99 小話『無題』
古来からの仕来たりで、成人の日に『嫁取り』の儀式を行わなければならない。真っ黒い底無し池の目の前に立ち、ばばあ様の術をしばらく聞いて、運命があれば自分の伴侶が沼の底から沸いて出て来るらしい。
「大丈夫だって」
学舎から出て、暗い顔して項垂れるヤタに声をかけた。
ヤタは、僕の二つ上の従兄弟で、彼が明後日に控えた儀式に頭を悩ませているのは大分前から知っている。同い年の薬屋のハンジョと恋仲になってからだ。
ヤタは、運命の相手がハンジョだと思っている。ハンジョもまたそうらしいとヤタから嫌というほど聞かされたが、彼女の父親は「いよいよ『嫁取り』だ」と来る客来る客に話していると聞く。女にしては珍しいが、儀式が出来たばかりのころは今と名前が違い、男女全員儀式をやらされていた。
しかし、次第に女はいらないんじゃないか、男だけで充分だなどと何代か前の村長が言い出し、男は全員、女は希望者だけとなった。何故そんなことになったのか本当のところはわからないが、「運命の相手が現れず、好意を持っていた女には現れてしまい、しかも好かない女と結婚させられた腹いせに違いない」と陰では言われている。
でも――、とヤタの肩を叩いた。
「どうしたって男は儀式を受けなきゃならないし、ハンジョはもしかしたら親父さんを説き伏せてくれるかもしれない、娘には弱い男じゃないか。それに彼女はお前が大好きなんだろ?」
何と言って励ますべきか、悩んだ挙げ句に出てきたのは、儀式に落ち込む相手への決まり文句だった。今日だけでも四度目だ。
「サウリーにヨンド、アリアン、カスビワナも恋人がいるだろう? 彼らの恋人は儀式をやらないが、みんな恋人を愛している。考えてもみなよヤタ、もしも運命の相手が来ても、必ず一緒になれとは言われていないよ? そのハンジョに対する想いが本物なら、悩む必要なんてないんだ!」
大袈裟に、身ぶり手振りも合わせて明るく言うと、今にも死にそうな顔したヤタは、弱々しく笑ってみせた。「そうだね、そうだよね」と何度も頷きながら、 道中ずっと呟いていた。
「ユーユーは、儀式を見に来るんだろ?」
別れ道に差し掛かり、ヤタが聞いてきた。勿論だともと言ってやると、ヤタは「俺は運命に絶対屈しない!」と青白かった顔を変え、握りこぶしで胸を強く叩き、帰っていった。
小さくなっていく背中。決意したそれは、遠くになってもしゃんとしていた。彼は、ハンジョを信じ、自分の想いを信じ、どんと構えて池の前に立つんだろう。きっと彼のことだから、隣に立つばばあ様を睨みつけるかもしれない。けれど…… けれど、もっと考えてもみなよヤタ……
「運命の相手をよぶのだよ? お前は知らないのだろうけど、うちの父親は同じだったらしいんだ。勇ましく挑んだらしいんだ。お前の親父さんがよおく知っている」
ヤタが羨ましいと思った。どう考えたって諦める要素しかないのに、同じように励ました四人は真剣な顔のままだった。「儀式の前に恋人とは別れるよ」と言っていた。
見えなくなった夕暮れの道。僕は彼に囁いた。
「抗えないんだよ、誰も。だから、お前の母さんはお前の親父さんと結婚したのさ。だから、お前はうちの父親そっくりなんだ」
僕はくるりと振り向いて、家路についた。
ヤタが半分血の繋がった兄であること。父の想いは今も変わらず本物であること。しかし、運命も本物で母を見ると抗えなくなること。以前、父と叔父であるヤタの父親が話しているのを偶然聞いてしまったこと。
「兄さん、いつまで不毛なことをしなければならないんだ?」
「仕方ないだろう、運命とは強力なのだよ。まあ、そうだなぁ… ユーユーが儀式を迎えるまでかな、そうしたら俺はカズを振り切って、マイノを迎えにいくよ。マイノだってわかっている。お前さえ黙ってくれれば、誰にもわかりゃしないよ。ヤタももう少しで成人するのだし、お前は想い人と一緒になれる」
「しかしなぁ… 世間は何と言うだろうか…」
「馬鹿だなぁ、言いたいやつには言わしておけ! 大事なのは、己だよ。お前はあいつを愛しているんだろう? 契りは子の成人までだ、それを乗り切ればお前も俺もマイノも自由さ! しっかりしてくれよ! タンダン」
「…… ああ、」
僕はそこまでを聞いて、その場を飛び出した。彼らは父でも叔父でもない。母から教えられた悪魔だ。
母の自由は最初からなかった。父は僕が生まれてから義務は果たしたとばかりに段々と家に寄り付かなくなった。どこでどう過ごしているのかは知らない。偶々、ヤタに遊びに来いよと呼ばれ、そこに父がいた。叔父の兄弟は父しかいない。朧気な記憶の父は、はっきりと告げていた。
僕は愛されていない。母も愛されてはいない。
あの日を思い出して込み上げた吐き気に、家に着いた途端、便所に駆け込んだ。
ヤタは幸せだ。運命の相手が現れたら、きっと彼は父と同じことをする。最悪だ、最悪だ。幼い日に根付いてひん曲がってしまった寂しさが、間違いを犯そうとしているヤタを励ましたりなどしているのだから、最悪だ最悪だ。ヤタに優しくしていれば、父は帰って来る。父が帰って来れば、母も毎晩隠れて泣いたりすることもなくなる。父が帰るなら、彼が心の底から愛している人たちへ優しくしよう。そうすればきっと父は帰って来るはずなんだ―― じくじくと住み着き染み付いた願いが、僕を追い詰めた。
鼻水を涙を胃液を垂らす僕。いつの間にか帰って来ていた母が背後に立ち、僕の背を撫でていた。
「大丈夫? …… もう少しの我慢よ」
母は震える声でそう言った。
ああ、そうだ。もう少しだ。父と叔父が待ち遠しいように、母と僕も待ち遠しい。二人の真実を知って、僕たちは決めたのだ。
「大丈夫だよ、母さん。大丈夫さ」
口を拭い、振り返って母の手を握った。僕たちが自由でないのなら、自由になればいい。運命に振り回されるくらいなら、断ち切ってしまえばいいのだ。
母は、充分こちらの世界で生きていける。僕を育てたのは母の力なのだから、あとは母が生きたいように生きればいい。母には夢が出来た。そして、僕にも夢が出来た。
「母さんこそ、大丈夫かい? もし、僕が成功したら…」
「大丈夫よ、ユーユー。母さんはもう大丈夫よ。この前も話したでしょう? 行くあてもある。働き口もある。今まであなたを育てたのは誰だと思っているの?」
「母さん…」
「それに、ばばあ様だって味方よ。あちらから来たのなら、こちらからも行くことは可能なはずだ、そう教えくれたのだもの」
「………でも、母さんは行けないのでしょう?」
「一度通った者は、二度通れないらしいわ、ごめんね」
母は、僕を抱き締めた。
いいんだよ、母さん。母さんは、幸せだった日々を引き裂かれたのだから、こちらではうんと幸せに大切にされなければならなかったんだ。――母の涙の合間に僕は心底思ったのだった。
誰が決めた儀式なのだろうか。本当に、運命の相手なのだろうか。
いや、そう言われ続けてきたまやかしに違いないのだ。でないと、僕らの理由がないじゃないか――
ああ、儀式がとても楽しみだよ、ヤタ。




