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サロン・ド・メロ  作者: ロッシ
15/15

第十一話 約束

「まっまぁー!」


「うっ!」


 女の子がベッドに飛び乗った。

 突然の強襲に驚いて目を覚ましたのは、まだ夜が明けてすぐのことだった。


「ママ!朝よ!起っきしてぇー!」


 ベッドの上で何度か飛び跳ねると、空中で体を開いてディアナの上にダイブした。


「ままぁー。」


 ディアナの体の上に寝そべった女の子は、その頬に顔を擦り付けるようにキスをした。


「たはぁー。」


 ディアナは幼い娘を毛布ごと抱き締めると、同じようにその頬にくちづけをした。

 顔を擦り付けるように、力いっぱいに。



 バターの焦げる芳ばしい香りが部屋中に広がる。

 卵は3つ。

 ボウルの中でグルグルとかき混ぜてからフライパンに流し込むと、空っぽの胃袋を刺激する香りが立ち上る。


「フォーク、テーブルに並べといてだべー。」


「はいだべ!」


 焦げ付かないようにフライパンの中の卵を更にかき混ぜながら、隣の小さな金輪の上のミルクを入れた鍋の火加減を見る。


「はーい。これ、持ってってねぇー。落とさんように気を付けるべよ。」


 フライパンからスクランブルエッグを皿に移すと、慎重に娘に手渡す。

 言いつけ通り気を付けてます!といったとても真剣な表情を作り、ゆっくりとした足取りでテーブルに近付いて行く。

 それを見送ると、戸棚から取り出した食パンを釜戸の火口で直に炙る。

 小さな丸テーブルの上にはふたり分のスクランブルエッグとトーストとミルク。

 ディアナと娘は椅子を突き合わすと、仲良く朝食を摂った。

 窓の外は今日も抜けるように晴れ渡っていた。


 ボブカットに切り揃えた黒髪に櫛を通す。

 前髪も長く伸ばし、左側に流している。

 うっすらと化粧を施すと、今度は小さな頭から伸びた、ディアナそっくりな長い黒髪を緩めの三つ編みに結ってやる。

 それからクローゼットを開いた。

 今日の気分はベージュだ。

 白いゆったりとしたワンピースの上にベージュのロングジャケットを羽織ると、茶色い編み上げのブーツの紐を結びあげる。


「今日は何色がいいべ?」


「ピンク!」


 大きな声で答えた娘の要望に応え、ディアナはピンク色のボタンダウンのワンピースを取り出すと、娘に手渡した。


「もうお姉さんだから、自分で着られるべ?」


「うん!オラ、お姉さん!」


 小さな手で一生懸命にボタンを留める娘の姿を眺めながら、ディアナは幸福を感じていた。



 金属の嵌め込まれた重厚な玄関の扉に鍵をかけていると、隣の部屋のドアが開いた。


「おはよう。」


 聞き慣れた声がした。


 茶色い細い髪はベリーショートにばっさりと切られ、風に流れるようにふんわりとセットされている。

 相変わらず主張の激しいボディラインを隠すような、ゆったりとした黒いオフショルダーのニット。しかし、足元は青いスキニーデニムと赤いローヒールのパンプス。

 ゴールドの大きなリングピアスにネックレスの先にも揃いのゴールドリングをあしらった定番スタイル。

 毎日毎日、いつも聞いている声だ。


 ディアナは鍵を捻りながら、声の主に振り返った。


「おはよう、ヴィッキー。」


「おはよう!」


 娘が一目散にヴィッキーに駆け寄った。

 正確に言えば、ヴィッキーの隣に佇む年上の友人に、だが。


「やぁ、おはよう。ディアナ。」


 ヴィッキーの背後の扉から出てきた男がにっこりと微笑んだ。


「おはよう。クローゼさん。」


 茶色い癖毛を綺麗なオールバックに整えた、背の高い男。

 今日もいつものように黒いスーツに身を包んでいる。

 クローゼとヴィッキーの間に挟まれるようにしてこちらを見やる少女が手を振った。

 両親譲りの茶色くて細い髪の毛先は綺麗に巻かれており、ヴィッキーのセンスそのものであろう、黒いオフタートルネックのニットワンピースの下から伸びた細い足先には少しヒールのある大人びたショートブーツ。

