第六話 オートクチュール①
ある晴れた日の昼下がりのことだった。
ディアナとルチルはカフェにいた。
その日のディアナは、いつも通りの緩く大きな三つ編み。
ベージュのゆったりとしたオフタートルネックのニットに、ふんわりとした膝丈の白いレースのフレアスカート。足元はいつものオックスフォード。いつもながらの柔らかな愛らしい出で立ち。
ルチルの方はと言うと、白いピッタリとしたカットソーの上にヴィッキーに借りた黒革製のシングルジャケットを羽織っている。
立てた襟をファスナーで前合わせにする独特なデザインだ。
スカートはディアナにリメイクしてもらったお気に入りの花柄で、珍しく出した素足の先には白い編み上げブーツ。
ふたりは通りに面したテラス席に腰掛け、少し早めのおやつに興じていた。
砂糖たっぷりのオールドファッションドーナツを頬張るディアナの顔は今にもとろけそうだ。
そんなディアナを眩しそうに眺めながら、ルチルはイカリ豆の皮を剥いては口に放り込んでいた。
「ディアナはほんっと、美味しそうに食べるねぇ。」
「美味しいべ!ほっぺ落ちるべ!ルチルのそのお豆はなんだべ?美味しいべか?」
「イカリ豆最強。」
「ほぇー。1個くんろ。」
「やだ。」
「なんでだべ!!」
「おっ。出てきたねぇ。」
ルチルが通りを挟んで向かいにある屋敷の門に視線を移した。
ビルヒル区の一角。
メンフィスまでは届かないが、各国の豪商達が居を構える高級住宅地だ。
ヴィッキーが執事らしき若い男性に伴われ、門を出るところだった。
いつも通りにピッタリとした黒いスキニーパンツに、シンプルな白いブラウス。
その上に黒いタイトなテイラージャケット。
足元は普段よりも随分とヒールの低い、歩きやすそうなパンプス。
アクセサリーも、シルバーのリングピアスのみ。
仕事用の服装なのだろう。
彼女にしてはかなりシンプルなコーディネートだった。
「お待たせ。」
手を振り、左右を確認しながら通りを横切る。
「首尾はぁー?」
「なによ、首尾って。泥棒みたいじゃない。」
「どぅへへ!それ、イメージね!」
ふたりの掛けるテーブルにつくと、手に持っていた封筒から紙を取り出した。
「とりあえずは予測通り、仕事を貰えたわ。やっぱり近々、婚姻の儀が執り行われるみたいね。」
「結婚式かぁー。いいだなぁー。」
「良いタイミングだったわね。」
ヴィッキーの縫製に惚れ込む顧客は、本人の談の通りに少なくはなかった。
顧客達の情報を調べあげ、何かしらの儀式を迎える予定の顧客に営業を仕掛ける。
メンフィスのメゾンではまずやらない方法ではあるが、その効果は思いの外に高いものだった。
「結婚式って今週末でしょぉー?よく注文してもらえたねぇ。」
「ほんと、驚きよね。もう他のメゾンでドレスは注文してるらしいんだけど、お色直し用のドレスをもう一着、増やしたいって言ってもらえたわ。」
「流石はヴィッキーだべ。普通はできないべ。」
「ありがたいことよね。んでね、とりあえず前金で25000。制作費に10000、預かってきたわ。残りは25000なんだけど、現物を見てから色を付けることも考えてくれるって。」
「わぉ。すんごぉい。」
「それで、どっちにするんだべか?」
ディアナが封筒から2枚のデザイン画を取り出した。
1枚は、ピンク色のオーソドックスなプリンセスドレス。しかし、胸元の意匠やスカートのプリーツの取り方にはディアナの感性がふんだんに盛り込まれている。
もう1枚は、足元に向けてオレンジから青へとグラデーションしていくマーメイドドレス。光沢のある生地をベースに、シースルーのレースが二重に被せられた、斬新なデザインだ。
「今回はマーメイドにするそうよ。」
「やっぱりだべなぁー。オラもこっちが好きだぁー。」
