第四話
自分の学生カバンからエナメルバッグに移すものは化粧品入れのポーチしかなかった。思えば、今までの学生生活で本当に必要なものはそれくらいだったかもしれない。
あまり荷物がいっぱいになっても困るから、エナメルバッグには余裕を持ったまま出発することにした。
ふと、精神科の薬が切れたらどうしようか、と考えた。今は大丈夫だが、そのうちいつもの症状がやってくる。その時自分は耐えられるだろうか?
視界の端に、タバコの箱が目に止まった。古臭いマイルドセブンの六ミリ。
ないよりはマシかも知れない。遠乃はタバコと一緒においてあった一〇〇円ライターをエナメルバッグのポケットにしまった。
外に出ると少し冷えた風が顔にかかった。現世では夏だったが、こちらの世界では秋か春に近いのかもしれない。エナメルバッグから薄手のジャケットを取り出し、制服の上でに羽織った。
自転車を使おうかと思ったが、そのうち調達すればいいと思い直して歩き出した。今は手に入れた自由を謳歌しようと思った。
とにかく、人がいそうな場所に行ってみよう。そうすれば、なにか情報が得られるかもしれない。人が見つからなければ、最悪適当な家で夜を明かせばいい。
遠乃の足取りは軽かった。一人がここまで気楽だと感じたのは、生まれてから初めてだった。
「……第一六区?」
遠乃が見つけた古ぼけた金属製の看板には、ペンキでそう書かれていた。ここまで住宅のほかにファミリーレストランやコンビニを見てきたが、人の痕跡らしきものは見つけられなかった。
「……?」
遠くから、連続的な排気音が聞こえた気がして振り返った。耳を澄ますと、それは確かに車のエンジン音だ。
人がいる。遠乃の心が踊った。ここで人が見つかったのは、本当に幸運だ。きょろきょろ見渡して、エンジン音の方向を確かめる。
かすかなエンジンを頼りに進むと、明らかに人の手が入っているような大通りに出た。コンクリートにはタイヤ痕らしきものが刻まれ、ここを車が通ったことは明らかだ。
ちょうどその時、彼方から走ってくる車が見えた。車種の類はわからない。だが、この世界に一人ぼっちでないことがわかっただけでも遠乃は嬉しかった。
「……?」
ふと、その時遠乃の背中に置かんが走り抜けた。
生まれてこの方、嫌な予感だけは外したことがない。
いや。遠乃はかぶりを振った。今回ばかりは間違いのはずだ。第一、ここでちゃんと人のコミュニティに接触できなければ次はいつそのチャンスが訪れるかわからない。
そうこう考えているうちに、車が見えてきた。オレンジの日産のエクストレイルを先頭に、黒のパジェロ、赤のフォード・エクスプローラーからなる三台の車列だった。車列は遠乃を減速しながら追い抜き、一〇数メートル先で止まった。
遠乃は車列を追いかけると、運転手の男が窓から顔をのぞかせた。
「あの!わたし、知らないうちにここにいて……それで、あの」
何を言えばいいかわからなかった。起きたらここにいたなんて、言えるはずがない。
「制服?なんだ、お前」
ぶっきらぼうな口調だった。少し怖かったが、遠乃はここで引いたら誰にも助けてもらえないと思って勇気を振り絞った。
「あの……助けてください」
そう言うと運転手の男は顔を引っ込めた。中でなにか話している気配がした。少しすると、車から男たちが降りてきた。
「あの……」
いいかけて、遠乃は絶句した。
降りてきた男たちは服も髪型もバラバラだった。
だが、男たちは当然のように、黒鉄の銃器で武装していた。遠乃には銃の種類などわかりようもないが、冷たい鉄の質感は、モデルガンやサバイバルゲームで使うようなおもちゃの鉄砲とは明らかに違った。
男たちは下卑た視線を遠乃に向けた。遠乃が反射的に警戒して後ずさると男たちは半円状に広がって取り囲もうとする。