 いっちょ前にも頬紅と口紅がその端正な顔立ちを彩っていた。


「リリーナちゃん!」


 ディアナの娘がヴィッキーの娘に抱きついた。

 ふたりの女の子は4つ違い。


「おはよう。ルチルちゃん。」


 リリーナと呼ばれたヴィッキーの娘が、ディアナの娘をそう呼んだ。

 ふっくらと、丸みを帯びた愛らしい輪郭。

 ぱっちりとしたつぶらな瞳。

 少し丸い、愛嬌のある鼻。

 全てが丸で構成されているような、どこをとってみてもディアナによく似た幼い女児。

 ルチル・メロ。

 ディアナの娘の名だった。



 ビルヒル区の高級住宅地。

 ふたつの家族は同じ集合住宅に居を構えていた。

 そこは、クローゼが住んでいた、あの集合住宅だった。

 両手にリリーナとルチルの手を握りながら、クローゼが螺旋階段を下りていく。

 それを背後から眺めながら、ヴィッキーがディアナに話しかけた。


「旦那ちゃん、次はいつ来るの?」


「んー。分かんないべ。」


 ディアナは笑って答えた。

 ディアナの夫は、いや、夫ではない。

 正確にはルチルの父でしかない。

 それでも、確かにディアナにとっては生涯の伴侶に決めた男だ。

 それは、5年前。

 ディアナとヴィッキーが、孤島の国に嫁いだニーナの要望でオートクチュールを作りに行った時のことだった。

 孤島の国は、世界で唯一、密林の国と交易を許された国だ。

 そしてディアナの夫は、密林の国が鎖国を解くように働きかける活動家だった。

 ディアナはその男と恋に落ちた。

 自身の境遇も手伝い、わずかの滞在期間中にディアナは燃えるような恋をし、ルチルを授かった。

 しかし、ディアナの夫は孤島の国を離れる意思の無い人間。

 そしてディアナもそれで良いと思った。

 年に1度か2度は、この港街を訪れ、ディアナとルチルの顔を見にやってくるが、昨年からは1度も現れてはいない。

 どこで何をしているのか。

 ディアナですら知る由もないが、それでもディアナはそれで良いと思っていた。

 結果的に、ディアナは立派なシングルマザーとなった。


「まさかあんたが一番危なっかしいとはね。今思っても笑えるわ。」


 ヴィッキーが笑顔でディアナを見た。

 3人の中で最も浮わついた人間と思われていたヴィッキーは堅実なクローゼを選び、最も奥手だと思われたディアナは得体の知れない活動家を選んだ。

 人生とは分からないものだ。


「オラにはルチルがいるし、ヴィッキーもクローゼさんもリリーナも、それに皆がいてくれるから。」


 ヴィッキーは時折思う。

 本当に寂しくはないのだろうか?

