食はラーメンセットだった。
いや、ダイエットを始めるなら、そのチョイスはミスじゃないか?
「そういや、大島もダイエットでも始める気? 普段は、焼き肉定食とか唐揚げ定食とか、お肉大好きだったじゃん」
「ああ――まあ、そんなとこかも」
俺の頼んだものといえば、オムレツと野菜サラダを合わせたものだった。
「そんなとこかも、って何それ」
深山が笑う。よかった。再び機嫌もよくなってきたようだ。
「…………?」
「ん? どしたの?」
「いや……何でもない」
一瞬、誰かに見られているような視線を感じたが、辺りを見回しても不審な人物はいない。
最近は寝不足気味なので、疲れているのかも知れなかった。
「それにしても、どうして急にダイエットなんか始めようと思ったんだ?」
ラーメンの存在は横に置いて、俺は深山に尋ねかける。
正直、そんなことをしなくとも、スタイルは整っていると思うのだが。
「……べ、別にいいでしょ! ……今まであんまり動いてこなかったから、あたしも、ちょっと積極的に頑張ろうって思ったの!」
「? いや、だからその理由を……まあいいか」
それからも俺たちは、ご飯を食べながら、他愛もない話に花を咲かせた。
その一時は――やはり、不思議と落ち着く、楽しい時間だった。
episode3.『臆病な心』――シバザクラ(芝桜)の花言葉
ある日の夜。自室で夕食として作った野菜炒めを食べていると、スマホの着信音が鳴り響いた。
画面を見ると、深山春奈と表示されている。俺は急いで口内に残っていた野菜を喉の奥に流し込むと、今度は逡巡することなく応答ボタンを押す。
「お疲れ~。今何してるの?」
電話越しに聞こえてくる深山の声は、上機嫌そうに感じられなくもなかった。
「夕食の最中だけど」
「へえ。今日は何?」
「野菜炒め。……っていうか、用件は?」
「別に、用事がないと電話しちゃダメってわけじゃないでしょ? ちょっと大島と話したくて」
確かに、雑談するのは俺も嫌いじゃないが。
……まあ、吉乃に会いにいくまでまだ時間もある。機嫌も悪くなさそうであるし、少し話してみるのもいいかも知れない。そう思い、さて何を話そうかと思っていると、深山の方から話を振ってきた。
「それに、その……やっぱり、あたしまだ心配なんだ。最近の大島、ちょっと調子が悪そうっていうか……」
「調子……そうか?」
そう言われてみて、改めて考えを巡らせてみるが、体調不良には思い当たることがない。
しかし、深山がそう言うからには、彼女なりに何か思うところがあるのだろう。冗談を言っているような口調でもないし、そんな冗談を言うようなタイプでもない。
それに、この前の学食の時もそうだったが、深山は意外と俺のことをわかっている。もしかしたら、例えばストレスが溜まっているとか、自分ではあまり意識していない部分に気付いているのかも知れない。
と、そこまで考えて、そういえばと思い当たることが一つあった。
「……体調不良とは、ちょっと違うかも知れないけど……最近、違和感を感じることはある」
「違和感?」
「ああ。例えば、ちょっとした物音にも気になって反応してしまう、とか」
俺の言葉に、深山は少しだけ考える素振りを見せる。
「うーん……ねえ、最近夜は眠れてる?」
「いや……あんまり」
まあ、単純に眠れないというわけではなく、吉乃に会うために睡眠時間を削っているという側面もあるが。
「それ、眠たくならない?」
「意外と眠たくないよ。脳が冴えてるっていうか……講義もちゃんと聞いてるし。ああ、でも、集中力は続かなくなったかも。周りがうるさかったりすると、特に」
ノートをとっていても、例えば、誰かがボールペンを落としたりすると、一瞬ではあるが、つい音の鳴った方へ意識が向いてしまうことがある。
やはり、睡眠不足なのだろうか。
「……倦怠感とか、脱力感とか感じたりは?」
「ちょっと前まではあったけど、今はあんまり。まあ……たまにはあるかな」
それでも、随分回復してきた方だと思う。少なくとも、引きこもっていた一ヶ月間に比べれば。
「……ごめん。あたしから電話しておいて何だけど、ちょっと調べたいことができたから、電話切るね。あ、でも、何かあったらまた相談して! ――それじゃ!」
「え、おい」
しかし、スマホの画面はすでに通話が終了したことを知らせていた。突然何だったのかと気にはなったものの、かといってそれを確かめる術もなかったため、俺は気持ちを切り替えることにした。
時計を見る。吉乃が姿を現すまでまだ時間はある。
俺は少しだけ冷めてしまった野菜炒めを頬張りながら、それまで、どうやって時間を潰すか考えることにした。
結局、深山と電話を終えてからは特に何をすることもなく、ただぼうっとして時間を過ごした。まあ、そういうのも悪くはないかも知れない。暇という概念があるのは生物の中では人間だけだそうなので、暇をもて遊ぶことは人間だけに認められた特権ともいえる。
そんなことを考えながら、俺は夜道を歩いていた。しかしやはり、妙な倦怠感は拭えない。
「うーん……」
やっぱり、ストレスが溜まっているのだろうか。ストレスだとすれば、間違いなく原因は睡眠不足。このまま体調が悪化してしまうリスクを考えると、やはり睡眠時間は確保していかなければならないだろう。
「こんばんは。……今日も来たんだね」
「よう」
そんなことを考えながら歩いていると、程なくして、吉乃の姿が目に映る。俺は短く挨拶すると、いつものように彼女の隣に腰を下ろした。
「別に、そんなに毎日来てくれなくてもいいのに。歌って、そう急激に上手くなるものじゃないんだよ?」
「別に、歌だけを聴きに来てるわけじゃないから。――でも、そうだな。最近寝不足気味っぽいし、これまでみたいには来れないかも」
「本当?」
少しだけ嬉しそうに吉乃が呟く。俺としては少々複雑な気分であるが……まあ、彼女のことだ。俺の体調を慮ってくれているのかも知れない。