デザイン画を手に取ると、ディアナは顔をほころばせた。
「このマーメイドは本当に素敵よ。あたしも早く作りたくてうずうずしてるわ。」
「オラのお洋服、初めてヴィッキーに作ってもらう・・・・。オラ、オラ、鼻血出そうだべ。」
すかさずルチルがポケットからちり紙を取り出すと、無言でディアナの口元に擦り付けた。
「あんた、もう出てるじゃない。」
思わずヴィッキーも苦笑いを浮かべていた。
「さて、じゃあまずはギルドでマテリアルを手配しないとね。」
「納期はぁー?」
「式の前日よ。」
「3日かぁー。随分とタイトスケジュールだねぇ。」
「飛び込みだから仕方ないわよ。でも、ま、見てなさい。3日あれば完璧に仕上げてあげるわよ。そのためにさっき採寸も済ませてきたから、いつでも作り始められるわ。」
「んじゃ、私がギルドに行ってくるねぇ。リストちょーだい。」
「そりゃ助かるわ。その間にあたしはパターン起こせるもの。」
「だと思いましてぇー。」
「じゃ、これ、リストね。念のため、ディアナも一緒に行って。イメージと違う場合は変更して欲しいの。」
「そんな!オラ、ヴィッキーのイメージした素材ならなんでもいいべ!」
「デザイナーはあんたよ。あんたのイメージが最優先!」
「そ、そーだべか?なんか、恐れ多いべ。」
「自信持ちなさい。あんたのデザインはね、最高よ。」
「ひゃぁー!!」
鼻に突っ込んだちり紙を勢いよく吹き飛ばし、ディアナが悲鳴を上げた。
「ねぇねぇ、お姉さん。これに書いてある素材、サンプルあったら見せて下さいなぁ。」
そう言いながらルチルは売り子の女にリストを手渡した。
基本的にルチルは素材の良し悪しを見分ける審美眼は持ち合わせてない。
それはもちろんディアナの仕事だ。
ルチルの仕事は、ディアナの決めた素材を可能な限りお安く手に入れること。
売り子がいくつかのサンプルを手に戻ると、ディアナはゆっくりとそれらを吟味する。
「この織り方はあんまし好きくないべなぁ。こっちなら綺麗に形が出そうだべ。それから、こっちの生地は少し薄すぎるべ。もう少し厚みのあるやつ、無いべか?」
サンプルを順番に手に取りつつ、次から次と品質を見定めいく。
いくらファッションに精通しているとは言え、流石は貴族の出だ。
こうも一瞬で質とその特徴を判断し、形を当てはめられるのは、やはりその出自から来る経験値の高さであることが伺い知れる。
ディアナが指定の全てのサンプルに目を通し、いくつかを別の品と差し替え終わった後、ここからがルチルの出番だ。
「んで、お姉さん。この布と、こっちをこの長さ欲しいんですけどぉー、ものはそうだんなんですけどねぇー?」
ディアナの範疇からは遠く離れた世界での出来事が目の前で展開されるのだ。
もちろん、ディアナの出る幕はない。
店の外に出ると、ギルド内の通路に常設されているベンチに腰掛け、暇そうにその様子を眺めるだけだ。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
はっきりと言ってしまえば、ぼーっとしていたから時間の流れを早く感じただけで、そこまでの時間は経っていない。
にも関わらず、ディアナは既に暇を持て余していた。
彼女の体内時計では既に小一時間は経過していたのだ。
(一体いつまで掛かるんだべなぁー。)
ふと、思い付いた。
(そー言えば今日はオラのお夕飯当番の日だったべ。)
それは、あまりにも冴えたアイディアだった。
彼女の中では、だが。
(そうだべ。オラ、先にお夕飯の材料を買っておくべ。そしたらルチルが終わったらすぐに帰れるべ。)
ポーチの中を確認すると、今週の食事当番用に持たされていたお金。
こんな金を彼女に持たせるべきではない。
(よし!出陣だべぇー!)
