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サロン・ド・メロ  作者: ロッシ
9/15

第七話 オラとあたしと私②

 それからルチルとヴィッキーが口を利くことはなかった。

互いにひとつ屋根の下に住んではいるが、一言も言葉を交わさない。

あの日の夜、家に戻ったルチルはいつも通りに話しかけたが、ヴィッキーがルチルを無視した。

その後も何度か話しかけるものの、それでもヴィッキーはルチルを居ない者として扱った。その結果、次第にルチルも話しかけるのを止めていった。

かと言って、互いに仕事を放棄することもない。

ヴィッキーはディアナから受け取ったデザイン画を基に素材を選定し、そのリストをディアナを介してルチルに渡す。

ルチルはヴィッキーの助言に従い、営業時間を短縮し、午後にはディアナから受け取ったリストの素材を集めた。


ルチルが、この舞台衣裳の仕事に目を付けた理由のひとつがここにあった。

新しい舞台は、叙事詩であり、英雄譚だった。

いつの時代のことかは分からない。

ある英雄が魔物と戦いながら国を興す。

この舞台の設定が、ルチルの目に留まった。

基本的な衣裳は、鎧兜である。

しかし、本物の鎧兜を身に付けて芝居をするわけではない。

軽い素材を組み合わせて、それっぽく見えるデザインの衣裳を作る。

それがルチルにとって最も都合の良い点だった。


ルチルは、魔物から素材を調達するのだ。


無論、ルチル自らが魔物を狩るわけではない。

どの魔物から何の素材が採取できるのかを詳細に把握したルチルが狩人のギルドに依頼をかけ、魔物を狩ってこさせる。

魔物を退治した報酬は狩人に支払うが、代わりにルチルはその死骸を譲り受け、そこから素材を採取するのだ。

魔物から獲得できる素材は、一般的な家畜のそれとほぼ同じ品質。むしろより頑丈であったり、より高品質なものであったりと、魔物であるからこそ得られる恩恵もある。

何よりの恩恵は、一般的な流通経路を通さない故に無駄なコストがほぼ掛からないという点にもあった。

そしてこの舞台のテーマからして、この衣裳は一般流通では非常に高額で取引きされる角や爪、牙等がそのまま使えるという大きなメリットがあった。


ルチルは毎日毎日、午前中は店に立ち、前日にメリッサの着用した服を販売した。

そして昼を過ぎると店を閉め、素材をかき集めて自宅に持ち帰り、ディアナに渡す。

それが終わると、今度は工房に出掛けて商品の発注を行い、その足で劇場の裏口でメリッサの様子を確認し、翌日の準備をしに店に戻る。

本当に毎日休みなく、ルチルは早朝から深夜まで働いた。

だが、それはルチルだけではない。

ヴィッキーも同じだった。

劇団員全ての採寸を行い、ディアナのデザインからそれぞれの体に合わせたパターンを起こし、それを作り、そしてフィッティングを行う。

何度も劇場に足を運んでは、練習の合間を縫って団員に試着をしてもらうのは本当に骨の折れる仕事だった。

中にはスケジュールが合わず、なかなかフィッティングのできない団員もいる。

遅れれば遅れるほどに仕上げをする時間は少なくなっていく。

ヴィッキーは昼夜を問わずに衣裳を作り続けた。

ふたりは日を追う毎にどんどんと憔悴していった。

一方のディアナは、デザインを描き終えた後は、ふたりのサポートを全力で行った。

家事全般の全てを担い、縫製や店舗運営もできる限り手伝った。

自分がこのブランドのトップである。

しかしその現実に反して、最も何もできないのは自分である。

ただでさえ無意識に自分を強く呵責していたし、そして全く口を利くことのない年上ふたりのプレッシャー。

毎日ディアナの心は押し潰されそうだった。

そんな日々が実に二月以上も続いた。よく耐えたと言える。




 それは昼下がりのことだった。


「できたわ。」


ヴィッキーが糸を噛みきった。

その顔はやつれ、顔色も土気色に変わり果てていた。


「・・・・ヴィッキー。」


作業部屋の中央。

トルソーの前で項垂れるヴィッキーをディアナは抱き締めた。

豊満だった体も痩せ細り、小刻みに震えていた。