「それで――今日はどんな話?」
「そうだなぁ……じゃあ、今日はちょっと趣向を変えてみようかな。桜の木の下には、死体が埋まってるって知ってた?」
彼女の口から飛び出した「死体」という不穏な言葉に、俺は一瞬驚きを見せる。
「あはは、冗談だよ。実際に埋まってるなんてことはもちろんなくて、ただの都市伝説なんだけどね。どういう経緯でその風説が広まったのかは定かじゃないけど、発端は明治時代の小説家、梶井基次郎の作品『櫻の樹の下には』って言われてる」
「梶井基次郎……ああ、『檸檬』とか書いた」
「…………」
「ん? 違ったか?」
「……いや、合ってるよ。そう、『檸檬』は彼の代表作で、彼の短編作品をまとめた短編集の表題にも採用されている。『櫻の樹の下には』も、『檸檬』に収録されている短編の一つだね」
吉乃と話していると、時々義務教育時代を振り返るせいか、小学生や中学生の頃を思い出す。あの頃は本を読むことが大好きで、毎日様々な本を読み耽っていた。
「『桜の樹の下には屍体が埋まっている』、この作品は、そんな一文で始まるんだ。曰く、桜がこんなにも美しいことには何か理由がある、きっと死体という醜い存在が樹の下に埋まっているに違いない――ってね」
美と醜。生と死。
境界線上にありながら、その対極に位置する存在。
「実は、この話は梶井基次郎のオリジナル作品ってわけじゃなくて、更にその元となった伝説があるんだ。それは、桜の花は本来真っ白なもので、それが地中に埋まっている死体の血を吸い取って、少しずつ赤く染まっていく――っていう話。以前話したように、桜の語源は神様が座る場所って意味から成るという説があるんだけど、反面、桜の根本――その地中には、鬼が集まるとも言われてるんだよ」
神と鬼。一見対比しているとは言い難いが、どちらも伝説にのみ語られる存在であり、一方が聖なるもの、一方が邪なるものという意味では、やはり対極に位置しているといえる。
「花弁が散る様が無常を連想させるから、武士の家紋には忌避されていたっていう話もしたと思うけど……古来より桜は、生と死を司る象徴でもあったんだ」
桜の造形、その美しさは、今も昔も変わらなかったことだろう。だが、時は移ろい、時代の変化に伴って、文化が変われば人々の考え方も変わってくる。
そうであるにも関わらず、今も昔も、人々は桜に似たような想いを抱く。やはり、日本人にとって桜とは、他の花とは一線を画する存在であるといえる。
そもそも、桜前線という言葉もあるぐらいだ。たかが一つの花の開花予想を全国ニュースの天気予報で取り扱っているなど、日本以外の国では考えられないことである。
「ちなみに、桜によく似た花で、同じく生と死を象徴する花があるんだ。何だと思う?」
「いや……わからないな」
日本で特別視されている花といえば、他には菊があった。仏花として有名であるし、確かに生と死の象徴というイメージには合いそうだが――吉乃の言う、桜によく似た花とは言えないだろう。
「正解は、アーモンドだよ」
「アーモンド?」
意外な回答だった。というか、種子の印象が強すぎて、花のイメージなど湧いてこない。そんなに桜に似ているのだろうか。
「アーモンドは知っての通り、食用のナッツとして有名だけど、実はバラ科サクラ属の植物で、先端に切れ込みのある花弁、中心部が赤く染まり先端部が白く染まる配色、枝一杯に咲き誇る様子といったように、桜にとても似ているんだ。スペインやトルコに旅行した日本人が、アーモンドの花を見て、こんなところに桜が咲いている! って思ってしまうぐらい」
「へえ……それで、どうしてアーモンドが生と死の象徴に?」
「アーモンドは、イスラエル人にとって特別な植物なんだ。伝説において、イスラエル司祭の祖であり、数々の奇跡で民を救ったと語られているアロン。そのアロンが携えていた杖には、アーモンドの木が使われていた、って言い伝えられてるの。そしてこのアロンの杖は、『旧約聖書』に描かれたエデンの園にある二つの禁断の樹の一つ、セフィロトの樹――別名、生命の樹の象徴でもあったんだよ」
アーモンド入りチョコレートを食べたことぐらいしかアーモンドに接点のなかった俺としては、まさかアーモンドにそんな壮大な伝説があったとは思いもよらなかった。
「他にも、大洪水から人々を救ったノアの方舟や、イエス・キリストが磔の刑に処された時の十字架の木材にも、アーモンドが使われていたっていう説があるんだ」
命を救い、命を奪う。
対比となる存在は、まさに生と死の象徴に相応しいといえた。
「――さて。それじゃあ、キリもいいし、今日はこの辺りで」
「え……もう帰るのか?」
普段であればここから、まだまだ話が盛り上がるところである。想像していたよりも早い解散に、俺は動揺を隠せなかった。
「……ごめんね。もう、あんまり長くはいられないんだ」
申し訳なさそうに彼女が呟く。その言葉に、俺はもしかしたらと思うところはあったが、下手に詮索することは止めておくことにした。彼女はただ、少し哀しげに目を細めていた。
去り際、吉乃は「最後に一つだけ」と俺に向き直る。
「……生と死の象徴である桜は、始まりと終わりの象徴でもあるんだよ。だから、忘れないで。物語もいつかは終わりを迎える。楽しい夢もいつかは醒める。永遠に感じることはあるかも知れないけど――永遠に続くものって、絶対にないんだよ」
意味深長な言葉を残して、彼女は通りを後にする。
その言葉は、何となく――いつかの彼女と同じように、何か別のことを言っているようでいて、俺に対して、何かを訴えかけているような気もした。
翌日。午前の講義を終えた俺は、昼食をとるべく学食へと移動していた。
途中、今朝の出来事を思い出す。
昨日は予想に反して早く寝ることができたため、睡眠時間はいつもよりも確保することができた。