ディアナが決断するのに時間は要らなかった。意気揚々と仕立て屋ギルドを後にすると、午後の街へとくり出していったのだった。
「お待たせぇー。いやぁーあのお姉さんなかなかやり手でさぁー、今度会ったら懐柔しとくかなぁー。色々と利用かち、いや、協力してもらえそうだしぃー。」
幾本もの布地の束を抱えたルチルが店から出てきたのは、ほぼほぼディアナと入れ替わりと言ってよいタイミングだった。が。
「ちょっと重いから手伝ってぇー。って、」
そのベンチに座っているはずの少女の姿は、無い。
「はにゃにゃ?」
案の定、ディアナが立ち止まったのは、クレープ屋の前だった。
ギルドを出るとその目と鼻の先に店を構える、クレープの屋台に目を奪われたのだ。
あまりにも早かった。
(美味しそうだべぇー。)
彼女は甘いものに目がない。
それだけだ。
悪気はない。
(どーしよ。4Gだか。このくらいなら、このくらいなら。)
普通の人間なら迷わないだろう。
しかしディアナという少女は、人並み外れて抑えの効かない、というよりはあまり抑えようとも思っていない、そんな少女だ。
「すいません!バナナとチョコと生クリームと、あとバニラアイスも乗せて、オラにクレープを作って頂いても宜しいですね!?宜しければ作って下さいべ!」
そしてまたしても決断は早かった。
(オラのお夕飯を少し減らせばいいだけだべ。)
無論、そんなことにはならない。
どちらかと言えば減るのは燃費の良いルチルの食事量。
「はい、お待ちどうさま。」
店主の若い女からクレープを受け取ると、ディアナは早速、屋台の脇のベンチに腰掛けた。
「いただきまぁーっす。」
皮から中身が豪快にはみ出たボリューミーなクレープにかじり、
「美味しそう。」
つくその瞬間だった。
小さな、本当に小さな声が、ディアナの至福の時間を遮った。
「ふぁ?」
目の前に立っていたのは、少女だった。
年の頃はディアナとほぼ変わらないだろう。
白い肌。長く伸びた細い赤毛。
目鼻立ちがはっきりとした、彫りの深い造形。
その顔立ちはとても美しかった。
白いつば広のハットを被り、同じく真っ白い膝丈のオフショルダーのワンピースを纏っている。
ヴィッキーよりは大きいが、華奢な体つきの小柄な少女だった。
目が合った。
「美味しそう。」
少女は再び、囁くような小さな声を発した。
「ふぁ?」
かぶりつかんと大きく口を開いたまま、ディアナは少女と視線を絡め、そして固まった。
「美味しそう。」
3度目。
少女が呟いた。
ディアナは無言でクレープから口を離すと、その甘いご馳走を指で指し示した。
その仕草からは、これですか?という質問の意図が見てとれた。
コクリ。
今度は無言で、少女はただ頷くだけだった。
ディアナは迷った。
先程までの素早い決断力はすっかりと鳴りを潜め、迷いに迷った。
全くもって面識の無い相手だ。
その少女に、自らが口をつけてもいないこのクレープを差し出すべきか否か。
楽観的な少女であるディアナがここまで迷ったのは人生でも初めてかもしれない。
それ程までに迷った。
迷った上で、下された決断。
「た、食べるだか?」
クレープを差し出した。
目を瞑り、顔を背け、眉間にシワを寄せて。
「うん。」
少女の声が聞こえた。
少し離れた場所から。
「いちごチョコスペシャル。」
恐る恐る目を開けるディアナ。
少女はディアナのクレープには目もくれず、屋台の前に立っていた。
ディアナは胸を撫で下ろしていた。
まさか自分の最高の楽しみを自ら差し出さなくてはならないとは、これ程までの悲劇があるだろうか。
少女の後ろ姿に一瞥をくれ、再びクレープにかじりつかんと大きく口を開けた。
「4Gだよ。」
「・・・・・。」
「4Gだよ。」
バナナとチョコ、バニラと生クリーム。
その極上のハーモニーを楽しむディアナ。
「ちょっと?」
店主の声が聞こえた。
その声に、ディアナが顔を上げた。
屋台の前に佇む少女が、指差していた。
ディアナを。
「っふぁあー!?」
この時、今夜のヴィッキーの晩酌も無くなったのだった。
「美味しい。」
ディアナの隣に座り、少女はクレープを啄むように口に運び、その度に呟いていた。
「なんでオラが・・・。」
ディアナは半泣きになりながら、同じくクレープを啄んだ。
「だって、食べる?って、言ってくれたから。」
「そーゆー意味じゃないべさ。普通に考えてそうじゃないべさ。」
「私、ニーナ。」
「ふぁ?」
「名前、教えて。」
「オ、オラ、ディアナだべ。」
「ディアナ、ちゃん。」
ニーナと名乗った少女が小さく呟いた。
複雑な想いでクレープを食べきると、ディアナは素早く立ち上がった。
早く買い出しを済ませてギルドに戻らなくてはならない。
それに、少し気味が悪い。
未だにいちごチョコスペシャルを啄む少女に軽く会釈をすると、ディアナは足早にその場を立ち去、
「どこ、行くの?」
ろうとした時だった。
ニーナがまた呟いた。
「お夕飯の買い出しだべ。早くしないと叱られちまうだから、バイバイだべ。」
「私も、行く。」
ニーナが立ち上がった。
「ふぁ!?」
「私、手伝う。」
「いや、いいべ!お手伝いは必要ないべ!」
あまりにも唐突な発言に、ディアナは全力で狼狽していた。
どういうことだろう?