 しかし、ディアナの変わらぬ屈託のない笑顔を見ると、その言葉に嘘偽りはないと思える。

 だからこうやって、ヴィッキーはディアナに寄り添うのだ。

 それがヴィッキーなりの、ディアナに対しての敬意の現れだった。

 階段ホールを出た小さな広場でクローゼは子供達の手を離し、しゃがみ込むと両手で同時にふたりの頭を撫でた。

 ルチルは満面の笑みを浮かべていた。

 ルチルにとってみても、クローゼは実の父親のように思えているのだろう。

 肌の色こそ違えど、リリーナとも本当の姉妹のように育ってきた。

 本当の家族。

 ディアナの言葉に嘘はない。

 それはルチルの笑顔を見ても分かるのだ。


「じゃあ、パパはここでお別れだけど、ふたりとも、いい子にしてるんだよ?」


「はいだべ!」

「はーい。」


 クローゼの言い付けに、元気よく手を挙げた。


「今日は大切な日だね。頑張るんだよ?」


「ありがと。あなたもお仕事頑張ってね。」


「ああ。ありがとう。」


 クローゼはヴィッキーとディアナの頬にチークキスをすると踵を返し、朝の雑踏の中に消えていった。


「さて、やりますか。」


 ヴィッキーの目付きが変わった。


「出た出た、お仕事モード。怖いべぇー。」


「あんたもだから。」


 言葉とは裏腹にディアナの目は真剣そのもの。

 思わずヴィッキーは笑い声をあげた。


「ねぇ、ママ。」


 そんなふたりに、リリーナが声をかけた。


「なに?」


「今日、おばちゃん来るの?」


「来る来る。来るわよ。」


「やった!楽しみ!」


 ヴィッキーの言葉を受けたリリーナの顔が一気に華やいだ。


「たはは。リリーナはすごいべなぁ。オラなんて未だに緊張するっぺよ。」


「いや、ほんとよ。あたしだって昨日はろくに眠れなかったっつーのに。」


「ほんとだか!?」


「本当よ、まったく。なんでこんなスカーレットになついてるのか不思議よね。年に数回しか会わせたことないのにさ。」



 今日は【サロン・ド・メロ】と【スカーレット・デ・センデロス】が初めてコラボレーションした特別なコレクションをお披露目する日。

 サロン・ド・メロの店頭に、スカーレット・デ・センデロスのプレタポルテが並ぶ日だったのだ。

 ふたりは毎日の仕事に娘たちを帯同していた。

 とは言え、子供たちに仕事の話が理解できているとは思っていなかった。

 ディアナとヴィッキーのアトリエは相も変わらず、3人の過ごしたあの納屋ではあったが、そんなふたりが今日は店に顔を出す。

 めざとく異変を察知したリリーナは、スカーレットが今日、店に来ることを言い当てたのだ。

 口では文句たらたらに表現するものの、内心はその洞察力に満足している、母親としての顔がそこにはあった。


 小さな裏通りの小さな洋服屋さん。

 白亜の石造りの壁に大きなギヤマンの窓が嵌め込まれた、今ではどこにでもある洋服屋さん。

 サロン・ド・メロを真似た面構えの店が軒を連ねるその通りは【サロン通り】と呼ばれるようになり、メンフィス区のメゾン街と肩を並べるこの街のファッションの中心地となった。

 そんな月並みな店頭に見えるサロン・ド・メロは、それでも月並みな店頭とは一線を画す、特別な存在になっていた。


「ふあぁー。またいっぱい並んでるべぇー。」


 店頭から蛇行するように張り巡らせた結界の中をたくさんの人々が並んでいる。

 その数はゆうに3桁は超えているだろう。

 若い女性が目立つのは仕方がないとしても、その中に様々な年齢の男女が混じっているのが見える。

 年齢や性別こそバラバラではあるが、それでも皆は一様にして、初めてお目見えする特別なコレクションに胸を踊らせている。

 そんな顔つきで、店が開く時間を今か今かと待ち望んでいるようだった。


「あっ!おはようございます!」


 お客さんの並びを整理していたアルバイトの娘が、4人の姿を見付けるや否や、声をあげた。


「あっ!ディアナさんだ!」

「ヴィッキーさんもいる!」


 お客さんの群れがその姿に気付き、一斉に色めきだった。


「すごい!初めて見た!」

「本物だわー」

「きゃあー!殺意かっこいい!」


 口々に歓声をあげるお客さんの前を、気恥ずかしい気持ちで会釈をしながら通り過ぎる。

 いつからだろう。

 自分がこんな有名人のような扱いを受けるようになったのは。

 ディアナの心はあの頃のまま。

 いつまで経っても、この歓声に慣れることはない。


「皆さん、今日はこんな早くからお越し頂きありがとうございます。開店まではもうしばらくありますが、もう少しだけお待ち下さいね。きっとお待ち頂いた時間に見合うお品ものをご提供できると思いますので。」