そのおかげだろうか。普段であれば寝起きは気怠くて二度寝の誘惑にも負けそうになるのだが、今日はスッキリとした目覚めだった。窓越しに浴びる朝日も心地よく、気分を爽快にさせてくれた。
やはり、最近の不調は睡眠不足が原因だったのかも知れない。一晩熟睡するだけで、こんなにも違うものなのか、と驚く。まるで、感覚が鋭利に研ぎ澄まされているかのようだ。
そんなことを考えながら歩いていると、やがて学食にたどり着いた。いつも通りのメニューを注文し、手渡された料理を受け取って、席に着く。この一連の流れは、ここ最近のルーティーンとして確立されていた。
「頂きます」
手を合わせてから、料理を口に運んでいく。うん、美味しい。この野菜サラダは毎日食べているが、飽きの来ない味だ。ドレッシングの組み合わせを変えることによって、様々なバリエーションを生み出すことができる点も素晴らしい。ちなみに最近のお気に入りは、ガーリックペーストと香味食用油がブレンドされた、ピリ辛テイストの胡麻ドレッシングだ。
もうしばらくはこの組み合わせでいこう。その後は、また違う組み合わせに挑戦して――
「…………?」
――また、誰かに見られているような視線を感じる。
最近は、以前にも増してそう感じることが多くなっていた。もしかしたら、感覚が研ぎ澄まされている影響もあるのかも知れない。
一度辺りに気を配ってみるが――不審な様子は伺えない。
俺は気を取り直して、食事を再開することにした。
「……ねえ、あの人また野菜ばっかり食べてるよ」
しかし今度は、後ろに座っている女の声が気にかかる。
「別にいいじゃん。好き嫌いなんて人それぞれだし、食べたいものを食べればいいんだよ」
「それにしてもでしょ。毎日毎日野菜ばっかり食べて、飽きないのかな? あ、もしかしてベジタリアンってヤツ?」
「ちょっと、声大きいって。聞こえちゃうよ」
話を繰り広げているのは、どうやら茶髪の女二人組のようだ。片方が制止しているものの、残念ながらすでに話は筒抜けである。そしてもちろん、俺はベジタリアンなどでは決してない。
それにも関わらず、独断と偏見でそう決めつけてきた片方の女に対して、俺はふつふつとした怒りが込み上げてきているのを感じていた。
「牛や豚を殺して食べるのはカワイソウって? 植物だって生きてるのにね。それに、肉の美味しさを味わえないなんて人生損して――」
「……おい」
俺は背後を振り返った。
黙って聞いていれば、随分と言いたい放題を言ってくれる。
「あ、ヤバ。聞こえてた?」
「もう、ちゃんと謝りなって」
見れば、後ろの席には二人の茶髪の女が座っていた。表情から察するに、適当なことを言っていたのは右に座っている女の方だろう。
俺はその女をしっかりと見据えて、怒気を露わにする。
「まず俺はベジタリアンでもなければ偏食家でもない。それを、お前の勝手な独断と偏見で決めつけるな。そもそも、俺が何を食べようと俺の勝手だろうが。第一、何だ? 『毎日毎日野菜ばっかり食べて』だと? いちいち人の食事内容を盗み見ているお前の方がおかしくないか? ……もしかして、たまに感じていた視線はお前の――」
今更怖気づいたのか――俺が言葉を言い終える前に、彼女たちは席を立とうとしていた。
俺はその行動を制止するために、バン! とテーブルを大きく叩く。
「まだ話は終わってない!」
彼女たちは僅かに体を震わせて、その動きを止める。だが、それだけではなかった。その場が一瞬で静まり返り、空気が凍りつく。我に返った時には、衆目を集め過ぎたことに気が付いた。
学食にいる大半の学生が、何事があったのかとこちらに注目している。
彼女たちはといえば、恐怖感と恥ずかしさからか、目には涙を浮かべていた。
「……くそ」
歯軋りをしながら、俺は呟いた。
「――これじゃ、俺が悪者みたいじゃないか」
振り上げた拳の落とし所を見失う。
俺はその場に残ることにどことなく居心地の悪さを感じ――半ば衝動的に学食を飛び出した。
「大島!」
背後から、聞き慣れた叫び声が聞こえてきた。俺は走るのを止め、その場に立ち止まる。
「はぁっ……はあっ……ちょっと、大島、どうしたの!? いきなり大声なんて上げて――」
俺を呼び止めたのは深山だった。彼女も学食で昼食をとっていたのだろう。
「どうしたって――」
と、そこまで言いかけて考える。学食で席が離れていたならば、深山には俺が声を荒げてから以降の会話しか聞こえていないだろう。このままでは、彼女も流れが飲み込みにくいはずだ。そう思い、俺は先程までの一連のやり取りを、手短に彼女に説明する。
「――っていうわけなんだ。深山は、どう思う?」
俺の言葉に、深山はやや困惑したような表情で言葉を返してきた。
「どうって……と、とりあえず、一旦落ち着こう?」
「…………っ」
状況を落ち着かせようとする無難な返答。
彼女の口から肯定の言葉が出てこなかったことに、俺はなぜか期待を裏切られたかのような気持ちになった。
「……わかったよ。気分もよくないから、今日はもう帰る」
「え……お、大島!?」
立ち竦む彼女を横目に見ながら、俺は帰路に着くことにした。
最後に視界に入った彼女の表情は、どこか先程の女たちと同じような感じがしたが――今の俺にとっては、考える余裕のないことだった。
episode4.『ごまかし』――シダレザクラ(枝垂桜)の花言葉
通りに立ち並ぶ桜の木々も、すでに全てが散っていた。
桜が咲き誇る時期は、本当に短い。しかし同時に、その短さこそが桜の持つ魅力の一つであり、散り際にこそ最も美しさを感じる人も大勢いるだろう。
そして、目の前に佇む彼女も、その一人であるようだった。吹き抜ける夜風に葉桜が靡く様を、どこか寂しそうに見つめている。その姿に、俺は初めて出会った時のことを思い出していた。