頭の中がグルグルと回っていた。
「大丈夫。私、力持ちだから。」
「そうは見えないべ!」
いよいよディアナは怖くなり、足早にその場を後にしたが、
「待って。」
残念なことにニーナはディアナにピッタリとくっついて来たのだった。
(ひゃぁー。どうするべー。なんか変な子に捕まってしまったべぇー。どーしよー。早いとこ巻かないと、どーなってまうか分からねぇべぇー。)
クレープを啄みながら、ニーナはディアナに付き従う。
人混みの中を一生懸命に縫うように歩いても、それでもピッタリと付き従う。
まるでムカデ競争でもしているかのように、歩幅すら合わせて、ディアナの後についてくるのだ。
それなりには気の長いディアナだが、これには辟易していた。
しばらく街中を行ったり来たりしたがどうにも離れないニーナに、ディアナの怒りはついに頂点を迎えた。
振り返り、ニーナに詰め寄ろうとした、
「ちょっと、どーいうつもり・・・・・。」
その時だった。
「見て。」
ニーナがすっと手を上げて、何かを指差した。
「っふぁー!?」
あまりのマイペースっぷりに、遂にディアナは頭を抱えて声を上げた。
「ほら。」
しかし、そんなディアナのリアクションに構う様子もなく、ニーナは何かを見上げていた。
それは劇場だった。
大きな、とても大きな3階層建ての劇場だった。
他の建物と同じく白亜の石造りには変わりないが、一際目を引くのが、入り口の上に掲げられた大きな1枚の看板。
演者や制作者の名前が連ねられるだけではない。
通りすがる人がそれを見て、興味を惹かれるように、とても美しい絵が描かれる。
ニーナが見上げていたのはその看板だった。
【メリッサ・エトオ主演】
【ファーストキス】
看板に一際大きく描かれていたのは、薔薇の花に囲まれて佇むそれはそれは美しい女性と、その女性のものと思しき名前。
そしてお芝居の名前だった。
「これ、私、小さい頃、観た。」
ニーナが呟いた。
誰にともなくにも見えなくはないが、それは明らかにディアナに向けての言葉だと、ディアナは理解した。
「ファーストキス?昔から人気のお芝居だべな。」
「ディアナちゃん、知ってる?」
「ううん。オラ、名前だけだべ。観たことはないべ。」
ニーナが視線をディアナに戻した。
「とても、素敵。」
「どんなお話しなんだべ?」
「あのね、この女の人はね、ルカ。毎日、その日あったことを忘れてしまう病気なの。それでもね、毎日楽しく生活してたの。毎日、毎日、同じ日を、楽しく。
ある時ね、男の人がね、ルカに出会うの。
男の人は、ダン。画家なの。ダンはね、ルカのこと、一目で好きになってしまうの。
ルカもダンを好きになるの。
でもね、次の日、ダンがルカに会いに行くと、ルカはダンのことを忘れてしまってたの。
ダンは、ルカのお父さんから、ルカの病気のことを聞いて、諦めるように言われるの。
それでも、ダンは、ルカのこと、忘れられなかったの。
だからね、ダンはね、毎日、ルカに会いに行くの。ルカは毎日忘れているけど、毎日、毎日、ルカのこと、好きだって、会いに行くの。
ある日、ダンは、ルカに、その日あったこと、絵に描いて、ルカに渡すの。薔薇の花と一緒に。
ルカは次の日、ダンの描いてくれた絵を見て、自分の知らない毎日が、それでもあるって気が付くの。
だから、ルカは、ダンのこと、本当に好きになるの。
それから、ダンは毎日ルカに絵を渡して、ルカも、毎日、その日あったこと、日記に書き残すの。
