第六話 オートクチュール②
「うわぁー!すごいべぇー!」
ディアナは思わず声を上げた。
目の前のトルソーが纏うのは、オレンジと青のマーメイドドレス。
それはディアナの思い描いたイメージ通り。
ピッタリと重なった。
「なんか、魔法みたいだべ。」
まるで魔法をかけて絵を本物のドレスにした。
そんな言葉もピッタリと重なった。
「恥ずかしいこと言うんじゃないわよ。」
2日間風呂にも入らず、脂ぎってボサボサの髪を掻き上げながら、ヴィッキーはアクビを噛み殺した。
「ひどい顔だねぇー。くっさいしぃ。」
「そう?」
ルチルの言葉を受け、ヴィッキーは脇の下に鼻を近付けた。
「うえっ!」
そのあまりにも強烈な臭いに、自分自身で吐き気をもよおしていた。
その姿にルチルは腹を抱えて笑った。
「ちょっとお風呂入ったら寝るわ。昼になったら起こしてね。」
言い残すと、ヴィッキーは重い足取りで仕事場を横切るとユニットバスの中へと消えていった。
「それにしても、本当にすごいんだねぇ。あの子。」
ルチルが、食い入るようにドレスに見入ったままのディアナの背中に声をかけた。
「うん。本当に、すごいべ。ひと針ひと針、こんな綺麗で、正確で、丈夫で。ラインの取り方だって、独特だけど、でもこの方法じゃなければこんな形にはならないし、発想とか、技術とか、全部全部、本当に、すごい。」
ルチルにはそこまでの知識はなかったが、それでも、ヴィッキーの繊細かつ力強い仕事ぶりが理解できた。
素人目にも分かる。
そんな仕事ぶり。
ディアナは後ろ手に手を組んだまま、ドレスの周りを行ったり来たり。
恐れ多くて触れられないのだろうか。
何度もぐるぐると回っては、長い時間、ヴィッキーの仕事を堪能していた。
気が付いた頃には、太陽は最も高い場所に辿り着いていた。
トルソーに着せたままのドレスに大きな布を被せると、3人は丁寧に手押しの小さな台車に乗せ、仕事場を後にした。
その日の3人は、3人とも同じような、黒ベースのシンプルなパンツスーツスタイル。
最後のフィッティングの際の微調整は、デザイナー本人が確認した上で行う。
ヴィッキーだけでなく、ディアナもルチルも屋敷に立ち入るため、3人とも仕事用の支度をしていた。
屋敷に着くと、すぐに先日と同じ若い執事が出迎えた。
屋敷の主人に挨拶を済ませてから、3人はドレスの主の部屋へと案内された。
台車からトルソーを下ろし、部屋の扉の前に立つ。
執事がノックをし、メイドが扉を開けた。
開け放たれた扉の先は、広い部屋だった。
豪華な調度品。
毛足の長い絨毯。
品の良い壁紙。
そして、その部屋の奥。
大きな窓の前に、女性が佇んでいた。
窓の外を眺めており、背中しか見えない。
背中まで伸ばした、細く赤い髪。
小柄で華奢な体。
白いオフショルダーのワンピース。
「あっ。」
思わずディアナは声を上げた。
その声に、少女が振り返った。
「ニーナ、ちゃん?」
少女はにっこりと微笑んだ。
「さぁ、ニーナや。お待ちかねのドレスだぞ。」
3人の脇から、主人が声をかけた。
ニーナは窓辺から離れると、静かに部屋の中央へと歩みを進めた。
「では、ハイセヘムスさん。娘をよろしくお願いします。」
ニーナの母親に促され、3人はニーナの部屋へとトルソーを運び入れた。
「着替えが済んだら呼んで下さい。」
言い残すと、夫婦は部屋を後にし、メイドが静かに扉を閉めようとした。
「ねぇ。」
そのメイドに向かって、ニーナは小さく呟くように声をかけた。
「この方々だけにして。」
「かしこまりました。部屋の外におりますので、ご用の際はお申し付け下さいませ。」
メイドは丁寧にお辞儀をすると、扉の外に出て、同じように静かに扉を閉めた。