通りのシンボルである、巨大な一本桜。その木の根本。
一人の女性が、街灯の光に影を落としながら、ギターの音色を響かせている。
年齢は自分と同年代ぐらいだろうか。外見だけでは判断できないが、外見だけを見れば自分とあまり変わらないように思える。まだあどけなさが残る顔つきが、より一層そう感じさせる。
短く切り揃えられた真っ白な髪は、よく見れば、所々に淡い薄紅色が混じっている。髪の色と同じような肌の色は、淡く赤らめている部分が辛うじて生者であることを実感させる。
華奢な体つきと独特の雰囲気も相まって――幻想的な存在感を醸し出していた。
「……こんばんは。また来てくれたんだ」
あの時と同じように、こちらの存在に気付いた彼女が、不意に口を開く。
そして俺も同じように、彼女の元へと歩み寄っていく。
「…………」
「…………」
互いに口を開かないまま、視線だけは交錯させる。これも、以前似たような状況があったことを思い出した。しかしその時に比べてはっきりと違うことは、今の俺は、彼女に発する言葉を持ち合わせているということだ。
そのまま、森閑が場を支配する。永遠にも感じられる静寂が流れゆく。
視線を交錯させたまま――口火を切ったのは、俺の方だった。
「今日は、吉乃に話したいことがあって」
いつもは、受動的に彼女の話を聞くことが多かった。俺も大学生活のことに関して話をする時もあったが、自分から話題を提起していたわけではなく、彼女の求めに応じてというものだった。
そう考えると、俺は初めて、彼女に自ら話題を切り出しているのかも知れない。
「大学……今、何か楽しくなくて。居心地もあんまりよくないし、今日も色々あって……それで、またしばらく行くのを止めようかなって」
俺の言葉に、彼女は無言で続きを促す。
「だから、ごめん。今度からしばらく、大学生活に関しての話はできなくなるかも知れない」
もちろん、迷いはあった。せっかくここまで立ち直ることができたのに、その結果を水の泡のように終わらせてしまっていいものかと。しかし、それ以上に憂鬱な気分が勝ってしまっていた。
何も別に、大学を辞めようというわけではない。ただ、気分の乗らない時に無理を押して行くよりも、しっかりと休んで心身共に整えてから行った方が、自分自身のためにもなるだろうと判断してのことであった。
そうした俺の告白に、彼女は再び一言だけ、「そっか」と呟いた。
特に事情を詮索することもなく、責め立てるようなこともない。その一言に、彼女の優しさが体現されているような気がしたが――その呟きには、どこか少しだけ、何か別の感情が混じっているような感じもした。
「実は――今日は私も、大島くんに話しておかないといけないことがあるんだ」
彼女の力強い言葉に、俺は思わず気構えた。
通りに着いた当初から、いつもとは違う彼女の雰囲気に、何かあるのだろうとは思っていた。
わざわざそう言ってきた以上、やはりそうなのだろうと思ったし、もちろん、いつものような桜に関する話題ではないだろう。そう考えた。
「もうすぐ、大島くんとはお別れしないといけない」
彼女が口にした言葉は、しかしまだ、俺の予想していた範囲内の言葉であった。
以前にも、父親が自衛官であるという話を聞いた時に、何となく考えた時があった。両親が娘を帯同していく生活を送っているならば、彼女もまた、いつかはこの地を離れる日が来ることになるのだろうと。
気になって少し調べてみたこともあったが、自衛隊の異動は原則として四月と八月にあるとのことだった。最も、これはあくまで原則であり、部隊再編や前任者の退官など様々な理由で、それ以外の時期に異動することも結構あるらしい。
「……寂しくなるな」
俺は、素直な感情を吐露していく。
「でも、もう会えなくなるってわけじゃない」
すでに彼女と連絡先は交換している。
住む場所が変わっても、彼女との繋がりは保つことができる。
そう思っていた俺にとっては――次に彼女が口にした言葉は、予想していた範囲外だった。
「ううん、違うの。もう――会えないの」
「え……?」
「最初の頃はよかったんだ。その頃の大島くんは酷く憔悴していて、そんな君にとっては、私という存在が心の平安になっていたのかも知れない。でも、今は違う。今は私という存在が――君の足枷になってしまっている。君の日常を停滞させてしまっている。だからもう、お別れしないといけない」
「何を――」
何を、彼女は言っているのだろう。彼女という存在が俺の足枷になっている? そんなことはない。最初の頃は彼女の言う通り、その存在が俺にとって励みだった。そして今でも、それは変わっていない。そうでなければ、こんな夜遅くにわざわざここまで足を運ばない。
だというのに、彼女はどうしてそんなにも、悲しそうな眼差しをしているのだろうか。
「……多くの人が想起するように、桜は出会いと別れ、始まりと終わりの象徴でもあるんだ」
唐突に彼女が語りだす。俺は何か言おうとも思ったが、桜について語っている時の彼女は止められないということを思い出し、口をつぐむ。そのまま、彼女の独白に耳を傾ける。
「ただ、その印象に関しては、諸外国と比較しても日本は特に強い。何でだと思う?」
「……桜の咲く時期が、春と重なるから?」
「そう。厳密には、出会いと別れ、始まりと終わりの時期に重なるから、だね。学生であれば卒業と入学、あるいは就職。社会人であれば、異動と転職……昇進して立場が変わったりすれば、環境も変わって付き合いも変わってくる。そういった、節目の時期にちょうど咲くからこそ、そういう象徴として受け止められているんだ。日本は四月が年度初めだけど、アメリカを始め諸外国の年度初めは九月が多いからね。日本人の方が、感傷的になりやすいんだよ」
彼女は言葉を続けていく。