 無数の群衆を前にしてヴィッキーが凛とした声で口上を述べる。

 その言葉を耳にしたお客さんたちが一斉に静まり返った。


「さっすがヴィッキーだべ。オラ、あんなこと言えないべ。」


 店の戸を閉めるや否や、ディアナが苦笑いを浮かべながらヴィッキーの肩を叩いた。


「あんたね、いい加減慣れなさいよ。いつまでも小娘みたいな対応してたらあの人に笑われるわよ?」


 そんなディアナに、ヴィッキーが強い口調で言い返した直後だった。


「一体誰に笑われるのかしら?」


 店の奥から通りの良い、低い声が響いてきた。


「うえっ!?」


 その途端にディアナとヴィッキーの肩がピクリと跳ねあがった。


「おばちゃんだぁー!」

「おばちゃーん!」


 しかし、そんな母親たちの反応などどこ吹く風。

 ルチルもリリーナも、背の高い、細長い女の元へと駆け寄っていった。


「あらあら、ふたりとも。少し見ないうちにまた大きくなったわね。元気だった?」


 銀色に輝く長い髪の毛はコーンロウにまとめて結い上げてある。

 いつもは赤いタイトなドレスがトレードマークと言っても過言ではないこの女にしては珍しく、今日はシルバーに光り輝くジャケットを素肌に直に羽織り、長く細い足もジャケットと同じ素材のブーツカットのパンツで包んでいた。そしてその足元には黒い厚底のオックスフォード。

 ただでさえ樹木かと思える長身を更に伸ばし、その佇まいからは威圧感しか感じ取れないと思ったのはディアナ達だけではないはずだ。


「ず、随分と早いですね。」


 ヴィッキーがひきつるような声を絞り出した。


「あなたね、いい加減に慣れなさいな。私だっていつまでもそう緊張されるのは面倒なのよ?」


「いや、そうなんですけどね。昔の癖って言うか、なんか、やっぱ、スカーレットはやっぱあたしにとって特別と言うか、なんと言うか。」


 普段のヴィッキーからは想像もつかないほどの緊張ぶりに、思わずディアナが吹き出した。


「たはは!スカーレットさんに会うときは、オラもやっぱり緊張するけんど、なんかヴィッキー見てると和むべぇー。」


「どーゆー意味よ!」


「言葉のまんまだべ。」


 ふたりの声に気が付いたのか、カウンター奥の倉庫から勢いよく飛び出してくる人影がひとつ。


「あー!ディアナさん!ヴィッキーさん!遅いですよ!」


「あ、バイトシュリー。おはようだべー。」


「バイトじゃないし!今や私、頭目だし!って、ほんとに遅いですよ!こんな恐ろしいスカーレットさん接待するのどんだけしんどいか分かってんですか!?」


 いつもよりも数段お洒落に着飾ったアシュリーは、ディアナにしがみつくと抗議の声をあげた。


「ねぇ、ディアナ。お宅の経営責任者、自分がどれだけ失礼なこと言ってるのか分かってるのかしら?」


 リリーナとルチルを両手で抱き上げたスカーレットが呟きながらこちらを見やっていた。


「たっはぁー!いんやぁー!アシュリー嘘つけん性質なんだべなぁー!もう思ったこと何でも口にしちゃうんだべなぁー!いやぁー、そんなんなので許して欲しいだべぇー!」


「あなた。それは一切フォローになってないわ。そしてこの子は経営責任者向きな性格じゃないわね。」


 こめかみを押さえながら、ヴィッキーは首を振るだけだった。



 子供達をスタッフに預けると、ディアナ、ヴィッキー、スカーレットは店内のラックの隙間を歩いては、今日のために作り上げた洋服の最終チェックを行っていた。

 前夜にアシュリーはじめ、店舗スタッフが陳列を行い、それを確認、修正するのだ。

 流木で作られたラックには、普段のこの店ではは見慣れない、きらびやかな装飾の施された3人の子供達が、主が現れることを待ち侘びているようだった。

 ディアナの色が濃く出たふんわりとした雰囲気の洋服達には、スカーレットの代表的な色である煌めくようなスパンコールやビーズが散りばめられている。

 しかし、決して派手すぎず、あくまで洋服本来の持つ優しげな雰囲気にアクセントを加えるだけだ。

 ふたりの生み出した渾身のデザインを形にしたのは、もちろんヴィッキー。

 ディアナ、スカーレットと綿密なミーティングを重ね、3人でパターンを作り上げ、それからヴィッキーの持ち得る最高の技術を注ぎ込み、サロン・ド・メロの製作陣達が1枚1枚仕上げていった。

