77 Going My Way
多数派であるか、少数派であるか、ただそれだけのことだと思う。「常識が…」て話もあるけれど、それすら「他の皆が…」てことでしかないはずだ。
始まりなんて、その初めてを見た人間が「いいな、それ」で真似していき、次に続いて、また続いて。だから、「これが正解。正しいこと。絶対。お前変だ!」と声を張り上げて、非難は出来ないはずなのだ。
しかし、自分は自分のままにと言い聞かせるように書いていても、やっぱり不安になる。思いのままにやるということは、一通りやり尽くした後で語れるものなんじゃないかと…
でも、もう一人の自分が言うのだ。「やってみなくちゃわからない」「なんでそれが悪いのか」「ダメだダメだ、作法なんだと決めつけるのは何故なんだ」「善悪は別の部分だろう?」
小説を書いてみたいんじゃー、と書き始めてみると、懲りもせず、飽きもせず、自分の思う通りにやってみようと決めても、『作法』がしつこくついて来る。そして、気にしているということは、まだキョロキョロと周りを見ている自分がいるんだ。多数派だ、少数派だと言っている時点でそうなんだから。
少数派の世界でも、また新たな区分けがあって。そのまた区分けがあって。尽きない「お前、変」があるに違いない。
そうした考えを捨てない限り、気にしなくならない限り、私は悶々とする。
好きなようにやってみる、て、気にし始めたら手が止まるのにね。どうして「楽しい」気持ちだけを持って、素直に書いていられないのか……
面倒臭い私という人間の話でした。