「桜をテーマにした出会いと別れの曲、いわゆる桜ソングがヒットしやすいのもそういった理由があるの。この時期になるとよく耳にするし、毎年のように誰かが新曲を発表するでしょ?」
軍歌に採用されていた時期もあるので、明治時代頃から桜ソングは存在していたのかとも思ったが、曰く、彼女の認識としては奈良時代や平安時代から。
彼女にとっては、和歌や詩歌も立派な『歌』であることには変わりがない、とのことだった。
「でも、何かを新しく始めることって、難しいことでもあるよね。人間は現状維持を好む性質があるから、未知の領域に踏み入るには勇気がいる。何かを新しく始めるっていうことは、何かを終える、見切りをつけるってことでもあるから、物悲しさや未練がましさもあるかも知れない」
「でも」と彼女は続ける。
「それでも、変化を受け入れていかないとダメなんだ。現状維持は停滞と同義であり、それは、君自身が強く思っていたことでもあるはずじゃないのかな?」
季節は移ろいゆく。風景も変わりゆく。日常は豊かになり、人々は成長する。
変わらないものなんて、何もない。その――はずなのに。
自分だけが、停滞している。周囲が刻々と変化していく中で、自分だけがそのままでいて、何か、周囲から取り残されたような気持ちになる。見放されたような、見捨てられたような、そんな焦燥感を覚えてしまう。
以前に抱いていた思いは、今も、そう――変わらない。
「……大島くんは、本当に偉いよ。一人で苦しんで、一人で耐えて、……それでも、一人で頑張ってきたんだよね。――でも、目を背けちゃダメだよ。殻に閉じこもって逃避をしても、事態は何も解決しない。改善しない。どんなに嫌なことが過去にあっても――それを美化しろとか、乗り越えろなんて言いはしない。けれども、目を背けることだけは絶対にダメ。それは事実として、確かにそこに『在った』もの、確かにそこに『在った』こと。その物事には、その事実には、真摯に向き合っていかないと……ダメなんだよ。だから、忘れないで。物語もいつかは終わりを迎える。楽しい夢もいつかは醒める。永遠に感じることはあるかも知れないけど――永遠に続くものって、絶対にないんだってことを」
「…………」
「……そもそも、私と会うきっかけとなったあの日。あの日の夜、大島くんは、どうしてこの場所まで来ていたの? 君の本当の目的は――何だったの?」
そう言われて、俺はあの日を回想する。
あの日、俺は――
俺は――何をしようとしていたんだ?
何か、目的があったことは覚えている。その目的を果たすためにこの場所へ――そうだ、右手に何かを握りしめていた。その何かを、俺はこの場所に届けるために。
そこまで思い出して、そして、何か決定的なものを思い出そうとしたところで――
「大島!」
背後から、聞き慣れた叫び声が聞こえてきた。
振り返ると、そこには深山が、肩で呼吸をしながら立っていた。
「……深山。どうしてここに――」
俺は疑問に思ったが――こちらに駆け寄ってきた深山は、そのまま、力強く俺を抱きしめてきた。
直様の出来事に、口に出しかけた言葉は宙に消え、俺の思考は散逸する。
「ごめんね」
視界に映った彼女の表情は、涙で溢れていた。
「気付いてあげることができなくて、ごめん。助けてあげることができなくて――ごめんね。大丈夫なわけ、ないよね。きっと、あたしが想像もできないぐらい、辛かったよね」
事情を理解できぬまま、かといって泣き続ける深山を突き放すわけにもいかず、俺はただその場に立ち尽くしていた。通りがかりの人がこの場面だけを切り取ってみれば、どんな想像をするのだろうか。そう考えると、急にこの状況に気恥ずかしさを感じてきた。後ろに吉乃がいることを考えると、尚更である。彼女もおそらく、突然の出来事に状況を理解することができていないだろう。
そう考えた俺は、気恥ずかしさから逃れたい思いもあって、とりあえずこの場を整理することにした。
「……そうだ。深山、紹介するよ。後ろにいるのが、俺がこの前話した吉乃って子で――」
俺がそう言うと、深山は一瞬だけ視線を動かし、後ろに立っている吉乃を見る。
「……大島。よく聞いて」
そして彼女は涙を拭いながら、その言葉を口にした。
「その吉乃って子、あたしには――見えないの」
「……………………え?」
何を。
「大島、落ち着いてよく聞いて。その吉乃って子は、いないの。元々存在していない、大島が作り出した幻なの」
何を、言って。
「PTSD――心的外傷後ストレス障害。強い精神的衝撃を受けることによって発症する、生活機能に障害を及ぼすストレス障害。人によっては……今の大島のように、稀に幻覚を見ることもある」
彼女は、何を言っているんだろう?
「PTSDになれば精神機能はショック状態に陥って、パニックを起こす危険性がある。それを回避するために、患者は無自覚に心身機能の一部を麻痺させて、一時的に現状に適応しようとするの。事件前後の記憶想起の回避、幸福感の消失、建設的な未来像の喪失――」
彼女が、吉乃が――存在しない?
「……幻聴が聞こえてくることも、苛々しやすくなることも、夜眠れなくなったことも、感覚が過敏になったことも、全部――全部PTSDの主症状として明記されている!」
俺は背後を振り返る。
吉乃はただ、寂しそうに笑っていた。
「辛いと思う。苦しいと思う。……でも、ここが踏ん張りどころなんだよ! ――大島!」
「そんな――そんな、わけが」
――『はじめまして。私は吉乃。君は?』
初めて出会った時の、透き通るような声。
――『今の大島くんに聴いて欲しいの。私の歌、私の想い』
ただただ圧倒された、彼女の歌、彼女の想い。
――『――っていうわけで、川沿いとか河川敷には桜が多く植えてあるんだよ』
桜について語っている時の、彼女の楽しそうな笑顔。
……それら全てが、幻だって、俺の妄想だって、そう言うのか。
――そんなわけがない。そうであっていいわけがない!