 ここに並ぶのは、全てが既製服である。

 しかし、その全てが1枚ずつしか存在しない、特別な服。


「ふふ。」


 値札を手に取ったスカーレットから笑い声が漏れた。


「え?間違いでもありました?」


 そかさずヴィッキーがその札を覗き込んだ。


「いえ。このお値段を見て、思わずね。」


 スカーレットが値札を銀色に輝かせた爪でなぞって見せた。

 そこに書いてあったのは、今外で並んでくれている全てのお客さん達が、少しお金を貯めれば買うことができる程度の、そんなお値段。


「ふふ。サロン・ド・メロですから。」


 ヴィッキーが微笑んだ。

 その言葉に全てが詰まっていた。


「そろそろお時間ですよ。」


 アシュリーが数名の売り子を従え、3人に近付いてきた。


「いよいよね。」


 ヴィッキーがディアナを見た。


「あんた、スピーチは考えてきたんでしょうね?」


「ねぇ、ほんとにオラがしていいんだべか?」


 その表情は不安そうだ。


「当たり前でしょ?うちのトップはあんた。トップがお客様にご挨拶するのは当然よ。」


「スカーレットさんもいるのに、オラなんかがおこがましいべ。」


「気にすることはないわ。これは、サロン・ド・メロとスカーレット・デ・センデロスのコラボ。メインはディアナ。あなたよ。」


 スカーレットも微笑みながら言った。


「分かりましたべ。したらば、オラ、その大役、頑張って務めあげさせて頂きますべ。」


 ディアナが胸を張った。

 その姿に、昔の気弱な面影はなかった。


「じゃあ、いきますよ。」


 スタッフのひとりがドアノブに手をかけた。


「ママ!」


 アシュリーに手を繋がれたルチルがディアナを呼んだ。

 小さいながらも、今からディアナが凄いことをする。

 それは伝わっているのだ。


「ルチル。ママにキスして欲しいだべ。」


 目の前にしゃがんだディアナの頬に、ルチルは顔を擦り付けてキスをした。


「ありがと。」


 ディアナが立ち上がった。



 扉を開かれた。

 ヴィッキーが前に進み出た。

 続いてスカーレットが。

 その後に続き、スタッフの娘達。

 そしてルチルとリリーナが店の外に立った。

 ディアナは大きく息を吸うと、最後に店の前に立った。


 その姿を見たお客さんの群れが、一斉にざわめいた。


「皆様。本日は、オラ達【サロン・ド・メロ】の開店10周年記念イベントにご来店頂きまして、本当にありがとうございます。」


 深々と頭を下げたディアナ。

 その姿に、大きな拍手が巻き起こった。

 目頭が熱くなった。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございますだ。」


 感極まったディアナの声が震えた。


「えっと、えっと、オラ・・・・オラ。」


 言葉に詰まった。

 この日のために、ずっとずっと、ディアナは色々な言葉を考えてきた。

 それでも、たくさんの人々を前に、たくさんの人々から拍手を受けたディアナの頭は、真っ白になっていた。


「ディアナ。」


 見かねたヴィッキーがディアナに歩み寄ると、その手を強く握った。


「あんたなら、できる。」


 小さく囁いた。

 この言葉に何度助けられてきただろう。

 ヴィッキーが、ディアナに勇気を与えるのだ。

 ディアナはヴィッキーの目を見つめた。

 ヴィッキーが強い視線でディアナを見つめていた。


「オラが、この街に来たのは、今から11年前のことでした。」


 ゆっくりと力強く。

 ディアナは言葉を紡ぎ出す。


「密林の国の片田舎から出てきたオラは、右も左も分からなくて、でも、それでも、オラはこの街でやりたいことがあって。

 オラがこの街に来たのは、ヴィッキーがいたからです。

 ヴィッキーは憧れの人でした。

 ヴィッキーに会いたくて、オラのデザインしたお洋服を作って欲しくて。

 オラはこの街に来ました。

 でも、オラはヴィッキーに会えなかった。

 そんな時、オラを助けてくれた人がいました。

 その人は、今はここにはいません。

 あ、別に死んでしまったわけではないですべ。」


 群衆から小さな笑いが起こった。


「その人がオラを助けてくれて、そんでもってオラをヴィッキーに会わせてくれました。

 始めはヴィッキーも怖かったですだ。」


 またもや笑いが起きた。


「ちょっと。余計なこと言わなくていいのよ。」


 思わずヴィッキーも笑っていた。


「たはは。

 それで、色々とあったんですけど、オラはヴィッキーと出会って、一緒に仕事をするようになりました。

 オラは今、ここに立っています。

 でも、オラひとりの力でここにいるわけではありません。

 その人と、ヴィッキーがいてくれたから、ここにいます。

 オラひとりでは何もできません。

 オラはたくさんの人に助けられています。

 それは、ここにいる、アシュリーであり、スタッフの皆であり、スカーレットさんであり、そして、オラ達のお洋服を楽しみにして下さっている、皆様なんです。

 オラはひとりでは何もできません。

 でも、皆様の笑顔がオラに力をくれるんです。

 今回のコレクションは、オラとヴィッキーなりの、皆様へのお礼の気持ちです。

 今までも、そしてこれからも、オラ達を支えて下さる皆様に、笑顔をお届けしたいと思って、皆様のお顔を思い浮かべて、一生懸命に作りました。

 ですから、今日、皆様に、オラ達のお礼をお受け取り頂けたら、オラ達は本当に本当に嬉しいです。

 皆様。」


 ディアナが息を吸った。


「本当に、ありがとうございます!」


 ディアナが頭を下げた。

 ヴィッキーも頭を下げた。


 その瞬間だった。


 割れんばかりの拍手が巻き起こった。


 皆が笑顔で、涙を浮かべる者もいるけど、それでも笑顔で、ふたりに拍手を送った。


 ふたりは頭を下げたまま動けなかった。

 涙が溢れていた。

 ふたりともその両目から止めどなく涙が溢れて、それを見せられなかったから。


 スカーレットがふたりに歩み寄った。


「さぁ。顔をあげなさい。あなた達の顔を、皆に見せてあげるのよ。」


 ふたりの背中を優しくさすった。


「はい!」

「はい!」


 その言葉に後押しされ、ディアナとヴィッキーが顔をあげた。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を。

