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統合失調症の彼女の異世界  作者: 古川葵
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第二話

 泥濘の中を泳いでいるような感覚だった。上も下もわからない、光も見えない、コールタールの海を漂っているようだった。


頭の中に、次々と情景が浮かんでくる。この症状は遠乃も知っていた。統合失調症の陽性症状――脳内を埋め尽くす制御不能な記憶と想像の犯流。


優しかった近所のおばさん。遠乃が小学校の頃、痴呆で里奈の名前さえ忘れてしまったときの寂しさ。


唯一遠乃の帰りを家で待っていた雑種の犬。遠乃が中学校の時、事切れた血だらけの犬の首根っこを掴み、燃えるゴミの袋に入れた父の姿。


手首の傷を好奇の目で見、陰口を叩いていたクラスメイト。


遠乃は頭を殴られたときような衝撃とともに、目を覚ました。


「う……うぇっ…………」


 凄まじい吐き気。それでも、胃の中に何も入っていないせいで吐けなかった。それが余計に、苦しかった。


きついフックを顎に食らったような――頭がぐわんぐわんと揺れているような不快感。知らない天井が、視界と一緒に歪んで見えた。


状況を把握できないまま、遠乃は視線を巡らせた。太陽の光が差し込む、はめ殺しの窓。灰色の壁。埃のかぶった床。寝ている間にのたうったのか、遠乃の周りだけ塵が拭ったようになくなって、代わりに制服にこびりついていた。


遠乃は床に座ったまま、頭に手をやった。髪はポニーテールに結んだままになっていた。


 服を確認すると、やはり、電車に飛び込んだときの制服のままだった。


 ここは病院なのか、と一瞬考えて、すぐにその考えを改めた。病院だったらこんな不潔なはずはないし、入院着に着替えさせられているはずだし、そもそも制服は血だらけのはずだ。自分が寝ていたのはベッドですらない。


 治療後にここに放置された?そんな訳のわからないことをする人がいるだろうか?


 とにかく頭が混乱していた。嘔吐感と頭の衝撃が収まるのを待って、ゆっくり起き上がった。


 電車に飛び込んだときに持っていた学生鞄は数メートル先に転がっていた。遠乃は鞄を拾い上げ、スマートフォンを取り出した。


 圏外。都内で暮らしていた遠乃は、圏外になったスマートフォンを見たことがなかった。反射的にスマートフォンを再起動したものの、結果は同じだった。


 とにかく、状況を確認しなければ。遠乃は制服の埃を払って歩き出した。


 家の中だが、幾分床の埃が積もっている。靴下が埃だらけになるのが嫌で、申し訳なく思いながらもローファーは履いたまま家の中を散策する。


 家は小奇麗に整頓されている洋風の一軒家だった。だが、人が住んでいるような感じはない。


――死んでいる。この家は、死んでいる。


 遠乃は横たわっていたダイニングから、キッチンに移動した。シンプルな食器類は整然と棚に収められ、シンクも綺麗なままだった。


 キッチンの冷蔵庫にはカレンダーが磁石で貼り付けられていた。遠乃はそれを見て、思わず声を上げた。


 一九九九年九月。


 遠乃が電車に飛び込んだのは、確かに二〇一八年の六月三〇日だったはずだ。そのはずなのに、一九九九年のカレンダーが、この家にはかかったまま。


 いくら床にホコリが被っているとはいっても、一九年もの間放置されたにしてはきれいすぎる。いくらなんでも、この状態は異常だ。


 遠乃が冷蔵庫を開けてみると、意外にも新鮮食材の類が入っていた。腐っているような異臭もなく、試しにいくつか取り出してみたが、黄変して腐っているようなものはなかった。


 この家には誰か住んでいるのだろうか?それにしてもシンクは汚れ一つなく、にもかかわらず床には遠乃のもの以外の足跡はない。


 わけがわからない。遠乃はとにかく、情報を求めて家の中を歩き回った。


 廊下に出て、ドアを一つずつ開けていく。トイレ、脱衣所、風呂場。試しに蛇口を捻ってみると、水が出た。


 ふと、思い返して電気のスイッチを操作すると、蛍光灯に光が灯った。昼間だから使うことはないだろうが、どうやら電気も水道も来ているらしい。


 再び廊下にでて、今度は階段をのぼる。階段の先にはドアが二つあり、開けてみるとそれぞれ子供部屋になっていた。


 片方の部屋は小学生ぐらいの子供が使っていたらしく、床がおもちゃや本で散らかっていた。壁には女性の丁寧な字で「ゲームは一日一時間」と書かれたA4の上が黄ばんだセロハンテープで貼り付けられていた。


 もう片方の部屋は受験生の部屋らしく、参考書や使い込んだノートが勉強机の棚に置かれていた。青山学院大学と日本大学の赤本が一九九四年から過去七年分並んでいた。


 遠乃は家を見ていきながら、思わず「メアリー・セレスト号事件」を思い出していた。突如として巨大な船から船員全員が消えた、奇怪な事件。


 窓の外を見ると普通の住宅街に見えるが、嫌な予感がして、遠乃は家から出た。家の前の駐車場には黒の日産のエレグランドと赤いホンダのフィットが停められていた。


 普通の住宅街に見えたが、なんとなく――違和感があった。まるで、それぞれの家が異なる時代から切り出してきたような――とにかく誰かに会いたかった。隣の家の玄関に走った。


 近代的な角ばったデザインの一軒家だった。軒先にはシルバーのスバル・インプレッサが停まっている。インターホンを連打した。応答はない。ドアノブをひねると、思ったとおり空いていた。


 土足のまま上がりこんだ。廊下には朝日新聞が配っている日めくりカレンダーがかかっていた。


 二〇一一年一月二七日。


 遠乃は悲鳴を上げた。思わずその場にへたり込み、言葉を失った。



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