ディアナは涙を溢した。


「お疲れ様。お疲れ様だべ。」


「ディアナ。」


ヴィッキーがディアナの手を握った。


「ごめん。これを工房に届けて来てくれる?あたし、ちょっと、寝るから。」


「分かったべ。分かったべ。」


弱々しく変わり果てたヴィッキーの体をベッドへと連れていくと、ヴィッキーはうつ伏せに倒れ込んだと同時に寝息をたて始めた。


消化の良さそうな薄味のパスタを作ると、テーブルの上に用意し虫除けを掛ける。

ヴィッキーが起き抜けに食事をしてもいいように。

そこまでの準備を終えてから、ディアナはトルソーから衣裳を剥がし、家を後にした。

この最後の一着の複製を工房に依頼すれば、約束の120着はほぼ完成だ。

ここまでで二月半。

納期は既に過ぎていた。

しかし、初演には間に合った。

役柄上、着る機会の少ないその衣裳を最後に残した。

例え納期が多少遅れようともあまり影響はない。ヴィッキーは台本までチェックして、製作の順序を決めていたのだ。

初演は明日。

例えこの衣装の複製が数日遅れたとしても、初演は問題なく開幕できるし、替えがなくとも乗りきれる。

事前に座長とも打ち合わせを重ね、出した答えがそれだった。


「宜しくお願いしますだ!」


ディアナは得意先の工房を出ると、今一度、深々とお辞儀をした。

そして矢のように駆けた。

向かう先は【サロン・ド・メロ】。

その日もルチルはひとりで店に立っている。

ビルヒルの大通りを駆け、裏道に入った。

二月という短い間ではあったが、3人のブランドのお陰でこの通り自体の人通りは格段に増えていた。

人混みの間を縫うようにディアナは駆けた。

脇腹が痛くなり、呼吸も荒くなり、それでも駆けて、ディアナは店の前に辿り着いた。

肩で息をしながら、扉を開けた。

店内は、人で賑わっていた。


「を。ディアナ。」


カウンターの方からルチルの声が聞こえてきた。


「ルチル!」


お客さんの中を泳ぐように、ディアナはカウンターへと歩みを進めた。

目の前に座るルチルの顔も酷いものだった。

化粧で隠してはいるが、目の周りには大きなクマ。頬はやつれ、ヴィッキーと同じように痩せ細っていた。


「できた!できたべ!」


「そっか。やったね。」


「今、工房に渡してきたから、夕方また取りに行って、そのまま劇場に納品すれば、明日の初演には間に合うべ!」


「そっか、そっか。」


ルチルは力無げに頷くだけだった。


「ルチル?どうしたべ?」


「ううん。何でもない。」


「疲れたべか?」


「そんなことないよ。ただちょっと・・・。」


そこまで言うと、ディアナの頬に手を添えた。

ディアナは気が付いてない。

自分の顔が、元の顔からは想像が付かないくらいに痩けていることに。


「ごめん。」


「いいんだべ。決めたのは、オラだから。さ、ちょっとお昼でも食べてくるべ。その間はオラがお店を見ておくから。」


メリッサの着る服の増産は終わり、店にはたくさんの売れ筋が用意されていた。

店に客足が絶えることはなく、営業時間を短縮することも叶わなくなった。

素材を集め終えたルチルは、ひとりで朝から晩までほとんど休憩もなく店に立っていたのだ。休みも無く。


「ううん。ディアナの方こそちょっと寝て。」


「いいべ!オラはいいべ!」


と、ちょうどその時だった。


「私がお店、見ててあげようか?」


扉の方から声が聞こえてきた。


「きゃあぁー!!!」


と同時に、耳をつんざくほどの歓声が店中に響き渡った。

そこに立っていたのは、メリッサだった。

紫だった髪はオレンジ色に変わっており、服装は初めて店に来た時に着ていた奇抜な服だった。


「みなさーん、ここはお店ですよ!お静かにお願いしますねー。」


メリッサが手を挙げた。

するとどうだろう。先程まであれだけ騒いでいた女の子達が一瞬で静まったのだ。


「ご協力ありがとうございまーす。ちょっとですね、ここのお店の人達がお疲れみたいでして、皆さん、今日はお休みにさせてもらってもいいですか?その代わり、私が握手しちゃいますからねー。」