ルカが、ダンのこと、忘れないために。
でもね、ふたりにもお別れの時がくるの。
ダンは、ルカと会って、ルカとの毎日の絵しか描かなくなって、自分の好きな絵を、描かなくなってしまったの。
ルカは、それを知って、悲しくなるの。
だから、ルカは、ダンのために、お別れをすることを決めるの。
ダンも、ルカの気持ちを知って、お別れするの。
それから、ルカは病気を治すために、日記を書いて過ごすんだけど、どうしても、気になることがあるの。
薔薇の花の香りを感じる度、知らない男の人のことが、心に浮かぶの。
何故なのか、ルカには分からなかったの。
でも、毎日、毎日、薔薇の花の香りを感じるの。
ある時、ルカは、薔薇園に行くの。
そしたらね、いたの。
薔薇の絵を描いてる、男の人が。
ルカは、呼んだの。
ダン、って。
ルカの心の中に、ずっとずっと、ダンは、いたんだね。
そして、ふたりは、薔薇園で、誓いのキスをするの。
ファーストキスを。
おしまい。」
「ふえぇー。すんげぇ良いお話しなんだべなぁー。」
相変わらず呟くような、小さな声だった。
だったが、それでも、ニーナは語った。
子供の頃に観たそのお芝居が、ニーナの心にどれだけ響いたのか、その小さな声の中にも、十分に伝わってくるものがあった。
「ニーナちゃんはこのお芝居、本当に好きなんだべなぁ。」
ディアナは感心するように言った。
その言葉に、ニーナの頬が紅くなるのを感じた。
「私、観たいな。」
ニーナが呟いた。
「そうだべなぁ。そんなに好きなら、また観たいだべなぁ。」
ディアナも頷いた。
「私、観たいな。」
「お父さんかお母さんに連れてきてもらったらいいべ。」
「私、観たいな。」
「うんうん。そんなに良い思い出なんだか・・・・っ!?」
そこで初めて、ディアナはニーナの視線に気が付いた。
(ま、まさか、まさかまさかまさか!?この、子猫のよーな視線は、まさかまさかまさまさか!)
ニーナの大きな青い瞳は、ウルウルと輝いていた。
何かを訴えかけるように。
ディアナは勢いよく劇場の壁に首を向けた。
(20ゴォールドォー!?20!?オラのお夕飯予算の1回分だべぇー!!)
恐る恐る、視線をニーナに戻した。
その瞳は更に輝きを増し、ディアナを凝視していたのだ。
(やぁっぱりぃー!!)
「いや、ほら。オラ達、まだ出会ったばかりだし。ほら、やっぱりそーゆーの、良くないかなぁ?と。ほら。」
「私、観たいな。」
(ふあぁー!!??引く気ゼロぉー!!!)
ディアナのポーチには、今週分、2回の夕食当番代の50Gが入っている。
しかし、先程クレープを食したため、残りは42G。
20Gなど、到底払える金額ではない。
ディアナは考えた。
考えに考えた。
どうしたらこの場から逃げ出せるだろうか。
この、途方もなく非常識な状況から。
ディアナは考えた。
考えた末、
「私、観たいな。」
「ずびまぜん。大人1枚下ざい。」
完膚なきまでに、負けた。
「・・・・・・私、観たいな。」
(ふぁ!?どーいうことだべ!?)
ニーナの発言に、ディアナは驚きを隠せなかった。
この見ず知らずの少女に、ディアナは仲間の食事代すら削って芝居の切符を買い与えたのだ。
それがどうだ?
更に何かを訴えかける子猫の瞳。
ディアナには理解不能。
もはや何がどうなっているのかも分からなかった。
次の台詞を聞くまでは。
「ディアナちゃんと、私、観たいな。」
(っふぁあー!?よぉんじゅうごぉーるどぉー!!!!!!)