 誰も笑う者はない。

 ふたりの涙を、皆の拍手が包み込んだ。


 今、ここには、祝福しかなかった。





 店内は人でいっぱいだった。

 混乱を避けるために、10人ずつの入店を取り決めさせてもらったが、それでもお客さんとスタッフ、そしてディアナ達で店内は溢れ返った。

 こんなに混むことは、今やトップブランドであるサロン・ド・メロと言えどそうはない。

 ディアナもヴィッキーも、そしてスカーレットでさえも、お客さんひとりひとりと話しをし、最も似合うと思われるコーディネートを親身になって相談に乗る。

 スタッフの誰もがお客さんの対応に追われ、ルチルとリリーナの面倒を見ることすらできなくなった。

 しかし、なんの心配もない。

 ルチルとリリーナは、ディアナとヴィッキーの子。

 驚くことに、ふたりとも大人に混じりながら、お客さんに話しかけてはコーディネートを一緒に選ぶ真似事に勤しんでいた。

 しかもそれは案外に的を射ているのだから尚更驚きだ。

 無論、ディアナもヴィッキーも、ふたりから目を離したりはしていない。

 ふたりの生き生きとした笑顔を横目で見ながら、この状況を心から楽しんでいた。


 朝から夕方まで途切れることなく混み合った店内は、閉店間近の時間になり、ようやく落ち着きを取り戻していた。

 店を埋め尽くしていた洋服達のほとんどは、身に付けてもらうべき主を見付け、それぞれの家へと旅立っていった。

 最後のお客さん達も自分のための服とめぐりあい、実に嬉しそうな笑顔を浮かべて家路につく。

 そんな時だった。



 ひとりの女性客が、ルチルに話しかけたのが見えた。


「ねぇねぇ、こっちとこっち、どっちが私に似合いますかぁー?」


 ルチルの前に立つと、両手に持ったベージュのジャケットと水色のジャケットとを交互に体の前で合わせ、ゆっくりとした口調で問いかけたのだ。


「んっとね、みじゅいろ!」


 ルチルは即答で水色のジャケットを小さな手で指し示した。

 まだきちんと人差し指だけを立てきれない、ぎこちない手付きで。


「ルチル!?」


 ディアナの大声が店内に響き渡った。

 その声に驚いたように、店内に残っていたわずかな人の誰もがディアナに視線を集中させた。

 突然名前を叫ばれたルチルも、キョトンとした表情でディアナに振り返った。


「あ、あんた・・・。」


 静まり返った店内。

 ヴィッキーの呟くような小さな声は、誰の耳にも届いた。


「どぅえっへっへぇー。私には水色が似合うってぇー。」


 そして、声をあげたのは、ルチルに話しかけた女性客だった。



 絹の様に艶のある、やや癖毛の黒髪を肩上まで伸ばして、前髪は中分けにしている。

 白い透き通るような肌はキメ細かく、触らずともその滑らかさが分かるほどだ。

 やや平面的な造形だが、睫毛の長い大きくてやや垂れた目には黒く煌めく瞳が納められている。

 鼻筋も通り形が良く、小さめの小鼻と併せてとても均整が取れている。

 薄めの唇にはうっすらと紅が乗り、細く華奢な顎と共に輪郭全体のバランスを美しく整えていた。

 蘭の花ビラの様な形をしたとても大きな襟が胸元に彩りを添える水色のジャケット。

 そしてその襟に添えられたのは、掌くらいの大きさの愛らしい青い薔薇の花。

 小さな花柄があしらわれた膝上10cmの青いフレアスカートの下から伸びた美しく長い脚は燕脂色のレギンスで包み込まれ、その先のヌバック素材で仕立てあげられた焦げ茶色のブーティーが全体の印象を整えていた。