「きゃあぁー!!!」


メリッサはドアの脇に立つと、店から出ていく女の子ひとりひとりに、両手で包み込むように丁寧に握手をしていった。


「また来て下さいね。今日は本当にごめんなさいね。」


それぞれの目を見て、一言を添えて。

ディアナはその姿をポカンとした表情で眺めるだけだった。


 最後のお客さんを店の外に送り出してから、メリッサは扉を閉めた。


「はい。勝手に決めて申し訳ないんだけど、そーゆーことなんで今日はもうお休みですよ。」


にっこりと微笑み、カウンターまで歩いてきた。


「え、いや、あの、ありがとうございました?だべか?」


困惑した表情でディアナがルチルに振り返った。


「んー。まぁいいんじゃない?」


カウンターに頬杖を付き、ルチルが笑みを浮かべた。


「なんかさ、私のせいで皆さんがすんごい苦労してるって聞いてさ。何か力になれないかと思って。」


「ふぁ?私のせい?ってなんだべ?」


「え?ルチルさんから聞いてないの?」


メリッサが、ただでさえ大きな丸い目を更に大きく見開いた。


「何をだべ?ルチル?」


「あー、そー言えば言うの忘れてたかもぉー。」


「うっそぉー。本当に!?なんか、ごめんなさい。私のせいで。」


「ふぁ?ふぁ?なに?どーいうことだべ?」


「あのね、実はね、今回の舞台衣裳、あなた達にお願いすることになったのは、私の服装のせいなの。最初、座長は他のメゾンにお願いしに行って、私も看板女優として同行したんだけど、その時に私の服装がメゾンのデザイナーさんに嫌われちゃって、それで断られちゃったの。」


「ふぁ!?そんなことあるんだべか?」


「そう、気難しいの。他のメゾンを探してたんだけど、メンフィス中に私の噂が流れちゃったみたいでどこもダメで。

それで座長が怒っちゃって、私が服装を変えない限りは主演はさせない!って、それにもしこれで公演が頓挫したら、その損失の責任は私が取らないといけなくなっちゃったのよね。

それで、とりあえずメンフィス以外にメゾンないかなー?って探してたら、たまたまここを見付けたの。

後は、座長から説明あったと思うけど、座長があなた達のお洋服を気に入ったみたいで、お願いをしたってわけ。」


「そ、そうなんだべか。なんか最初の説明とはえらい違うべ。」


「だって嘘だもぉん。」


「なんで嘘ついたべ!?しかもどーでもいいとこで!」


「私、好きなものだけ着てればいいと思ってたんだけど、まさかこんなことになるとは思わなかった。あなた達が引き受けてくれなかったら、私、借金まみれになるところだったよ。本当にありがとうございます。」


