◆10◆
「ねぇ、あそこの田んぼはどうしてもう使わないの」
琉美が、昼食をとりながら重三郎に訊いた。
「あそこは小さすぎるんだな。昔は、自分達で食べる分をあそこで作っていたんじゃろう」
琉美は、そうめんを口へ運びながら
「ふぅぅん」
すると今度は
「ねぇ、池の中でイモリが泳いでた」
「イモリが?」
「うん」
少々首を傾げる重三郎に、琉美は頷く。
『バカだなぁ。そりゃ、サンショウウオだ』
その声に琉美はハッと振り返って土間を見た。
「どうした?」
さっきの声。それは重三郎には聞こえなかったようだった。
「ううん。何でもない」
琉美は何食わぬ顔で、そうめんを器に取った。
食後には和江が、井戸で冷やしたスイカを切ってくれた。台所からは、ともろこしを茹でる甘い香りが漂っている。
琉美は土間の縁に腰掛けてソラの姿を眺めていた。
「ソラ、スイカ食べる?」
『んなもん食べないよ』
スイカに噛み付く琉美の口が、開いたまま止まった。
話しかけた琉美さえ、まさか返事が返ってくるとは思わなかったのだ。
彼女は土間へ降りて、ソラの目の前にしゃがむと
「やっぱり……人の言葉が解るのね」
しかし、ソラは両脚に顎を乗せたまま、目をつぶっている。
「いやぁね、犬のくせに狸寝入りだなんて……」
琉美は、ソラの素っ気無い姿を見ると、再び土間を上がり縁側に行って腰掛けた。
気のせいかもしれない。
琉美自身そうは思ったが、それでも良かった。
ちょっぴり不思議なあの犬が、この家にいるだけで、何だかワクワクした。
それが、気のせいでも何でも関係ない。
せっかくの夏休み。楽しい気分になれれば、それでいいのだ。
「なぁ、お前なんでそんなにひねくれてるんだ?」
ソラは誰かの声に薄目を開けた。
目の前には柴犬のブン太が、黒い鼻を薄っすらと濡らして座っていた。
ソラは黙ったまま彼を見つめると、再び目を閉じた。
「お前、何処から来たのか知らないけど、人間と暮らしてはいないな」
ソラは目を閉じたまま聞いているだけだった。
ブン太は、黒い鼻をクンクンと小さく動かした。
「お前、血の臭いがするな。これは人間の血だ」
ブン太は、少しだけ首を傾げると
「お前が思ってるほど、人間は嫌な生き物じゃないぜ」
「お前に何が解る」
ソラは、初めてブン太に言葉を返した。
「人間にシッポを振るお前に何が解るっていうんだよ」
ソラは瑠璃色の片目を開いて、ブン太を睨んだ。
「人間に何かされたんだな」
ブン太は小さく息をつくと
「ここへ時々来る奴らにもおかしな連中はいるさ。でも、いい人間だって沢山いるぜ。現に、爺さんや和江や、毎年来る琉美はいい人間だ。お前の怪我を手当てした吾朗だってそうさ」
ソラは耳をピクリと動かして
「いい人間て何なんだよ」
「その人の笑顔を見ると、幸せになるんだ。その人の傍にいたいって思う人間さ」
「どうして人間の笑う顔を見てこっちまで幸せになるんだよ」
ソラは、ブン太から視線を外して庭の緑を眺めた。
庭の片隅で、琉美がマキ割りの手伝いをしているのが見えた。
「俺たちの遺伝子さ」
「遺伝子?」
再びソラはブン太を見つめた。
「遠い昔から、俺たちは人間と共に暮らし、お互いを癒してきた」
「癒す?」
「人間は俺たち獣を見て、心が癒されるらしい」
「じゃあ、どうして人間は獣を、僕たちを殺す?」
ブン太は目を細めると
「よほど酷い目に遭ったようだな……」
ソラは何も答えなかった。
「でもな、今にお前にも解るよ。人間の笑顔を見たいと思うようになる。それを見てお前は幸せな気持ちになる」
同じような事を、母さんや垂れ耳のおじさんも言っていた。ソラは、少しだけそんな事を思い出した。
しかし、それと同時に、あの夜の仲間の叫び声も思い出した。
「ならないよ。僕はならない」
「なるさ」
「どうして?」
「遺伝子だからさ」
ブン太はそう言って立ち上がると、グルグルとシッポを振りながら琉美の元へ駆けて行った。




