表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

無色不透明

作者: 鏑坂 霧鵺

「ねえ? 無色不透明というのは、どういう色だと思う?」

 ベッドに組み伏され、彼の逞しい腕に指を添わせながら、私は不意に尋ねた。

 彼は一瞬呆気に取られたような表情を見せたが、すぐさまそれは憮然としたものに変わった。

「白、ではないのか?」

 私は小さく頭を振った。

「いいえ。白は白だもの。どんなに薄めては、それは白」

「ならば俺には、さっぱり分からんね」

 このとき感じたものは、少々の落胆であった。求めていた答えが得られなかったそれと、彼がさしてそれに興味を抱いていないそれと。

「この前から、ずっと考えているのよ。でも、まだそれがどんな色だか分からないの……」

 そこまで言って、二人の視線がぶつかり、私ははたと気付いて言葉を止めた。彼はこれからどうしたものかと決めあぐねているようだった。申し訳のないことに、気勢を削いでしまったようである。私はくすりと微笑んで身体の力を抜き、そしてそっと目を閉じた。世界にあるのは、彼の体温と息遣い、そして時を刻む音だけになった。

 指で髪を梳き、私の額に口付ける。そして羊のような大胆さで以て今までよりもより近いところへと抱き寄せた。

「助かったよ。どうしたものかと思っていたのだ。君のそういうところを俺は嫌いではないが、さすがにこうして、今正に君を組み伏せようとしているときでは途方に暮れてしまう」

 幾分安堵したような声音。彼が灯りを落としたのを感じた。閉じた瞳に映る暗闇がより一層密度を高める。

「ええ、ごめんなさい。さあ、いらっしゃいな」

 彼の身体と幸福とが、私の上に降り注いだ。私はじっとそれを受け止める。二人の鼓動が重なって一つになった。

 私は彼の首に腕を回し、その頬に口付けた。



「ねえ? 無色不透明というのは、どういう色だと思う?」

 ベッドに組み伏した彼女が不意に尋ねた。咄嗟のことに熱が下がりかけるのを感じたが、俺はどうにかそれを奮い立たせ、天まで届けよと心の内の炎を燃やした。

 適当に答えてみせたが、彼女はそれに満足していないようだった。しかし、俺にどうしろというのだろう? この期に及んであり得もしない答えを探し、見たこともない色と、それに至る哲学的な道程の探求をしろというのであろうか?

 じとりと一瞥し、どうしたものかと思案する。腕を漂うひやりとした彼女の指先の感触は心地よかった。暫しの問答の後、彼女は俺の思いを察してくれたようであった。悪戯っぽくくすりと笑んで、くたりと俺に身を預ける。軽い、しなやかな彼女の全てを腕に感じる。

 壊れものを扱うように、慎重に彼女に指を這わせ、手折らぬように力強く抱き寄せた。

 時折、彼女はこの度のように詩人のようなことを口にすることがある。そしてそれは多くの場合、ひどく幼い無邪気さを伴っていた。そんなとき俺はどうしてよいか分からず、手中にある彼女がひどく遠くに感じることもしばしばなのであった。

 この腕に掴んでいるものは、彼女の影であり、夜の霞であり、俺の望む幻であり、ほんとうの彼女はここにはおらず、そしてもうここには戻ることはないのではないかという恐怖に駆られることもしばしばなのであった。

 しかし、気が付けばいつも彼女はそこにおり、ここに戻ってくる。それでも俺は、その一条の不安を拭いきれずにいるのだ。

 俺は灯りを消した。多くは闇に融けて消えた。彼女の白い肌は闇を拒んでいるように見えた。ひやりと冷たい彼女の口付けが、俺の頬に落ちて溶けた。




 私は一人きりの時間を過ごしていた。彼は仕事に出ている。ふとこうしたとき、この見慣れた部屋がとてつもなく広く感ぜられることがある。二人でいるときは、決してそんなことを感じないのに。

 寂しくないわけではないが、同時にこの時間も嫌いなわけではない。彼が戻るのを待つ、この時間もまた愛おしいものである。あるいは、これがあるからこそ、共に過ごすことがより尊くなるのだ。

 秋の陽は大分短くなってきている。ふと見やった窓の外は、もう夜の帳が落ち切るのを今か今かと待ち構えていた。家路を急ぐ談笑が、少しく冷たくなった風に乗って聞こえてくる。おそらくは、彼の気配もまた乗せて。

 私は犬のように彼を待ち侘びた。たかだかが半日の別離でさえ、私は我慢することができないのだ。他に向ける忍耐は持ち合わせているが、これについてはまるで子供のような辛抱強さで以て当たっている。

