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洋介がエマを買って、一月が経った。秋は深まり、甘い金木犀の匂いが洋介の気分を和らげる。長袖のシャツを着ている。もう、かなり涼しい。
「じゃあ、行ってくる」
玄関先に立ったエマは、ショートパンツをはいたむき出しの細い足を交差させて、表情を作る力を失ったかのように無表情だった。
「多分、すぐ帰るよ」
今までだってそうだったのだ。今回に限って特別時間がかかるということは、滅多にないだろう。
「おれがいないと、不安?」
なおも白い顔を強張らせているエマを、彼はからかった。すると思いがけず、彼女はこくりとうなずいた。そして、彼の目をじっと見る。あなたがいないと、何だか心細くて、切ないです。
彼は真顔に近い顔になって、困ったな、と思った。
「おれはさ、朝子を探さなきゃいけない。君だってわかってるはずだ。おれは朝子を見つけなければ、いつかどうにかなってしまう。今まで、辛かった。これからも、辛いだろう。朝子を見つけるまでは。だからさ、おれの月にたった一度の仕事に、君が気持ちよく送り出してくれたら嬉しい。君とおれとは共同生活者なんだ。それくらいしてくれるよね」
彼女は長い髪を指でくるくるとねじり、離し、重ねていた足を元に戻した。そして、にっこり笑った。いってらっしゃい。彼には彼女の声が明朗に聞こえてくるようだった。
玄関を閉めると、彼は一人になった。この広い空の下に一人きり。この多くの家屋が並んだ地域でも、もっと広い世界でも、一人きりだ。彼は次第に不安になってきた。心臓が不穏な鳴り方をして、彼を戸惑わせた。空、街。その二つしかないという気がしてきた。突然、叫びたくなる。わっと叫んで、エマのいる家の中に駆け込みたくなる。一人。朝子を探しているたった一人の人間。朝子はもう、存在するのかどうかすらおぼろげに感じるときもある。そういうときは、確かに存在しているエマにすがりたくなる。
エマ。そうつぶやいて、彼は首を振った。エマは彼を笑顔で送り出したばかりだ。今彼が泣きそうな顔で彼女を求めたら、エマは何と思うだろう。また、朝子を見つけるという目的も、どうなるというのだろう。
エマがいるからこういう弱い部分が出てくるのだ。孤独に弱い自分。今まで平気なつもりでいたのに。エマがいなければ。そう思って首を振る。エマは手放せない。手放したくない。
彼はエマに執着しすぎるほどしていた。前髪を切るとき、何度心臓を躍らせたかわからない。彼女が彼の目の前で目を閉じる。それだけで怖くなるほどだった。彼女は彼を完全に信頼していた。平気で彼の前にひざ小僧を出して見せたし、胸の膨らみを彼の腕に押し付けた。その真っ白な侮りの心、それが彼を喜ばせていた。彼女が彼を信用すればするほど彼は同じ美しい白になれた。白い存在でいられる気がした。エマがいるから彼は彼のままでいられるのだ。エマがいなくなればいつか朝子すら諦めてしまうかもしれない。そうでなければ妄執の塊になるのかもしれない。中庸を保てるのはエマのお陰だった。
エマにすがりつくのはやめよう。彼はそう考えて、歩きだした。右も左も他人である国を行く気持ちだった。
花屋の前を通ったが、美奈はいないようだった。気の弱そうな美奈の両親が、忙しそうに花の手入れをしている。彼らと言葉を交わしたことはほとんどない。これからもそうだろう。彼らは洋介をそう好いてはいない。この街に昔から住んでいる人間は、よそから来た人間を好かないのだ。多分奴隷制度と関係がある。この街を背の高い囲いでぐるぐる巻きにしたのは、よその人間だ。
この奴隷の街には囲いがある。鼠返しになった青い強化プラスチックの囲いだ。地面深く埋め込まれていて、地面を掘って逃げ出そうともできるものではないだろう。囲いのない場所は、海くらいなものだ。そして、海に奴隷の死体が浮かぶのは日常茶飯事である。海に身を投げる。舟で逃げる。それらは一番手っ取り早い逃げ道だ。生きるにしろ死ぬにしろ、自由がそこにある。奴隷が最も憧れている場所。それは海だろう。