言いながらメリッサは深々と頭を下げた。


「借金まみれって、本当にそんなことになるだべか?」


「うちの座長って怖いの。言ったことは本当にやるから。」


メリッサが口許を隠しながら小声で囁いた。


「だから、ルチル、強引に話を進めたんだべか?」


「んー、どうだったかなぁ?忘れたぁー。」


いつも通り、ヘラヘラと笑うルチル。

ディアナは何も言えなかった。

正直なところ、やはり、思っていた。

この状況を、ディアナが決断したとは言え、この状況を作ったのは、ルチルである、と。

思っていた。

心のどこかで責めていた。


「ルチル・・・。」


「っし。」


ディアナの唇の前にルチルが指を立てた。


「ヴィッキーに言われたでしょ?心の中、ね。」


ディアナは静かに頷いた。


「なんかいいね。」


それを見ていたメリッサがため息を漏らした。


「そう言えばさぁー、何しに来たのぉー?」


「あっ、そうだった。これを届けに来たんだった。」


言いながらデニムジャンパーのポケットから封筒を取り出した。

ディアナが封筒を開けると、そこに入っていたのは、


「明日、来て欲しいの。初演。」


舞台のチケットだった。


「そう。VIP席、私の奢り!」


「ふぁー!すごいべぇー!いいんだべか!?」


「だって私の恩人だもん。本当に助かったんだから。」


「ありがとうだべ!メリッサさん!」


「あー、私の友達はね、私のことそうは呼ばないの。皆ね、私のことはミサミサって呼ぶんだよ。だ、か、ら、ミサミサって呼んでね!」


まあるい大きな目を片方瞑り、ミサミサが微笑んだ。


「じゃあ私、明日の準備があるから帰るね。明日は夜の18時からだよ。うんっとお洒落して来てね!」


手を振ると、ミサミサは店を出ていった。

それを見送りながらルチルが呟いた。


「あいつ劇場行くなら、工房に寄らせて衣装持ってくように言えば良かったぁー。」





 ウエストにサッシュベルトを巻いた、ノースリーブのワンピース型。裾に切れ目が入っており、同色のレースが見え隠れする丈は膝上10cm。

暗いピンク色で、いつも通りにとても柔らかな印象を持たせつつも大人びたイメージを感じさせる、とてもディアナらしいドレスだった。


 濃紺のエンパイアラインのミニドレス。

チューブトップの胸元はそのメリハリのある体型を遺憾無く強調している。それでいてドレス自体に装飾はほとんどなくシンプルで、それを纏う本人の持ち味を一番に活かす。そして有り余るフェロモンを一番に活かす。ヴィッキーによく似合っていた。


 漆黒のシルクで作られたホルターネックのカクテルドレス。スカートの丈は長く、ボリュームも押さえられており、ルチルの背の高さとスタイルの良さを最大の魅力に変えている。

肩から手首まで薄い花柄のレースが袖を形作っており、ルチルにしては珍しく、その様相はセクシーと言えた。



3人の女が、劇場の前に立った。

それぞれが髪を綺麗に結い上げ、化粧を施し、今日行われる舞台に心踊らせているのが分かった。

ミサミサから受け取ったチケットを入り口で見せると、奥からタキシードに身を包んだ男が現れ、3人を上階へと誘った。

そこは一般の観客は入れない階層。

通常の観客席の上部に設置された、個室の客席が連なるフロアだった。


「ふぁー。すごいところだべなぁ。」


「あんた、貴族ならこういうところは来たことあるでしょ?」


「こんな大きな劇場はないべ。それに、貴族なのはお父さんとお母さんであって、オラはその子供ってだけだべ。」


「え?いまいち意味が分からないんだけど。」


「お父さんとお母さんは厳格な人で、貴族の子供だからって自分も貴族ぶるのは良しとしないんだべ。自分がそれ相応の威厳を身に付けたら名乗るようにって言われてたんだべ。」