「ニーナちゃん。」
ディアナはニーナの元へと小走りで駆け寄った。
「ディアナちゃん。また、会えたね。」
やはり呟くような小さな声。
その声が、この少女がニーナ本人なのだと伝えていた。
「びっくりしたべ。まさか、ニーナちゃんがオラのお客様だったとは思わなかったべ。」
「私も、ディアナちゃんが、デザイナーさんだって、知らなかった。」
「へぇー、この子だったのね。お芝居の子って。」
ディアナの脇に移動してくると、ヴィッキーが口を開いた。
「ハイセヘムスさん。ごきげんよう。」
「ごきげん麗しゅう。花嫁様。」
ヴィッキーは深々とお辞儀をして見せた。
その態度からは明らかに、ディアナに行ったニーナの無礼に対しての嫌みの意志が伺えた。
ニーナにもそれは伝わったらしい。
眉を下げ、それでもにっこりと笑って呟いた。
「お芝居のお金、ごめんなさい。お父様にお話しして、ドレスのお代金とご一緒に、お返しします。」
「そうして頂けると大変ありがたいですわ。」
「もう、ヴィッキーってば。」
ディアナの口調からは抗議の意図が汲み取れた。
「なによ。このくらいは許されてもいいでしょ?」
「やめてくんろ。ニーナちゃんも謝ってくれてるべ。」
「はいはいそうね。あたしが悪かったわ。じゃ、ニーナさん。始めましょうか。」
「はい。よろしくお願いします。」
深々とお辞儀をし、ニーナはワンピースのボタンをゆっくりと外していった。
マーメイドドレスを身に纏ったニーナは、美しかった。
まるで、本物の人魚姫のように。
「あぁ、ニーナ。本当に綺麗だわ。」
「うむ。これなら、ポウルセン卿にも満足して頂けるだろう。」
ニーナの両親は満足そうにニーナの姿を眺めていた。
「もっとよく見せて。」
ニーナは恥ずかしそうに目を伏せながら、両親の要望に応え、回って見せた。
「うむ。素晴らしい。実に素晴らしい。やはり私達の娘だな。」
「ええ。そうね。あなた。」
両親から称賛の声が漏れる度、ニーナは更に目を伏せた。
ディアナはその姿を、部屋の隅からじっと見つめていた。
「やったわね。前金と合わせて合計で60000Gよ。やっぱりあんたのデザインが効いたわね。」
屋敷からの帰り道、3人は横並びに通りを歩いていた。
ニーナの両親は娘のドレスをいたく気に入り、当初の予定よりも更に10000Gを上乗せして支払ってくれたのだった。
「実はですねぇー、製作費用の方もですねぇ、ちょぉっと上手いことやれたのでぇ、5000G程浮いちゃってるんですねぇー。」
「マジ?あの材料を半値で手に入れてきたの?あんた、マジでやばいわね。」
「どぅへへ。まぁねぇー。やれる時はやれる女だったりするからねぇー。」
「いや、やる女過ぎだわ。恐れ入るわよ。」
「ん?どしたー?」
ヴィッキーがルチルを見上げたその時ちょうど、ルチルが後ろを振り返った。
「え?」
それに釣られ、ヴィッキーも振り向いた。
ディアナだ。
ふたりから少し遅れて歩いていたディアナだったが、ふたりが気が付いた時には、完全にその足は止まっていた。
ふたりを見つめていた。
「ねぇ?」
ディアナが口を開いた。
「ねぇ、ニーナちゃん、なんであんな悲しそうな目をしてたんだべか?」
通りの真ん中に立ち尽くし、ディアナはふたりを見つめていた。
「そりゃあ・・・・あんた。」
ヴィッキーが髪を掻き上げた。
「そりゃ、政略結婚じゃ、やっぱり本心からは喜べないでしょうよ。」
「政略結婚?」
「ええ。そうよ。」
「そんな古いしきたり、まだあるんだべか?」
「ええ。そうね。あんた達、貴族の間じゃもう行われてないでしょうけどね。ああいう大きな商人達にはまだあるのよ。商売を大きくするためだったり、商売仇を懐柔するためだったり、ね。色々と複雑な事情が。」
