・竜騎士は青藍の魔女を望まない
「母上にも困ったものだ。オレが結婚なんてするわけがないのに」
気心の知れたレイド相手に自称を「私」から「オレ」に戻したヘイスティンは、兜を脱ぎ、汗に湿った黒髪を掻き上げる。
「二十六歳の息子を持つ母親としては、いたってまっとうな反応に思えますが。相手が、グロス卿の妹君ではいただけませんが」
兜を受け取るレイドは、ヘイスティンの視線に苦笑いを浮かべる。
「ああ。グロス卿の妹など嫁に迎えてみろ、結婚初夜に寝首を掻かれるぞ」
「それどころか、初夜を待たずに、祝杯の酒に毒を入れるのでは?」
「あの男なら、やりかねないな。……と、言いたいところだが、迂闊に不穏な動きを示して王令がくだされれば、逆に自分の首が飛ぶ。奴もそこまで愚かではあるまい」
「一思いに、そこまで愚かならいいのに」
レイドの言葉に、「残念ながら違うらしい」と、ヘイスティンは肩をすくめてみせた。
「まあ、奴の狙いが院政なら、子供が生まれるまでは命がある。子供が出来なければ、数年待って病死か事故死でオレと母上を殺して、未亡人になった妹に養子を取らせるか」
「ありえますね。妹といっても妾の子で、最近急に正式な妹として城に迎えたばかりとか……」
「嫁に出すだけのために迎えた妹か」
ヘイスティンが、下らぬ茶番と鼻先で笑う。
「この世界で貴族に生まれれば、男は戦の道具、女は政治の道具ですから」
「つまらぬ時代だ」
「ですが、マリア様は、日々楽しそうに生きておられますよ。ご自分が睦の道具に使われたことにさえ未だに気付いておられない」
――一応、お前の主の母親だぞ……。
茶化すレイドの口調に、心の中でそう突っ込んでみたものの、確かにそのとおりなのだろう。
「あの人はある意味、とても幸福な思考回路の持ち主だからな」
「それはひとえに亡きお父上が、マリア様を妻として愛された結果では?」
ヘイスティンは、くだらないと笑ってみせた。
レイドの言うとおり、亡き父は、マリアの楽天的性格を愛していた。
民の命を預かる領主として、治安維持や政治的駆け引きに常に神経を尖らせていなければいけなかった父にとって、マリアのおおらかさが救いになっていたのは知っている。
だがそれをレイドの前で認めるのは、恥しい。
ポンッと、跳ねるように石造りの階段を上ったとき、その先にある柱に人影が見えた。
「あっ……」
視界に入る人の姿に、レイドが足を止める。
言葉にはしないが、咄嗟の反応が視線の先にいる者が苦手であることを語っている。
「ドローっ」
ヘイスティンに名前を呼ばれ、魔術師のドローが、青味がかった鉛色の髪を揺らして、うやうやしく頭を下げた。
「おかえりなさいませ」
低く擦れたドローの声は、天井の高い石造りの宮殿では奇妙な反響をするため、鼓膜以外の場所で彼の声を感知しているような錯覚を覚える。
そして再び顔を上げると、シングルカラーの瞳がヘイスティンを見据える。
魔術師の身体的特徴として、人間でいうところの白目部分がなく、眼球全体が一つの色をしている。人はそれをシングルカラーの瞳と呼び、感情が読み取れないと気味悪がる者もいる。もともと魔術師は、人間に比べて体が大きく表情が乏しいせいもあるのだろう。
だがヘイスティンは、自分が生まれる前からこの城に住むドローを、気味悪いと思ったことはない。
成長することも老いることもなく、霊獣との接触を恐れてこの城から出ることのなく生きる彼を、アベルは家族の一員だと思っている。
「近づかないほうがいいぞ。霊獣の血が付いている」
ヘイスティンの声にドローは、シングルカラーの瞳を細め、金糸の刺繍の縁飾りが着いた紫色のチェニックの袖口で口元を隠した。
もちろん賢いドローは、自分たちが飛沫感染では霊獣の毒気にやられないと承知している。それでも咄嗟にそんな態度を取ってしまうのは、それだけ魔術師にとって霊獣の存在が脅威という証拠なのだろう。
「御無事でなにより。ヘイスティン様が負けるとも思っていませんが」
「それはオレの腕前を信じているのではなく、自分が精製した剣の威力を信じてのことだろ?」
「確かに」
静かに頷くドローは、ヘイスティンたちとの距離を保ちながら「ところで……」と、話を続ける。
「マリア様が、ヘイスティン様のご結婚を急かされるには、深刻な理由があるそうですよ」
「なに?」
どんな深刻な理由があるのだと、片方の眉を動かすヘイスティンに、ドローがにんまりと目を細める。
「侍女たちから聞いた話によりますと、マリア様は、早くお孫様が欲しいそうです」
「は?」
思いもしなかった言葉に瞬きするヘイスティンに、ドローは「それもブロンドの女の子を御所望とか……」と、付け足す。
「はあ?」
唸るヘイスティンのかたわらで、レイドは「マリア様らしい」と、口元を押さえた。
くだらなすぎて怒る気にもならないが、そんなくだらない理由で結婚を急かされるなんて、冗談じゃない。
「なんでも、御自身がお元気なうちに、お孫様と遊びたいそうです」
淡々とした口調で話すドローに、ヘイスティンため息を吐き、小刻みに肩を震わせているレイドを指さした。
「そうだ。オレの代わりにお前が結婚して子供を作れ。その子供を母上に預ければ、母上も満足するのだろう?」
「なんでそうなるんですか」
「母尾上としては、暇つぶしに子守をしたいだけ。ならば世話する子供がいれば、満足してくれるだろう」
そうなれば、しばらく自分の結婚には口出ししてこないはずと、目論むヘイスティンの提案を、レイドは「嫌です」と、切り捨てる。
「結婚なんて、面倒臭いことをすれば、自由がなくなってしまう。……じゃなくて、君主より先に妻を娶るなんて失礼ですから」
「私を独身の口実に使うな。ならば私は母上に、腹心であるレイドに恋人もいないような状況で、自分だけが結婚する気にはなれないと申すぞ」
「それは困ります。マリア様の性格では、そんなことを言われては、本気で僕の恋人探しを始めてしまう」
「そうなれば、しばらく私はのんびり過ごせる」
そんな二人のやり取りに、ドローは微かに口角を持ち上げる。
「そのご様子では、マリア様の願いが叶う日は遠そうですね」
「そうだな。結婚なんて面倒だ……」
「結婚が面倒ですか……。そのような言葉を言われるようでは、まだまだヘイスティン様も、子供ということですかね」
笑っているわけでもないのだろうが、ドローはそう口元を袖口で隠す。
城主になって三年の年月が流れても、彼に自分が子供に見えているのかと思うと、少し面白くない。
そんなヘイスティンの気持ちを察したのか、ドローが「では……」と、頭を下げる。
そして去り際に、こう言い残した。
「ヘイスティン様が、愛のためにその剣を振るわれる日が来るのを楽しみにしております」
「恋愛なんて、オレには必要ない」
ヘイスティンは、そう言い残して足早に浴場へと向かった。