◆7◆
「お前、何処から来たんじゃ?」
重三郎は、犬の顔を見ながら話しかけた。
まるで、事故現場で救急隊員が怪我人を励ますように、琉美が荷車を持って来るまでの間、話しかけ続けた。
そんな彼の姿を、獣は薄目を開けて微かに見つめているようだった。
琉美は息を切らしながら、短時間で戻ってきた。
重三郎の傍まで来た時、勢いよく押しながら駆けて来た荷車が木の根に跳ね上がって、琉美の手から離れた。その拍子に琉美は転んで、荷車だけが重三郎の元へやって来た。
「おいおい、琉美、大丈夫か」
「えへへ、平気だよ」
琉美は立ち上がると、膝に着いた土を掃いながら笑った。
重三郎と琉美は二人がかりで犬を荷車に乗せようと身体に手をかけた。
グルルルル……
犬の鼻面に険しくシワが寄った。
閉じていた瞳が一瞬開いたとき、瑠璃色の輝きが重三郎を睨んだ。
「おいおい、大丈夫じゃよ。お前の怪我の手当てをするだけだ」
重三郎はそう言って犬に向かって微笑むと
「でも、もし噛み付くときは、琉美じゃなくワシにしておくれ」
「心配いらないよ。ウチに運んで手当てするから」
琉美も犬に話しかけた。
重三郎が頭を、琉美は腰から下を持ち上げて荷車に乗せた。
ガタボコ道に気を使いながら、その犬を重三郎の家まで運んだ。
「重さん、何処行ってなさった」
和江が土間から出て来ると、荷車を見て
「どうしたんです? それ」
「川の向こうで倒れてたんじゃ」
「ずいぶん大きいですね。狼ですか?」
重三郎は思わず笑って
「何とかっていう、外国の犬らしい」
「外国の犬ですか……」
重三郎と琉美が二人がかりで土間に犬を下ろす。それを丸い顔で、目を丸くしながら見ていた和江だが、直ぐに気を取り直して手を貸した。
「和江さん、獣医の吾朗、アイツを呼んでくれ」
重三郎が言った。
ふもとの村から少し離れた町よりの所に住む獣医の吾朗は、ブン太の予防注射に何時もここまでやって来てくれる。
和江は直ぐに居間に上がって、今時無いような黒電話のダイヤルを重そうに回した。
20分もすると、吾朗の車がふもとから伸びる細道をやって来て庭先に止まった。
「ブン太がどうかなさいましたか?」
吾朗は車から降りると、直ぐに重三郎に声を掛けた。
しかし、ブン太は自分の犬小屋の前にチョコンと座っている。
重三郎は、吾朗を土間に案内した。
「こりゃ、でっかい犬だ」
「怪我をしてしまってな」
吾朗は、自分の鞄から医療道具を取り出して、傷口を診る。
「こりゃ、散弾の弾でも喰らったんだな。傷自体は大した事無いが、腹部が化膿し始めている」
「治るかのお」
重三郎は心配げに訪ねた。
「とりあえず、弾を取り出して、消毒して」
吾朗は真剣な顔つきでそう言うと、
「犬は回復力が強いから、大丈夫だと思います」
そう言って、小さく微笑んだ。
オペは直ぐに始められた。
この暑さでは、早く手当てをしないとどんどん化膿が酷くなる。
吾朗が麻酔を打とうと注射器を取り出した時、犬は力の限り身体を起こして、再び鼻面に深いシワを寄せて唸りをあげた。喉のずっと奥から響くような低くそれでいて鋭い声。そして両目を見開いて吾朗を睨んた。
「大丈夫よ。麻酔して、傷口から弾を取り出すんだって。麻酔しないと痛いでしょ」
琉美が犬の頭に手を当てた。
重三郎は、さすがに噛まれやしないかと琉美が心配だった。
犬は、琉美の言葉を理解したかのように、唸りを静めて再び目を閉じた。
「凄い目だなぁ。バイ・アイなんだね」
「バイ・アイって?」
琉美が訊いた。
「左右の目の色が違う事をいうんだ。ハスキー犬にはよくあるらしいけど、実際に見るとちょっと怖いね」
吾朗は笑顔で琉美を見つめると
「お嬢ちゃんの犬?」
吾朗は、話しながら淡々と犬の身体に注射器を差し込んで、素早く抜いた。
「孫の琉美じゃ」
重三郎が言った。
「ああ、琉美ちゃんか。ずいぶん大きくなって、判んなかったさ」
吾朗は犬の麻酔が効くのを見計らいながら、再び琉美に向かって
「名前、なんての?」
「え? 琉美です」
「いや、このハスキー犬の名前だよ」
「え? な、名前ですか?」
「あれ? 琉美ちゃんの犬じゃないの?」
吾朗は振り返って重三郎の顔を覗った。
彼もまた、言葉に詰まっていた。
山で拾ったとも言いにくい。
「あ、あたしのです……」
琉美は思わずそう言ったものの、その後が続かなかった。
一瞬の沈黙があった。
『僕の名前は、ソラ』
「な、名前は、ソラです」
「ソラ? へぇ、ヤッパリ東京に住んでると洒落た名前になるんだね」
吾朗はそう言って笑いながら、再び重三郎を見た。
「ブン太は、柴犬だからあれがあっとるわい」
「そうですよね」
吾朗は苦笑すると、犬の傷口付近の毛を電気バリカンで剃ってから、そこへ軽くメスを入れた。
琉美は何だか不思議な気持ちで犬を見つめていた。
何? 今あたしに聞こえた声は誰? ソラ? この犬がそう言った……
ウソ、だって犬が話しかけるだなんて。
じゃあ、誰が名乗ったの?
琉美は、眠りに落ちたソラの顔を何時までも見つめていた。