この街への出入りは、パスポートによって規制されている。国内なのにパスポートがいる。不思議なことだが、そう決まっているのだ。奴隷はパスポートを持たない。だからこの街を出入りする青い電車に乗ることができない。青い電車には洋介も乗った。観光都市としてもそれなりに栄えだしたこの街には、様々な人間が来る。奴隷を見たい人間ばかり。中には彼と同じく悲壮な表情で乗っている者もいた。自分と同じ目的だろうか。そう考えたりもした。電車内は灰色で統一されている。くすんだ色の電車内部で思いつめた顔をしている自分たちは、かなり似通って見えるのだろうな。そういう気がした。
電車は、ここからしばらく行ったところにある駅から出る。彼がそれにまた乗るのはいつになるのか、彼自身にはさっぱりわからなかった。
考え事をしているうちに、入り組んだ場所にある、あの奴隷倉庫に来ていた。周囲をトタンで覆ってあり、屋根も金属製だ。庭らしい場所には手入れをされていない植木があり、中川の風流を解しない性質をあらわにしていた。彼は、気分がしぼむのを感じた。また、始まる。あのいつまでも続くノック。何度も繰り返される気まずさが。
観音開きのガラス扉の両側には、紺色の制服を着た警備員が一人ずつ立っていた。扱うものにしては厳重さが足りない気がするが、扱われる彼らは逃げる気配すらないから丁度いいのかもしれない。それに彼らはそんなに価値がない。転売に転売を重ね、どんどん値が落ちていく彼らは、市場にとってはそれほどの価値はないのだ。
洋介は、また一月前の気持ちになり、一月前の行動を繰り返した。
「失礼します」
洋介が疲れた様子で中川の部屋に入ると、中川は奥にある巨大な机に身を任せて座っていた。今日も機嫌よくにこにこ笑っている。
「疲れとるね」
「まあ」
「その様子では、朝子さんは見つかっとらんごたね」
「はい」
「もうよかろう?」
「え?」
「奴隷にされた恋人を探すのなんて、もうよかろう?」
「どうしてですか?」
声が大きくなってしまった。苛立ちが募る。煙草を吸わない中川の部屋は、中川の体臭が漂うような気がする。
「まあまあ。おい(おれ)が思ったこと、ちょっと聞けさ」
そうしてそんなことを。そう思ったが、洋介はどうにかこらえた。友好な関係を築かなければ。そうしなければ朝子は見つからないのだ。
「大変やろ? 朝子さんば探すとは。あんたが普段どんな風に過ごしとるか知らんけど、正攻法ば使わんでも見つけるとは大変やと思う。朝子さんは恐らく、もう五回くらいは転売されとる。そうなれば、この街におるのかもわからん。奴隷は戸籍ば持たん。廃棄されるけんな。あれやな。岩山で小さなダイヤモンドを探すようなもんやな。しかも別の岩山に紛れこんどる可能性もある」
「だから何なんですか」
洋介は怒りでこぶしを開いたり閉じたりを繰り返した。中川を殴りたかった。
「そんな難しいことをせんでも、こないだ買った奴隷と遊べばよかやんね。はは。そうやろ? あんた、聖人君子のような顔をしておいからあの娘を救ったようなつもりでおったやろうけど、もう一月たいね。もうあれやろ? やりまくっとるとやろ?」
「いいえ」
声を押し殺して、洋介は答えた。
「いいえって何ね。何もしとらんってことか?」
「そうですよ」
中川が、はは、と笑って丸い顔を更に丸くする。この上なく幸福そうに見えないこともない。しかしそうではないことは明らかだ。
「嘘はよせ。男はそう簡単には欲望を抑えられんとぞ。やりまくっとるとやろ? 正直に言え」
「いいえ」
洋介はかえって冷静になっていく自分に気づいた。この男はエマが洋介にとってどんな存在なのかを知らない。確かに洋介がエマに対して欲望を抱いたことがないとすれば嘘になる。エマは自分の体を彼に押しつけ、目を閉じて彼と向き合うことがあり、裸の足を彼に見せつけるのだから。けれど彼は自然とそれを抑えることができるのだ。それはエマが彼を信頼しているからであるし、彼が彼女に依存しているからでもある。エマが彼を信頼していれば、彼は朝子を見つけられる、朝子を愛せる、という奇妙な確信から来る依存。おかしなものだが、それによってエマとの関係は均衡を保っていた。