「彼女は新しい元号を俺に教えてくれた。俺はそれまで、そんな情報を一切知らなかった。彼女がストレスによって生み出された幻覚であるなら――俺が知らないことを知っているはずがない!」
「さっきも言ったけど、PTSDでは事件前後の記憶想起が回避されるの。大島は本当に、一切の情報をシャットアウトしていたの? 『知らない』んじゃなくて、『覚えていない』んじゃないの?」
……確かに、はっきりとした記憶はない。
吉乃と出会ったあの日もそうだった。
『――気がつけば、俺は看板の前で立ち止まっていた。何か考え事をしていたかのような気がするが、何を考えていたのかはよく思い出せない。一瞬、何かの記憶が脳裏を掠めたような気もするが、それ以上の追求は止めておくことにした。』
「……でも、俺には吉乃みたいに桜に関する知識なんてない! 桜だけじゃない――自衛隊のことだって、文豪の小説のことだって、俺に詳しい知識はない!」
「人間の記憶力や潜在意識って、あたしたちの想像を遥かに上回るぐらい凄いんだよ。夢に見知らぬ人が出てきた経験ってある? でもそれは、『見知らぬ人』なんかじゃなくて、『どこかで出会った人』なんだ。街中の交差点。満員の地下鉄車両。ほんの一瞬だけ視界に映った人ですら、ほんの一瞬だけ耳にした雑音ですら、脳は知識として無意識下に記憶している。……大島は農学部だったよね? だったら、桜に詳しい教授と話したりしたことはないの? 自衛隊だって、自衛官の先輩がいるって言ってたし、小説だって、昔はよく読んでたんでしょ?」
……そう言われてみれば、何かの講義で、桜に関して熱く語っていた教授がいたような気がしないでもない。俺の先輩は防衛大卒の幹部自衛官だし、梶井基次郎の小説だって小学生の頃に読んだような気もする。
「それに……忘れたの? あたしたちが初めて出会った時、大島があたしにかけてくれた言葉を」
「俺たちが、初めて出会った時……?」
それは、一体いつだっただろうか。桜が綺麗に咲いていた時期だったのは覚えている。
「俺は――」
……そうだ、思い出した。サークルの新歓で、席が隣同士になったんだった。俺は確か、あの時にこう言ったのだ。
――『大島っていうんだ。よろしく』
――『あたしは深山っていうの。こちらこそよろしくね~』
――『深山……へえ。オオシマザクラとミヤマザクラ。桜の名前を冠する者同士、こうして出会ったのも何かの縁かもね』
「遊んでそうな見た目とは裏腹の、意外と物知りな大島に――あたしはあの時惹かれたんだ!」
その記憶には、確かに俺の言葉があった。そしてそれが真実であれば、俺にも多少なりとも知識があったことの証明となる。
「でも――でも……!」
反論の材料を懸命に探すが、絞り出した言葉の全てが、ことごとく深山によって論理的に否定されていく。
「嘘だ――嘘だ嘘だ嘘だ! 彼女はいる! 吉乃は今も、俺の後ろで寂しそうに笑って――そうだ、深山に見えなくて、俺には見えていても、おかしくないかも知れない! 吉乃は確かに実在しない存在かも知れないけど、例えば幽霊で、俺には実は霊感があって――」
「……反論にしては苦し過ぎるよ。そんな非科学的なことを言われても困るし――それに、それだけじゃない。以前大島が学食で揉めたっていう女の子。あの後あたしも探してみたけど、そんな子はいなかった。大島の近くにいたっていう子に話を聞いてみたけど、大島の後ろの席には、誰も座ってなんていなかったって言ってた!」
……そうだ。
――『話を繰り広げているのは、どうやら茶髪の女二人組のようだ。』
あの時、なぜ俺は後ろを振り返りもせずに、女の髪色がわかったんだろう?
「……不調のサインは何度もあったのに、気付くチャンスは何回もあったのに、それを、あたしも見逃していた。本当に――ごめんなさい。あたし、大島のことをよく見ているような気になって、肝心の大切なところが見えてなかった」
「ごめんね」と彼女は謝り続ける。
「あたしの友だちで、看護師を目指している子がいるんだけど――その子も、解剖実習の後しばらくは、お肉が食べられなくなったって言ってたんだ。……大島が野菜ばっかり食べるようになったのも、きっと、あの日からなんだよね」
瞬間、何かがフラッシュバックする。
肉。
肉。肉。肉。
肉塊。肉質。筋肉。骨肉。血肉。肉色。肉感。肉親。肉体。肉付き。肉片。肉眼。肉芽。
肉肉肉肉、肉肉肉肉肉――
「おえっ……っ」
「大島!?」
急激に迫り上がってきた吐き気を抑えきれず、吐瀉物を路面にぶちまける。
口内だけでなく、胸の内側から酸で蝕まれそうな不快感を覚える。
「――大丈夫!? 大島!?」
吐瀉物に混じった残滓の中に――俺はあの日を映し見る。
各地の桜が、まだちらほらと咲き始めた頃。
俺はその日、家族と花見をするために、この通りへとやってきていた。俺は近場に住んでいるので、移動に時間はかからなかったが、家族は車で数時間もかけて来たらしい。しかも、父親・母親・妹の家族総出である。
俺の地元は隣の県であり、今は俺だけがこの場所で一人暮らしをしていた。
大学進学を機に始めた一人暮らしは想像以上に楽しく、サークル活動やバイトで忙しい日々を送っていた俺は――次第に、実家に顔を見せることも少なくなっていき、それに反比例するかのようにして、両親からの連絡は増えていった。
……きっと、寂しかったのだろう。子離れできない両親には、少しは妹を見習って欲しかった。
とは言っても、両親に素っ気ない態度を取るほど俺も嫌いなわけではないし、むしろ家族仲は良好である。妹とはそれなりに喧嘩もするが、まあ、喧嘩するほど何とやらだ。
「おーい、酒が足りんぞ!」
