◆16◆最終話
「ソラ、お前はどうする? ここなら何時まででもいていいんじゃよ」
重三郎が縁側に腰掛けて言った。
「ごめんね、ソラ。ウチ賃貸だから犬は飼えないんだ」
琉美は、自分の荷物を鞄に詰め込んでいた。
無事退院した彼女は、今日東京へ帰る。
「こんなに長くここへいたのは初めてだね」
琉美は笑ってそう言うと
「この辺にも学校があったら、あたし転校するんだけどな」
「そんなことしたら、わしが久子に怒られるわい」
久子とは重三郎の娘、つまり琉美の母親だ。
『僕は、少し旅に出るよ』
「ええっ、どうして?」
ソラの声に、琉美が言った。
『そうだな……琉美たち以外にどれだけいい人間がいるのかこの目で見たい』
「いい人間?」
『ああ』
「あたしたちって、いい人間なのかな?」
琉美はそう言って、少し首を傾げた。
『まあ、悪い人間じゃないって意味さ』
小道を車が登ってきて、庭に入って来た。
久子の車だ。
琉美の荷物を母親がトランクへ入れている。
「でも、また会える?」
琉美はソラの前にしゃがんだ。
『どうかな、約束は出来ないけど……』
「そう……」
『縁があればまた会えるさ』
「なあんか、犬の言う言葉じゃないね」
「何時でも、ここに来ていいからのう」
重三郎がタバコの煙を吐きながら言った。
『爺さん、その妙な煙を吸うのは止めた方がいいんじゃない?』
「これは、わしの長生きの秘訣じゃ」
そう言って笑う重三郎に向かって、ソラは肩をすくめたが人間には判らなかった。
「琉美、出るわよ」
荷物を積み終えた母親が、琉美を促した。
「じゃあ、またね。ソラ」
琉美は、バイバイと言おうとしてやめた。
ソラは黙って、琉美を見つめるだけだった。
その隣にブン太が来て琉美にシッポを振る。
「ブン太も元気でね」
車に乗り込んだ琉美は
「じゃあね、おじいちゃん」
「ああ、またな」
重三郎も笑顔で返す。
琉美を乗せた車は山を下って、国道へ出た。
「留美ちゃん」
和江がちょうど家の敷地から出てきたところで、大声で叫びながら手を振っていた。
「またね、和江さん」
琉美も窓を開けて手を振った。
夏の熱い風が、エアコンで冷やされた車内へ流れ込んだ。
車を一端止めて久子も笑顔で会釈をする。
「お父さんの事お願いします」
「まかしてけろ」
車に駆け寄った和江は、そう言って丸い顔で笑うと
「琉美ちゃん元気でな。身体、まだ無理すんでねえど」
「うん」
琉美は笑顔で頷いた。
「じゃあ、和江さんもお元気で」
久子はそう言ってもう一度頭を下げると、車を走らせた。
緑の山々が続く道が、琉美には名残惜しかった。
帰りは何時もこうだ。
東京になんか帰りたくない。何時もそう思ってしまう。
しばらく走ると、ずいぶん前に大雨で崩れ、岩肌が剥き出た山の斜面が見えた。
「あっ、もうあんな所に」
少し突き出た大きな岩の上には、ソラの姿があった。上空の風にあおられた背中の毛が銀色に輝いていた。
琉美は車の窓から顔を出してソラを見つめていた。
蒼い右目と瑠璃色の左目はキラキラと陽光に輝き彼女を優しく見下ろしていた。
(またね、ソラ。待ってるからね)
『そうだね。また』
琉美にははっきりと聞こえた気がした。
ソラは身を翻すと、緑の森に風のように消えていった。
銀色の残像だけが、そこには残っていた。
青い空と熱い風が、琉美の頬を優しくくすぐった。
― 了 ―
【あとがき】最後までお付き合いいただいた方々に感謝いたします。この作品は「大人も子供の楽しめるもの」として執筆を試みた作品でした。現在〜立志編〜を構想中ですので、いずれ連載したいと思います。




