第一話
この世の人々すべてが日常を退屈に過ごしているわけではない。
退屈という言葉は、小桜遠乃には重い。日々生活を営むことが、遠乃には違和感と我慢の連続だった。
なぜ周りの人間が、こうも他人を信用できるのかわからない。小説の主人公のように、「退屈な日常」というものを謳歌しているのかわからない。
小学校の頃感じることのなかった違和感と劣等感が、中学校になって牙を剥いた。高校生になると、その化物は遠乃の若い感性に牙を突き立てた。
高校生になってようやく、その違和感に名前があることを知った。アダルト・チルドレン。発達障害。統合失調症。鬱病。
家に帰ってもベッドから動かず、起きればヒステリーを起こし、怒り、泣き、叫び、そしてまた眠る、母親。
めったに家に帰らず、家に帰れば酒を飲み、母親と口汚く喧嘩し、飼い犬を虐待し、ついには蹴り殺した、父親。
曰く、「普通の人」は脳内に響く叱責の声に苛むことはないらしい。
曰く、「普通の人」は自傷に頼らずともストレスと自責の念に押し潰されることはないらしい。
曰く、「普通の人」は自分の生きる意味を問うことも、自殺を考えることもないらしい。
普通。近年流行りの異世界転生小説。何の変哲もない少年少女が異世界に転生するやいなや「普通」の殻にかぶった才能を開花させ、人生を謳歌する。
自分にはその普通すらない。
持っているはずのもの。この世に生まれた百人中九十九人がもつ才能を、遠乃は持っていなかった。
スクールカウンセラーも、精神科の医者も、役には立たない。
エチゾラム、クロチアゼパム、リスペリドン、ロナセン、ジプレキサ、サインバルタ。抗精神病薬。抗不安剤。抗うつ薬。薬を飲んでも自分が変われるわけではない。幻聴を抑えても、自分の無価値が変わるわけではない。
遠乃はいつもの学校の帰り道、いつもは降り立たない駅で降りた。
中央線、国立駅。立川駅と国分寺駅の間にある、半端な駅。中央特快も、有料特急も停まらない、東京のくせに発展から遅れたどこまでの中途半端な駅。
遠乃が電車を降りると、乗っていた各駅停車高尾行きの電車はすぐに発車していった。去っていく電車の風圧を感じ、制服の濃紺のプリーツスカートを軽く押さえた。
死に装束は学校指定の制服であることに後悔はない。制服。本来個性にあふれるはずの個性を押さえ込み均平化する日本教育の象徴。
難しいことを考えてみたところで、もう関係ないのだ。日本という国からも、この世界からも、もうすぐで決別する。
駅のアナウンス。数分後に、また、各駅停車の電車がやってくる。遠乃は壁に背を預けて、しばし待った。
ホームに滑り込んできた電車は慢性的に満員電車になる中央線としては空いていた。腕にはめたシルバーのアナログ式のチープカシオは七時三六分を示していた。
電車の中の中年のサラリーマンが、ちらりと遠乃をみやった。夏服のスカートから覗く生足を好色そうに見やり、すぐに視線を手元のスマートフォンに戻した。
嫌なことを考えそうになった。遠乃は学生鞄のポケットから化粧道具の入ったポーチを取り出した。
精神科の薬なんて、飲んでいることがバレたらまずいと、化粧道具に紛れ込ませていた。頓服で処方されている抗不安剤と抗精神薬を、ペットボトルの緑茶で流し込む。
飲んですぐに効くようなものではない。だが、嫌な気分のまま死ぬのは嫌だった。人生の最後くらい、楽な気分でいたかった。
オレンジのラインの入った電車のドアが閉まり、発車した。すぐさま次のアナウンス――快速列車が通過する。
遠乃ははポーチを学生鞄にしまい、肩にかけた。こんなものを持っていても、死ぬときは同じだ――わかっていても、これをここに放置していくのはなにか「違う」気がした。
特急電車が、ホームの先の線路から見えた。夏の薄い夕闇の先から迫る列車に、恐怖と緊張と安心感がないまぜになった感情が、里奈の中に湧き上がった。
ポケットの中のヘアゴムで、肩にかかるくらいの髪をポニーテールに纏めた。風で髪が顔に張り付かないように、最期の瞬間を、この目で見届けられるように。
高速で迫る電車が、ホームに滑り込んでくる瞬間、遠乃はホームの点字ブロックを蹴った。
人生最期の、飛翔。そして一瞬の滞空のあとの着地。じゃりっ、と足元の小石が音を立てた。
電車が警笛を鳴らした。それと同時に、ブレーキの金属音が耳をつんざいた。
もう、遅い。今更減速しても、確実に電車は遠乃の体を弾き飛ばすだろう。
遠乃は線路上に立ってなお、自らに迫る電車を見つめていた。
これで、終わる。
これで良いのだ、と最期の時を迎えてなお遠乃の中で暴れる恐怖心に言い聞かせた。
死ぬことは、解決にならない。スクールカウンセラーの言葉が、里奈の脳内をリフレインした。
足が震える。息が乱れる。それでも、遠乃にはこうするしかない。
実は最初からわかっていた。
自分の人生は、自殺から逃げ続けたものだった。
死ぬことは、解決にはならない。それでも、開放されるにはこれしかない。遠乃は目を閉じ、全身を駆け巡る鈍痛とともに遠乃の意識は露と消えた。