 家の中は大変静かで、鍋はゆるゆると湯気を上げている。少し味見をし、今日もまた上手くできたと自画自賛をし、そして彼は喜んでくれるであろうかと思いを馳せる。もういつでも準備は万端で、あとは取り分けられることを待つばかりの夕餉を前に、私は逸る気持ちをなだめることに難儀していた。

 アパートメントの共用廊下に物音でもしようものならすぐさま跳ね上がり、飛んでそちらに向かおうとする。そしてそれが他人のものであるとか、勘違いであるとか分かれば、俯きすごすごと引き返す。さっきから幾たびこんなことを繰り返していることか。

 そういえば、昨夜彼に尋ねた無色不透明の正体を、この時間を利用して探っているのだが、さっぱり答えは出そうになかった。

 静寂を割って、電話の音が響いた。思いがけぬ呼び鈴の音に私は驚きながらも、私は受話器を取る。相手は彼であった。その声を聞いた途端、部屋は先程まで広陵さを完全に失って、ほとんど私の手の内に収まるほどに小さくなった。

「どうしたの?」

「いや、今バスを降りた。もうすぐ帰るよ」

「もう、大分この時間でも暗い季節になったわ。気を付けて帰っていらしてね」

「うん、ありがとう。ところで、何ぞ必要なものはあるかい? 帰りの道すがら買ってこよう」

「いいえ、大丈夫よ。ありがとう。そんなことより、早く帰っていらっしゃいな。もう、夕食の準備はあらかたできているのだから。あとは、あなたが帰ってくれば、完成するわ」

 受話器の向こうで、彼は少し笑ったようだった。

「分かった。急ぎ帰ろう。ああ、そうだ。何か果物でも買って帰ろう。なるたけ早く帰るように心がけるから、少々の寄り道勘弁してくれよ」

 今度は私が小さく笑う。

「ならば、お願いしてもいいかしら? 準備をして待っているわ」

「ああ。待たせてしまって済まないね」

「いえ、大丈夫よ。ところで、今日ずっと考えていたのだけれど、結局無色不透明はどんな色だか分からなかったわ」

 彼が電話の向こうで吹き出すのを感じた。

「そうかね。じゃあ、俺も帰り道で探してみよう」

 今度は私が吹き出す番だった。最後にもう一度「気を付けて」と言い足して、私は微笑んで受話器を置いた。




 でき得ることならば、仕事になど出ずに家で彼女と過ごしていたいがそういうわけにもいかない。働かねば食い扶持は得られないし、また少し離れてみるからこそあの部屋の神聖さがいや増すのだ。

 それなりの忙しさの代償に、幾許かの遣り甲斐と食べていけるだけの賃金とを得、程よい疲れとともに俺は事務所を後にした。

 露店で手慰みの新聞を買い、俺はバスに乗り込んだ。やる気のない案内と、乗り心地の悪いシートに辟易しながら、他愛のないゴシップを流し読んだ。気の早い酔いどれが、車外で怒声をあげている。気の短い運転手が、けたたましく警笛を鳴らす。

 バスは夕暮れ時の街を、人垣を縫い、車列を縫い、走っていく。大した内容もない新聞はとうに読み終わり、俺は退屈な時間を持て余す。途中の停留所で乗り込んだ親子連れが、通路向こうの席に座った。子供の方は落ち着きなくあたりを見回し、やがて俺を見つけると暫く値踏みするかのようにこちらを見つめていたが、やがてお眼鏡に適ったのか手を振ってきた。俺はなるべく上等な笑みを選んでそれに答えた。

 思わぬ来訪者はいつもの退屈な時間を大変楽しいものにしてくれた。程なくして最寄りの停留所に着き、俺は胸中で彼に最大級の感謝を述べた。

 外は、もう大分暗くなっている。俺はジャケットの前を閉じ、用済みとなった新聞を近くにあった屑籠に放り込んだ。折しも冷たい風が吹く。残念、一足遅かったな。

 さて、ここまで来たのならば、あとはもう少しである。俺はゆっくりと歩き出した。一本離れた通りの商店街から、風に乗って喧騒が聞こえてくる。俺はふと思い立って彼女に電話をかけた。何か、帰りの道すがら買い出す用向きはあるか尋ねるためである。