「あなた、ちょっと飲みすぎじゃない? あんなに持ってきたのに、もう全部なくなってるじゃない。滝に久しぶりに会えたからって、喜んじゃってもう」
「そういうお母さんも、張り切ってお弁当作ってきたくせに」
そんなこんなで、大島家は花見を楽しんでいた。まだ桜は満開ではないが、俺たちの他にも多くの花見客がおり、それぞれが思い思いに、話に花を咲かせていた。
「……ビール、追加で持ってくるよ。俺んちにまだあったと思うから」
「あ、滝。お母さんのもお願い」
「うん」
大島家の両親は、揃って酒が強い。俺の酒好きも遺伝なのかも知れない。
「あ、うちのもよろしく」
「お前は未成年だろうが」
「兄貴だって未成年じゃん!」
「あと一ヶ月もすれば二十歳になるんだ。誤差だよ誤差」
妹の軽口に軽口で返し、俺は一旦家へと戻った。
冷蔵庫の扉を開けて、冷えた缶ビールを数本手に取り、再び通りへと向かっていく。
――異変に気が付いたのは、それから程なくしてだった。遠くにいてもわかるほどに、辺りが騒がしくなっている。嫌な予感を感じた俺は、急いで家族のいる元へと走っていく。
「…………!?」
見れば、桜並木に大型トラックが突っ込んでいた。その近くには、別の車も横転している。
――多重事故だ。
理解するより早く、俺は全力で駆け出していた。
脳内に警告音が鳴り響く。必死に辺りを見回す。
救助に駆け付けようとしている人、野次馬のごとく騒ぎを眺めている人、パニックになって右往左往している人、花見を中止しその場を離れようとしている人――
様々な人たちがそこにはいたが、俺の家族の姿は見当たらなかった。
「どけ!」
人だかりを押しのけて、突っ込んできたトラックの下までたどり着く。
グシャグシャにひしゃげたガードレールが、衝突の威力を物語っていた。
「父さん! 母さん!」
返事はない。俺は車体の奥に回り込む。
「香澄! いたら返事を――」
妹の名前を口にしたところで――俺は『それ』を発見した。
生まれて初めて感じた、現実感の喪失。
生まれて初めて直面した、死の存在。
肉親は――肉塊に変わり果てていた。血を分けた妹は、血溜まりの中に沈んでいた。
「あ――ああ……うああああああああ!!!」
遠くから、サイレンの音が聞こえてきて――俺の記憶は、そこで途切れている。
「――大島!? しっかりして、大島!」
深山の叫び声で、俺は現実を取り戻した。
「……大丈夫。もう、大丈夫だから」
俺は、全てを思い出していた。
「大丈夫って、またそんなこと言って――全然大丈夫なんかじゃない!」
「心配させてごめん。迷惑もたくさんかけた。……本当に、もう大丈夫だから。――別れを、告げてくるだけだから」
俺は振り返り、表情を崩さないままの吉乃を見た。
そのまま、視線を交錯させる。
「……吉乃。俺はあの日――この通りに、ビールを持ってこようとしていたんだ。あの日家族に頼まれた、でも、届けることができなかった――ビールを手向けに」
あとから聞いた話では、両親は即死とのことだった。妹を庇おうとしたのか、車の正面ともろに衝突したらしい。その妹も、病院に搬送される救急車の中で、すでに息を引き取っていた。
「少しでも、前に進めると思ったんだ。何かが変わると思ったんだ。故人の死を悼むことで、自分の気持ちにも区切りをつけることができるって。……でも、それができなかった。現実を受け入れることができなかった。だから――俺はあの日、吉乃と出会った」
出会ったからこそ、辛い現実に向き合わなくて済んだ。
そのことに対して感謝こそすれ――恨み辛みは一切ない。
「でも、俺も本当は、心のどこかで薄々気付いていたんだ。だって吉乃の言葉は、俺の心と繋がっていたから。俺の存在を厳しく肯定し、俺の考えを優しく否定してくれたから」
季節は移ろいゆく。風景も変わりゆく。日常は豊かになり、人々は成長する。
変わらないものなんて、何もない。
自分だけが、停滞している。周囲が刻々と変化していく中で、自分だけがそのままでいて、何か、周囲から取り残されたような気持ちになって。見放されたような、見捨てられたような、そんな焦燥感を覚えて。そんな思いは、以前に抱いていた思いは――少しだけ、変容してきていた。
少しの間だけ目を背けることはいいかも知れない。しかし、殻に閉じこもって逃避をしても、事態は何も解決しない。改善しない。嫌なことが過去にあれば――それを美化しろとか、乗り越えろなんて簡単に言われたくはない。けれども、目を背け続けることだけは絶対にしてはいけない。それは事実として、確かにそこに『在った』もの、確かにそこに『在った』こと。その物事には、その事実には、確かに向き合っていかないといけない。そう、改めて思った。
「だから俺は、少しずつでも向き合って、受け入れていくことにするよ。……俺の家族も、きっと、そういうことを望んでくれていると思うから」
口の減らない妹に今の姿を見られたとしたら、何て言われるか。
……荒んだ姿の自分よりも、そうでない自分を、家族には見せていきたいと思った。
「俺……頑張るよ」
「――そっか」
彼女は一言だけ、そう呟いた。
その一言に、彼女の全てが体現されているような気がした。
「……っ……ありがとう」
涙を堪えきれなくなった、俺の情けない顔とは対称的に、
「うん。――それじゃ!」
彼女が最後に見せた表情は、弾けんばかりの笑顔だった。
Epilogue.『私を忘れないで』――フランスの桜の花言葉
吉乃に別れを告げて以降、彼女の姿を目にすることはなくなった。
とはいっても、PTSDの諸症状が収まったわけではなかった。相変わらず夜は寝付けなかったし、寝ることができたとしても、浅い眠りだったり、悪夢を見たりする。肉類もまだ食べることができないし、時折強い倦怠感に襲われることもある。
