風の寄る辺
何故かホラーではなくなりましたが、勿体無いので公開します。
臆病者にはつきものであるが、夜中に出歩くのは大層神経を使うものだ。雨降りであれば尚更、また、雷でも鳴っていようものならば気が気ではない。
風が吹けば部屋の中でさえ恐ろしい。闇というものはそれほどに、臆病者にとって恐ろしいものだ。
そして、今夜はそんな夜だった。
ニュースキャスターのパリッとした服装に比べて、休日の私の服装は酷いもので、寝癖は立ちっぱなし、食器はシンクに放り込んだまま放置され、新聞はシワだらけのままで広げっぱなしだ。
これを見て、私が社会人などと誰が思おうか?
濡れた床やボロボロの天井こそ、元の家主の仕業だが、果たしてこの部屋を誇って良いものか。
私は冷蔵庫の中を確かめ、中身が空になっていることを確認する。自然と溜息を漏らし、右手で頭をかきながら、冷蔵庫を閉めた。
……さて。コンビニでは高くつく。スーパーに行くには身が重い。どうしたものか。
私は小さな窓を覗き込む。外は雨がしとしとと降り注ぎ、止む気配もない。私は陰鬱な窓の外を見つめながら、再び溜息をついた。
机の上に放り出された財布と携帯電話を手に取った。
こんな時、車さえあれば。そんな贅沢な思いを浮かべながら、スーパーへ出発した。
重い体を持ち上げて、足取りも重く、エビのように背虫を担ぎながら歩く。歩道橋ではスーツを着た男、死んだ目の男がふらふらと歩きながらコンビニへ向かう。馬子にも衣装という言葉があるが、休日にもスーツを着れば一端の人間に見えるものだ。
しとしとと降りしきる雨の中、すれ違う人も殆どなく、いよいよ閉店が間近に迫ったスーパーの忙しなさが近づく時、一陣の風が通り過ぎた。
「ちょっとそこのお兄さん」
「はい?」
気怠い体を回し、側溝と電信柱のある方を向くと、私は思わずあっ、と声を上げた。
壁に朧げな人の顔が浮かんでいる。幽霊か、映画のCGか、兎に角不気味な光景に、私は目を見張った。
壁に浮かぶ顔はあからさまに眉を顰め、輪郭のはっきりしない顔で私の目を静止する。
意味がわからない私はただただ眼前の光景にパニックとなり、通りすがる人を探した。
不安過ぎる。不気味が過ぎる。顔はしかめ面のまま壁を抜け出し、私の視線の先、空気の通り道の邪魔をする。空気中に透明なビニールを何枚か重ねたような奇妙な質感の顔は、私を諌めるようにジリジリと近づいてくる。
「人の顔見るなりその反応は酷いんじゃないの?」
……人なのか?透明な顔は頬を膨らませ、怒りを露わにする。そこでやっと、この不気味な顔が少なくとも悪霊の類ではないと理解できた。
「いきなり声をかけられてこれじゃあ、驚かない奴はいないだろう」
「涼しくなった?やったぁ!」
急に表情を明るくさせ、嬉しそうに顔だけで周囲を動き回る。同時に、それがとてつもない風圧を伴い私を襲う。
「やめ、やめろって!風がきつい!」
「あ、ごめんごめん。久々に喜んでもらえたからさー」
それは顔をくしゃりとして笑う。無邪気な笑みだが、よくもまぁこうもコロコロと表情を変えられるものだ。
「喜んではもらえてないが……」
「えぇー、それは困るなぁ。そうだ、家においでよ!どうせ暇なんでしょう?」
それが無理やり背後から私を押す。形はないのに起こる奇妙な風に、私は渋々従うことにした。
背後から迫る風の壁に押されながら、スーパーへの順路を徐々に外れていく。傘がバサバサと音を立てて揺れる様をみて、周囲の人々は私に怪訝な目を向けた。
勘弁してくれ、と思いながらも、途轍もない風圧に背中を押される。私は言いようのない恐怖が再び込み上げ、どこに連れて行かれるのかと肝を冷やしていた。
「はい、着いた!」
人通りのない閑静な住宅街に、崩れそうな豪邸がある。錆びついた柵には蔦が絡まり、庭はすっかり雑草が生い茂っている。館の原型を留めていないほどに、歪な形をしていた。
「おい、ここって……」
私は恐る恐る顔を見る。顔は自慢げに鼻を突き上げている。