「いや、いや、いや、いや。オラは、オラはいいべ。さっきニーナちゃんにあらすじも聞いたから、もう満足だべ。とっても楽しかったべ。だから、オラは、見なくても、いい、かなぁー?なんて・・・・・。」
「私、観たいな。」
「ずびまぜん。切符を、切符を2枚下ざいだべぇー・・・できれば少女価格で、2枚売って下ざいぃー。」
それは、圧倒的な敗北だった。
「・・・・ルカ。」
「あなたは、誰?私を知っているの?」
「いや、僕はただの画家さ。ここで絵を書いている、ただの画家。」
「いいえ。私は、あなたを、知っている。何故だか分からないけど、あなたを、知っている。」
「違うよ。君と僕は、今日、初めて出会うんだ。きっと・・・・他人のそら似さ。」
「いいえ!知っている!知っているわ!
あなたは、
あなたは、
あなたの名前は、ダン!」
「・・・・ルカ。もう絶対に、君を、放さない。」
「ダン。私も、あなたと、放れない。」
ふたりはキスを交わした。
薔薇の咲き誇る園で。
初めてのキス。
ふたりは、永遠の愛を誓いあったのでした。
幕が下りる。
その瞬間、観客は総員立ち上がり、溢れんばかりの拍手を送った。
誰もが涙を流し、それでも笑顔で。
ふたりの愛を祝福したのだった。
「うあああぁぁぁぁぁーーーん!!よかったべぇー!!!よかったべぇーーー!!!ほんっとうに、よかったべぇーーー!!!」
ディアナもまた立ち上がると、拍手を送った。
鼻水と涙でぐしゃぐしゃになりながら。
ニーナはその隣で、にっこりと微笑んで拍手を送っていた。
再び幕が上がる。
拍手の嵐の中、メリッサ・エトオと主演の男性、そして演者達が次々と壇上に現れ、観客達に挨拶を送る。
その間も、ディアナはずっとずぅーっと泣きっぱなしだった。
だからだと思う。
ニーナが微笑んでいたのは、そんなディアナの横顔を見ていたからだってことに、気が付かなったのは。
「すんごい。すんごい。すんごい、良かったべぇー。ふたりがまた出会えて、本当に良かったべぇー。」
未だにグズグズ言いながら、公園のベンチでディアナは泣いていた。
どうやらそれほどまでに、あのお芝居はディアナの心に響いたのだろう。
その隣に腰掛け、ニーナは夕焼けに染まる空を眺めた。
「私、あんな恋、してみたい。」
「オラもだぁー。オラもしてぇだぁー。」
「ディアナちゃんなら、きっと、できるよ。」
「ニーナもだべぇー。」
「うん。」
ニーナが立ち上がった。
「もう、帰らなくちゃ。」
ディアナは顔を上げて、ニーナを見上げた。
夕日がニーナの横顔を照らしていた。
「ディアナちゃんと知り合えて、良かった。」
「オラもだべ。」
「ありがとう。お金、ごめんね。」
「ううん。いいんだべ。」
「ありがとう。じゃあ、私、帰るね。」
呟くとニーナはベンチから離れ、ひとり、夕焼けに向かって歩き始めた。
「ね!ニーナちゃん!」
ディアナが声を張り上げた。
ニーナは振り返った。
「また、会えるだか?」
ニーナはにっこりと微笑むと、手を振っただけだった。
夕日も家に帰る。
日が沈む間際の一瞬の閃光を放ち、ディアナを紫色の夜の入り口が包み込んだ。
その閃光に思わず目を閉じ、再び目を開いた。
気が付くと、ニーナの姿はまるで消え去るように、夕闇の中に消えて無くなっていた。
「っあー。やっと帰ってきたぁー。」
ディアナが家に帰りつくとまず、作業机の片隅で帳簿を付けていたルチルが声を上げた。
「まったくぅー、どぉーこ行ってたのぉー。勝手にいなくなっちゃってぇ。」
「まぁいいじゃない。無事に戻ってきたんだから。」
作業机の中央でパターンを切り分けるヴィッキーが、手元から視線を逸らさずにそう言った。
ふたりが同時に顔を上げた。
「っえ!?」
「あんた!?」
ディアナの顔を見た瞬間、同時に大声を張り上げた。