 ディアナが駆け出した。

 それに続いてヴィッキーも駆け出した。


 そして、


「ルチル!」


 ルチルに同時に抱きついた。

 背の高い、彼女達の大切な仲間のひとりである、ルチルに。



「どぅへへ!重いんですけどぉー!」


「ルチル!ルチル、会いたかったべぇー!」


「あんたね!ずっと音沙汰なしで酷いじゃないの!手紙の返事くらい返しなさいよね!」


「ごめんごめーん。色々と忙しくってさぁー。」


 抱き締め合いながら言葉を交わす。


「もう。来るなら来るで、先に連絡くらいしてくれてもいいんじゃないの?あんたが来るって分かってたら、もっと特別な出迎えしたのに。」


 ヴィッキーの声が珍しくうわずっていた。


「そうだべ。いきなり登場なんて、ほんと驚いたべよ。」


 ディアナは涙声だ。


「いやぁー、この街にはたまたま寄っただけだからさぁ。」


 ふたりの首筋を撫で回しながら、ルチルが優しい口調で囁いた。


「ママァー?」


 3人の足元から、ルチルの声が聞こえてきた。


「あっ、ごめんごめん。驚かせちゃったべなぁ。」


 不思議そうな顔で3人を見上げている小さなルチルの傍らに、ディアナは腰を落とした。


「ほら、ルチル。お姉さんにご挨拶するべ。」


「こおんにちはぁー。」


 満面の笑顔で小さなルチルが声をあげた。


「こんにちは。リトルルチル。」


 大きなルチルも、リトルルチルの前にしゃがみ込むと、頭を撫でながら微笑みかけた。


「リリーナもこっちに来て。」


 ヴィッキーがリリーナを呼び寄せると、恐る恐るといった足取りで3人の元に歩み寄ってきた。


「こんにちは。」


 恥ずかしそうに、小さな声で挨拶をしたリリーナの頭も、ルチルは優しく撫でた。


「こんにちは。ふたりとも大きくなったねぇ。」


「そりゃそうだべ。リリーナは8つだし、ルチルももう4つだべよ。」


「本当よ。あんたが最後に来たのって、リトルルチルが生まれた時よ?」


「そっかぁー。もう4年も経ってるんだっけぇー。そりゃ私も歳をとるねぇー。」


「そうよ。って、あんた、よく見たらなんなの!?昔と全然変わってないじゃないの!化け物!?」


「本当だべ!」


 ルチルの顔は、いや、顔だけじゃない。

 髪や肌のツヤまで、なにひとつ昔と変わってはいないのだ。


「そぉんなことないよぉー。私なんてもうババァですからぁー。」


「またそんなこと言って。あんた、あたしより5つも年下じゃないの。」


「そうだべ。なんか、オラよりも若く見えるべ。」


 その通りだ。

 3人が夢を追いかけていた日のディアナと違い、今のディアナの顔からは真ん丸に詰まっていた頬の肉が落ち、だいぶすっきりとした印象に変化していた。

 ヴィッキーも年よりは若いと言えるが、やはり時間には逆らえない。

 目尻や口許には幾分かの小さなシワが刻まれ、髪にも白いものが混じり始めていた。


「と、それよりもさ。たまたま寄ったって、あんた今なにしてんの?ミサミサも一緒じゃないの?」


「あ、そーでしたぁー。ミサミサはね、相変わらず酒場のお仕事してんよー。今日来たのは私だけぇー。」


「そうなんだ。ミサミサにも会いたかったべ。」


「私、今ねぇ、旅してんの。だから、次はちゃんとミサミサ連れてくるねぇ。」