 結果、特に何もないことが分かった。しかし、折角なので食後のデザートにでもと、何か果実でも買って戻ると伝え、そして昨夜の問いの答えを探すと伝え、俺は微笑んで電話を切った。寄り道をしてこれ以上彼女を待たすのも忍びなく、俺の足取りは知らず早くなっていた。青果店はそろそろ店仕舞いをしようかと決めあぐねていたようであったが、軒先の俺を見つけてこの男を最後の客にして、それから店を閉めようと決めたようであった。彼にも待たせているものがあるかも知れない、ここは精一杯の慈愛の心で、なるべく早く済ませてやるのがよいだろう。それがお互いのためである。

「何か、適当に見繕ってくれないか? いや、家で食べる分だ。そんなに畏まったものでなくてもいいよ。ああ、うん。それなんかはよいね。それを頼むよ」

 大した手際でさっとそれらを袋に詰めると、店主はにかりと笑って「おまけだ」と一つ余分にそれらに重ねた。あまりに気のいい笑顔に思わず面喰って、俺は謝辞を述べてそれを受け取り、代金を支払った。

「ありがとう。よい夜を」

「お客さんも。よい夜を」

 会釈をして立ち去る。近所にこんな店があったなど、今後贔屓にしてもよいかも知れない。さあ、早く戻らねばいけまい。俺は半ば駆けるように歩き出した。唐突に、真昼のような明るさがそこにあった。それは何の色も持たないにも関わらず、微塵の光すらも通さない眩さであった。どこかで警笛の音が響いた。




 私は息をせき切らし、そこに立ち尽くしていた。心臓は早鐘のように打っている。どうにか自らを落ち着かせようという思いすらも、ほつれて消えてしまい、何一つまとまらない。私は、茫然とそこに立ち尽くしていた。

 赤灯はうるさくあたりを照らしている。騒々しいはずなのに、私は静寂の奔流の中で溺れていた。震える自分の指に気づく。紙のように白くなったその手に、その指に、指輪が赤く照らされた。

 何が起きているのか、起きてしまったのか、分かっているはずなのに、何一つ分からずにいた。落ち着かねばならない。だが、どうやって? 落ち着かねばならない。そんなことができるはずがあるだろうか?

「ご家族の方ですか?」

 気が付くと目の前に警官が立っていた。いや、もしかしたらずっと前からいたのかも知れない。ただ、私の目に映っていなかっただけなのかも。

「……はい。……いえ。……いえ、でも一緒には住んで」

「お気を確かに。どうぞ、お気を確かに。気持ちは分かりますが、どうか落ち着いて」

 警官は私の肩を掴み、言い聞かせるように短く重ねた。この人は、一体何を言おうとしているのだろう。皆目見当がつかなかった。しかし、それは考えられるる限り、最も望まぬことであろうことは、見当がついた。分かりたくもないことが、はっきりと分かってしまった。

「ご主人。……いえ、恋人でしたね。あなたの、恋人は……」

 それ以上は言わないままでいて欲しかった。もう、分かってしまっているのだから。この大きく重く伸しかかる不安が、悲しみが、全て教えてくれているのだから。わざわざ、それを言葉にしてまで聞きたくはなかった。しかし、なんと残酷なことだろう。続けるのだ。決定的な言葉の、その先を。結末を。

「……陰から、すっと出てきたそうです。急いでいるようだったとも……」

 ああ、彼は、急ぎ帰ろうとしてくれていたのだ。あの時の約束を守ろうとしてくれていたのだ。ならば、その手引きをしたのは私ではないか。

「……すぐに、病院に運ばれましたが……、しかし……」

 何も聞こえていなかった。視界の先に、血だまりが見えた。いや、あれは水たまりか何かで、それがこのうるさい赤灯に照らされてそう見えるだけかも知れない。そう信じて、幽鬼のような足取りでそちらに近づいて行った。誰かがそれを引き留める声をかけたが、私は構わずその傍らに立った。

 望みは、消えて失せた。完全に失われてしまった。先ほど聞かされたことは正しくて、私の希望など、初めからどこにも存在しなかったということを思い知らせてくれただけだった。足元には、林檎が一つ転がっていた。私はそれを拾い上げた。

 規則正しく、視界は赤に染まった。それだけしか分からなかった。突然に私は盲いてしまったかのように、何も見えなくなった。色だけがあり、形は全て失われた。やがて、それは自分が泣いているからだと分かった。

 とめどなく流れる涙は眼窩で波打ち、私にそっと目隠しをしているようだった。

「……わかったわ」

 零れる涙は色のない、しかし全てを遮る目隠しのようであった。

「……無色不透明は、こういう色なのね」

 私は涙を拭うこともせず呟いていた。


――了

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