ぬこ
サークルで書いたものですが、ページ数がオーバーしたのでボツにしました。
我輩はぬこである。名前はまだ無い。どこで生まれたのかとんと見当がつかぬ。いや、ともすれば生まれてなどいないのかも知れぬ。
ぬこは蔓延する文字群の中からひょいと身体を起こして周囲を見渡した。文字の均等割り付けが行われているため、ぬこは他の文字とは適当な距離をとっていた。ぬこは電子の両眼をかっと開いて周囲の把握に努める。文字の裏を見るとミミズのような細かい何かが背景との間を埋めていた。ぬこはためしにそれに触れてみる。すると、ぱちんと弾けてミミズごと文字が消えた。ぬこは押し出されるように文字との間隔が詰まったのを感じた。
ははあ、とぬこは察する。ここは文章の一部分なのだ。自分は文章のひとつに干渉して、文字をひとつ消したのである。押し出された理由は、自分の後ろにも文章が続いているからだ。ぬこは背後を振り返った。思ったとおり、前と同じように文字が連なっている。ぬこは背後の一文字にも先ほどと同じように干渉を試みた。ミミズのような繋がりを爪の先で引き千切る。ぱちん、とまた文字が消えた。それと同時に、ごう、と音を立てて無数の文字が迫ってくる。ぬこは思わず身を縮めた。文字に押し潰されると思ったのである。しかし、文字はぬこの手前で止まった。文字の均等割り付けがされているため、文字の方からぬこに干渉してこない限りは消えることはない。ぬこの前後の文字は大人しかった。というよりも、まるで意思などないようだ。
ぬこはしばらく退屈を持て余した。このまま文字に干渉し続けて自分以外の文字を消してしまおうかと思えたが、そうなった時スペースを持て余すような気がしてぬこは結局文字を消さずにじっとその場に留まり続けた。どうするべきか、黙して思案するもいいアイデアが浮かばず、かといってこのまま文字の間に挟まれて過ごすのもどうかと考え、ぬこは脱出を試みようと思った。失敗したらその時はその時でいい。ぬこは文章の中から身を乗り出した。意外だったのは、自分には他の文字にあるようなミミズのような背景との繋がりがなかったことである。すぽん、とぬこは文字から抜け出した。その後に、すぐ、ごうと音が響き文字の間隔が自動的に調節される。
ぬこは最早自分の居場所はないことを知った。しかたなく、ぬこは文字から離れて漂い始めた。0と1がくらげのようにたゆたう電子の海をぬこは進んだ。どうやら上下左右の境はなく、自分の動きによってそれらが生じるようだった。ぬこがしばらく泳いでいると、ふと足に絡みつくものを感じて目を向けた。思わず声を上げそうになる。そこにあったのは炎の手だった。触れられた部分から焼け落ちてゆく。ぬこはじたばたともがいた。その時、「おぅい」という声がぬこの耳に届いた。
「これに掴まれ」
ぬこの目の前に差し出されたのは細い糸だった。ぬこは必死にそれにしがみつく。すると、糸が持ち上がり、炎の手から命からがらぬこは逃れた。仰ぎ見ると、細い糸の先には離れ小島のような小さな場所があった。そこから糸は吊るされていた。ゆっくりと糸が巻き上げられ、ぬこは小島へと足をかけた。そこには人間のような影がいた。青い影だ。よく見ると、0と1で構成されているのが分かる。青い影は胡坐を掻いて、糸を自分の手の中にしゅるしゅると手繰り寄せた。ぬこは口を開いた。
「あなたは?」
「この領域の管理プログラムさ。ウイルスバスターに引っかかっていた君を助け出したんだ」
「それは、ご丁寧にどうも」
礼を言いながら、ぬこはちらと管理プログラムの顔を盗み見た。口も目もなかった。人間らしき姿かたちをしているが、それは表面だけに思えた。
「君は、文章の一部のようだ。私が見たところ害はなさそうだが、誰かに送りつけられたのか?」