ディアナの脳裏に、ニーナの言葉がよぎった。
『私、あんな恋、してみたい。』
夕焼けの空を見つめながら、ニーナが呟いた言葉だった。
「そうだか。そうなんだか。」
「そうよ。商売柄ね、あたしもよく見てきたわ。」
「・・・・・そうなんだか。」
今なら分かる。
ニーナの気持ちが。
きっともう、自分には恋をする機会はないって、ニーナは知っていたから。
ルカみたいな、燃えるような恋を。
どこの誰ともよく知らない相手と結婚をし、恋を知らずに生きていく。
きっとニーナは、知っていたから。
だから、きっと、最後に。
「だから、だからあんな悲しそうな目をしてたんだべな。」
俯くディアナの側に近寄ると、ヴィッキーは優しくその肩に手を置いた。
「きっと、そうかもしれないわね。」
突然ディアナが大通りにしゃがみ込んだ。
「っえ!?」
あまりにも唐突なその反応にヴィッキーは思わず声を上げた。
「ちょっと、どうしたの?気分でも悪いの?」
しかしその心配は完全なる的外れ。
ディアナは簡素なキャンバス地のトートバッグからスケッチブックと色鉛筆を取り出すと、石畳の地面に広げ、勢いよく絵を描き始めたのだ。
「嘘でしょ!?今、ここで!?」
「うわー、何か降りてきたかなぁ。」
道行く人々が好奇の目を向け、でも触れてはいけないものを見るように、そそくさと通り過ぎる。
そんなものは意にも介さずディアナの手は淀みなく鉛筆を動かす。
それは、ニーナだった。
赤い髪。白い肌。青い瞳。小柄で華奢な肢体。
そして、大きな、柔らかいラインが、その体を包み込んでいく。
赤と、白と、それから赤。
ふんわりと、でも、シャープに。
「あんた、まさか。」
ヴィッキーがそれをデザイン画だと気が付くまでに、ほとんど時間は掛からなかった。
「ダメだべ。あのドレスじゃダメなんだべ。」
ぶつぶつと呟きながら、ディアナは一心不乱にニーナに新しいドレスを着せていく。
ものの数分での出来事だった。
「できた!!」
ディアナは書き上げたスケッチブックを持ち上げると、ヴィッキーに向けて差し出した。
「これ・・・・・。」
ヴィッキーは言葉を失った。
「これだべ!これじゃないとダメなんだべ!」
「だって、でも、あんた、これ、でも、あんた。」
スケッチブックを持つヴィッキーの目が、珍しく狼狽えているのが分かった。
「・・・・・ダメだべか?」
「いや、ダメじゃない。ダメどころか・・・すごい・・・・殺意かわいい・・・わ。」
「じゃあ!」
「じゃあ、って、あんたね、これを、あんた、だって、明日までよ?明日が結婚式なのよ?これを、明日までって。」
「ダメだべか?」
ディアナが呟いた。
か細い、小さな、消え入りそうな声で。
そう、それはニーナがしたみたいな。
相手の心を鷲掴みにする、小さな呟き。
「っあぁー!!!」
ヴィッキーは思い切り首を振り上げると、宙に向かって叫び声を上げた。
突然のことに、通り過ぎる人々が逃げるように去っていった。
「いいわよ!分かったわよ!やってやろうじゃないの!!」
「本当だか!?」
「その代わり、あんた達にも手伝ってもらうわよ!」
「はいだべ!!」
ディアナが大きな声を張り上げた。
「ねぇ、ここの素材ってさ、これ、どんなイメージよ?」
「えっと、これは、」
「あぁ、なるほど。」
ふたりは地面にしゃがみ込み、スケッチブックに目を落としながら、あーでもないこーでもないと話し合い始めた。
ルチルはニヤニヤした笑顔を浮かべ、そんなふたりを眺めていた。
「ルチル。」
しばらくするとヴィッキーが振り返った。
「これ、手配お願いできる?」
素材のリストだった。
「おっけぇ。」
「悪いんだけど超速で頼むわ。」