「ぼくは本当に彼女とは何もしていませんよ。ただ一緒に暮らしているだけです」
すると中川はおかしな顔をした。どこか醜悪な、歪んだ顔。次の瞬間には元の笑顔に戻ったけれど。
「それじゃあ、あんたはあの娘に何もしとらんと」
「はい」
「するつもりもないと」
「はい」
「そんなことを考えるおいは軽蔑に値すると」
洋介は黙った。肯定しても否定しても、侮辱したと思われそうでできなかった。何しろ我慢しなければならないのだ。中川を真に軽蔑していても。
「そうか」
中川はにっこりと笑った。
「あんたはおいば軽蔑しとる。そうやろ?」
「違いますよ」
「その慇懃無礼な態度がいつも気にくわんやった。今も冷静においば見下しとるとが手に取るようにわかる」
「違います」
洋介は少し、焦りだした。
「中川さんにはいつもお世話になっているし、そんなことは思いませんよ。ぼくはただ、ぼくが買った少女のことをあなたが誤解しているから訂正しただけで」
「もう、よか」
中川は丸い顔をますます丸くして、笑っている。
「よかよ。無理せんで」
「無理なんて」
「帰れ」
洋介に興味を失ったかのように、中川は引き出しをがたがたと鳴らし始めた。洋介はその様子に不安を覚えながら、頭を下げて部屋を出た。
部屋の外、奴隷たちのいる広い場所で、田村に会った。田村は辺りを見回し、洋介に近づいてきた。洋介はいつもなら不愉快に思うこの男の耳打ちに、熱心に耳を傾けた。
「中川はあんたに何て言ってきたか」
「この間買った、少女のことで」
「下手打ったか」
「はい」
「馬鹿たれ! 上手く立ち回れ!」
「できなかったんです」
「中川は怒ったらしつこかぞ。いつまでも根に持つ」
「どうすればいいんでしょう」
「とにかく注意しろ。それしかなか」
田村はそれだけ言うと、逃げるように洋介から離れた。洋介が穢れてでもいるかのようだった。洋介は心臓が早鐘を打つのを聞いた。慌てて奴隷倉庫を出る。
走る。始めはゆっくり走っていたが、次第に速くなる。途中で何度か休み、それでも全力で走った。街の人々が彼を注視する。それを意に介する余裕もなく、彼は愚か者のように走った。陰気な感じのする住宅街に入り、家に着くころには、彼は汗だくになっていた。
「エマ!」
彼は呼んだ。慌しい音がして、出てきたのは正真正銘のエマだった。裸足のまま土間に下り、彼に抱きつく。熱い体が彼にエマの生命を感じさせる。
「どうしたの? 何かあった?」
少しほっとしながら彼が訊くと、エマは家の中を指差した。彼が顔を上げると、そこには見知らぬ女が立っていた。ずんぐりとして、白髪混じりの髪をひっつめた、むさくるしい格好をした女だ。
最初、彼は嫌な予感がした。美しくない女は、彼に度々そういう効果をもたらす。彼は不信感をあらわにして尋ねた。
「誰ですか?」
女はまじまじと彼を見つめた。大きな目だった。まるで蛙のような出目。
「本当に、あなたは彼女を人形のようにしているんですね」
低い、しゃがれ声。彼は戸惑ったまま、自分に絡みつくエマを引き離した。
「人形?」
「そうですよ。あなた、彼女をすっかり人形にしてしまった」
急に、彼は衝撃を受けた。人形。彼がエマを人形にしてきた? その言葉は彼にはとても真実とは思えなかったが、じわじわと彼の矜持を侵食していった。
「そんなことは、ありません」
「そうですか。なら仕方がありませんね。あなたにその自覚がないのなら」
「何が言いたいんですか?」
「申し遅れました。わたし、奴隷解放運動の地下組織の一員で、唐沢優実と申します」
「え?」
「わたし、あなたにその少女を手放していただきたいんです」
洋介は硬直した。エマが彼を見る。その目はこう言っている。
手放さないでください。わたしをあなたの人形でいさせてください。