それでも、俺の日常は、少しずつではあるが変化してきていた。
『PTSDは、トラウマなんて生易しい言葉で片付けたらダメだよ』
深山の後押しもあり、俺は専門の医療機関に通院するようになっていた。カウンセリング等の効果もあってか、最近は症状も緩和傾向にあるように感じる。
『大学は、落ち着くまでは無理しなくていいよ。……大丈夫。それは決して逃げなんかじゃなくて、今の大島に、絶対に必要な休息だから』
また、症状が酷く感じる時には、積極的に心身を休めることにした。「今日はあたしに任せて!」深山はたまにやって来ては、料理や掃除などの家事を手伝ってくれた。
こうして俺は、失っていた日常を、緩やかに取り戻し始めていた。
それでも俺は、ふと思い出す時がある。
吉乃と過ごした、あの夢のような日々を。
もう一度会いたい――というわけではない。でもその気持ちと、思い出さなくていい、ということはイコールで結ばれないと思っている。矛盾しないと思っている。
彼女は確かに、こう言っていた。
――『目を背けちゃダメだよ。殻に閉じこもって逃避をしても、事態は何も解決しない。改善しない。どんなに嫌なことが過去にあっても――それを美化しろとか、乗り越えろなんて言いはしない。けれども、目を背けることだけは絶対にダメ。それは事実として、確かにそこに『在った』もの、確かにそこに『在った』こと。その物事には、その事実には、真摯に向き合っていかないと……ダメなんだよ』
彼女は幻想としての存在であったが、あの日別れを告げるまでは――確かにそこに生きていた。その心臓は、鼓動を刻み続けていた。その事実は、何があろうと変わりはしない。
だからこそ、あの幻想に溺れた日々が、俺の弱さの象徴だったとしても……目を背けるようなことだけはしたくない。絶対に、彼女を忘れるわけにはいかない。
「――ごめんね、待った?」
「……大丈夫。考えごとしてたから」
待ち合わせ場所に現れた深山の言葉に、俺は一旦思考を中断する。
「……ねえ、本当に平気?」
「多分大丈夫。それに四十九日ぐらい、顔を見せに行かないと」
あの日以降、事故現場に向かうのは今日が初めてだった。正直に言って不安はあるものの、やはりどこかで、区切りを付けておきたいという思いが強くあった。
四十九日は忌明け法要であり、喪に服していた遺族が日常生活に戻る日でもあるとされている。気持ちに区切りを付けるには、ちょうどいい機会であるだろう。
「それに……今は、独りじゃないから」
「……うん、そうだね。あたしもいるから、きっと大丈夫だよ」
やがて、目的地にたどり着く。通りには、他の誰かが手向けてくれたのか、いくつかの花束が置かれていた。その中には、桜を模した造花もあった。
「……父さん、母さん。香澄も。……ごめん。遅くなったけど――ビール、持ってきたよ」
花束と一緒に缶ビールを人数分置いて、ほんのしばらく黙祷を捧げる。
……香澄はまだ未成年だが、これぐらいは神様も見逃してくれるだろう。
それに、あの家族のことだ。きっと向こうでも、揃って酒を飲んでいるに決まっている。「兄貴も早くこっちに来なよ!」香澄なら、それぐらいの軽口だって叩いてくれるに違いない。
……追憶に胸中を湿らせながら、目頭が熱くなるのをグッと堪えて、俺は言葉を絞り出した。
「また来るよ。今までの分まで取り返せるように、また、会いに来るから」
黙祷を終えて、俺は踵を返す。
視界には、青々とした葉桜が広がっていた。
「……この桜、ソメイヨシノじゃなくて、コチョウサクラ(胡蝶桜)って言うんだ」
「コチョウサクラ……コチョウってちょうちょのこと?」
「そう。花弁の舞う様子がまるで蝶が翔んでいるかのように見えることから、そう呼ばれるようになったんだって」
あれ以来、桜に関しては色々と勉強するようにもなっていた。
「『胡蝶の夢』って知ってる?」
「ええと……夢か現か幻か、ってヤツ?」
「うん。夢の中の自分が現実なのか、現実だと思っていることが夢なのか――」
古代中国の思想家、莊子が説いた話だ。
物我一体の境地。または、現実と夢とを区別することのできない例え。
「……ふと、不安になる時があるんだ。自分は今、現実を生きているのか、それともまだ夢を見ているのか、どっちなんだろうって」
隣に立つ深山の姿を見る。彼女もまた――俺が作り出している幻想かも知れない。その可能性は否定できない。いや、もしかしたらこの世界全体が、そうであるかも知れない。本当の俺はどこかの病院に入院していて、夢の中を彷徨っているのでは――?
そういった恐怖心に駆られることもあるが、しかし現実か虚構かを証明する手段など存在しない。
結局のところ、全ては自分の主観でしかないのだから。
「……大丈夫だよ」
そんな俺の不安をよそに、深山はぎゅっと俺の手を握りしめてきた。
「あたしは幻想なんかじゃない。この世界も夢なんかじゃない。この心音が続く限り、あたしは今、この瞬間――大島の隣に、確かに存在してるから」
握り返した手のひらの温もりは、とても優しくて。
俺は、いつか吉乃と交わした約束を思い出していた。
――『もし、また何か辛いことがあった時、同じように手を差し伸べてくれる人は必ずいる。その時は、今度こそ――その手をしっかりと握り返してあげて。……私との約束だよ?』
あの時に交わした約束は、果たすことができたと思う。
握り返した手のひらの温もりは、とても優しくて――愛に満ち溢れていた。
「……約束、守ったよ」
――そっか。
葉桜の陰で、彼女がそう微笑んでくれたような気がした。