「一時間後には持って帰るからねぇー。ちゃちゃっとパターン作っておいてねぇー。」
「一時間後って、その量を!?」
「楽勝。」
「恐れ入るわ。」
ルチルを見送り、ディアナとヴィッキーは家へと急いだ。
赤く、光沢のある、それでいて品の良い、最上級の絹。
その上を、ハサミが走る。
なめらかに、滑るように。
一片の繊維クズすら取りこぼさない程の手さばきで。
ディアナは初めて見る。
これが本気のヴィクトリアの技術。
それは、神の手の如し。
ヴィッキーの手の中で、形が作られていく。
みるみるうちに。
形を変え、繋ぎ止められ、次第に膨らみを増し、
いつのまにかそれはニーナの体つきになる。
そして、
「さぁ、ここからが本番よ。ディアナ。」
「はいだべ。」
「あんたがやるの。この形、この雰囲気、きっと、あんたにしか作れない。」
「えっ!?」
「その間にあたしはドレスの本縫いに入っておくわ。」
「でも!でも!でも!」
「何度も言わせないの。自信、持ちなさい。」
「わかったべ!」
ヴィッキーの作ったパターンに沿って切り分けた絹を手に取ると、ディアナは目を閉じた。
形が、浮かぶ。
ディアナは思う。
それはきっと、この布が持って生まれてくるべき本当の姿。
ディアナはそれを元に戻してあげるだけ。
彫刻家が、石の中に内包された作品を取り出すように、
ディアナはその布達を、元の姿に戻してあげるだけ。
ディアナの手が動いた。
赤い絹が、あるべき姿を取り戻す時を迎えたのだった。
「できたぁー!!」
ディアナが声を上げた。
「来たわね。」
ヴィッキーが髪を掻き上げた。
「うわぁ。・・・・・綺麗。」
ルチルが感嘆の声を漏らした。
3人は、ドレスの前に座り込み、その神々しいまでの輝きに魅入られていた。
それは、ニーナのためにこしらえられた、ディアナの想いが込められた、世界でたったひとつ。
ニーナのための、ニーナのドレス。
「今、何時?」
「13時。」
「式は?」
「12時から。」
「行きましょう。」
3人は、大事そうにトルソーを抱えると、納屋を飛び出した。
「そっとよ!そっと、丁寧に運ぶのよ!」
「うん!」
「でも急ぐのよ!」
「うん!」
「転ばないようにねぇ!」
「うん!」
「間に合うかしら!?」
「間に合うよぉ!きっと!」
「ニーナ。ニーナ。」
「信じましょう!きっと、待っててくれるわ!」
「ディアナのこと、このドレスのこと、待ってくれてるからぁ!」
3人は走った。
ディンドーン!
ディンドーン!
ディンドーン!
鐘が鳴った。
今、この時、新たな夫婦の誕生を、
皆に知らせる。
ビルヒルの中心に佇む、古式ゆかしい教会の鐘が、街中に鳴り響いた。
「・・・はっ!・・・はっ!」
「・・っ!・・・っぐ!」
「あそこの教会だよぉー!」
「・・・オラ!・・・息が!」
「喋らないのぉ!」
「・・・あんた・・・息も切れないって・・・おかしくない?」
「だから、喋らないのぉ!」
ニーナの屋敷がある大通り。
その先にある大きな教会。
大きな扉は目の前だ。
息も絶え絶えだ。
それでも、ディアナは、ヴィッキーは、
まったく息も切らさずにルチルは、走った。
教会の扉の前。
ふたりの男が、ディアナ達の行く手を遮った。
「今は式の最中です!招待状をお持ちでない方はお通しできません!」
「招待状なんてないべぇー!」
「あたし達、ニーナにこれを届けに来たの!お願いだから通して!」
「できません!」
「ちょっとお兄さん達ぃー。空気読んでくれないとさぁー、私、本気になっちゃうけどいいー?」
「え!?いや、え!?そんな、脅してもダメです!」
固く閉ざされた扉の前で押し問答が繰り返される。
ディンドーン!
ディンドーン!
ディンドーン!
