第21コーラス目「後悔!」その2
校長の許可をもらい、雅は意気揚々と用務員室に戻った。
合唱部の名簿を開き、順番に電話をかけていく。合宿の趣旨、場所と概要。そして、詳細をメールで送信したい旨。次々に掛けていく。
雅には、重い後悔があった。
石見沢出身の雅は、子供のころから神童と呼ばれ、西光中学から順当に石東高校に進み、東京の音大に進んだ。音大卒業後、ひょんなことから、一時、中学時代の恩師である三越の元で師事し、合唱指導のイロハを身につけた。元々、指揮者志望だったのだが、他の同級生とは道を分かち、中高生指導へと舵を切った。教員資格を持っていたことも理由の一つではあった。他の同期からは下野したと冷たい目をされたが、あまり気にはしていなかった。何より、子供が好きだったことが一番の決め手になった。三越のツテで、東京の中学の合唱部顧問に就き、翌年全国銀賞、翌翌年から金賞に連覇を勝ち取ったことで、雅は天狗になっていた。
三越に教わった指導法はある意味古かった。「合唱部は体育会系文化部」が口癖で、スパルタで、指導教官が引っ張っていくのがスタイルだった。しかし、時代は変わっていて、子供たちはそれではついていかなくなっていたのに雅は気が付いていなかった。
そして、ある日の練習中に、言うことを聞かない生徒に手を上げてしまった。それが、PTAで問題となり、新聞社の小さな記事にあがり、雅は辞職を余儀なくされた。失意の中、引きこもりのようになった雅に手を差し伸べてくれたのが、すでに東京の学校を退職し、嘱託として西光中学に戻っていた三越だった。しかし、雅に声を掛けたその年に、三越は急な病で亡くなった。
石見沢に戻った雅は、二重のショックで、実家に籠ってしまった。
重い天岩戸を開いたのが今の校長だった。もちろん、三越からは合唱部のOBだと聞いてはいたが。もちろん、現役時代の繋がりはないが、「これも何かの縁」と、三顧の礼をもって、西光中学に招いてくれた。音楽教師は固辞した。雑用程度ならと、用務員として嘱託についた。教師として就く場合、かつての同級生達がすでに親になっている可能性がある。かつての神童に対し、彼らが向けるであろう目線を畏れたのだった。
「はい、私も同行いたしますので、責任をもってお子様をお預かりいたします」
「ええ、それでも構いません。市内ですから、通っていただいても」
「研修所の費用は学校負担ですが、食費のみお願いするつもりです。費用見積もりは今週中に。はい...」
やはり、石見沢は東京都比べて田舎だなと思う。比較的親が寛容だ。簡単な説明で半分くらいの親が納得した。残りの半分はメールを見てから判断するという。むしろ、長期休暇の間、子供たちが手がかからない方が良いという雰囲気さえ感じられる。
「そうか、農耕時期かぁ...」
雅の同級生でも、GW中は家の手伝いをしていた生徒も多かった。それらの生徒たちは十中八九、石農高校に進学していた。しかし、今は、子供を手伝わすような風潮でもないのかも知れない。となれば、手がかかる分、どこかで預かってくれた方がいいということなのか。
雅には、校長が心配していたような気がかりはなかった。東京の中学を金賞にあげた時も、0からのスタートだったからだ。ただ、気がかりなのは、あの時の二の舞にならないかどうか。自分を抑えながら、子供たちの能力をどこまで持ち上げることができるだろうかということだった。しかし、自分を拾い上げてくれた、三越と校長のためにも、何とか頑張りたいと思う。
この時の雅の心の中には、6割の心配と、4割の高揚感が占めていた。