にやにやした笑みと見せびらかすように持った銃器に得も言われぬ恐怖を感じた遠乃はすぐさま踵を返して走り出した。
「丸腰の女だ、傷つけるなよ」
「女子高生なんて俺らにもツキがまわってきたな」
「新規転生者だろ?俺たちが教えてやるよ」
冷たい汗が、背中を伝った。
人間ではなかった。あれは、動物だ。
普通に走ったら絶対に追いつかれる。遠乃は大通りから裏路地に抜け、低い石壁を乗り越えて姿勢を低くして塀や家屋に身を隠しながら走り抜けた。
突然、乾いた破裂音が響いた。驚いたが、足を止めるわけにも行かなかった。
銃声だ。あの男たちが、私を掃討しようと銃を撃ったのだ。
死にたくなかった。一度は死んだはずなのに、死にたくなかった。自分がここまで命にしがみつくとは、思わなかった。
エンジン音が轟いた。男たちが車に乗って先回りしようというのだ。少女の足ではどれだけ裏路地を駆使しても振り切れない。
男たちの声が、前方からも聞こえてくる。出会い頭に捕まったら絶対に振り切れない。ジリ貧だと知っていたが、遠乃は近くの民家に飛び込んだ。
二〇〇〇年代以降であろう近代家屋だった。遠乃はほとんど反射的に、キッチンに駆け込んだ。
武器になりそうなもの――とっさに食洗機のかごにささっていたフォークを一本つかみ、学校指定の靴下に差し込んだ。
エナメルバッグを探って、十徳ナイフを取り出す。刃渡り五センチもないような、頼りない武器。ブレザーのポケットに仕舞いこみ、新たな武器を探す。
とにかく、あがくことしか遠乃にはできない。キッチンの下の戸棚を開けると、万能包丁が三本収まっていた。なりふりかまっていられないので、両手に一本ずつ包丁を握りしめた。
キッチンの壁に背中を預け、意識を凝らす。
男たちの声が、全方向から聞こえてくるような気がする。統合失調症の嫌な妄想なのか、本当に男たちが自分の場所を割り出しているのか、わからなかった。
――ひた。ひた。
抑えた足音を、床を伝って感じた。
やはり自分の場所がバレている。遠乃は両手の包丁を強く握りしめた。脂汗が、手に吹き出ているのがわかった。
もう、縮こまってもいられない。こちらから打って出るしかない。
男の息遣いが聞こえるような気がした。
男の欲情すら、遠乃の警戒心が感じ取っているような気がした。
「――――ぁぁぁぁぁぁ!」
声にならない叫びとともに、遠乃は駆け出した。
突貫だった。
突進の勢いのままに突き出した左腕に生暖かい感触が伝わった。
「こ……のアマ……!」
男の顔が憤怒で歪んだ。
槍のよう突き出した自動小銃をかいくぐった遠乃の小柄な体躯が、突き出した左の包丁が、男のみぞおちにケブラー繊維のタクティカルベストを貫通して突き刺さっていた。
「――――っ!」
包丁が、抜けなかった。反射的に包丁を離し、後続の男に向けて右の包丁を投げた。
遠乃の決死の投擲にもかかわらず、万能包丁は虚しくビニールクロスの壁に突き刺さった。
「動くな」
後続の男が、ぴたりと自動小銃を遠乃に照準していた。
遠乃は絶望的な表情のまま固まった。相手を一人殺したのだ。――生きて帰れるはずがない。
「どうした?」
「こいつ、タクヤを殺しやがった」
「おテンパなところも愛嬌があるじゃねえか」
ぞろぞろと男たちが集まってきた。銃口でスカートを捲りあげて、口笛を吹く男もいた。
凍りついたままでいると、髪を金に染めた男が、無遠慮に遠乃の腕を掴んで引き倒そうとした。
「いやっ」
羽織っていた薄手のジャケットを脱ぎ捨てて男の手から逃れようとするが、逃れた先で男に抱きとめられ押さえつけられる。
「ここでするか?」
「かまわんだろう。こんな辺境には誰も来やしない」
男たちが軽薄な会話をしているのを、遠乃は黙って聞いていることしかできなかった。
「じゃあまずは俺からだっ――」
不躾な男の腕が乳房に触れた瞬間――
男の側頭部が弾けた。