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洋介は、朝子のことをよく考えている。
今日はエマが食事を作る日だ。彼女は手際よく魚を焼き、卵焼きを作った。彼がいつも不思議な味がするような気がする、醤油入りの卵焼きだ。更に、彼にとっては味が濃すぎるように思う味噌汁も。ぼんやりとテーブルの自分の席について、その後姿を見ていると、不意に朝子のことを思い出した。
「朝ごはん、食べてないでしょ」
朝子が彼の目の前で微笑んで、猫のような目を細くした。
「作ってあげる」
エプロンをつけずに歩き出す。その姿はコンロの前に行くと、不思議とエマの後姿に吸い込まれていった。
「洋介は料理作れるくせに、食べないもんね。面倒くさいの?」
うん、と答えそうになって、やめる。これは、ただの思い出だ。
「駄目だよ、食べなきゃ。だから洋介のこと、きゅうりみたいだって言うんだよ、わたし。食べないとさ、力入らないでしょ。疲れやすいでしょ。それだと何をやっても実力の半分も出ないし、実力が出せなきゃつまんないでしょ。遊びだって仕事だってさ」
そうだね、と記憶の中の洋介が答える。
「ほら、うちのハゲだってさ」
と、彼女が引き合いに出した彼女が働いていた喫茶店の店長のあだ名を聞いて、彼はちょっと笑う。記憶の中の彼も、今の彼も。
「脂肪蓄えてるじゃん。あれって働くために蓄えてるんだよ。自分で言ってるもん。おれは食べなきゃ生きてられないって。でも、当たり前のことを言いますねって言ったら、違う違う、おれが言いたいのは娯楽としての食事だよってさ。食事が楽しいのは大事だよ。ハゲみたいに太らなくても、多少はふくよかになるべき。ほら、四捨五入したらわたしたち、三十歳じゃん。ふくよかにならなきゃ、少し老け込むらしいよ。肌がたるむんだね」
朝子もたるむの? と記憶の中の彼が不思議そうな声で尋ねる。
「当たり前でしょ? わたしだって人間だよ。同い年なんだから、その辺気づかないかな、普通。洋介だって少し老け込んだと思うよ。自分の見た目に気を遣わずに仕事ばっかりしてるからわからないんだよ。清潔に見えればそれでいいって言うけど、たまには、うーん」
どうしたの?
「洋介に、おしゃれしなさいって言おうとしたんだけど、やめた。どうせ失敗するに決まってるもん。わたしは無駄なことを言わない主義」
何だよ。
「ほら、ご飯できたよ」
振り向いた顔を見て、一瞬呆然とする。それはほんのりと薔薇色の頬になった少女の顔であり、朝子の派手な顔立ちとは全く違う、エマの顔だった。そして今見ていたものがただの記憶にしかすぎないとわかったとき、彼はどうしようもなく落ち込んだ。エマが困ったような目で洋介を見て、食べないんですか? という表情をする。彼は力なく笑って、
「食べようか」
と言った。食事が始まったら何を話すか、このときには決まりきっていた。朝子のことだ。朝子がいつどういうことを言ったか、詳細に話す。エマはいつでも真剣に聞いている。彼の、朝子の記憶にどっぷり浸かった気持ちを乱したりしない。エマは彼にとっていい聞き手だった。
朝子の記憶は不思議な形で現れることがある。
洗濯は、食事と一緒で当番制だ。彼のいる居間からは、開け放った襖の向こうにある庭でエマが洗濯物を干している姿がよく見える。彼はパソコンからふと目を離してそちらを見た。そして、どきりとした。
エマの上に、朝子が浮かんでいる。ブーツをこつこつ鳴らして歩いている。彼女は上等の服は持っていないけれど、服装のセンスがいい。黒いハイネックのセーターに、明るいベージュのプリーツスカートを合わせ、渋い焦げ茶のブーツを履いている。髪の毛は頭の上で丸くまとめられ、その大きな塊は、彼女が動くたびにふわふわと上下する。いつだかの、秋の終わりに会った朝子だ。
朝子はエマの上をうろうろと歩いている。エマがそれに全く反応しないのが不思議なくらいだ。靴は激しく打ち下ろされ、こつこつと鳴っているのだから。
「あ、洋介」
不意に、足をとめる朝子。彼の方を真っ直ぐににらんでいる。
「遅いよ。何時だと思う? 十時だよ。約束は九時だったじゃん。わたし、散々待った。何か言うことは?」
ごめん。記憶の中の彼の声。
「仕事が立て込んでたとか、言い訳にならないよ。だって洋介が言ったんだもん。明日は仕事が早く終わるから、会おうって。ああ、馬鹿馬鹿しい」
ごめん。そう聞こえたあと、彼女は彼のほうにこつこつと近づいてくる。どんどん、どんどん。ついには居間にいる彼の目の前に立つ。
「ごめんって謝るのなら、どうして来てくれないの。待つのって、辛いんだよ。どうして。どうして早くわたしを助けてくれないの。わたしは何度も何度も売られて、何度も何度も好きにされて、それでも洋介を待ってるのに、どうして迎えに来てくれないの。どうして」
これは記憶とは違う。記憶の中の朝子は泣いたりしない。この朝子は泣いている。目の前で、しゃがみこんで、嗚咽を漏らして泣いている。
「わたしは待ってるのに」
「朝子」
つぶやいて、はっとする。これは本物の朝子じゃない。記憶と後悔が作り上げた偽物だ。けれどそう思っても、朝子は目の前にいる。かすれたり消えたりすることなく。
「朝子」
触れようとして、エマがサンダルを脱ぐ音で意識を覚醒させた。朝子は、いない。それでは、今見ていたのは何だろう。幻覚とでも言うのだろうか。彼は、泣いた。自分が幻覚の朝子を見るほどに弱っていることを思って、泣いた。エマが廊下から居間を覗き込み、驚いたように飛び込んでくる。彼の右側に座り、背中を撫でる。彼はそれを振り払う。
「そういうのは、いい」
涙声でつぶやく。
「放っておいてくれ」
エマは自らも泣きそうになりながら、居間を出て行く。彼は一人になってただ泣く。嫌になるくらいだ。目が腫れてしまったことに気づく。鼻水がとまらないことにも気づく。自分を愚かだと思う。
こういう日は、エマに朝子の話をしたりしない。
朝子は彼の記憶をたどりながら現れる。様々な格好をしている。明るい夏服を着ていたり、厚ぼったいコートを着込んでいたりする。彼女はいつも少し高飛車で、彼にあれこれと命令をする。記憶の中の彼はそれに素直に従い、弟のようにふるまう。彼女が甘えるときもある。彼をしつこくからかったりするときは、彼に甘えているのだ。彼に優しくするときもある。それは彼が傷ついているときで、そういうときの彼女はこの上なく親切になる。彼はそういう彼女を思い出しては懐かしくなり、温かだったあのころの気持ちを甦らせる。
エマはいつでも、そういう彼を邪魔しない。邪魔しないように心がけている。彼はそれに気づきながらも、エマに感謝しきれずにいる。朝子のことを思い出すたびに、自分がエマを買ったことを後悔するのだ。しかし、そういう気持ちが表面に出てくると、彼は自分を殴りたくなる。エマを必要としているのは自分ではないかと。
彼は記憶が甦らないよう、気をつけている。しかしそれはいつもうまくいかない。