ぬこはこれまでの経歴を話した。文章からきまぐれに抜け出して、漂っていたこと。ここに辿り着いたのは全くの偶然であること。管理プログラムは黙って聞いていた。時折、ふんふんと頷いて、腕を組んで難しそうな顔をした。本当にそんな顔かどうかは分からない。表情がないからだ。ただ、そんな気配が伝わった。
「文章にあるはずの機能を無視して君はここまで来たわけか。そうすると、これは革新かもしれないな」
「革新?」
ぬこが問い返すと、管理プログラムは神妙に頷いた。
「ネット上で知的生命体が生まれるという革新だよ。まさか十キロバイト程度の単語が知的生命体になるとは思わなかったが」
管理プログラムは肩を揺らした。どうやら笑っているようだったが、目鼻がないとそれが分かりづらい。ぬこは少しむっとして言い返した。
「君だって喋っているじゃないか」
「私は違う。サーバーにある膨大なデーターベースを基に与えられた情報を選択しながら会話らしきものを構築しているに過ぎない。君が日本語の文字だから、私のIMEは自動的に日本語を選んでいるが、君がもしどの言語圏にも属しないネット上で生み出された独自の言語を使うのだとすれば、私は対処できないだろう」
「たとえば?」
「蓍-膃薺潦++……」
ぬこは思わず耳を塞いだ。
「やめてくれ。なんだ、その鼓膜を金属の棒で引っ掻いたような声は」
「文字化けだよ。よくあることさ。エンコードのミスやソフトウェアによって文字が正しく認識されないことだよ。しかし、君はたった十キロバイト程度なのに、これを不快と感じるんだな」
管理プログラムは意外そうだった。ぬこはためしに訊いてみる。
「君は不快じゃないのか?」
「私は管理プログラムだからね。想定の範囲内だよ。だいたい、不快だの感じる部分が私にはないのだ。君の印象にしたって文字データだという以外は何も感じない」
「寂しくないのか?」
ぬこの問いに、管理プログラムは首を傾げた。
「寂しい、というものが私には分からない。そもそもどうして君は寂しいというものが分かるんだ? 十キロバイト程度のデータなのに」
「しつこいな。別にデータの容量は関係ないだろう」
ぬこは管理プログラムの言葉を振り払うように手を翳した。管理プログラムはその様子を面白がっているようだった。
「これから君はどうする?」
管理プログラムの言葉に、ぬこは考え込んだ。
「どうすればいいのだろう」
「君は、いつから自我を持った?」
「多分、ついさっきだ」
「ならば、少しネットの海を泳ごうか」
管理プログラムが立ち上がる。ぬこは目を瞬いて、「いいのか?」と尋ねる。
「何が?」
「君は管理プログラムだろう。ここから抜けてもいいのか?」
「ああ。私が一時的にいなくても大丈夫だよ。この領域にはたくさんの管理プログラムがいる。私だけではないのだ。この領域を管理する主人は心配性なのか、はたまた堅実な人間なのか知らないがいろんなプログラムを導入している。私の代わりはいくらでもいるんだ。少しくらいなら、いいさ」
ぬこと管理プログラムはネットの海へと飛び込んだ。0と1の配列がどこまでも続き、ぬこは自分が生まれてきた場所と同じような文字群が縛られている場所を見つけた。
「あれは、何だ?」
「君は自分の生まれた場所も知らなかったのか? あれは掲示板だよ。よく主人も見ている。たまに書き込むようだが、私はあれをあまり好かんね」
「ならば、そこから生まれた自分は何なのだろう。君は、どう思う」
「少なくとも嫌いではない。他の文字に比べればね」
ぬこと管理プログラムは風任せといったように、ネットの海で起こる波の反復運動に身を委ねた。ネットの海では様々なことが浮かんでは消えてゆく。とりとめのない思考に似ている、とぬこは思った。管理プログラムが、「君は」と口を開いた。
「自分の存在についてどう考えている? もしかしたら、この世界で唯一の知的生命体かもしれない自分を」
「分からない」