「旅?あんたもマメねぇ。」


「ルチルはすごいべなぁ。止まってらんないって感じだべ。それで、今日はどうしたんだべ?何か用があったんだべか?」


「んーとねー、今日はねぇー、約束を守りに来たんだよぉー。」


 とても懐かしい、鈴が鳴るような声で笑いながら、ルチルが立ち上がった。


「約束・・・・って、マジ!?」


「本当だべか!?」


 その言葉に、ふたりは一斉に色めきだった。


「え!?どこ!?今いるの!?」


「会いたいべ!会わせて欲しいべ!」


「どぅへへ。あっちだよぉー。」


 ルチルが外を指差しながら、店の窓に近付いていく。

 ディアナとヴィッキーは、高鳴る胸の鼓動を抑えながら、ルチルについて歩いていった。


「ほら。あそこー。」


 夕闇の中をルチルが指差した。


 雑踏に紛れ、馬車止めの低い石柱に腰掛けていた。

 ゴーグルをかけた青い耳付き帽子の下からは茶色い長髪を覗かせ、青いフライトジャケットとゆったりとしたパンツを身に纏っている。

 腰から剣をぶら下げて、不機嫌そうな表情で周囲を見渡していた。

 しかし表情とは裏腹に、その目はとても透き通っており、よく分からないがとても安らぎを感じるような印象を受けた。



「嘘でしょ!?あんな若い子!?」


「すげー!オラよりも全然若いべ!」


「どうやって引っかけたのよ!?」


「え?あれ?オラ、あの目、なんか知ってる気がするかも。」


「ん?確かにそう言われれば。どこかで会ったことあるのかしらね?」


「でへへ。」


 この女にしては本当に珍しく、照れたような笑いを浮かべていた。

 3人が窓越しに眺めていると、その少年と目が合った。


「おっとぉー。どーやら待たせ過ぎてご機嫌ななめのご様子ですねぇー。んじゃ、私行くねぇー。」


「え?もう行っちゃうんだべか?」


「今夜くらい泊まって行きなさいよ。」


「あんがと。でもね、あいつの旅は魔物退治の旅なの。だから、先を急がないといけないんだよねぇ。」


「ま、魔物退治?そんなのに付き合ってんの?」


「じゃあ、あの子は勇者様だべか?」


「んー、そんな様なもんかなぁ。まだまだ頼りないけどねぇ。」


「そうなんだ。残念だけど、そういうことなら仕方ないわね。」


「んだんだ。ルチル、また必ず遊びに来てくんろ?」


「うん。また、来る。絶対に。ミサミサも連れて。」


「待ってるわ。」


「待ってるべ。」


「うん。じゃあ、ふたりとも。またね。」


 そう言うと、ルチルは店を後にした。

 太陽が家に帰り、月が連れてきた夜の街に消えていくルチルと少年の後ろ姿が見えなくなるまで、ふたりは見送っていた。

 ずっとずっと、見送っていた。



「ねぇ、ママ?」


 そんなふたりに、リリーナが声をかけた。

 リトルルチルと手を繋ぎ、ふたりの足元に佇んでいた。


「どうしたの?」


「約束、ってなぁに?」


 ヴィッキーがリリーナの小さな手を握り、ディアナはリトルルチルを抱きあげた。


「約束、ってね。」


「ママ達が3人で決めたルールなんだべ。」




「本気の相手ができた時は、必ず皆に教えるの!」








 サロン・ド・メロ

 おしまい。

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