私はそれがこの近辺でどの様に呼ばれているかを知っていた。「風吹く館」-誰もいない筈の洋館に、風がひとりでに吹き抜けるという噂がある。吹き抜けた生ぬるい風は不思議と人間の周りに集まり、時折複数の笑い声も聞こえるという。この歪な顔が私をここに招き入れた理由は定かではないが、巷で噂の怪談に巻き込まれるというのは、言いようのない恐怖を覚える。
私は背後を確認する。吹き付ける風はあまりにも強力で、首をひねれば飛ばされてしまいそうだ。ひとりでに扉が開くと、形のない顔が満足げに笑いかけた。
「さぁ、どうぞ。上がって」
「タスケテ……タスケテ……」
私の声は、高い天井へと霧散した。
入ると同時に扉を閉ざされ、洋館の黴臭さが鼻につく。高い天井からは少しだけ月光が差し込み、天使の梯子を作っている。しかし梯子を降りるのは、天使ではなく黴と埃に他ならず、巻き上がる風圧で疲弊した体に手招きをする。
「どう?なかなか立派なお屋敷でしょう?」
透明の顔は無邪気に笑う。私は恐ろしさと同時に訪れる奇妙な安堵感に困惑しながら、首を振って答えた。
「こんな曰く付きの屋敷に住んでいるのか?怖くないのか?」
そう尋ねると、彼女はキョトンとした。
「誰も住んでなかったから、ちょうどいいかな、って。広いし、動き回るにはちょうどいいのよー?ここ」
そう言って彼女は顔の形を歪ませながらビュンビュンと飛び回る。不気味に浮かぶ顔はとても楽しげで、私の鼻に黴臭さしっかりと運んできた。
雷が鳴り響き、雨足が強くなる。しっかりと屋敷に降り注ぐ雨を追いかければ、幻想的な光の筋は黴の原因を撒き散らしていた。
「帰りたい」
「来たばっかりじゃないの!ゆっくりしていって!ホラホラ!」
そう言って、彼女は私の股の間を通り抜ける。は風圧で体が持ち上がったかと思うと、沢山の「顔」が玄関先に集まって来た。
「なになに?お友達?」
「カレ?ねぇ、カレ?」
「もう、違うよー、いっつも顔の暗い近所のおじさん!」
「おじ……」
私の反論を待たずに、彼女の同類は重なりあいながら詰め寄ってくる。目と鼻が重なり、髪の毛が絡まり合い、実態のないその姿を存分に晒している。
私はより異形の色が濃く、強くなった彼女たちを見て思わず息を飲んだ。彼女たちは私の様子を察し、息を潜めた。
「あら……ごめんなさい。配慮が足りなかったのね」
「これでは中々天に昇れないのも頷けるわ」
「天へ昇る?成仏したいのか?」
私がそう尋ねると、彼女達は顔を見合わせた。
「この子は私たちよりずっと長くいるの。中々天に昇れないのよ」
「……放っておけないもの」
彼女は歯切れ悪くに呟いた。苦しそうというよりも不満げな表情の彼女は、輪郭をぼやけさせたままで、目を伏せてみせる。その表情はとても美しく、思わず息を漏らすほどだった。
そして、私はその言葉の意味を咀嚼した上で、彼女に向けて言い放った。
「私が放っておけなかったのか?」
彼女は黙って頷く。私は呆然と立ち尽くし、沈黙する彼女を見つめた。
私は幽霊に憐れみを受けたわけだ。ハハッ……。
こみ上げる屈辱の念を振り払うことができず、口元が緩む。思えば、これほど惨めな私を見て笑わない者などそうそういないだろう。あるいは、無関心に通り過ぎるのだろう。黴臭さに嫌気がさし、緩んだ口元から乾いた笑い声が上がる。
負け組、脱落者、輝かしい世界を失った者。私はその光に目を向けることすらできないままでいた。
たしかに。仕事はできないし、戦う意欲もない。茶汲みに徹するような惨めな自分の在り方に、酷く辟易している。
「構わないよ。お気遣いありがとう」
同情は受け取っておくべきだ。たしかに惨めだが、それより悪くならない。私は彼女に手を振り、扉に手をかけた。
「ねぇ、待って。私はよく知っているよ」
ドアノブを取る手が止まる。カビ臭さになれた鼻は埃を吸い上げながら、彼女に向き直った。
無数にできた穴から降り注ぐ天使の梯子の隙間から、彼女の輪郭がキラキラと輝いている。
「貴方がいっぱい頑張っていること、色んなことを我慢していること」
「我慢するのは大人の仕事だよ」
私は口の端で笑った。この世間知らずな女にとって、安い同情は自らの気休めにもなるのだろう。
「それでも、これまで十年も、二十年も、我慢してきたのは凄い事だよ」
「そうかい、ありがとう」
