◆2◆
晴れ渡る夜空には、無数の星が瞬いていた。遠くに輝く小さな三日月よりも、星明りが森を照らすような夜だった。
三人の人間の気配が近づいて来て積み上げられたケージの端で犬の吠える声がすると、それは瞬く間に連鎖して敷地一帯が犬の鳴き声に包まれた。
ケージを開ける音と共に、仲間たちが暴れる姿が暗闇に映った。
仔犬の大半は安く売り払われたが、それでもかなりの犬がケージに残っている。成犬になってしまった犬から次々に薬を注射された。
「ちゃんと押さえておけ」
「何だか、気が引けますね」
「大丈夫だ。筋肉を麻痺させる薬だ。苦しまずに死ねる。俺だって、少しは良心があるからな」
「はぁ、どんな良心ですかね」
「いいからしっかり押さえておけ」
吠え盛る犬の声とケージを揺らす音は、次々に減っていった。
そして、気配が近づいてくる。
隣のケージを開ける音がした。
成犬のハスキー犬がいきなり一人の男に飛びかかった。
彼もまた、買い手が付かないまま成犬に育ってしまった一匹だ。
「うわぁ」
一人が叫んで、もう一人は必死に捕まえる。
管理人の男が、一瞬で注射器を犬の首根に差し込んだ。
「ビビッてんじゃねぇよ」
「すんません……」
母犬のハスキー犬はその全ての様子を観察し、会話を聞き取って一番狙いやすい男を決めていた。
「どうするの?」
小さな声で、仔犬が言った。
「私が気を引くから、その隙にお前はお逃げ」
「母さんは」
「私はいけないよ。ソラ。お前の名前はソラだ。この大空のように大きくおなり」
「ソラかぁ。イイ名だ」
ビーグル犬が囁いた。
その時、ケージのカギの開く音がした。
母犬は嗅覚と気配だけを頼りに、様子を伺う。
ケージの扉が開いた瞬間、母犬は飛び出した。
「うわぁ」
「バカヤロウ」
母犬は一番弱そうな男の腕に噛み付いた。
「ソラ、早く行きな!」
「ヤダ、独りはヤダよ」
「強くなるんだソラ。独りで行くんだよ」
母犬は、他の二人の男に捕まらないように頭と身体を大きく振った。
「こいつ、おとなしくしろ」
「目が見えないくせに」
「痛てぇよ、早く何とかしてくれ。手がちぎれる」
「クソッ、早く捕まえろ」
一人が母犬の頭を捕まえた。
「ソラ、早く逃げなさい」
母親に注射器が刺し込まれそうになったその時、ビーグルが男の手に飛び掛った。
「イテテテテ!」
「ソラ、早く行け。行け!」
ソラは走り出した。暗黒に包まれたような森に向かって全力で走った。
……ソラ、人間を怨んじゃいけないよ。イイ人間だって沢山いる。誰かの力になってあげなさい。それが、お前の喜びになるはずだよ。
沢山の犬たちの叫び声が遠ざかってゆく。その叫びが一つ一つ確実に減ってゆく。
ソラは背中で感じていた。
ビーグル犬の命の気配が消えた事、そして、母親の呼吸が消えていく事を。
「一匹小さいのが逃げたぞ」
「仔犬じゃ、森を抜けられない。ノタレ死ぬだけだ。放っておけ」
微かにそんな会話がソラの耳に聞こえた。
ソラは振り返らなかった。
無我夢中で暗闇を切り裂いて走った。星明りは彼にとって充分な明かりだった。草むらを抜け、切り株をかわして木の根を飛び越えた。
湿った土を思い切り蹴飛ばして、黒々と茂った闇の中をただひたすら走った。
方角なんて判らない。
ただ、仲間たちの命が消えてゆく気配を振り払いながら、今まで暮らしたあのケージのある敷地から遠ざかるだけだった。
「復讐してやる。絶対復讐してやる。復讐してやる」
ソラは心の中で何度も呟きながら、その怒りを走るエネルギーに変えていた。
「絶対、人間共に復讐してやる。僕は人間を絶対に許さない」
星明りに照らされたソラの右眼はヒスイのように青く、左眼はエメラルドのような瑠璃色に淡い光りを放っていた。