「すごいご両親ね。」


タキシードの男に案内されたのは、椅子が4つ用意された、豪華なボックス席だった。


「ふぁー、すごい。よく見えるだなぁ。」


「そうね。この席ならオペラグラスも必要ないんじゃない?」


3人が椅子に腰を下ろして間もなく、舞台の幕が上がった。


演目は【創世記】。

遥か昔、ある国が興るまでの物語。

生まれながらの王として生を受けた少年と、その少年を導いた魔女が、いくつもの試練を乗り越えて大成していくまでを描いた叙事詩であり英雄譚だ。


ミサミサは魔女の役だった。

ディアナがデザインした魔女の衣裳は、従来の魔女のイメージとは大きくかけ離れたものだった。

空色の美しいドレス。まるで宗教画に描かれる女神のような姿で、ミサミサは舞台の上を練り歩く。

ディアナは何故、魔女の衣裳をこのようにデザインしたのだろう。

それはヴィッキーにもルチルにも分からない。

それでも、ディアナは迷うことなくこのデザインを描き上げた。

空色のドレスを纏うデザイン画の中の女性は、どことなくルチルに似ていた。

しかし、今舞台の上でドレスを纏うのは、ルチルに似ても似つかない女優。

それでもディアナの目には、ミサミサの顔にルチルの顔が重なっているのだろうか。

今も舞台を食い入るように見つめていた。



 観客から一斉に歓声が上がり、カーテンコールが始まった。

演者達が次々と壇上に現れると、観客に向かってお辞儀をしていく。

3人も一斉に立ち上がると、他の観客と同じく拍手を送った。

ディアナはふと、ルチルの顔に視線を向けた。


「・・・・ルチル。」


その言葉は歓声にかき消され、ルチルに届くことはなかった。

と、思った。




「いいお芝居だったわね。」


言いながらボックス席の戸を開けた。


「ほんと良かったべなぁ。ミサミサ、綺麗だったべぇ。あのドレスも似合っててよか・・・」


ヴィッキーに続き外に出ようとしたディアナが、ヴィッキーにぶつかった。


「うわ!突然止まって、どうした・・・べ?」


ヴィッキーの目の前にいた人物に目が止まった。

銀髪のアフロヘア。褐色の肌。

細く長い肢体を髪と同じ銀色に輝くタイトドレスに包んだ、背の高い女だった。

ルチルよりも背の高い、目の前に立ち尽くすヴィッキーよりも頭ひとつ分背の高い、

まるで、樹木のようなイメージを受ける女だった。


ディアナの胸元にヴィッキーの背中が触れる。

その背中が震えているのが、繋がった体から伝わってきた。


「ヴィッキー?」


ディアナがその名を呼んだのと同時だった。


「ヴィッキー?」


背の高い女が同じく、その名を呼んだ。


「す、スカー・・・・レット・・・。」


ヴィッキーの声が渇いていた。

ディアナの耳にも、もちろんその名前が届いた。

その瞬間、ディアナは顔をあげた。


「やっぱり来ていたのね。聞いているわ。この舞台衣裳はあなたの作品だそうね。」


スカーレットが一歩、ヴィッキーに近付いた。


「私が断った仕事をあなたが受けるなんて、面白いわ。」


また一歩、スカーレットがヴィッキーに近付いた。


「痩せたわね。」


更に一歩。

スカーレットの長身が、ヴィッキーの前に立ちはだかった。


「そう、その子がディアナ・メロなのね。」


スカーレットの視線がディアナを捉えた。


「戻りなさい。その才能では、あなたを活かすことはできないわ。世界は生み出せない。」


スカーレットの細い手が、ヴィッキーの頬を優しく撫でようとした。


その瞬間だった。



「なにしてんのぉー?」



その腕を、美しい掌が掴んだ。


ヴィッキーに触れる寸前のそのスカーレットの手首を、ルチルが横から掴んだのだ。


「どなたかしら?」


スカーレットがルチルと視線を絡ませた。

ルチルの黒い瞳が、深く、深く、漆黒に輝いていた。

スカーレットを飲み込むほどに。


「私、ルチル。」


「そう。手、離して下さらない?」


スカーレットを見上げたまま、目を逸らさず、ルチルは掌の力を抜いた。


「ルチルさん。あなたはヴィッキーの何かしら?」


「んー?何でもない。」


「そう。」


手首を逆の手で押さえながら、スカーレットが踵を返した。

数歩だけ進み、首だけで振り返った。


「あぁ、そうだったわ。ヴィッキー。あなたまだ、小切手を持ってきてないそうね。早くなさい。私の気が変わる前に。」


それだけを言い残すと、スカーレットは階段を降りていく。

その銀色に輝く髪が見えなくなった途端だった。

ヴィッキーが膝から崩れ落ちた。


「ヴィッキー!?」


ディアナはヴィッキーの小さな肩を強く掴んだ。


「大丈夫・・・大丈夫よ・・・。」


その額には大粒の汗がいくつも浮かんでいた。

ディアナの手に軽く手を添え、ヴィッキーが顔を上げた。


「ルチル。」


「なぁに?」


ルチルは大股を開いてヴィッキーの前にしゃがみ込んだ。


「1回しか言わないけどすぐに忘れなさいよ。」


「はぁーい。」


「ありがとう。」


言い終えるや否や、ルチルがヴィッキーの背中を掌で叩いた。


「いった!!」


湿った音がフロアに響き渡った。

その音に驚くように、フロアを歩いていたきらびやかな支度の人々がこちらを振り向いた。


「なにすんのよ!」


ヴィッキーが小声で怒鳴り散らした。


「無視した罰ねぇー。」


「悪かったわよ!だけどね、あんたもちゃんと説明しなさいよね!ほんとね、説明なしにあんな地獄みたいな生活させられんのもう嫌だかんね!」


「どぅへへぇー。私もぉー。」


鈴を鳴らすように、可愛らしい声でルチルが笑った。

そのあまりにも愛らしい笑い声に、思わずヴィッキーも、ディアナも、釣られて笑いがこみ上げてきた。


「ぶは!ぶはは!」

「たはは・・たはは!」


ここが劇場のVIPのみが集まる階層だということも忘れ、3人は座り込んだまま、腹の底から笑い声をあげた。




つづく。

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