私がドアを開けると、外には閑静な住宅街が広がっている。草の匂い、しとしとと降り注ぐ雨の音、遠のく雷の光、どれもこれも、日常に満たされたものだ。
「ずっと頑張ってきたんだもん、胸張って良いんだよ!」
「うるさい!」
咄嗟に出た言葉に、私も声を失ってしまった。心臓の鼓動が加速する。慰みの言葉を聞きたいわけではない、私は、休みたいだけだ。沈黙に耐えかねた唇が、恨み節を呟く。
「私を慰めて何がしたい?自分よりも惨め奴を笑いに来たのか?あぁ、洋館に来た奴が感じたのは、そういう感情だったんだな?なるほど、あいわかった。傷は仲間同士で舐めておけ!」
惨めなのは自分が一番よくわかっている。仕事漬けの毎日だと、余計に自分の粗に耐えられなくなる。給料がたくさん欲しいわけではない、出世したいわけでもない。ただ、漫然と、生きていたいだけだ。
「羨ましいのは、本当だよ」
「あ?」
つい荒い調子で振り返ると、今にも泣きそうな顔の彼女がいた。彼女は絞り出すように答える。
「泡になって消えてからずっと、あの時手を出していれば良かったのかな、と思うことがあったもの。見たくもないものをたくさん見たもの。それに耐えかねて、ここに寄り集まったんだもの」
「何を……馬鹿な……」
そう言いかけて、その輪郭が美しいものであることに気づく。同時に、会話の音がガタガタと吹き付ける風に変わってしまう。
私は、その時はじめて、逃げも隠れもできない者がこの世にあるとすれば、惨めな気持ちだけなのだと気づいた。
思い恋い焦がれて泡沫と消えた様は、私達の儚い夢にも似ている。朝起きればあやふやになり、見ていた夢は現実にかなうこともない。
そして何より、叶えても良いことなどほとんどない。輝かしい世界はずっと遠く、誰だってその思いはあやふやになって消えるのだろう。
そして、空へ消えた夢の在り方は、あてもなく誰かの隣を通り過ぎる。それは心地よかったり、あるいは虚しくなったりもする。彼女はそう言った、あてのない思いの代弁者なのかもしれない。
そして彼女は、あてのない放浪の末に安住の地を見つけ、放って置けずに人を助けてしまう。生きづらいこの世界では、その方がずっと辛いのだろう。彼女の刑期はあと幾年だろう?
「……頑張れよ」
私は遂に怒りよりも深い同情の念を抱いてしまった。彼女に向けた言葉は、そのまま私の忌み嫌った物だった。
それでも、彼女は顔をくしゃりと歪ませて笑う。
「ありがとう」
彼女がそういった瞬間、彼女の幻は天使の梯子の向こうへと登っていく。彼女の仲間たちは彼女に祝福の言葉を投げかけた。
彼女に足りなかったものは、自分に向けた、そういった類の憐れみだったのかもしれない。光の筋が彼女の顔を持ち上げ運んでいく。天井まで行き着くと、その顔は形を歪ませて空に消えた。
「貴方は、帰るの?」
風の一つがそう尋ねた。
「……あぁ、帰るよ」
明日は、仕事だからね。
解けたワイシャツのボタンを留め、ネクタイを締め、スーツに着替える。鏡の向こうには積み上げられたゴミの山、夜食も食べずに寝てしまったため、昨日のシンクはとても綺麗だった。
鞄を手に取り、資料の不足がない事を確認すると、革靴を履き、靴べらを自然に手に取る。ルーティン化した一連の行動は、とてもスムーズに行われ、機械のようにテキパキと目的をこなしていく。指定ゴミを手に取り、扉を開け、鍵をかける。
水浸しの手摺を避けて階段を降り、安アパートから外に出ると、雨上がりの空には白い雲と煌々と照りつける太陽があった。私は手で陽光を遮り、足早に駅への道を急いだ。
水溜りの上を通り過ぎる車に水をかけられ、すれ違う近所の方々と挨拶を交わし、コンビニで92円のパンを買って齧る。いつもと変わらない日常、それ以上でもそれ以下でもない。そのまま駅へ直行すると、黒いスーツの人々が死んだ目で私をホームへ押し流していく。
満員となった駅のホームで電車を待っていると、ふわりとシャンプーの匂いが漂ってきた。隣の女性が風で乱れた髪の毛を払ったようだ。
「元気そうだな。人魚姫に宜しく言っといてくれ」
風は電車に追い立てられて霧消した。私は、押し流される様にして、電車に乗り込んだ。