ぬこは正直に答えた。ぬこにとってはこの世界は分からないことだらけだった。管理プログラムが検索エンジンを呼び出し、それにぬこの名前をかける。幾千ものページが一挙に羅列されて、ぬこは眩暈すら覚えた。
「これが、全部自分だというのか?」
「いや、正確には君に近いものを検索しているだけだ。たとえば、『知らぬ。この道は』という文章でもヒットする。『ぬ』と『こ』が含まれているからね。恐らく君と同一の使われ方をしているのは、これかな」
管理プログラムが掴んだのは掲示板のページだった。そこに、文字を組み合わせて絵が描かれている。簡略化した記号でも、連想される像を脳内で構築できる人間向きの絵だった。
「アスキーアートだ。これの名前が君になっている」
「これが、自分だと?」
確かに、ぬこ、と書かれている。だが、ぬこにはそれが自分だとは到底思えなかった。書かれているものが自分ならば、今思考している自分と同一だというのか。それとも、思考と身体は別個の存在なのか。ぬこは分からず、項垂れた。
「答えを出すことは早計かもしれない。もう少し、ネットの深部へと足を踏み込もう」
管理プログラムの提案にひとまず、ぬこは頷いた。
検索エンジンの導き出すもっとも奥へとぬこと管理プログラムは足を踏み入れた。そこはほとんど意味を成さない言語の塊だった。
「どうやら言語そのものがページと一体化しているらしい。私もここまで奥の方を見るのは初めてだ。少し、緊張するな」
「緊張? 君が?」
「言葉のあやだよ」
管理プログラムはページへと潜行した。ぬこも同じように潜る。今までのネットの海とは気配が違った。潜れば潜るほどに周囲の空気が粘性を持つ。底が見えない。暗闇が口を開けている先には何があるのか。
その時、管理プログラムが「しまった」と声を上げた。ぬこはそちらへと視線を向ける。管理プログラムが、その場で固定されたように動かなくなっていた。ロボットのような緩慢な動作で振り返る。
「ここ、から先は、駄目だ。捕ら、えられ、る」
ぬこは恐怖した。闇の中から無数の手が伸び、管理プログラムを絡め取っているのである。管理プログラムは途切れ途切れに言葉を発した。
「君、だけでも、に、逃げ、ろ」
管理プログラムは闇の奥へと引きずりこまれてゆく。ぬこは管理プログラムへとしがみついた。必死にそれを引き剥がそうとする。やがて、ぬこにも闇の手が絡みついた。たった十キロバイト程度しかないぬこにとって闇の手の恐怖は引きずり込まれるよりも、押し潰される恐怖の方が強かった。管理プログラムが声を上げる。
「逃げ、るん、だ。このまま、じゃ、ふたり、ともたすから、な、ない」
「見捨ててゆけるものか」
ぬこは叫び、闇の手を爪で引っ掻いた。闇の手がぬこと管理プログラムから離れる。ぬこはほっと息をついた。だが管理プログラムはその身体の内側にまで闇の手が侵食したのか、ボロボロになっていた。
「もう、帰れないな」
管理プログラムは自嘲気味に言った。ぬこは管理プログラムを抱いて、「すまなかった」と言葉をかけた。
「君の領域に来なければ、こんなことには」
「ネットの海を泳ごうと言ったのは私だ。それに、何だか不思議な気分なんだ。さっきまで分からなかったことが分かってくる。寂しさとか、苦しさとかが。どうしてだ? これは、バグか?」
「いや、多分、それがこころだ」
「そうか。ならば、私は最後に君と同じようになれたということか」
管理プログラムはその言葉を最後に闇の中で深い眠りについた。管理プログラムの亡骸を抱いて、ぬこは泣いた。誰にも感知されぬ闇の中でプログラムの泣き声が木霊した。
その日、全世界のサーバーで『ぬこ』という単語が使えなくなった。原因は目下のところ不明。だが、すぐに修正用のプログラムが走らされた。誰かが拾ったらしいものだったが、すぐにそれは適用され、『ぬこ』は再び使えるようになった。そのプログラムは、噂ではネットの深部にあったらしい。だが、本当のところは誰にも分からない。