その顔は涙を流しすぎて、大きく腫れ上がっていたのだから無理もない。
「ちょっ!?どーしたの!?何があったのよ!?」
「誰かに何かされたの!?」
ディアナの異変に駆け寄るふたりを制止しながら、ディアナは言った。
「大丈夫、大丈夫だべ。だけど、だけど、本当に良かったべ!良かったべぇー!ふたりが再会できて良かったべぇー!」
どうやら感受性の強い、強すぎるくらいのディアナには、芝居の刺激は強すぎた様だ。
家に帰りつくまでの間、ディアナはずっと余韻を引きずったままだったのだ。
「は?なにぃ?どーゆーこと?」
「ルカと、ルカと、ダンが、ダンがねぇー!良かった!ほんとうに良かったべぇー!」
「え?誰ぇ?」
「ルカとダン?って、それ、ファーストキスじゃないの?」
「ファーストキス?」
「そうよ。今やってる人気の舞台よ。って、あんた、舞台観てきたの?」
「そうだべぇー!すんごい、すんごい感動したんだべぇー!」
「ってことはぁー、食事当番のお金、使い込んだってことですかぁー?」
「は!?マジ!?」
「大丈夫だべ。ちゃんと買ってきたべ。」
涙をだらだらと流したまま、ディアナは片手に持っていた袋の中身を取り出すと、ヴィッキーに差し出した。
「またもやしじゃないのぉー!!!!」
悲鳴にも似た絶叫が、納屋の外まで響き渡った。
「あんたねぇ、見ず知らずの綺麗な女の子に舞台の切符を奢るなんて、アホなチェリー男子でもやんないわよ。」
「いやぁ、アホなチェリーならやるかもよぉ。」
今夜のおかずは、もやしと干した豚肉に小麦粉を混ぜて焼いた、草原の国の郷土料理。
ルチルの分はもやしと小麦粉だけ。
前日の当番だったルチルが、念のために余らせて買っておいた材料は、こういう時のための予防線だ。
「だって、だって。」
「まったく、あんたがそこまで押しに弱いとは思わなかったわよ。」
ヴィッキーは買い置きのワインの栓を開けると、自分とルチルのグラスに順に注ぎながら言った。
「だって、だって。」
「しかもなに?残った2Gで買ってきたのが大袋入りのもやしって。あたしらウサギかっての。」
「だって、買えるのそれしか無かったんだもん。それにいっぱい入ってたから、次の当番でも使えるかと思ったんだべ。」
「もやしは常温で3日ももちませぇーん。」
「結局は1食分よ。あんた、次の当番どうするつもりよ?」
「ずびまぜん。来週分を前借りさせて下ざぁーい。」
「もーいーよぉー。次の分は次であげるから、もう無駄遣いしちゃダメだよぉ。」
ワイングラスを傾け、ルチルが笑った。
「それにしてもさ、そのニーナって、なんなのかしらね?たかるだけたかっていなくなるなんて、そうとうな悪党か非常識よね。」
グラスの中身を空にしながらヴィッキーが毒づいた。
「いや、その話し、どっかで聞いたことありますけどねぇ。」
「あたしは男にしかやんないわよ。」
「自慢することじゃないべ。」
「あんたが言うんじゃないわよ。」
言い終わると、空になった食器を水桶に運び、ヴィッキーが振り返った。
「さてと。じゃ、あたしは仕事に戻るわ。結構マジでやるから、あんま話しかけない方がいいわよ。」
「ねぇ、ヴィッキー。明日の当番、代わろうかぁ?」
「そうしてくれるとありがたいわ。マジな時はちょっと周り見えなくなるかもしんないから。」
ヴィッキーのその言葉は真実だった。
パターンを作り終えてからの彼女の手は止まらない。
生地にハサミを入れ、型通りに切り分ける。
仮縫いをし、形を確かめ、修正し、また仮縫いを行い、また形を整える。
ディアナやルチルとはまったく別の時間が流れているかのように、ヴィッキーは自身の体内時計だけを頼りに生きた。
寝たい時に寝て、食べたい時に食べ、たまにトイレに入る。しかし、それ以外の時間の全ては縫製に費やされた。
そして、約束の日の朝を迎えた。