2度目の鐘が鳴る。
誓いのキスの時だ。
「あぁー!間に合わなかったべぇー!」
ディアナが泣き声を上げた、その時だった。
「騒がしいですが、どうしたのです?」
扉が小さく開き、中から顔を出したのは、あの若い執事だった。
「申し訳ありません、クローゼさん。この方々が中に入れろと・・・」
「あっ!執事さん!あたしよ!」
ヴィッキーが警備の言葉を遮って、執事に掴みかかった。
「ハイセヘムス様?」
驚きの表情を浮かべる執事。
しかし、ディアナとルチルが大事そうに抱えるドレスに気が付いた瞬間、状況を理解した様子だった。
「分かりました。裏口へご案内致します。」
執事は扉から滑り出ると、3人を教会の裏手へと先導した。
「ねぇ、間に合った?」
「いえ、誓いのくちづけはもう済んでしまわれました。」
「っええ!?そんな!」
「ですが、式の最後に教会の前でお披露目とブーケトスが行われます。その際にもお色直しをなさいますので、きっと、その際に。」
「ありがとう。あなたが優しい人で助かったわ。」
「いいえ。」
執事が歩きながら振り返った。
「とても、素敵です。」
ルチルだけには分かった。
ヴィッキーの長い髪の毛の生え際が、ほんの少しだけ逆立ったのが。
純白のウエディングドレスに身を包んだニーナが、花嫁の控え室に戻ってきた。
薄く透けたヴェールでその美しい顔は隠されていたが、ヴェールではその悲しみに包まれた心までは隠せなかった。
ブライズメイドが控え室の扉を開けた。
「あ。」
その瞬間、ニーナは声を漏らした。
控え室の真ん中には、初めて見るドレスが置かれていた。
深紅の絹の、プリンセスラインドレス。
大きく膨れたボリュームのあるスカートには、腰回りから膝にかけてギャザーで形どられた大きな薔薇が彩る。
しかし、それだけではない。
スカート自体が渦のように斜めにフレアを巻き、大きくふんわりと広がり、
それはまるで、
「薔薇の、お花。」
ドレスそのものが、1輪の薔薇の花のように、華やかで、それでいて凛とした表情で、
ニーナと出逢うのを、待ちわびていたのだ。
「ニーナちゃん。」
ドレスの後ろからディアナが顔を覗かせた。
「ディアナ、ちゃん。」
ニーナがディアナの側に歩み寄ってきた。
「間に合って良かったべ。これ、これ、これを、着て欲しいべ。」
「ディアナちゃん。このドレス。」
「ニーナちゃんのために、作ったべ。」
ディアナはニーナの手を取ると、強く握り締めた。
「すごい、綺麗。ルカ、みたい。」
「ニーナちゃん。ニーナちゃんは、ルカではねぇべ。ニーナちゃんの人生はニーナちゃんだけのものだべ。
だから、だから・・・オラ、上手く言えねぇんだけど・・・・・。」
上手く言葉を紡ぎ出せないまま口を閉じたディアナの首筋に、ニーナが強く抱きついた。
「ううん!いいの!言わなくて、いいの!」
今度は呟くような声じゃなかった。
大きく、はっきりと。
ニーナはディアナに話しかけた。
「ありがとう。ありがとう!ディアナちゃん!ありがとう!」
その声はいつものニーナからは想像もできない程に、力強いものだった。
「ディアナちゃんのお陰で、私、前を向ける。私、頑張れる。自分のこと、新しい未来のこと、好きになれる。」
「ニーナちゃん。結婚、おめでとう。」
ディアナもニーナをきつく抱き締めた。
深紅の薔薇から生まれた妖精。
ニーナがブーケを投げた。
これを受け取った人は、次に幸せになる人。
でも、一番幸せなのは、今は、ニーナであって欲しい。
ブーケが宙を舞った。
青く澄み渡る空と、高く輝く太陽の中を。
ベッドに入ると、ディアナは目を閉じた。
何故だろう。
徹夜をしてドレスを仕上げた後なのに、ひとつも眠くないのは。
「ねぇ、ディアナ。」
カーテンの向こう側から、ヴィッキーの声がした。
どうやらヴィッキーも眠れないみたいだ。
「あんた今日、初めてオートクチュールを作ったのよ。」
「え?」
「オートクチュールってね、今年はこんなデザインをベース展開するってメゾンが決めて、それを顧客ごとにアレンジするもの。って思わない?」
「うん。」
「でもね、本物のオートクチュールって、その人の顔を見て、その人のためだけにデザインするものだって、そう思うの。」
「うん。」
「ニーナの顔。あんたの顔。ああ、これが本当のオートクチュールなんだって、あたし思ったわ。」
「うん。」
「今日のこと、一生忘れないかも。」
「オラも、忘れない。」
ヴィッキーが寝返りをうった。
毛布を頭から被り、体を丸めた。
ここはベッドの上。
誰も見てはいない。
だけど、ヴィッキーは毛布の中に隠れるようにして丸くなった。
思い出していたからだ。
思い出している自分を、誰かに見られたくなかったから。
(やっぱり、スカーレットも本物のデザイナーだったんだ。)
「ヴィッキー?」
「なに?」
「これからもオラのこと、助けてくれるだか?」
「当たり前よ。あんたも、あたしのこと助けてくれればね。」
「ヴィッキー?」
「なによ。」
「恐いと思って、ごめんなさい。」
「そーゆーのは心に閉まっときなさい。さ、寝るわよ。おやすみ。」
「おやすみなさい。」
そんなふたりの会話を聞きながら、ルチルは心地よい眠りに誘われていった。
つづく。